第237回短編小説新人賞 選評『松風荘の暗がりで』御子柴あやな
編集C 母子家庭で、貧しい暮らしをしている女子中学生のお話です。住んでいるのはボロアパート。母親はスナック勤めをしていて、仕事以外でも酒におぼれているタイプ。狭いアパートには居場所がなく、学校では「貧乏な家の子」として奇異の目で見られている主人公は、ちょくちょくアパートの外階段でひとり、泣いて過ごすような日々を送っている。この状況の描き方が、とても真に迫っていたなと思います。20年以上前のボロアパートの、汚れた階段裏のじめっとした薄暗い感じというのが、非常に質感をもって伝わってきました。
青木 このアパートの「ボロ」具合の描き方には、すごくリアリティーがありましたよね。
編集C 「昭和から平成に変わりもう十年が過ぎようという今の時代」とありますから、作品舞台は1998年あたりということですね。時代がはっきりしているので、リアルな想像が掻き立てられました。
青木 当時の雰囲気が、作中にちゃんと漂ってましたよね。
編集C はい。「写ルンです」が重要なアイテムとして登場してくるのも、すごく自然でした。
編集A 「写ルンです」の、作中での使い方もよかったですね。それ以前の場面でなにげなくポケットに入れておいた使い捨てカメラが、怖ろしい「何か」を撃退する小道具にもなり、さらに写真に写らない存在であるということを示す証拠にもなっている。
青木 結局この「少年」は、なんだったのでしょう? 私は、一度読み終わった後も、なんだかこの少年は実際にその場に存在していた人のような気がしていました。でも、写真に写らなかったということは、生身の存在ではなかったということですよね。
編集A すでに亡くなった少年で、何らかの理由で今もその場所にとどまっている、地縛霊みたいなものだと解釈しました。
青木 あるいは、主人公が自分の内的存在を投影して見ている幻なのかもしれないですね。「もう死んでしまいたい」という主人公の思いが作り上げた、もう一人の自分みたいな。
編集A 「死にたい」という心の奥の思いをはっきりと認識するのが怖いから、架空の存在を作り出してその存在に言わせている、ということは考えられますね。
編集E 私はこの少年は、以前このアパートに住んでいて、虐待を受けて死んでしまった子の霊なのかなと思いました。終盤で、少年の外見がおぞましい姿に変化しますよね。ひどく殴りつけられたような痣があったり、傷跡があったり、血がこびりついていたり。これは、亡くなる直前とか、虐待を受けていた頃の少年の姿なのかなと思ったのですが。
青木 確かに。主人公の内的存在なら、主人公ともどこか似そうですものね。性別も違いますし、少年の身体にある傷跡も、主人公にはない。ということはやはり、成仏しきれていない霊、みたいなことなのかな。
編集A 顔の傷は殴られたものとしても、「手の甲に浮かんでいるたくさんの傷跡」というのは何なのでしょう?
編集D リストカットなのでは? 常習者になると、手首だけでなく、甲も切ってしまうと聞きますので。
編集A ということは、この少年は虐待に苦しんだ挙句、リストカットして亡くなったということでしょうか?
