第232回短編小説新人賞 選評 『ぴしゅたこの墨』蛯原テトラ
編集A すごく雰囲気のある作品ですね。独自の世界観を描き出せています。
編集C 「何かが起こりそう」という期待感で、冒頭から話に引きずり込まれます。そのまま最後までぐいぐい読まされました。私はイチ推しにしています。ただ、いろいろ疑問点もありました。ストーリーの結末がピンと来なかったのですが、終盤に登場してきたこの”黒”というのは、いったい何だったのでしょう。
青木 私もよくわからなかったです。もしかしてこれは、作中で説明されていた「ぴしゅたこ」という悪霊なのでしょうか?
編集B 「ピシュタコ」が、南アメリカのアンデス地方に伝わる神話上の悪霊であるという部分は、どうやら本当のことらしいです。綴りは「pishtaco」で、もちろん日本語ではありません。「人間から脂肪を吸引する悪霊」という民間伝承や、「征服時代のスペイン人が原住民を殺害して、その死体から脂肪を生産していたらしい」といった情報も、ネットで検索すると出てきます。
編集C とはいえ、そのアンデス地方の民間伝承の「ピシュタコ」と、書道の「墨」との間には、直接的なつながりはないですよね。なので、「ぴしゅたこの墨」というのは作者が独自に作った設定なのだろうと思います。
編集A 私の勝手な想像ですが、「ピシュタコ」の「タコ」から、「たこ→墨」と連想し、創作した話なのかもしれませんね。そこへさらに「脂肪を吸い取る悪霊」と、「脂肪を燃やして作る墨」というものをつなぎ合わせている。
編集C だとすれば、すごく面白い発想だと思います。ただ、その発想を元に、うまくつじつまを合わせきれていないような気もします。終盤に出てきた、なんだかわからないもやもやとした”黒”。これを作者は、どういうものとして設定し、描いているのでしょう? 読者が、「たぶんこういうことなんだろうな」と思えるような説明や描写が少なく、もやっとしたままで話が終わっていました。
青木 おそらくですが、私はやはりこの”黒”が、伝説の悪霊の「ピシュタコ」さん、ということなのだろうと思います。でも、「ピシュタコ」に関しての説明は作中にちらりとしか出てこないので、読者としてはよくわからないですよね。元々の伝説の中には、どういう姿で登場していたのでしょう? この話の中でピシュタコさんが黒いのは、幽煙から「黒」を奪い取ったからかなとも思ったのですが。
編集C たぶんそうでしょうね。だから幽煙の死体には、色がなかった。半透明のような白色になっていた。でも、「ピシュタコ」って「脂肪を吸い取る悪霊」のはずなのに、「色」を取ってどうするんだろう? あとは、なぜ「黒」にこだわるのか、そこもわからなかったです。
青木 悪霊なので、心の闇の象徴のような「黒」に引き寄せられる、ということなのかもしれないです。でも、ピシュタコに「色」を取られると、どうして人間は死んでしまうんでしょうね。 「黒=魂」みたいなイメージで描いているのでしょうか? そのあたりも、いまいちピンと来ませんでした。
編集A 幽煙はどうして殺されてしまったのでしょう? 「ぴしゅたこの墨」が入った箱を開封したら、中に潜んでいた悪霊が現れて、幽煙の「黒」を奪って殺した、みたいなことなのかな。ピシュタコは、「ぴしゅたこの墨」の持ち主を次々に殺しているのでしょうか?
青木 「ピシュタコ」と「ぴしゅたこの墨」の関係って、実はよくわからないですよね。
編集C 「ぴしゅたこの墨」を作ったのは、人間ですよね。「いつの時代にも存在する探究者が、究極の『黒』に魅せられて、人間の脂肪を使って墨を作り上げた」というようなことが書かれています。つまり、とある人間が、人間の脂肪から墨を作った。そこにはもともと「ピシュタコ」は関係ないはずですが、そういう悪魔的所業によって作られた「ぴしゅたこの墨」に、まさに「ピシュタコ」という悪霊が宿った……といった経緯なのかな。勝手に想像を膨らませたりするのですが、作者の中でどういう設定になっているのかは、よくわからないです。
編集A 考えてみると、悪霊が幽煙を殺す必要はあったのでしょうか。 ピシュタコは、人間に「門」という漢字を書いてもらいたかったんですよね。「俺の指はこんなだから、筆がうまく持てないんだよ」と言っていました。実体を持たない”黒”という存在でしかないから、筆は持てない。ならば、まず幽煙に「門」と書いてもらって、それから殺すこともできたはずなのに。それとも、幽煙に書いてもらうのではダメだったのかな。
青木 書家の手による文字が必要だった、ということでしょうか。 でも、幽煙もかつては書の道を目指していたのですから、それなりにいい字は書けそうですけどね。職業的な書家であることが重要なのかな?
