第237回短編小説新人賞 選評『しゃかしゃか』松あかり
編集A 主人公は、とある会社で営業事務の仕事をしている女性です。定時を過ぎた後で、営業担当の南君と一緒に資料を作る予定になっていたのに、南君はなかなか会社に帰ってこない。モヤモヤしながらも待ち続け、ついには一人で資料を作り上げ、いざ帰ろうとしたところにようやく南君が戻ってきて……というお話です。
編集D 主人公は何も悪くないのに、上司から責めるような言葉を投げかけられてしまいます。仕事をしている中で、特に、会社組織の中で働いているときに遭遇する理不尽さというものを、すごくうまく描けているなと思いました。
編集A いわゆる「会社員あるある」ですよね。しかもその上司が、南君にはすごく優しい対応をしていました。
編集D あろうことか、「彼女にはびしっと言っといたから」なんて得意げに語ったりしている。これはひどい。でも、「こういうことって実際にあるよね」と思える話で、とても納得感があったと思います。
編集A 主人公は上司に言い返したり、南君を責めたりしませんよね。割り切れない気持ちはあっても、波風は起こさずにやりすごそうしている。こういう反応もリアルだなと思いました。
編集D 南君を待っている間、時間を持て余した主人公があれこれと考えを巡らせていますよね。「私の仕事は、いくらでも替えが効くような仕事だけど、それでも私がやらないとだめなんだ」「だって私は、自分の存在意義をそこに求めているのだから」「情けない。でも、しがみつきたい」と。静かな苦しみを抱えている主人公の内面を、しっかりと深掘りできていてよかったと思います。微妙な感情の描き方が秀逸だなと感じました。
編集A 「会社員」ならではの心の機微を、非常にうまく描写できていましたよね。
編集E 主人公が南君とランチを食べるシーンで、「私は、南君はみんなに好かれていると思っていたけど、その“みんな”に私は入っていただろうか」と語っている場面がありますが、これはすごく鋭い気づきだと思います。こういう非常に繊細な感情とか、誰もが知っているけどうまく掴むことができないまま取り逃してしまうようなことを、言語化できているのはすごいなと思いました。
編集D 主人公だけでなく、南君の内心の思いも、ちゃんと描けていたと思います。滅多にない仕事のチャンスを得られそうになって、ついそちらを優先したという南君の気持ちにも共感できました。
編集A いつまでたっても会社に帰ってこないで、主人公を長時間待たせて、「なんてやつだ」と思っていましたけど、話を聞いてみると「それなりに事情はあったんだな」と思えますよね。
編集D 南君は、仕事もできて気遣いもうまいという、いわゆる「デキる男」として楽々働いているのかと思いきや、内実は意外にいっぱいいっぱいだったらしいですね。とはいえ、無意識的な傲慢さみたいなものも、ところどころで感じました。「倉橋さんって僕のこと嫌いですよね?」なんて台詞、相当自信がなければ、面と向かっては言えないと思います。
編集B 傲慢というか、ちょっとデリカシーに欠けるところはあるなと感じました。
編集D 悪気は全くないんですよね。でもおそらく、南君本人は、自分がかなりパワーのある言葉を放ったことに、気づいていないんじゃないかな。
青木 悪気はないのに相手が怯んでしまうようなことを平気で言ったり、「まっさきに自分の保身を考えるような人間です」と自嘲して見せたりと、悪い人でもいい人でもない南君の描き方の塩梅が、絶妙でしたよね。
編集B 人物描写に奥行きが感じられました。
編集A ただ、いくら「海部部長に誘われた」のであっても、それが「太いパイプを作るチャンスだった」のだとしても、主人公に電話やチャットの一本くらいは入れられたのではと思うのですが。
青木 入れるのが筋ですよね。先輩である主人公を待たせていることを、南君もちゃんと認識しているのですから。
編集A フォローもなしに人を長時間待たせておいて、後になって、「実はこういうわけだったんです。すみません……僕はズルい人間です。ダメな奴なんですよ」みたいなことを言われても、私はすぐさま受け入れる気持ちにはなれないです。
