第233回短編小説新人賞 選評『田口弘美という人』 春野陽
編集D タイプが違う二人の女性の、微妙な関係性が描かれた話でした。一人称で語られている物語ですが、主人公の「私」はあくまで狂言回し的な役割で、タイトル通り、話の中心人物は「田口弘美」さんのほうだと思います。対照的な人物を配置して物語を作っているのが、すごく面白いなと思いました。
編集E 田口さんは、若くてきれいで要領もいいという、いわば一軍女子。一方主人公は、仕事・家事・育児でいっぱいいっぱいになっている、凡庸な主婦兼会社員。相性のいい二人だとは思えないし、実際、さほど親しい間柄ではないんですが、でも、なんだか気になる相手でもあるんですよね。割と、お互いのことをしっかりと見合っている感じで、私はそこがいいなと思いました。
編集B あまりパッとしない主人公が、要領よく楽しくやっている田口さんをちょっとうらやんでいる図式なのかなと思っていたら、ラストで、実は田口さんのほうこそ主人公に憧れていたことが明かされます。最後に立場が逆転するという構造になっていて、面白かったですね。
編集D 「あの人は好き勝手に生きることができて、いいわよねー」なんて、やっかみ半分で噂されている田口さんなのに、実は、平凡な幸せを手に入れている主人公のことをうらやましく思っていた。一見思い通りに人生を謳歌しているかのような田口さんですが、内情はさほど幸せではなかったわけですね。このモヤモヤとした人間関係とか、砂をかむような後味が好きで、私はイチ推しにしています。基本的には読後感のいい作品が好きなのですが、女性同士の関係に生じる独特の気持ち悪さとか、絶妙にすっきりしないラストが、なぜだかすごくいいなと感じました。
青木 ラストで主人公が、「赤ちゃんの名前は?」と尋ねるところがとても好きです。「大丈夫?」とか「元気出して」みたいな、みんなが言いそうな言葉ではなく、田口さんの心に深く響く言葉を自然に言えているのがいいですよね。
編集A 対照的な人物を配置して、最後に立場を逆転させるという構図を作っているのは、確かにすごく面白いと思いました。作者がやろうとしたことは理解できるし、かなりの部分、成功しているとも思うのですが、それだけにちょっと、型にはまってしまったところもあるのかなと思います。登場人物の描き方にも、ややステレオタイプ気味なところがありました。例えば冒頭で、田口さんから「妊娠している」と明かされた主人公が、驚きのあまりスプーンをテーブルに落とす場面がありますが、現実にはこういうことってあまり起こらないですよね。ちょっとマンガっぽい表現になっているかと思います。
編集C その後のコピー機の場面でも、「ひっ」と悲鳴を上げたり、「ぎゃあああ!!」と叫んだりしていますが、これらもかなりマンガっぽい反応ですよね。主人公はもう少し落ち着いた人物を想像していたので、少々違和感がありました。
青木 一軍女子的キャラの田口さんについても、もう少しそれらしいエピソードが欲しかったかなと思います。ちょっとまだ、描き方が記号的ですよね。この作品は、「不思議なあの子」とか「変わったあの人」系の話かなと思うのですが、そういう話を書く場合、キャラクターを記号にするのは避けたほうがいいと思います。田口さんの生い立ちや思想を、記号の部分を抜きにして考えてほしいです。
編集A 冒頭1行目から始まる「転売チケットでコンサートに行った」というくだりで、まずは田口さんの自由さと要領の良さを読者に印象づけようとしたのだろうと思いますが、これはエピソードとして何かピンときませんね。
編集E 自分でお金を払ってコンサートに行ったわけですものね。
編集B 「要領よくうまくやっている人」という感じではないですよね。
編集C たとえば、「お得意さんにプラチナチケットをもらったから、コンサート行ってきたの。いま大人気なんだってね。私はよく知らないけど、まあまあ楽しめたかな」くらいのことを言ってほしかったですね。「いつもうまくやっている一軍女性」を登場させるのなら、「この人、いっつもおいしいところをちゃっかり持っていっちゃってずるい!」と、読者に思わせるくらいに描いたほうがよかったと思います。
青木 しかもこの田口さんは、「悪気はない人」らしい。割と天然で、無邪気な残酷さのようなものを持っているキャラという設定なのかなと思います。ただ、冒頭シーンの中で、流産して心に深い傷を負っている女性に対して、「哀れ」と言っているところがありますよね。ここはちょっと引っかかりました。ラストで、今度は田口さんが流産してしまうという展開への布石なのでしょうけど、この一言で、田口さんのことを「嫌な女」と感じてしまう読者はけっこういるのではないでしょうか。センシティブな話題ですし、まだ登場して間もない段階なのに、ここで田口さんを「意地悪キャラ」と誤解されてしまうのは、避けたいですよね。描写の塩梅には、もう少し気をつけたほうがいいかなと思いました。
編集A 「犬養課長と不倫の末に結婚する」という点に関しても、どう受け止めたらいいのか戸惑ってしまいました。というのも、犬養課長が人としてひどすぎませんか?
