第230回短編小説新人賞 選評 『望月の下人語る』本江蛹子

編集B とても書き慣れてますよね。しかも、客観性を持って書けているなと思います。だから、話に入り込みやすかった。

青木 私も、すごくのめり込んで読みました。主人公の内心の動きが丁寧に描かれていて、とてもよかったです。

編集B ちょっと唐突だなと感じる展開は、あるにはあるんです。例えば中盤で、再会した殿様と夜中の庭で言葉を交わし、心の中で殿様を許すシーンは、主人公の自然な気持ちの流れに沿って話が展開しているというより、作者があらかじめ考えた構成通りに場面が設定されている印象を、若干受けました。しかしそれでもなお、共感性を持って読むことができたのは、やはり文章が達者なおかげだと思います。

編集C この作品は時代ものなのですが、時代もの特有の言葉を、ちゃんと使いこなしていますよね。

編集B 「出立」とか「御下向」とか「誅される」とか。時代ものらしい言葉を盛り込んで、自然に使えている。こういうことができるのは、普段からそれなりに時代ものを読んだり書いたりしていて、積み重ねがあるということだろうなと思いました。

青木 今回頑張って時代ものに挑戦しました、という感じではないですよね。言葉を自分のものにして、さらりと使いこなしている。素晴らしいなと思います。これは個人的好みではありますが、一人称の告白という文体も、私は大好きです。

編集C 文章にリズムがありますよね。時代ものを読み慣れていない人でも、スッと読むことができる。文章力が非常に高く、話の内容も、切ない人情物をしっかりと描けていて、すごくよかった。自分の過失で主君を死なせてしまった主人公が、その後悔をこの先もずっと背負い続けていこうとする姿には、胸にグッとくるものを感じました。

青木 さきほど編集Bさんがおっしゃったような、若干呑み込みにくい心の動きというのは、実際いろいろあるんです。例えば、会ったこともない殿様を、なぜかいきなり好きになっちゃったり。と思ったら、とある一件で急に失望して憎んじゃったり。振れ方が激しすぎるというか、やはり少々強引な展開かなと思います。ただそこが、思うほど不自然には感じられない。不思議と読者を納得させる書き方ができていました。それは、キャラクターのとても細かい心のひだを、ちゃんと描けていたからだろうなと思います。ちょっと無理筋なところがあっても、読者を納得させてしまえる。それができているのが、上手い小説ということですよね。細かいところなのですが、私は岡衛門が「殿様の仇をとらなくては。」と言ったところが好きなんです。岡衛門は当初は殿様に忠義の心などなく、むしろ「人殺しのくせに」と言ったりしている。でも数日過ごすうちに、あるいはいざ殿様が亡くなったら、そう言い出してしまうわけです。それが矛盾ではなく、それこそが仇討ち、あるいは忠義というものなのかと思いました。

編集B 場面描写もうまかったと思います。正月の包みの功績を殿様に勘違いされるシーンや、殿様が殺される直前の宴のシーンは、挙動が細かく書かれていて、場面が目の前に浮かびます。その場の緊張感みたいなものも、よく伝わってきました。

青木 1枚目で、物語の舞台設定を簡潔に、さくっと説明していますよね。こういうあたりも非常にうまいなと思いました。

編集D 冒頭で、これまでの経緯をさらりと語ってくれているし、誰が誰に向かって語りかけている話なのかも分かるので、物語に入り込みやすかったです。侍なら、自分の主君に忠義を尽くすのは当たり前かと思いきや、「おれは殿を憎んだ」という展開になるのも、意外性があって引き込まれました。

青木 話の中で、主人公の心はすごく揺れ動いてますよね。この主人公は、生い立ちの影響もあって、誰かに頼りたい、誰かに愛されたい気持ちがすごく強い人なのだろうと思います。自分の価値をちゃんと評価してもらえないのが辛くて、だから余計に人に期待して、失望して、憎しみまで抱く。それでもなお、最後の希望も捨てきれない。ずっとウダウダし続けているんだけど、でもそこがとても切ない。

編集D なんだかいつも理不尽な目に遭って、貧乏くじを引いている感じですよね。で、恨んだり憎んだりするんだけど、でも、何か諦めきれない気持ちもある。

青木 この主人公は、忠義を尽くしたい人なのに、その忠義を受け止めてくれる存在が今までいなかったんです。一心にお仕えしたいと思っているのに、それに適う相手がいなかった。憎しみと虚しさを抱えて人生の大半を過ごしてきたけれど、遅まきながらようやく忠義を捧げられる相手を得たわけです。それはもう、おそらく男泣きしてしまいそうなほどの深い感慨があったでしょうね。