青木 その後、成仏できないまま近辺をさまよい、主人公にも自殺をそそのかしている。
編集D ということであれば、図式としてはまとまっていると思います。無念の思いを抱いて地縛霊となった少年が、次なる犠牲者として、主人公を引きずり込もうとしている。
編集B そこははっきり示されていないので、読者によって解釈が分かれますね。「手の甲の傷」といわれても、多くの読者は「リストカット」を連想しないと思います。私はむしろ、殴ったときにできた傷か、あるいは防御創なのかなと思いました。
編集C 私もです。もし「自殺」を暗示したいのであれば、わかりやすく「手首に傷」でよかったような気がします。
青木 この「少年」に関しては、ほとんど情報がないですね。昔このアパートに住んでいたのかな? 現在の住人は、主人公母子以外には、一人暮らしのおばあさんだけということらしいですが、このおばあさんが関わっているんですかね。
編集A そこは匂わされてはいないですね。よぼよぼで、薄汚れた感じで、「あまり関わりたくないような感じがする」と語られてはいますが、この「少年」と関係があるのかどうかはよくわからない。
編集C 何かしら設定があるのなら、もう少しほのめかしてもよかったですね。ですが、あまりにもはっきりと「以前このアパートで、虐待死した少年がいた」とか「あれは間違いなく幽霊だった」などと書くより、現状のように想像の余地が残されているほうが、話に奥行きが出るとは思います。
青木 主人公の状況や内面が、よく描けていたと思います。冒頭シーンからさっそく、主人公の辛い境遇が詳細に描写されていました。おんぼろアパートでの、酒浸りの母と二人きりの貧しい生活。これが自分の日常なのか、そしてこの先も続くのかと思ったら、泣きたくもなるでしょうね。
編集C 主人公のお母さんは、娘を積極的に虐待したりはしていないようですが、保護者の責任を果たしているとは到底言えないですね。娘の面倒を見ることなく、いつも酔っぱらっている。これはネグレクトに近いです。
編集A むしろ、娘の方が親の面倒を見ていますよね。お母さんの愚痴の聞き役になったり、「今は刺激しないでおこう」「早く寝かせよう」と冷静に対応したり。
青木 こういうお母さんとずっと暮らしていくというのは、しんどいですよね。殴られたりするわけではないにせよ、主人公はとても辛い日々を送っているんだなというのは、すごく伝わってきました。
編集A おそらく主人公は、ちゃんとした服を買ってもらえたり、毎日お風呂に入れたりといった生活ではないのでしょう。だから、なんとなく薄汚れた感じがにじみ出ていて、学校でもクラスメイトから距離を置かれている。うっかり汲み取り式トイレのことを話してしまってからは、さらに好奇の目で見られるようになってしまった。主人公は学校にも居場所が全くないわけで、それも辛さに拍車をかけていますよね。
青木 それでも必死に我慢して日々をしのいでいたのですが、お母さんが荒れて帰ってきた日に、とうとう気持ちが決壊してしまう。ここが、物語が大きく動いたところでしたね。
編集A お母さんが、言ってはいけないことを言ってしまうんですよね。
青木 ただこの場面は、私にはちょっとわかりにくかったです。主人公は母親の言葉を聞いて、ものすごく衝撃を受けているのですが、これはどうしてなのでしょう。主人公が強く反応したのは、「母親失格」の部分でしょうか?
編集A そうだと思います。このお母さんはたしかに「母親失格」ですし、主人公もそれは重々承知している。だけど、それをあえて口には出さず、互いに普通の母娘であるようなふりで暮らしてきた。それは主に、娘である主人公の方が、必死に耐え忍んでいたということなのですが……。
青木 なるほど。「いろいろ大変だけど、力を合わせて頑張って生きる母と娘」として暮らしていたというのに、急に捨て鉢になって、「どうせあたしは母親失格よ。あんただってそう思ってんでしょ」なんて言われたことで、主人公にとってはひどい裏切りのように感じられたのかもしれませんね。これは重要な台詞ですね。主人公にとっては、それでも私たちはいい母と子だと自分に言い聞かせてきたのが、生きる綱だったんですね。
編集A 主人公は恵まれない環境下で暮らしながらも、母親に反抗したり罵声を浴びせたりということは一切していませんよね。ダメなところの多いお母さんなんだけど、主人公はそれを受け入れて、懸命に二人の暮らしを穏やかなものにしようと心を配っている。なのに、「どうせあんたもあたしを否定してんでしょ。わかってんのよ」とはねつけられたりしたら、「そりゃないよ」という気持ちになるのもわかります。
青木 それが「お母さんだけは言っちゃダメじゃん」ということなんですね。
編集A お母さんが「どうせあたしはダメな母親よ」と開き直ってしまったら、「頑張って暮らしている母と娘」という幻想が、根底から覆ってしまう。主人公はその幻想を心の支えにして暮らしてきたのに。
青木 そんな展開になっても、主人公は言いたいことを抑え込んで、階段の下で一人泣いている。お母さんは追ってこないどころか、心配してちょっと外を覗くことすらしない。ここは読んでいて辛いシーンですね。
