第232回短編小説新人賞 選評 『蒼穹へ泳げ』水鳥たま季
編集A 辛い家庭環境にいる女の子が、不思議と心の通じ合う祖父の存在に支えられ、大人になっていく様を描いたお話です。悲惨な子ども時代が語られるのかと思いきや、意外と淡々としていて、静かな美しさすら感じられる物語でしたね。
編集B たまにしか会えないおじいさんと交わすちょっとした会話とか、小さいころに買ってもらったお魚のフロートペンとかが、主人公の心をずっと支え続けてくれているんですよね。そのおかげで主人公は、長じて何らかの文学賞のようなものを受賞できたわけです。作家としての人生がこれから開けていくのかなとうかがわせる描写が、冒頭にありました。主人公が光のさす未来にたどり着いているようで、よかったです。
青木 最初は、もしかしてこれは毒親がテーマの話なのかもと思っていましたが、主軸として描かれていたのは、おじいさんと主人公との心の交流でしたね。しかもそれが、べたべたした関係ではないのがすごくよかったです。年に一度くらいしか会わないし、会話が大盛り上がりするわけでもないのに、この二人の間には不思議と深く通じ合うものがある。この関係性は素敵でした。
編集C ただ、この二人の関係性が話のメインテーマなのだとしたら、魚のペンを買ってもらうとか、それをきっかけに作家になるとかという要素が、あまり生かしきれていないように感じました。
編集A 同感です。それに、冒頭部分はちょっとわかりにくいですよね。いきなりボールペンのことを読者に語りかけはじめたかと思ったら、そのペンの中にいるプラスチックの魚が、なぜか宙へ泳ぎ出して去っていくというイメージシーンへとスライドしていく。そのペンを胸ポケットに挿し、主人公は授賞式らしきものに臨む……ということらしいのですが、初読では状況がよくわからなくて、正直戸惑いました。
青木 この冒頭部分は、他の書き方があったように思いますね。あるいは、その次の章の「買ってほしい、と言いなさい。」から話を始めるとか。そのほうが、読者がすんなりとストーリーに入り込めますよね。
編集C もしかしたら印象的な冒頭シーンで物語を始める目的だったのかもしれませんが、ちょっとポエミーになりすぎていて、あまりうまく乗れなかったです。
青木 この作品は、帰納法的構成になっていますよね。最初に現在の状況を示しておいてから過去に戻り、現在に至るまでの道のりを改めて描いていくという書き方です。でもこういうのは、どちらかというと長編向きの手法でしょうね。短編は多くの場合、冒頭から即、現在時点の話をスタートさせたほうが、読者が作品世界に入りやすいと思います。
編集A もし前置きのような冒頭シーンを入れたいということなら、その分量はもっと短くした方がいいと思います。読者にちょっとした印象を残す程度で、さっと切り上げる。そのほうが効果的です。やはり、これからどういう話が語られようとしているのかを、一刻も早く伝えたほうがいいと思う。読み始めたばかりの読者は、主人公のことも、作品世界のことも、何もわかっていない状態なのですから。
編集C 冒頭シーンの終わりあたり、新人賞の授賞式を前に、応接室のような部屋へ入っていくところなのかと思うのですが、なんだか違和感のある描写ですね。「○○、入ります!」という声かけは主人公が発した言葉なのでしょうが、面接にでも臨むように感じられます。
青木 この場面のきらめき感も、私は若干気になりました。夢を壊すようで申し訳ないのですが、芸能人と違って作家は、新人賞やデビューの段階では、それほど華々しい場には立ち会えないことが多いんです。スタート地点に立ったに過ぎませんので。作者はそれもご存じかもしれませんが、念のためお伝えしておきたいです。
編集C そもそも、主人公が作家になることは、この作品に不可欠な要素や展開ではないようにも思えます。というのも、この主人公は、それほど小説が好きというふうには感じられないですよね。実際に本を読んでいる場面も、小説を書いている場面もほとんど出てこない。小説に対する主人公のパッションというものが、作品からあまり伝わってきませんでした。
編集D きっかけは学校の先生に勧められたからということらしいですが、これも、作家を目指す動機としては少し弱いように思います。
青木 確かに。現状では、「どうしても読まずにいられない」「書かずにいられない」といった小説への希求が、主人公からあまり感じられないですね。
編集E 「物語を書く」という言葉だけは何度も出てくるのですが、具体的な場面が描かれていない。だから、「作家になる」とか「小説を書く」という要素が、現状では話の装置としての域を出ていないように感じられます。
編集A ちょっとした描写でいいので、何か盛り込んでおいてほしかったですね。授業用のノートの端っこはどこも、思いついた物語を書き留めた小さな文字でびっしり埋まっているとか。毎日放課後は図書館に通い、閉館時間まで読書に没頭しているとか。
編集C 加えて、主人公が書いている「物語」がどのようなものなのかも、描いておいてほしかった。というか、そこはぜひ描くべきだったと思います。現状では、主人公が書いているものがファンタジーなのかミステリーなのか恋愛ものなのかもわからないですよね。もしかしたら、一般文芸ですらなく、児童小説や絵本なのかもしれない。主人公が「書きためている」物語たちがどういうものなのか、想像がつかなかったです。
編集A 主人公は、毎日のようにお母さんに暴力を振るわれ、辛い日々を送っていますよね。怯えて縮こまっている心を解き放ち、のびのびと想像の翼を広げられるのは、家族が寝静まった夜中だけ。フロートペンから抜け出したプラスチックの魚にまたがって、きらきらした海の中を自由に泳ぎ回る様子は、何度も描写されています。ここは本当に素敵でした。私はこれをイメージシーンかと思っていたのですが、もしかしてこれこそが、主人公が書いている物語なのでしょうか? 主人公は、「魚と一緒に海を冒険する物語」を書いているということ?