編集C そうですよね。妊娠している田口さんに対して、何の配慮もない。しかも、チクリとあてこすられても軽く受け流して終わり。まったく気にしている様子はない。今の奥さんと別れてまで結婚しようとしている相手なのに、この対応はやや不自然だと思います。男性にとっても、不倫相手の妊娠はかなり動揺する出来事でしょうに、この課長は気にも留めていない感じです。
青木 それに、少なくともコピー機の場面においては、この二人の間に濃密な関係性があるようにはあまり感じられなかったです。プライベートで深い仲になっているのに、会社の中で「今晩飲みに行こうよ。いい店見つけたよ」なんて立ち話をしているのは、ちょっと違和感があります。
編集C LINEやメールでやり取りすれば済むはずですからね。社内不倫をしている割に、警戒心がまるでない。だから主人公にも立ち聞きされてしまっています。そういえば、退職前にも食事中に今後の生活について堂々とお喋りしていて、別部署の人たちに話を聞かれていましたね。
編集A 犬養課長の気持ちや思考は、描写からはほとんど読み取れなかったです。本気で田口さんと結婚したいと思っているのかな。離婚って、ものすごく面倒で、エネルギーを消耗する事柄だと思います。そうまでして再婚しようとしているのに、その相手にさして関心がないというのが、どうにも腑に落ちなかった。
編集C 田口さんのほうも、このコピー機の時点ですでに、「自分はあまり大事にされていない」「彼は思いやりや気遣いのある人ではない」ということはわかっていますよね。なのになぜ、立ち止まろうとせずに結婚へ突き進んでしまったのでしょう。
青木 犬養課長の奥さんに、慰謝料を300万も支払ったんですよね。そうまでする価値が、この犬養課長にあるとは思えなかったです。
編集C ラストの場面の中で、「あれだけ好きだったのに今はどこが好きだったのか思い出せない」と語っていますが、田口さんが犬養課長に本気で恋をしていたようには感じられなかったです。
編集A はたから見れば、「犬養課長なんかと結婚したら不幸になる」のは目に見えていますよね。やはり田口さんは、「要領よく、いつもおいしいところをさらっていく女性」には思えなかったです。
編集B もし作者が田口さんのことを「みんながうらやましく思う女性」のように設定しているのであれば、描かれているエピソードがいまいち適切ではなかったかなと思います。
青木 田口さんと結婚する前の犬養課長を、もっとイケメンでスパダリな男性にすればよかったかもしれませんね。優しくて気がきいて、おしゃれでかっこよくて、仕事もすごくできる。それなら、大金を払ってまで略奪婚するのも分からないではないし、周囲の人も、「あの素敵な課長をゲットするなんて、うまくやったわね」と思うことでしょう。でも、いざ結婚してみると、釣った魚には餌をやらないタイプだと初めてわかった……という流れでも、この話は成り立ったのではと思います。
編集C 最初のあたりでは人生がすごくうまくいっている輝く女性のように描いておいて、ラストでドーンと不幸にさせたほうが、話の逆転感をより鮮やかに演出できたのではないでしょうか。
青木 それとも、もしかして作者は、そういう逆転構造の話を作っているつもりはないのでしょうか? 改めて見てみると、冒頭の田口さんは、すでに何らかの迷いを抱えているようにも感じられますね。
編集A 主人公に、何か相談するつもりだったのかな? でも、ラストの場面の中で「大丈夫じゃない人生なんて考えてもなかった」と言っていますよね。だからこそ結婚へと突き進んだ。
青木 全体的に、作者がどういう意図でその場面やエピソードを描いているのか、ちょっとくみ取りにくいなと感じるところが多かったですね。要領のいい女性ではなく、最初から不器用で欠落した人として描いているのかもしれません。だとしたら、田口さんの欠点や、そうであっても憎みきれない部分、主人公が田口さんに対してどう思っているかを示すエピソードや会話などを意図的に書いたほうがいいと思います。