編集B とても健気な主人公ですよね。ただ、節々のエピソードから、てっきり小学生くらいの歳だと思っていたので、後半になって不意に「中学生」だと判明して、少々びっくりしました。
青木 私もです。序盤のあたりに、男の子たちが主人公のボロアパートをわざわざ覗きに来る場面がありますよね。コンクリート塀に隠れて、何やらこそこそ囁き合っている。「ここの家、まだ汲み取り式なんだって」と、笑いものにしに来たということなのでしょう。いかにも小学生の男の子がやりそうなことですし、そのイメージで、無意識に主人公のことも小学生かと思っていました。
編集B 主人公の年齢は、最初のあたりで出しておいた方がよかったですね。そのほうが、読者の誤解を防げます。
編集A 文章力が高かったと思います。特に終盤の、少年の姿が崩れ始める場面は、恐怖を表現する文章が書けていると思いました。品の良さそうな、けれど見知らぬ少年から、「死ねばいいんだよ」と繰り返し囁きかけられるという展開は、不穏さが少しずつ積み重なっていく感じで、ゾクゾクしました。
編集B ただ、ジャンルとして、作品の方向性がよくわからなかったです。終盤に来るまでは、互いに傷ついた子供同士が心の交流をする話かと思って読んでいたのですが、25枚目あたりから急にホラー展開になっている。私にはそれが、ちょっと唐突に感じられました。もしこれがホラー作品であるなら、もう少し早い段階から、ホラーっぽい雰囲気を醸し出しておいた方がよいかなと。話のテイストが終盤で急に変わってしまった感じで、読んでいて戸惑いました。
編集C ホラーとは言いきれませんが、私は「心霊もの」かと思って読んでいました。最初からほんのり怪しくはあったのですが、12枚目に「振り返ったら少年の姿はなくて、『あれ?』と思った」というシーンがありましたよね。ここは、読み返したときに「ヒント」と言える描写です。心霊系の話ということであれば、それなりに伏線は張られていたように思います。
青木 私はずっと、彼は生身の少年かと思っていました。伏線は仕込まれていたのかもですが、ちょっと気づけませんでしたね。
編集B 少年の正体に関して、主人公の中でもちょっとずつ疑惑が生じていく、みたいな描き方がされていたら、ラストのホラー展開を受け入れやすかったかなと思います。
編集C 確かに。現状では、違和感のある情報はぽつぽつと配置してあるものの、ホラー場面へ向けて作者が話を盛り上げている感じは特になかったですね。
編集A そもそも、作者がこの作品をホラーとして書いているのかどうかも、よくわからないです。
編集C 少なくとも、怖がらせることを最大の目的として作られた話ではないと思います。もしそうなら、主人公の内面をここまで細かく描き出したりはしないでしょう。ただ、終盤のホラー展開が印象的なだけに、読者の目がそっちに行ってしまいますね。
編集A ホラーならホラーなりの盛り上げ方がありますし、主人公の内面を描く話なら、その軸は最後までブレさせないほうがいい。「少年」の正体も、現状では曖昧なままです。彼を「哀しい少年」と思えばいいのか、「悪霊」と思えばいいのかわからなくて、読者は受け取めづらい。作者がどういう意図で書いているのかということは、もう少し読者に分かりやすく伝えたほうがいいと思います。
編集C 本作は、終盤のホラー展開に来るまでは、「主人公と母」の物語でしたよね。それがラストでは、「主人公と少年」の話へと、若干軸がズレてしまっている。たとえば、ラストで話が現代に戻ったとき、主人公のお母さんが今どうしているのかが分かれば、話に芯が通ったと思います。
編集A お母さんは生きているのか亡くなったのか。とっくに娘を捨てて行方をくらましたか、それとも逆に、今も娘にすがって暮らしているのか。ラストでお母さんの現状について語られていれば、「母と娘の話」としてまとまりが生まれますね。
青木 あるいは「主人公と少年」の方がメインということであれば、そこへ向けて演出を調整することもできたと思います。先ほど、「これはホラー作品なのか」という話が出ましたが、ここに関しても同じく、「何を書きたい作品なのか」ということを、まずは作者自身がはっきりと意識することが重要かなと思います。
編集C タイトルの「松風荘」も、個人的にはピンと来ませんでした。
編集A 「古いアパート」のイメージで名付けているのだろうとは思うのですが、むしろ格式のある老舗旅館のように感じました。もっとチープ感のある名前でもいいかもしれません。
編集C 場面の描写力がとても高かったと思いますね。ボロボロのアパートでの底辺の暮らし。大人になり切れない母親。湿っぽい夜の闇の深さ。そういったものが、しっかりと描き出せていました。
青木 その場の雰囲気を伝えるということが、本当にうまくできていましたよね。
編集A 謎めいた少年が現れては消え、現れては消え……という描写をくり返して、話が進んでいく。この作者さんは、丁寧な描写を積み重ねて物語を作ることができる方だなと感じました。それは大きな長所だと思いますので、これからも焦ったり急いだりすることなく、書き続けていってほしいなと思います。