第235回短編小説新人賞 選評『B駅行き愚者のバス』遠窓ヒスイ

編集A これはもう、抜群に面白かったです。

編集B 「バスの席に座る」ことが、ここまでの作品になりうるとは、びっくりですよね。

青木 この発想はほんとに素晴らしいですよね。よくこんなこと思いついたなと感心しました。

編集C 「自分が立つのを待ち構えられているのが、なんだか嫌」という、話の基礎部分のネタ自体は、むしろ小さなものですよね。日常を送っている中で、心に引っかかったちょっとしたこと。世間話やSNSの中で一瞬話題にして、すぐに忘れてしまうような些細なこと。それを、ここまでレベルの高いエンタメ作品に仕上げているのは、本当にすごいなと思います。

編集A こんな小さなネタで、果たして30枚の量を引っ張れるものだろうかと心配していましたが、まったくの杞憂でした。途中でダレるどころか、むしろどんどん面白さを増しながら、最後までしっかりと書ききっています。素晴らしいの一言ですね。

青木 話の盛り上げ方が、とにかくすごいです。「この後どうなるんだろう?」という読者の期待を、軽々と上回る展開が繰り広げられる。本当に引き込まれて読みました。

編集B 「自分の席というわけではないけれど、この人には座られたくない」という主人公の気持ち、よくわかります。もうバスを降りるのだから自分には関係ないはずなんですが、いかにも座る気満々でぴったりと傍に張りついてこられるのは、やっぱり嫌な気がしますよね。一度「嫌だな」と思ったら、どんどんその「嫌」がつのってくる。

編集C 「他の人なら構わない」んですよね。ただ、このおばさんにだけは座られたくない。だからある日、スーツの女性が前に立ったとき、主人公は勝負を仕掛けてみた。

編集B で、「勝った」(笑)。主人公は、まんまとスーツの女性に席を譲ることができました。

編集C それが「どうしようもない種類の喜びだった」って(笑)。「喜び」なんですね。主人公、ちょっと意地が悪いけど、そこが面白いです。

青木 とはいえ、その日の勝負はイレギュラーな「勝ち」でした。翌日、「またしばらくは『負け』か」と思っていたら、「なんと、おばさんが二人に増えている」んです(笑)。

編集A ほんとはもっと前から、おばさんは二人いたんだけど、主人公は気づいていなかったんですね。だから、いまさら驚いている。「私の席を狙うよく似たおばさんが、二人。」って(笑)。この作者の文章にはユーモア感があって、いいですよね。見分けがつかないから、主人公はバッグの色で、「黒おばさん」「赤おばさん」と命名する。

青木 後ではもう、単に「黒」「赤」と呼んでいたりします。こういうあたりも、非常にうまいなと思いました。読者だって、二人のおばさんの見分けはつかない。でもこの書き方なら、すんなり理解できますよね。

編集A 席取り合戦にかかわること自体が嫌になった主人公は、座る席を変えてみたり、意識をそらしてみたりしたけど、決定的な打開策にはならなかった。そうこうするうち、今度はおばさん側が新しい動きを見せます。

編集C 賄賂です(笑)。片方のおばさんが、賄賂を渡してくるんですよね。それがまた、ちっちゃなお菓子で。

編集A それをさらに、もう片方のおばさんにさりげなく見せつけながら受け取る主人公。

青木 そしたらもう片方は、なんとクーポン券を差し出してくる(笑)。

編集A 果ては、割引券や商品券まで。いずれにしても、ほんの少額の、なんともみみっちい賄賂合戦なんだけど、このあたりの細かい描写がいちいち面白いですね。

青木 主人公は、自分にとって有用な方を選ぶときもあれば、どうでもいいものをわざと選ぶときもあります。故意にランダムな選び方をして、おばさんたちを翻弄している。

編集C おばさんたちも、主人公を攻略しようと必死です。すごい心理戦が繰り広げられてますよね。しかもこの間、この三人はほとんど口をきいていないんです。たまに「どうぞ」と言うくらい。

青木 ほかの乗客は誰も、この三人の駆け引き合戦を知りませんよね。毎日のように続く、見知らぬ相手との黙ったままの攻防戦。こういう辺りもすごく面白いなと思いました。

編集A 「二人のおばさんは毎回一緒に現れるわけではない。一人しか乗ってこない日がある」という設定を盛り込んでいたのも、すごくよかったと思います。駆け引きが複雑化して、幾重にも話が盛り上がっています。