編集C 主人公も決して、天才書道家ではないですよね。幽煙の作った墨に助けられて、何とかやってきたにすぎないらしい。となると、主人公の書く「門」に特段の価値があるようには思えないのですが、ともかくこの”黒”は、幽煙から「黒」を奪って殺し、幽煙に成りすまして主人公をメールで呼び寄せた。
編集A 古くからの悪霊なのに、文明の利器も使いこなしていますね(笑)。細かい点になってしまいますが、スマホが持てるなら筆も持てそうな気がします。あるいは、幽煙に「書家の友人にメールを打つ」ように仕向け、それが完了した後に殺した……ということでしょうか。
編集C 筆は持てない割に、服は着ることができています。こういうあたりも、もう少し整合性を意識できるとよいと思います。それと、この”黒”が正体を明かすのも早すぎるかもしれません。
青木 そこは私も気になりました。この悪霊は、主人公に「門」という字を書いてほしかったわけですよね。なのに、どうしてあとほんの数秒が待てなかったのでしょう。
編集C クククという笑い声を立てなかったら、主人公は文字を書き終えていたと思います。思わず笑いが漏れてしまったようですが、ラストの場面で”黒”は、さほどダメージを受けているようには見えなかった。「しまった!」とか「何としても書かせるぞ」と思っている様子はないです。
青木 「書いてくれないのならしょうがない。……貰うよ、お前の黒も」と言っていますが、「門」の字を書いていれば、主人公は見逃してもらえたのでしょうか?
編集E それも考えにくいですよね。この悪霊はそこまで優しくないと思う。書こうが書くまいが、主人公はどっちみち殺されたのではないでしょうか。
編集C この悪霊の目的が、結局よくわからないです。「門」の字を書いてもらうという計画は失敗している。でも、それを悔しがる様子もない。ということは、「門」の字は、そんなに切実に欲しいわけでもないのかな? ただその割には、すごく手間暇かけて主人公をおびき寄せてますよね。この悪霊にとって、「人間の黒を奪う」ということはどういう意味を持つのでしょう?
青木 「とにかく人間の黒が欲しい」ということなら、もう最初から主人公に襲いかかっていればよかったですよね。そうはしていないということは、「門」の字は一応、欲しいことは欲しい。けれどそんなにはこだわらない、ということでしょうか。
編集B アンデス地方の悪霊が漢字の「門」を欲しがるのはなぜなのか、そこもよくわからなかったです。
青木 おそらく、主人公が「門」という文字を書けば、それがまさに、「この世ならざる世界へと通じる門」になる、みたいな設定なのでしょうね。それはなんとなく伝わってきます。「門」は象形文字で、絵のようなものですから、「『門』と書けば、それは本物の門になるのだ」というのは、納得できないこともない。ただ、もし本当にその「門」が出現したら、この悪霊は何をするつもりだったのでしょう? 門を通って向こう側に行きたいのか、それとも向こう側から何かを呼び寄せたいのか。そうなると、「門」の文字は完成されてほしかったです。「あと一画で書き終わったのに」というギリギリのタイミングで主人公が気づく展開は、確かに緊迫感があって面白いですが、その続きがあればさらに良かったと思います。例えば、主人公は宙で手を止めていたんだけど、持っている筆から墨がしたたり落ちて、それが「門」の字を完成させる最後の一画になってしまった、とか。
編集C それは面白いですね。あるいは、順当に主人公が「門」の字を書き終えたら、その瞬間、本当に門のようなものが出現して、そこからおどろおどろしい何かが現れて……みたいな展開であっても、それはそれで楽しめたと思います。主人公が「向こう側」の世界へとさらわれていってしまった、という話でもいいし、何かが「向こう側」から侵入してきて、「こんな恐ろしいものを俺はこの世に解き放ってしまったのか……!」となるのでも面白い。
青木 「門という字を書き終えたら何が起こるの?」「門が開いたらどうなるの?」というのは、やっぱり読者が一番興味を惹かれるところですよね。そこは描かれず、主人公が「黒」を取られて終わっている。