編集C 私は、主人公の描き方にも疑問を感じました。本作が「田口弘美という人」を描こうとする物語であるなら、語り手である主人公は、もう少しフラットな人物にしたほうがいいのではないでしょうか。現状では割と最初から、田口さんに対して拒否感や嫌悪感を持っているように思えます。
青木 そうですね。読者は、「私」の目を通して「田口弘美という人」を見るわけですから、この主人公は中立的な「観察者」という立ち位置に設定されているのかなと、私も最初は思いました。実際はあまり、客観的立場の人物ではなかったですね。
編集C 多くの読者は無意識的に、主人公を「正しい人」のように思いながら読みますよね。一般的な感覚を持った人や、良識のあるちゃんとした人。たとえ内心ではいろいろ思うところはあったとしても、とりあえず基本的には誰に対しても公平で、優しく穏やかに接する、そういう人物です。
青木 今回の主人公の中畑さんについても、そういう人なのかな、だからこのちょっと癖のある田口さんからもなつかれているのかなと思ったのですが、読み進むとそのあたりが少々怪しく思えてきますね。
編集C 冒頭シーンの最後で主人公は、「これ以上何の話も聞きたくない」と思い、断ち切るようにさっさと帰ってしまいます。さらにラストの場面では、膝から崩れ落ちて泣いている田口さんを尻目に立ち去っている。その光景を想像すると、主人公はちょっとひどいのではないかと思いました。田口さんは今ものすごく辛い思いをしているのですから、もう少しいたわってあげてもよさそうなものですが。
編集A 確かに。主人公はなにも、冷酷な気持ちで田口さんを置き去りにしたわけではないのでしょうけど、この「尻目に立ち去る」という書き方は、読者の誤解を誘ってしまうかなと思います。
ラストの締めくくり方も、ちょっと雑に感じられました。田口さんはまだ深く傷ついていて、あんまり大丈夫そうではないですよね。そもそも田口さんは、「どうやっても幸せになる人」のようには描かれていない。
青木 ラストで、主人公がもう少し寄り添ってあげてもよかったですね。「お誕生日おめでとう」と主人公が言ったら、田口さんは不意に泣き崩れてしまって、でも主人公は励ますでも慰めるでもなく、ただ無言でそばに居続ける。二人はもう言葉は交わさないけれど、彼女たちの間に何らかの絆が生まれているのが、読者には感じられる。そういう終わり方だと、余韻が生まれたのではないでしょうか。
編集C 主人公の夫に関する描写にも、私は引っかかりを感じました。幼い子供がやっと寝てくれたという束の間のボーナスタイムに、「例の彼女はどうなった?」という下世話な話題。
青木 確かに、主人公夫婦も、田口さんが憧れるほど素敵なご夫婦には思えなかったですね。田口さんの話にしても、「不倫なんて何にもいいことないのに」と眠った子供を間においてしみじみと言う、みたいな入り方もあったと思います。数行の動作や会話で、ごく普通だけどいい夫婦だな、と感じさせるような文章にすることはできました。
編集C 主人公があまり感情移入できる人物ではなかったので、誰の気持ちを軸にこの話を読んでいけばいいのか、よくわからなかったです。本当は、主人公である中畑さんのことをもっと好きになりたかったのですが。
青木 作者のスタンスが不明瞭なのは、確かに気になりますね。「ちょっと変わってる田口さん」を描いた話なのか、それとも「二人の女性の関係性」を描こうとしているのか、あるいは逆転劇を描きたかったのか。現状では判断がつきかねます。
編集A 作者はひょっとしたら、ここで指摘されている色々なことについて、「そんなふうに読まれるとは思ってなかった……」と感じるかもしれません。
編集C むしろ、そここそが一番気になる点かもしれないです。作者の意図が、意外なほど読者にうまく伝わっていないように思える。対照的な二人の女性の微妙な関係を描こうとしたこと自体は、すごくいいなと思うのですが、どうしてもうまく読み取れないところがありました。