青木 私もです。そういう意味で、主人公はすごく優しい人だなと思います。南君の方から話を切り出さなかったら、嫌み一つ言うことなく、今回の件をうやむやにするつもりだったんでしょう。
編集A 私は途中からもう、「主人公、帰っちゃえばいいのに。南君は、少しぐらい困ったほうがいい、今後の本人のためにも」と思いながら読んでいました。
青木 ところで、二人で顔を突き合わせて資料を作らないといけない理由はあったのでしょうか。結局、資料は主人公が一人で作っても問題なかった。いつもそういう流れでやっているとのことなら、今回もそうすればよかったですよね。
編集A 「今回はとにかく時間がないから」といった説明が書かれていましたが、時間がなければなおさら、南君が帰社するまでの間に、少しでも資料作りを進めておいた方がよかったんじゃないかな。なぜか主人公は、けっこう長い間、暇潰しをしていましたね。
青木 「商談に向けて企業調査をして資料を揃える」とありますが、この「企業調査」とは、具体的にどんなことをするのでしょうか。
編集B クライアントのカンパニーサイトを開いて、企業理念や事業内容に目を通して、「これを一人で見ても意味がない」というようなことを呟いていますが、ここまで基本的な情報をどう資料にまとめて、どう商談に使うつもりなのか、ちょっとイメージができなかったです。
青木 そもそも、主人公が勤めている会社が何の企業なのかも、よくわからなかったです。何かを販売しているのでしょうか。それともメーカー系とか? 今回の仕事にはどんな事情があったんでしょうか。
編集C そのあたりの情報は、ほとんど出てこなかったですね。保険会社かもしれないし、広告代理店かもしれない。
青木 短編なのであまりに詳細に書く必要はありませんが、読者が推測できるくらいの描写や説明は欲しかったですね。
編集E 会社の規模もよくわからなかったです。初めは割と大きな会社なのかなと思っていたのですが、社長が個々の社員の時間外勤務にまで細かく口出ししてくるということなら、そんなに大きくもなさそうですね。
青木 たぶん、中小企業なのでしょうね。とはいえ、少なくとも営業部は二課まであるらしいですから、それほど小さい会社とも思えない。
編集E あと、南君を飲みに連れて行った「二課の海部部長」とは別に、主人公の上司らしき人物として「営業二課部長 甲野」さんも登場してきます。これでは、同じ役職の人が二人存在することになってしまいます。単に書き間違いかもしれませんが、それに加えて「二課部長」という役職名もよくわからない。「課」のトップは「課長」で、一課と二課を束ねた「営業部」のトップが「部長」なのではないでしょうか。
青木 これも書き間違いでしょうか。ちょっと引っかかりますね。
編集D 28枚目に、「ちゃんと話を聞かなかった私は上司失格だ」とありますが、営業事務の主人公が、営業担当の南君の上司にあたるのでしょうか。
編集A そこも何とも言えないですね。ですがもしそうなら、甲野部長が主人公を飛び越えて南君に電話をかけて、「君の上司を叱っておいてやったぞ」みたいなことを言うのも、少し妙な話かなと思います。
青木 まあ、こういう辺りは、気づけば簡単に直せる部分だろうとは思います。ただ、キャラクターの内面描写はとても繊細に描き出せているのに、「仕事」とか「会社」とかが絡むと、なぜか描写や説明が曖昧になったり、書き間違いが多くなったりするのは、少々気になるところです。急な仕事が何だったのか。これはよくあることなのか、誰かの尻ぬぐいなのか、どれくらい重要なのかを描くことで、それぞれのキャラクターが、仕事というものにどう向き合っているのかを描くことができます。それはこの話の大事なところで、ある程度は成功していますが、もっとできたと思います。業種や会社の規模をいちいち説明をする必要はありませんが、部課名や人員配置だけでも想像できるので、物語の構造に利用してもよかったと思います。事務職員のリアルな気持ちが書けているだけに、少しもったいないです。