編集D いや、それは考えにくいです。「海の中を冒険する」というのはあくまで、「心のままに自由に小説を書く」ことを、イメージとして表現した言葉だろうと思います。
編集C ということであればやはり、主人公が書いていた「物語」がどんなものだったのかを、読者に具体的に示すべきだったと思います。小説というものには、否応なく、書き手の内面がにじみ出るものですよね。この主人公は、辛い家庭環境の中で必死に生きている。そんな彼女が毎晩夢中で書き綴るのは、いったいどんな物語なのでしょう? ファンタジー世界に飛ばされた現代の少女が王子様と恋に落ちる話? 世界を股にかけて繰り広げられるワクワクのアドベンチャー? それとも、自分によく似た境遇の女の子に、小さな希望の灯がともされる物語でしょうか? この主人公がどんな物語を書いているのかを、私は知りたかったです。
青木 そうですね。そこはとても重要なポイントだと思います。
編集C ただこの作者は、キャラクターの描き方が抜群にいい。特に、主人公のおじいちゃんの描写はすごくよかった。だから、「小説を書く」とか「作家になる」なんて要素を入れないで、「おじいちゃんと私」というだけの話でもよかったのに、という気がします。それだけの話であっても、十分読者を惹きつけることができたと思います。
青木 同感です。このおじいちゃんは、本当に魅力的ですよね。若い頃の鋭さを残しつつも、いい感じに枯れていて、なんともかっこいい。「痩せたオオカミに似ている」という描写も、雰囲気をうまく伝えていると思います。
編集C 主人公にとって「おじいちゃん」である人らしいのに、最初は関係性がよくわからない。想像を掻き立てられて、興味を持って読み進められました。後に明かされた事情も、適度に複雑でよかったです。まさか婚外子がいたとは驚きですが、おじいちゃん本人も知らなかったのかもしれませんね。長年ほったらかしにしていた娘である主人公の母親が窮状を訴えたら、あっさりと東京の自宅を譲り渡し、自分は田舎の老人施設へと引っ込んだ。もちろん負い目もあったのでしょうが、実はかなりいい人なのかなと思います。
編集A 元外交官だから、経済的にも割と余裕があるのでしょうね。普通はなかなか、こんなかっこいいこと、できないです。
青木 人間って、完璧ではないし、アンバランスなところも抱えている。このスタイリッシュでかっこいいおじいちゃんにも、うまく説明をつけられない思いが心の奥底に潜んでいたと思います。そういえば、才色兼備で立ち回りのうまいお姉さんも、なかなか複雑な内面を抱えていそうですよね。
編集A このお姉さんも実は、ものすごく神経を張り詰めて、お母さんを爆発させないように「いい子」を演じているのかもしれない。妹への対応はかなり冷たいものに感じますが、私はこのお姉さんのこと、嫌いじゃないです。この人はこの人なりの辛さを抱えていると思う。
青木 このお姉さんは自分で努力して、嫌な環境から抜け出していきました。大学生の時にはもう、ほぼ自立しかかっています。バイト代の半分はきちんと家に納めながら、自分の人生を溌剌と謳歌しはじめた。すごくしっかりしていますよね。
編集A そして、お姉さんが離れたことで心細くなったお母さんはといえば、さんざん暴力をふるっていた主人公に、今度は哀れっぽくすがりはじめる。ひどいと言えばひどいんだけれど、こういうことってあると思います。生の人間、生の家族関係というものを、よく描き出せていたと思う。
編集E ただ、キャラクター造形には多少引っかかる点もありました。たとえば、おじいちゃんに関して、「寡黙で物静かな人。自発的には口を開かない。会話を始めるのは相手の仕事。その場合でさえ、答えるに値しないと思わなければ返事をしない。誰に対してもその態度を変えることはない」みたいなことが書かれていますが、仕事でもこの態度だと、外交官は務まらないと思います。
青木 それは確かに。適性としてはむしろ、真逆に感じます。外交官という仕事には、卓越したコミュニケーション能力が求められますよね。
編集A 年に一度、電車と新幹線を乗り継いで主人公一家に会いに上京してくるというのも、なんだかイメージが合わない気がします。このおじいちゃん、自分からは相手に近づかない人ですよね。孫たちが毎年夏休みにおじいちゃんの家に泊まりに行く、ということならありそうですけど。
青木 細かいようですが、「特別養護老人施設」という言葉にも引っかかりました。特養というのは、介護度が進んだ人が入居対象になっている施設ですので。それと、主人公は11歳の時に買ってもらって以来、何年もずっと「魚のフロートペン」で物語を書き続けている様子ですが、こういうおもちゃのようなファンシー文具は、なかなか使いにくいんじゃないでしょうか。軸も太いし、子供の小さな手ではなおさら扱いづらいと思います。
