第236回短編小説新人賞 選評『何も持たずに行こう』谷地雪
編集B 主人公は、順風満帆な人生を歩んでいる都会の青年です。仕事にもプライベートにも、何の不足も問題もない。でも、そんな生活にふと空虚感を覚え、「目的もなく電車に乗って、終点まで行ってみよう」と思い立ちます。
青木 そこそこいい大学に入って、そこそこいい会社に就職して、人生において大きな失敗はしたことがない。でもそれは、大きなチャレンジはせず、いつも「そこそこ」で満足してきたからでもあるわけです。そういう、世間が「失敗」と呼ぶものを避け続けてきた自分の生き方に、主人公は何かしら引っかかるものを感じるようになったんですよね。
編集B だから、「いつもの自分」とは違うことをしてみたくなった。行ったことのない、そして行きたいと思ったこともない場所へ、ふらっと行ってみたくなった。言ってみれば「大人の遠足」ですね。
青木 そうして降り立ったのが、終点の浦賀駅。予備知識を何も持っていない主人公があてもなく町をぶらつくのですが、これが意外と、読んでいて楽しかったです。
編集B 主人公の目を通して、読者も一緒に、浦賀の町のショートトリップを楽しめますよね。
青木 町をぶらぶら歩いている中で出会う人たちも、すごくいい人ばかりで、終始ほのぼのとした気分で読むことができました。
編集B 猫を撫でる順番を一生懸命待っている子どももかわいいですし、勝手に決めつけて「嫁さんの機嫌は早いとこ直しとけ」なんてアドバイスしてくるおじいさんもおかしい(笑)。
青木 こんな人たちが住んでいるのですから、きっと素敵な町なのだろうなと微笑ましく読んでいたのですが、主人公がやたらと「ここは田舎だ、田舎だ」と繰り返し言っていて、そこはちょっと引っかかりましたね。
編集B 同感です。浦賀の町に関する主人公の感想は、「田舎」しかないですよね。お店がないと分かると「なんという田舎」。山を目にしては「プチ田舎」。「なんか中途半端だ」、「何もない。マジで」って。
青木 「一度東京に住んでいた女性がこんな田舎に戻ってくるとは、意外だ」とかもね。しまいには、「田舎から出ないで暮らせる人っているんだな」なんてことまで思っています。本人も一応、「失礼にも」と弁解してはいますが、たしかにここまでくると失礼です(笑)。
編集B 浦賀って、そんなに田舎ですかね? だって横須賀市ですよ?
編集D 「京急線で一時間も乗れば品川に出られる」なら、普通に通勤圏内です。一時間で都心に行ける場所は、田舎とは呼べないと思います。
編集B 「バスを乗り継がないと駅までたどり着けない」とか、「一番近いコンビニまで、車で30分以上かかる」なんて場所に住んでいらっしゃる方は、日本中にいくらでもいます。私もかなり奥地の方の出身なので、海や山を見るたびに「うわー、田舎」と感じる主人公に、ちょっと共感は持てなかったです。
編集E それに、「浦賀」と聞けば、私は真っ先に「ペリー来航」を思い浮かべます。近代日本が始まった歴史的な場所ですから、むしろロマンを感じますけどね。
編集B 私もです。浦賀の地に立って海を眺めたら、「ここにかつて、黒船がやってきたのか……!」って、ちょっと感慨にふけったりするんじゃないかと思います。作中に描かれている町歩きの雰囲気は、私はすごく好きでした。読むだけで、「この町いいな。行ってみたいな」と思いました。
青木 私も、機会があればぜひ行ってみたいです。気のいい駅員さんに、「あの店のあんパン、おすすめですよ」なんて言われてみたい。
編集B おいしいと評判のパン屋さんがあって、渡し船で行き来する神社があって、歴史的建造物も残っている。ここは決して、何もないつまらない田舎町ではないです。少なくとも、読者が「いいところだな」と感じられるような描き方は、ちゃんとできていました。なのになぜか、作者自身はそのことに気づいていないらしい。そこが逆に引っかかりましたね。
編集D 浦賀の地元の人たちが「こんなところに何しに来たの?」「観光? まさか」「ここにはなんにもないよ」というのは、まだ分かります。でも、生まれてからずっと東京の都市部で暮らしてきた主人公からすれば、こういう地域はむしろ、新鮮な魅力を感じると思う。
青木 そうですよね。普段から都会でしか生活していないのなら、いわゆる「田舎っぽい」雰囲気は、むしろプラス要素になりそうな気がします。「空が広い」とか「海風が気持ちいい」というだけでも、すごく新鮮に映るものなのでは?
