第234回短編小説新人賞 選評『プラムレッドの行方』豆倉炎々

編集B 派遣社員として働いている「私」のお話です。収入も低く、パッとしない毎日を送っていて、常にどんよりとした鬱屈と劣等感を抱えていました。でもある時、正社員の山之内さんとたまたま話す機会があり、彼女の生活の実情を知って、感じ方や考え方にちょっとした変化が生まれます。特に大きな事件が起こるわけではありませんが、「誰だって、何かしら辛いものを抱えながら生きているんだな」ということに主人公が気づく物語になっていて、とてもよかったと思います。

青木 等身大の気づきですよね。そこがすごくいい。

編集B 「主人公が成長する物語」というと、主人公が主体的に動き回って、失敗して挫折して、でもまた前を向いてみたいなものをイメージしがちですが、この作品にはそんな派手な展開はありません。でも、現代のどこにでもいそうな若い女性が、現代ならではの悩みや息苦しさからちょっと浮かび上がる姿を丁寧に描いていて、とても好感が持てました。

編集C 主人公のキャラクター像の描き方がすごくうまいなと思います。現代に生きている26歳の普通の女性、それも、就活に失敗して正社員になれなかった若い女性の心の内側を、絶妙なリアリティで描き出しています。一人称の一人語りという書き方も、内面を描くことに大きな効果を上げていると思いました。

編集B 読んでいて、ほんとにちょっとした部分で「これ、よくわかる」と共感してしまうところがたくさんありました。ソファ代わりにビーズクッションを使っているとか、冷凍パスタを温めただけなのに「夕飯を作った」と言ってしまうとか。二十代の女性ならありそうですよね。

青木 「話しかけてくるタイプの店が嫌い」で、店員に近づかれたら早々に退散するとかね。

編集B プチプラのリップは「よく見るとチープなラメがまばらにひっついていた」とか、「頬骨に沿って鋭角に入れられた濃いオレンジのチーク」なんて描写も、映像が目に浮かびます。情景描写だけでなく、「数週間落ち込んで、その後は特にきっかけもなく勝手に回復していった」とか「励まされる曲を聴いて、ちょっと勇気を持ってみたりして、けれど数日もすればすっかり忘れて」とか、「結局自分で自分の面倒を見るしかない」とか、主人公の心の動きに共感するところも本当にたくさんありました。いちいち挙げていったらきりがないくらいです。

編集A 日常生活の中の、細かい「あるある」の描き方がすごくうまいですよね。非常に観察力のある書き手だなと思います。

編集B 冒頭シーンの中で、店員のネームプレートのイニシャルが「M・Y」で、自分は逆の「Y・M」だから、生き方も真逆なんだろうな、なんて思うところがちらっと出てきます。その後、山之内さんが登場してきたときに、ふと、この人も自分とは逆の「M・Y」だと気づく。「山之内さん」=「私と反対の、人生がうまくいっているうらやましい人」という図式が、さりげなく、でも印象的に提示されています。こういうあたりも、うまいなと思いました。

編集C 主人公が、美容系インフルエンサーのリンリアンちゃんに傾倒している様子も、すごくリアルだなと感じました。毎日動画サイトを覗いて、新規投稿を必ずチェックして、食い入るように視聴している。その人の言うことを、割と盲目的に信じています。

編集A 「この主人公、私に似てる」って思う読者は、けっこういそうですよね。

編集C 信じている分、ちょっとしたことで嫌いにもなってしまうんです。サンクシナリのリップのことでリンリアンちゃんに裏切られた気持ちになった主人公が、他の視聴者の悪意ある投稿に引きずられて、自分もつい悪口を書き込んでしまうなんてエピソードにも、リアリティがあるなと思いました。SNSって、そういう側面のあるツールですよね。ある方向にふと目を向けると、それと同じ意見や情報ばかりが流れ込んできて、自分の気持ちが必要以上に増幅されてしまう。やるつもりのなかったことや、やってはいけないことまで、ついやってしまったりする。

青木 主人公は後で我に返って、投稿を消しましたね。消してくれて、こちらもほっとしました。

編集B マイナスの気持ちに引きずられがちな主人公ですが、ちゃんと自分で気づいて、引き返してますよね。主人公の性格の一端が伝わってくるエピソードだったと思います。似たような経験は、多くの人にありそうですよね。

編集A 主人公のように「どうせあの人は、楽にいい思いをしているんだ」「恵まれてるあの人に、私の気持ちなんかわからない」などと思ってしまうのも、多くの人にある経験ではないかと思います。

青木 よく知りもしないのに、相手のことを勝手に決めつけて、拒否感を持ってしまうんですよね。その人が本当に恵まれているかどうかなんて、わかるわけがないのに。

編集C 自分にないものを持って輝いている人に、強烈な憧れを感じる。でも同時に、妬ましさも感じている。これは誰しも覚えがある感情だと思います。その二種類とも鮮やかに描けているのは、すごくいいなと思いました。

青木 主人公がラストでちゃんと、「他人を幸せだと決めつけることの愚かさ」に気づいてくれて、本当によかったです。

編集C しかも、教訓めいた書き方にはなっていないですよね。リンリアンちゃんが一回だけ紹介してすぐにポイっとしちゃった、サンクシナリの新作リップ。主人公はもう、付ける気にはなれなくなっていたのですが、嫉妬して苦手意識を感じていた山之内さんから、思いがけず「プラムレッドが似合うなんていいね」なんて言ってもらえたことで、また使うことができるようになった。この救済の形はすごくいいなと思います。ほんの些細な出来事のように見えますが、主人公は確実に救われましたよね。