編集C 「ぴしゅたこの墨の向こう側」を、ぜひ見せてほしかったですね。
編集E 雰囲気に圧倒されて、「うわあ、怖い。でも面白い!」と思って読みましたが、読み終えた後で改めて、「一体どういうことだったの?」と引っかかる点が多かったです。若干、雰囲気をメインに押し通している感じはありますね。
編集C 説明しすぎないほうが怖くて面白いと考えたのかもしれないけど、設定やストーリーはもう少ししっかりと構築したほうがいいと思います。論理的な矛盾点がいくつか目について、気になりました。しかしそれを考慮しても、私はこの作品を高評価しています。世界観や雰囲気がとてもいいし、リーダビリティも非常に高い。
青木 同感です。理屈の部分は後から手直しもできますが、読者を惹きつける話を思いついて書けるというのは、独自のセンスと筆力があってこそですからね。
編集D 幽煙の死体が出てくる場面なんて、ゾクッとしました。ずっと薄暗闇の中で展開されていた話なのに、雷鳴とともに稲光が走って、あたりが白く浮き上がる。その中に「色」を抜かれた幽煙の体が転がっていて……というのは、衝撃的なシーンでしたね。
編集A ビジュアルとして非常に印象的でした。映像の浮かぶ描写ができていたと思います。
青木 多少の疑問点はありつつも、「書道家を呼んで『門』という字を書かせる」というシチュエーション自体は、私はすごく好きです。墨というアイテムと、書家の文字が異界と現実をつなぐという設定。平面から立体が立ち上がってくるようです。台詞回しもうまかったと思います。
編集D 私は、「呂色堂幽煙」という凝ったネーミングが好きでした。
青木 わかります。堂々と中二ごころを解き放っている感じがとてもいいですよね。ここは大事なポイントです。こういうのは、恥ずかしがってはいけません。
編集C 他に気になったのは、台詞の前後で必ず一行空けている書き方。これはWEB小説の影響でしょうか。一般的な縦書きの小説の場合は、こういう書き方はおすすめできません。あと、12枚目で「ぴしゅたこの墨」のことを「かつてSF映画のワンシーンで見かけたモノリスに似ていた」とたとえていますが、これも気になりました。おそらく『2001年宇宙の旅』のことを言っているのかなと思いますが、自作で登場させたオリジナルアイテムを、他のフィクション作品のアイテムを使って説明するのはよくないと思います。
青木 そのように他作品のワードを使わなくても、「ぴしゅたこの墨」については十分うまく描写できていましたよね。とても深い黒色で「空間の狭間に突如出現した『穴』のように見える」とか、「硬すぎず、柔らかすぎず、皮膚に吸い付くような絶妙な触り心地で、思わず頬ずりしてみたくなるほどに蠱惑的だった」なんて表現は、すごくいいと思いました。
編集A 墨に何かが宿って生きているかのようなイメージが、文章から伝わってきましたよね。五感に訴える描写ができていました。
編集B ホラー感を盛り上げる描写も達者だったと思います。雨の降りしきる夜、人里離れた一軒家の薄暗い室内で、いわくつきの逸品とついに対面の時を迎え……というゾクゾクするようなシチュエーションを巧みに描き、維持し続けている。終盤の”黒”から逃れようとする場面で、「ヤツは墨だから雨に溶ける。追ってはこれない。助かった!」と思ったら、水たまりに溶けて足元にすでに潜んでいたというのも、すごくよかった。緩急の効いた展開で、うまいなと思いました。
編集C 「墨」というものを話の中心に据えているのもいいと思います。「ぴしゅたこの墨」の妖しさをたたえた深い黒色や特殊な質感は、映像作品で表現するのは難しいですよね。小説でしか描けないことを書いているのが、すごく好感を持てました。
編集A いろいろな点で高評価できる作品でしたね。それだけに、設定や整合性の面で引っかかる点が多かったのは惜しかったです。雰囲気はとても良い作品でした。
青木 しっかりした世界観が作れていましたので、長編も書ける方ではないかと思います。筆力は高いですし、期待の持てる書き手なのは間違いない。ぜひ再挑戦してみていただきたいですね。