編集B 「若者は、一度は田舎に嫌気がさして都会に出ていくものだ」というのも、都会で生まれ育った人間の発想ではないように感じました。たとえば、海のない場所で暮らしていれば、海を見る機会があると「うわー素敵!」って思うものじゃないかな。ですがこの主人公は、浦賀で何を見ても「田舎だ」としか感じていないようで、そこがどうにも引っかかりました。
青木 主人公には、町を歩きながら、もっと感動してほしかったですね。初めて訪れる場所なのですから、「いい景色だな」とか「みんな親切だな」とか、何かしら心に響くものがもっとあっていいはず、と思うのですが。
編集C 作者がまだちょっと、主人公の気持ちになり切れていないのかなと感じますね。
編集B 主人公はラストで、「浦賀に移住して、カフェをやるかも」なんて言ってたりしますよね。だから実は、本心ではこの町を「いいところだな」と思っているのかもしれません。ただ、主人公がそう思っている描写がほとんどないので、読み手側はそれを読み取れない。むしろ、「そんなにこの町を気に入っていたの?」と戸惑ってしまいます。
編集C 「カフェをやる」というのも、唐突でびっくりしますよね。主人公がそんなことを考えていたとは、まったく思いもしなかった。ここに関しては、途中にもう少し情報を入れておくべきだったと思います。
編集A もしかしたらこれは、主人公の本心というわけではないのではと思います。彼女の気持ちを試すために、こう言ってみただけなんじゃないでしょうか。「浦賀に移住しよう」とか「カフェ経営をしよう」とか本気で思っているわけではなく、「都心の中堅企業に勤めるサラリーマンという『優良物件』ではなくなっても、君は俺についてくる気はあるのかい?」ということを、確かめようとしたのかなと思います。だからラストも、「これからどこへ行こうか」で終わっている。「さて、浦賀に引っ越すか」とは、主人公は思っていないです。
編集C なるほど、そんな気がしますね。ただいずれにしても、現状の描き方ではちょっとわかりにくいと感じます。主人公が何を考えているのか、今どういう気持ちなのかということを、読者がうまくつかめません。
編集D 主人公は自分の生き方に疑問を感じて、知らない町をふらりと訪れてみたわけですよね。そしてラストでは、表面的な条件だけで付き合っていた彼女との別れを決心した。小さくても、これは一つの変化です。そしてその変化は、浦賀の町を歩きまわる中で生まれたもの。はたから見ればただの「町歩き」かもしれませんが、主人公の中では確かに変化が起こっていたんです。自分の生活圏から思いきって離れ、見知らぬ町で頭を空っぽにすることによって、主人公は自分の心を見つめ直すことができたのでしょう。ただ、その内面の変化も丁寧に描かなければ、読者には伝わらない。現状だと、本作は観光案内のような内容になっています。「〇〇という場所があると聞いた」「行ってみた」「海が見えた」という流れに終始している。小説作品にするためには、そこにもう少し、主人公の感情なり思考なりを絡めてほしいです。町を歩き回る中で主人公の気持ちがどう変化していったのかを、読者が感じ取れる描き方をしてほしかったと思います。
青木 ラストで示される主人公の変化が、「彼女と別れることにした」だけというのも、やや気になるといえば気になりますね。もし、「彼女との別れ」を話のオチにするのであれば、彼女である愛華さんのことを、もっと描く必要があったと思います。現状では、「彼女がいる」という情報がちらっと提示されているだけで、エピソード一つ出てこないですよね。愛華さんはラストで急に登場してきたキャラでしかなく、読者にとっては馴染みがない。だから、その彼女と「思いきって別れました」という結末になっても、話がうまく締めくくられたとは感じづらいです。
編集B 「彼女との付き合いに疑問を感じている」という話なら、最初からそれを強調する必要があるということですよね
青木 はい。ちなみに個人的には、「スカジャン」をオチに持ってくれば面白かったのにと思いました。
編集A それは私も思いました。せっかくいいアイテムを出していたのに、使わないのは残念だなと。
青木 主人公は、およそスカジャンなんて着そうにないキャラクターですよね。恵まれた人生を送っていて、挑戦することが苦手な人物です。それがラストで、「俺は思いきり派手な、竜が炎を吐いてるやつを選んでレジに向かった」なんてことになれば、読者も「おいおい、買うんかい」って、ちょっと笑えますよね。短編だったら、それだけでもオチになります。
編集E 終盤で彼女に送る写真も、海の景色じゃなくて、スカジャンを着た自撮りだったりとか。「俺はスカジャンに目覚めた。今後、私服は全部これにする」って。そしたら、「幻滅した」って、彼女の方からフッてくるかもしれません。