編集A こういった人間関係の機微を描く作品においては、文章の一つひとつに、もう少し神経を張り巡らせる必要があると思います。ちょっとした描写、ちょっとしたひと言で、読者が受ける印象は大きく変わってしまいますので。
青木 特にこのような、キャラクターで成り立つ物語においては、キャラの掘り下げが重要になってきます。キャラの解像度を上げることに、もう少し力を入れてみてはと思います。
編集A 細かい部分に関しても、いくつか引っかかる点がありました。例えば、主人公が勤めている会社の規模感もいまいちわからないですよね。「第二営業部」があるくらいの会社なのに、コピー機が一台しかないとか。
青木 業種も気になりますよね。主人公がどういう仕事をしているのか、ほとんど見えてこない。「会社」が出てくる話だと、私はどうしてもそこが気になってしまいます。
編集A 今は会議資料をデータで送ることも多いでしょうし、社内イベントに家族が参加するところも減ってきていると思います。小さな会社なのか、地方にあるのか……と考えだすと、すごく気になってしまいました。犬養課長にしても、小さな会社の課長なのか、大企業の課長なのか。それによって話は若干違ってくると思います。
編集B コピー機のところで偶然鉢合わせしたとか、街中やお店で偶然見かけたという展開が何度も出てきますが、こういうあたりもちょっと気になりますね。
編集C 読んでいて、どうにも歯がゆいというか、もったいないなと思いました。うまく書けていると感じるところと、今一歩だと感じるところがかなり混在しています。例えば、ラストの場面で田口さんが「中畑さんが好きなココア、今日飲んでみたけど、甘すぎるね。もう二度と頼まないわ」みたいなことを言っているところなんて、私はすごくいいなと思いました。この数行のココアについての台詞の中に、田口さんの思いがすべて詰まっていますよね。中畑さんのようなふんわり甘い人生に憧れていたのに、実際に真似してみたら、そんなに素敵なことにはならなかった。もういい、二度とうらやんだりしない、私は私らしく生きていくという、田口さんの決意のようなものが感じられました。「がんばれ、田口さん」と思ってしまったほどです。
田口さんが主人公の妊娠にいち早く気づいて、ブランケットを渡してくれたエピソードもすごくいい。あのコピー機の場面で、素知らぬふりで主人公を気遣ってくれていたのかと思うと、ちょっと胸にじんわり来るものがありました。
青木 最後の最後に、主人公が「お誕生日おめでとう」と言う。そのひと言が田口さんの心を大きく震わせたという場面も、とてもきれいにキマッていたと思います。お互いに複雑な感情はありつつも、主人公が田口さんを思いやり、その思いが田口さんにもしっかりと伝わった。このシーンはとても美しいです。この一瞬を描くための小説だと思いました。
編集C この二人は、何かの拍子にタイミングさえ合えば、友達になっていてもおかしくない二人だと思います。
青木 そうですね。この二人の間には何かしらのシンパシーがあるなと、読者が自然に思えるような描き方ができていたら、もっと共感して読めただろうと思います。
編集E 結局この二人は、友達になったわけではない。おそらく、もう一生会うこともないのでしょう。でも、どちらにとっても、相手は「忘れられない人」になったと思います。何かしらのターニングポイントとなる小さな瞬間を、見逃すことなく捉えて物語にしているのは、とてもよかったと思います。
編集A 作者がやろうとしたこと自体はすごくいいし、構成も悪くない。大枠がよくできているので、細かいところの描き方にもう少し丁寧さがあれば、という感じですね。
編集C 本当はもっと共感して読めたはず、と思うとすごく惜しいですよね。この作者は、読者が感情移入する話を書ける人だと思います。いいところをいっぱい持っている書き手だと思いますので、今後もぜひ頑張ってほしいですね。