青木 駆け引き合戦は、熾烈を極めた後、膠着状態に陥った。次はどうなるのかと思っていたら、今度はなんと「老人」が登場してきます。

編集B この「老人」が、またすごい。一度席を譲られて味を占めたら、眠ったふりをする主人公の脚を杖でつついてくるんです(笑)。

編集A この図々しさ(笑)。この老人を前にしては、さすがのおばさんたちも引き下がるしかないですね。賄賂合戦なんてかわいいものに思えてしまう。

青木 ここで私がいいなと思ったのは、この主人公は単に意地悪をしているわけではないということです。確かに、おばさんたちに対しては、あさましい戦いをさせて楽しんでいました。しかしそれは、「いじましいほどの執念で席に座りたがる、醜い人たち」だからです。主人公なりの理由がちゃんとある。だから主人公は、「社会的弱者」である老人が現れたら、すぐさま自分の席を譲っています。「社会的に正しい行いをしないと、自分の気が済まない」から。

編集A だから読者も、主人公に対して嫌な気持ちは持たないですよね。

編集B 最後のオチのつけ方も、見事だったと思います。ここまで盛り上がった物語を、どう収束させるのかと思っていたら、なんと主人公は「最初から負ける」ことを選んだ。もう初めから、座席には座らないことにした。

編集A 他の乗客は知らん顔を決め込んでいますから、もう老人も座れない。老人が怒りの表情を向けてくるのに、主人公が微笑みで応えるというラストがまた、いいですよね。

編集B 「これでやっと全員が不幸になれる」というラストには、深く納得できました。

青木 とにかくもう、最初から最後まで面白かったです。次から次へと予想を上回る展開がやってきて、読み手を飽きさせない。何度も「そうきたか!」と思わせられました。とても楽しかった。

編集A 文章もすごく読みやすかったです。さらっとした文章で、過不足なく描かれている。そして時折、「上手いな」と思える比喩が、さりげなく入っていたりもします。例えば冒頭、降車ボタンが一斉に灯ったときの、「怪物の、沢山の赤く光る眼のようである」とか。バスが停車したときの、「ため息のような空気圧の音」とか。

編集C 「(私の空席は)おばさんたちのためではなく、他の誰かに不意に訪れる幸福になりたい」なんてところも、いいなと思いました。

青木 要するに「たまたま座れて嬉しい、と思ってくれる人に席を譲りたい」ということなのですが、それをこういう言い回しで表現しているのが上手いですよね。

編集A ユーモアのセンスがあるのも、とてもいいなと思いました。頑張って面白く書いているという感じではないから、天性のものでしょうね。

青木 この話、登場人物たちが割と記号的ですよね。それは全然悪いことではないので、「自分はそういう作り方のほうが向いているな」と思うなら、意図的にそういう方向で書いていっていいと思います。でも、微妙な人間関係や繊細な心の機微を書ける方のようでもある。もしそういうものを書きたいのであれば、キャラに肉付けして、人間心理を深掘りしていくのもいい。いずれにせよ、自分の得意な方向をうまく見極めてほしいなと思います。

編集A なんといってもこの作者は、目のつけどころがいいですよね。非常にオリジナリティがあります。

青木 短編って、いくつかの「よくある話」のパターンのどれかに当てはまっていることが多いのですが、この作品はどのパターンにも属さないですからね。そこもすごいなと思います。

編集C 舞台は現代で、描かれているのはごくありふれた日常のシーンなのに、アプローチの仕方が斬新でした。

編集B ワンシチュエーションのドラマとして、非常に面白かったです。バスの中という、閉じられた空間でのほぼ無言劇。

編集C 細かい人間心理が、記号的なキャラによって、効果的に描き出されていましたよね。下手に人物のバックグラウンドを用意したりしていないのが、今回は逆に良かったと思います。

編集B この話、このまま舞台劇にもできそうですよね。

青木 ショートムービーだって作れそうです。極力、台詞はなくすとか。いっそサイレントムービーにしてもいいかもしれない。そんな想像が膨らむのも、そもそもこの作品がとてもよくできた「面白い小説」だからだと思います。

編集A この作品に関しては「ここはもっとこうしたほうが」みたいなことは、とりあえず私は思いつかなかったです。いち読者として、心から楽しませていただきました。文句なし、満場一致での受賞です。おめでとうございます。