青木 それもいいですね。現状の「おまえ、俺を利用してただろ」という露骨な会話をするより、自分がフラれる方向にもっていく主人公のほうが、読者は魅力的に感じただろうと思います。
編集B 愛華さんのバックグラウンドも、もう少し書いておいてほしかったです。今のままでは、裕福で派手な生活をしたいだけの、中身のない人物のように見えてしまいますが、実はものすごい辺境の地で生まれ育って、都会の暮らしに死ぬほど憧れていたとかね。それなら、人物像がぐっと立体的になったと思います。
青木 実は主人公も、うわべだけの人付き合いしかしてこなかった自分に寂しさを感じて、孤独を抱えていたのかもしれない。そういう一面を感じさせる語りが、ちらっとあってもよかったですよね。
編集C 登場人物たちが全体的に、作者の中で生きた人間になっていないなと感じました。もう少し掘り下げてほしい。自分が考えた登場人物に興味を持ってほしい。時間をかけて、「あなたはどんな人なの?」と問いかけ、仲良くなってほしいです。愛華さんも主人公も、本当はもっと魅力的になり得た人物だと思います。
編集D そして、書き始めるまでにもう少し構想を練ってほしいと思います。主人公の行動も、ストーリーの進行も、どこか行き当たりばったりな感じが強いです。それは作者が、自分の作品の全体像を把握しきれていないまま書き始めてしまったからではという気がします。
編集B 作者が設定した主人公と、実際に描かれている人物像が、ちょっとブレているような印象です。どういうスタンスで書いていくのか、最初にはっきり決めておいた方がいいと思います。主人公を、作者の分身のような人物に設定するのか。それとも、書き手とは全く違う価値観を持つ人物にするのか。どういう背景を持っていて、どういう考え方をする人間なのかというようなことは、あらかじめしっかりと決めておき、その人物になりきって書くことが大切です。
編集C 普段からいろいろな人を想像したり観察したり取材したりして、「この人は何を考え、どう感じているのか」ということを意識しながら生活してほしいですね。
編集B 取り上げられているテーマはとても良かったと思います。何もかもうまくいっているのに、なぜか心をよぎる空虚感。それは「自分で選んだ人生を生きていない」からだと、自分でも薄々わかっている。こういうことってあるだろうなと思います。そしてふと、「べつに意味はないけど、終点まで電車に乗ってみよう」と思い立つ。思うだけではなく、行動に移してみる。こういう話の流れもいいですよね。
青木 作品ののどかな雰囲気も、私は好きでした。町で出会う人たちには実感がありましたよね。なんでもないような会話しかしていないんだけど、それぞれが素敵な日常を過ごしている町という感じが伝わってきて、とてもよかったです。
編集B もう少し意識的に「物語」を構築していれば、より魅力的な作品が生まれたのではと思います。テーマがいいだけに、もったいなかったですね。たとえて言うなら、『桃太郎』の話を書き始めたのに、犬・猿・キジをお供にしたところで、ブツッと話が終わるような。「あれ、鬼退治はどうなったの……?」と首をかしげてしまいます。
編集C もう少し長い話になりそうだったんだけど、30枚が来てしまったから終わりにしたのかな、と思ったりします。短編ですから、詳細なプロットまでは必要ないにしても、話の出発点と着地点くらいは、あらかじめ想定したうえで書き始めてほしいです。
青木 「どういう話にするか」という、パッケージングをもう少し意識してみてはと思います。「犬・猿・キジと仲間になりました」というラストにするのなら、「鬼退治」の話として書き始めるのではなく、「一人ぼっちで寂しいな。友達が欲しいな」というところから出発すればいいですよね。「友達できるかな?」という話にすることがあらかじめ決まっていれば、盛り上げどころやオチも考えやすいと思います。表面だけの付き合いをやめるというオチならば、これまでしてきた表面だけの付き合いについても言及してほしい。ただ迷っていて、迷いがふっきれたという話なら、そのきっかけは何なのか示してほしい。雰囲気がいいので、その中でさりげなくテーマを提示できれば、とても読み心地のいい小説になると思います。
編集B 書き手が意識さえすれば、ここはそれほど難しい問題でもないと思います。
青木 パッケージングというのは、短編でこそ自由にできることです。一つの丸い球体の中に、作品世界をそっくり収めるようなこと。30枚の話を作るというせっかくの機会なのですから、短編ならではの良さを、ぜひ活かしてもらいたいですね。
編集C 書くときは、最初の勢いのまま書き進めてもかまいません。でも、いったん書き上がったら、少し時間を置いてから落ち着いて読み直し、「自分が書きたかった物語になっているかな?」と確認してほしいです。「自分はこの物語を、読者にどう読んでほしいのか」ということを、常に自分自身に問いかけてみてほしいなと思います。