青木 私たちの日常って、こんな感じですよね。ちょっとしたことで落ち込んで、でもちょっとしたことでまた前を向けたりする。特にこの山之内さんは、すごくいいキャラクターとして描けていたと思います。化粧ポーチを開けたら中が粉まみれになってるのって、地味にダメージを受ける出来事ですよね。そんな目に遭っている人を見ても、黙って立ち去っていく人はいくらでもいます。でも、山之内さんはごく自然に、立ち止まって助けてくれた。こういう反応をしてくれる人も、世の中には実際にいるんです。そういう素敵な人からいい影響を受けて、主人公が変わっていく話というのは、読んでいて非常に気持ちがいいなと感じました。職場ってそういうところだよなと、改めて思います。

編集A 主人公は、次にまた山之内さんとトイレで会ったときには、コスメの情報交換とかで楽しくおしゃべりできそうですね。オフィスでは今まで通りなのでしょうけど。

編集B そうですね。この二人には仲良くなってもらいたいですけど、同時に程よい距離感も保っていてほしい。

編集D この主人公は、「山之内さんも色々抱えているものがあるんだな」と知った後でも、しばらくしたらまたあれこれ考えてしまいそうですよね。「そうはいっても山之内さんは正社員だし、優秀だし、やっぱりうらやましい」なんて思ってしまうことが、今後もあるのではと思います。

編集B そういうことが想像できてしまうあたりも、リアルですよね。

青木 今回の出来事で主人公の悩みが全部解決したとか、そんな劇的な話ではないですよね。彼女自身の現状は何も変わっていない。でも気持ちは、少しだけど確実に変わっている。

編集C 「誰だって事情を抱えている」と頭ではわかっていた主人公が、実際に体験することによって、それをより深く理解したわけですね。

編集B 主人公は、頭ではいろいろわかっているんですよね。美容インフルエンサーの発言に一喜一憂するほどのめりこんでいるけど、「新作コスメの紹介は、リンリアンちゃんにとってはビジネスだ」ということだってちゃんと理解している。それでも、信じていたかった。なのに裏切られた。いや、裏切られたなんて思うこと自体、お門違いだ。だけど気持ちとして受け入れられないってぐるぐるしている。このどうしようもない感情、よくわかります。

編集C SNSが生活の一部になっている現代には、こういうことが実際にありますよね。今という時代を生きている若い女性を描いた作品として、本当によくできていたと思います。

編集A ただ、この作品の選評からはちょっと話がそれるのですが、少し気になっていることに言及させてください。最近よく、SNSを中心に据えた投稿作品を目にしますが、どことなく描かれている人間関係が希薄だなという印象があります。匿名のやり取りだったり、特定のジャンルという一点においてのみ集っていたりするわけですから、当然と言えば当然ですよね。面と向かい合う濃い人間関係を避けて、ネット上のあちこちに、楽しくいられる居場所を気軽に見つける。軽く接点を持つだけで深くは関わらない。嫌な思いをすることなく効率的に関係を結ぶ。それが今という時代なのかもしれません。でも、「ネットを通じた薄い人間関係を描いているから、今どきの小説として高評価する」というようなことは、私はあまり考えていないです。もちろん個人的な見解ですし、テーマの切り取り方にもよりますから、一概には言えません。でも、やっぱり小説というのは、人間と人間の関わり合いや、それに伴う心の動きを描くものではないかと思います。そういう生身の関わり合いを避けてつながり合えるのがネットのいいところではありますが、小説を書く上においては、そういう面倒くさい、濃く熱い人間関係を避け続けることはできないのではないでしょうか。

青木 そうですね。私もどちらかと言えば、スマートでかっこいい話よりは、登場人物たちがみっともなくあがいている話のほうを読みたいです。実際の人間って、そんなにかっこよく生きてはいけないものですよね。悩んで苦しんでじたばたもがく人間の姿、そこを描いてこその小説かなという気はします。

編集C 実際は、今どきの若い人たちだって、SNSの中だけで生きていくことはできないと思います。多くは社会で働き始めたとき、生身の人間関係に直面せざるを得ないでしょう。そしてそのときに初めて、「人との関わり合い」についてパラダイムチェンジが起こったりするんじゃないかな。

編集D その点で言うと、この『プラムレッドの行方』の中には、ネットやSNS上の薄い一方通行な人間関係と、職場で出会った山之内さんとの現実の人間関係と、両方が盛り込まれていましたね。

編集C まさに社会に出る「就職」というタイミングでつまずいた主人公は、ネット上の虚像であるインフルエンサーにハマり、現実に背を向けてくすぶり続けた。でも、山之内さんという生身の人間に触れたことで、思いがけず浮上することができたわけです。

青木 SNSと現実の両面が描かれていて、うまい着地になっていたと思います。主人公の置かれている現実はなかなかしんどいものだろうな、と読みながらしみじみ感じました。なので、全てが解決するわけではないけれど、一条の光が差し込んで明日がちょっと明るくなるような、救いのあるラストになっているのがとても良かったです。作者特有の高い観察力と繊細な描写力は、ぜひ次作でも存分に発揮していただきたいですね。