編集A もちろんこれらはどれも、ごく小さな引っかかりポイントです。「この話の一番大切なところはそこではない。どうしてそんな些細な点をわざわざ指摘するのか」と言われてしまうかもしれませんが、些細な引っかかりが積み重なっていくと、読者は作品世界に入れなくなってしまいます。
編集C イメージ先行で話を作っている印象を受けますね。たとえば、このおじいちゃんが何かの「職人」であっても、この話は成立するはずですよね。あるいは、買ってもらったフロートペンの中身が「薔薇」で、主人公は「お花屋さん」を目指してもよかった。そこをあえて、「外交官」で「魚」で「作家」に設定するからには、読者が納得できるだけの説得性が、もう少しほしいです。
編集A 例えば、お母さんに殴られたあと泣きながら眠った夜には、必ず夢の中に一匹の魚が出てきて、慰めてくれたとかね。フロートペンの中の魚が、その夢の魚にすごくよく似ていて、だからどうしても欲しくなったとか。具体的なエピソードを作って、要素を絡み合わせていったほうがいいと思います。それにしても、情愛の薄い家族の距離感の描き方は絶妙でした。相手に期待しない、寄りかからない、必要以上に心を開かない。だからといって、ひどく憎んでいるというわけでもないんです。
青木 主人公は毎日のように母親から手を上げられていたんだけれど、安直な「虐待されてかわいそうな私」という話にはならない。そこがすごくよかったと思います。主人公はかわいそうだけど、かわいそうじゃない。素敵なおじいちゃんと、心がつながっています。
編集A そのおじいさんとの関係も、甘ったるいものではないのがまたいい。「家族は他人」と言い切ってはいるけれど、「自分の心は自分で守り、尊重するのだ」というような一連のおじいちゃんの言葉が、主人公の心にすっと沁みとおっていく。多くを語らなくても、二人には通じ合うものがあります。
編集C このおじいさんは、とにかく魅力的でした。ちょっと主人公を食ってしまっているくらいです。読み終わったとき、主人公よりおじいさんの方が印象に残ります。
編集E せっかくこんな素敵なキャラクターを出しているのですから、主人公の執筆エピソードに絡ませてほしかったですね。冒頭シーンの受賞作のタイトルは『私のおじいちゃん』だと、ラストで明かされるとか。
編集A それはいいですね。要素がよりしっかりとつながり合います。この作品からは、作者の強い創作意欲を感じ取ることができました。あとはもう少し細部をしっかり詰めたり、冷静な目で自分の作品を見直せるようになれればと思います。
編集B 語彙は非常に豊富で、文章がうまかったですね。
青木 言葉がきれいですよね。リズムのある文章で、グルーブ感がありました。若干、自分の言葉に陶酔気味の箇所も見られましたが、「指摘されたからセーブしよう」などとは考えずに、むしろどんどん書いていって、それによって精度を上げていった方がいいと思います。
編集A 委縮しないで、逆に突き進むことで磨いていく、というわけですね。
青木 はい。書くときはもう、思いきり陶酔して、気持ちよく書いていいと思います。勢いを殺さないことの方が大事です。「このイメージシーン、素敵でしょ?」「この文章、かっこいいでしょう!?」と思いながら、遠慮なくぐいぐい書き進めていってほしい。で、そうやって最後までいったん書き終えた後で、今度は校正者の目に切り替えて、文章や内容に客観的にチェックを入れていく。そういう書き方をしてみてはと思います。
編集E 客観性という点に関して、一点言及しておきたいところがあります。実在のテロ事件をほのめかして「殉教」と表現している箇所がありましたが、ここはかなり気になりました。罪のない大勢の一般市民が、無残に命を奪われた事件である以上、「信仰に命を捧げた」かのように書いてしまうのは、ちょっと適切ではないと思います。
青木 そうですね。今回は投稿作なので、この一点が致命傷にはなりませんが、もし今後プロの書き手になることを目指しているのであれば、こういうセンシティブな要素の扱いにはもう少し慎重になったほうがいいかなと思います。
文章にもキャラクターにもセンスのある人で、こういうものを書きたいという意欲を感じます。その気持ちを大事にしつつ、曖昧なことを調べる癖をつけ、構成や留意点などの技術を身に着けていってほしいです。習得したら一気に伸びるかもしれません。
編集A ちょっと指摘点が多めになってしまいましたね。でもこの作者は、印象的なビジュアルシーンを描ける方だなと思います。海の中を泳ぐ場面はきらきらと輝いていたし、終盤の東京駅の喫茶店の描写もすごくよかった。品の良い老紳士と孫娘が、テーブルを挟んでゆったりと会話している。それだけでもう、絵になりますよね。読者に「なんだか素敵」と思わせる人物や場面が描けていて、話にもちゃんと芯がある。味わい深い作品だったと思います。