編集A 作者が、ちゃんと設定を固めた上でこの話を書いているのかなというところで、若干疑問を感じますよね。
編集C ラストの場面で、主人公と南君が打ち明け合戦をしているような構図も、私は気になりました。
編集B 同感です。それまで抱え込んでいたことをお互いにぶちまけて、きれいに仲直りした風になっている。そこに来るまで、心の機微をとてもリアルに書けていた分、最後の解決方法がちょっと大味すぎると感じました。
編集A こんなにも素直に本心を吐露し合えるなら、もっと早くにいろいろ話をすればよかっただけなのでは、とちょっと思ってしまいました。
編集C この二人はもういい大人で、しかも同僚ですよね。大人の職場の付き合いって、「私はズルい人間なの」「僕だってズルいですよ」といった青臭いことを告白し合うような、青春感のあるものではないと思います。
青木 確かにそうですね。ただ、この話に描かれている営業事務の女性のメンタリティーに関しては、私はぐっと来るものがありました。主人公は、みんなから必要とされたくて、些細な事務仕事にも気配り目配りを怠らないですよね。自分の存在意義をそこに見出そうとして、精いっぱい頑張っている。
編集D 誰にでもできる仕事ではあるけど、「さすが倉橋さんね」と言われたくて、主人公は懸命に心を配って働いています。でも、それほど評価はしてもらえない。
青木 辛いですよね。それでも不満は外には見せず、日々地味なサポート業務に打ち込んでいる。
編集D 縁の下の倉橋さんの頑張りを、周囲はほとんど気づいてくれない。上司の言い草もひどいなと思います。
青木 ちょっと旧態依然の会社という印象ですが、いまだにこういう職場は多いのかもしれない。こういう方たちは黙って耐えて、黙って気を利かせて、日本の社会を陰で支えてきたわけです。それを美談にしてはいけないのでは、と個人的には思ったりもします。この作品は、そういったことまでをも、読み手に考えさせてくれる力を持っているように感じました。私はすごく主人公に思い入れをしながら読みました。
編集D 社会の中で働くときには、理不尽なことを呑み込まなければいけない場面も多い。そういう現実を、とてもうまく描き出していましたよね。
青木 ただし「お仕事小説」という側面で考えるとすれば、仕事や会社に関する解像度に改善の余地があると感じました。実感のある「仕事」を描こうとするなら、例えば四季報や就職情報誌を見るなどして、もう少し企業研究をしてみてはと思います。身近にいる会社員の人に少し聞いてみると、興味深いことがたくさん出てきます。理解できないまま書いてもだめなので、咀嚼する努力は必要ですが。
編集A 仕事の内容紹介や社員の声を掲載しているような媒体は、探せばけっこうありますからね。
編集C あと、タイトルになぜ「カイロ」を持ってきたのかも、よくわからなかったです。
編集B 何かを象徴しているのかなとは思うのですが、あまり必然性は感じないですよね。どちらかと言えば、ストレス解消の「チョコ」のほうが、アイテムとしては印象的だったと思います。
編集A そういえば、13枚目のところで「貼らないタイプ」のカイロをポケットから取り出しているのですが、戻すときには「貼るカイロ」になっている。これもおそらく書き間違いかと思いますので、もう少し見直しに力を入れてほしいです。
青木 ラストではもう少し、主人公の仕事に対する哲学みたいなものが示されていてもよかったと思います。今回の一件を通して、主人公の仕事に対する取り組み方にどういう変化が生まれたのか。これから主人公はどう働いていくのか。そういったことが少しでも語られていたら、この物語にしっかりと結末がついただろうと思います。
編集A ただ、資質としては、この作者は「お仕事もの」も書ける方ですよね。
青木 はい。指摘点はちょっと多めだったのですが、話の本質的な部分で、読み手に強く訴えかけてくる力があると感じました。小さいこと、一見つまらないと思われることを、つまらないと切り捨てない。優しい話だと思います。技術的な面はいくらでも改善可能ですから、ぜひこのまま、読者の胸に響く物語を書き続けていってほしいですね。