編集D 私は、中盤の中庭で話すシーンで泣きました。この殿様こそ主人公の恨みつらみの対象だったというのに、自分の良さを見抜いてもらえて、魂の底から嬉しかったんだなというのがすごく伝わってきた。この人生でずっと抱えていたコンプレックスとか、自分を正しく評価してもらえなかった辛さとかのあれやこれやが一瞬で溶けて消え、「おれのこれまでの人生全てを許してしまった」というまでになる流れも、私には納得できるものでした。

編集C わかります。実は主人公は、ちょっと口を滑らせて嫌味を言っちゃったりもするんだけど、それにさえ殿様は、「それで不平も訴えずに忠実事を続けるところまでそなた、質実よの」って、さらりと褒めてくれる。主人公がずっとほしかった言葉をくれたわけです。これはグッときますね。

編集D 胸が詰まって返事ができない、というのもよかったです。その言葉が、主人公にどれだけ響いたかというのがよくわかる。2枚半しかない短いシーンなのに、とても胸に染みました。「国に帰ったらなんとしてもこのお方の汚名を雪ごうと、ひとりで誓ったのだ。誓ったのだよ」という繰り返しに、主人公の思いがこもっていたと思います。

青木 主人公は、この殿様をずっと許したかったんですよね。で、殿様のほうが、そのきっかけを与えてくれた。このお殿様は、すごい名君というわけではないんだけど、最後のほうまで読むと、それなりにちゃんとした人だということが分かってきますよね。主人公がしっかりと配慮をして付け届けの品を選んだことに気づいてくれていたり。実は尊敬に値する人間性を持った人なんだなということを、さりげなく示す描き方ができていたのもよかったと思います。

編集B 映像も鮮明に浮かびますよね。武家屋敷の真夜中の中庭で、静かに言葉を交わす二人。すごく雰囲気がありました。

青木 しかも主人公は、この後自分の失態のせいで、殿様をみすみす殺されてしまうわけですよね。やっと忠義を尽くせる人を見つけたというのに、お守りすることができなかった。だから今日もひとり居酒屋で、今は亡き主君の汚名を雪ぐべく語り続けているという、この流れはすごくいいなと思います。うまく話がオチているし、読者の感情に訴えるものにもなっている。私はこの話、とても好きでしたね。

編集C 完成されてますよね。30枚に見合うエピソードできっちり話をまとめているのもよかったです。

編集E 文章はうまいし、描写が巧みなのも間違いないと思います。ただ、終盤の仇討シーンだけは非常に引っかかりました。主人公は今、「必ず殿をお守りする!」と忠義に燃えているはずですよね。なのに、宿屋では眠気が回るほど酒を飲み、殿に「先に休んでおれ」と言われたからと、本当に殿様を一人にして別室でぐっすり寝込んでいる。

編集D 護衛役の侍が、主君に「休め」と言われて、「では」と寝に行くのは現実味に欠けますね。

編集E しかも主人公は、宿を取るときにうっかり殿様の名前を漏らしてしまっています。本来なら強く自分を戒め、酒など一滴も飲まず、かたわらに控えて寝ずの番をしてもいいくらいではないでしょうか。これでは、「あなたの忠義の心はその程度だったの?」という印象になってしまう。殿様が殺される展開にするための状況作りなのはわかりますが、もう少し工夫の余地があったのではと思います。

編集D 完成度の高い作品だからこそ、ここだけ作為的な展開になっているのが、逆に目立ちますね。

編集E この形では、「殿様亡きあとも、いつまでも忠義を尽くし続ける主人公」という、せっかくの切ない話の感動が薄れてしまいかねない。こんなに筆力のある方なのに、この部分は非常に残念です。ここは大事なクライマックスシーンですから、もう少し慎重にエピソードを練るべきだったと思います。

青木 ラストにちらりと、「もしかしたら殿様は、これも運命だと諦めて、自分から討たれ役になることを受け入れてしまったのかもしれない」というようなことが書かれていますよね。こういうあたりを、もっと早く匂わせておけばよかったでしょうか?

編集E たとえ殿様側の気持ちがそうだったとしても、「理不尽な自分の人生をすべて許せた」とまでの心境に至った主人公が、大事な殿様のそばを離れるとは、やはり考えにくいのでは。「眠りこけている間に、主君を討たれました」という展開だけは、どうにか再考してほしいと思います。

編集A 殿様が討たれる場面は、果たしてクライマックスシーンなのでしょうか? そこは描かれていませんよね。宿の者が舞を披露するあたりまでしか描かれず、翌朝主人公が目を覚ましたときには、すべてはもう終わっていた。この話には、クライマックスシーンは特になかったように感じます。そういう意味では、盛り上がりに欠けるように感じました。

編集D 確かに。私は主人公の心情描写にじんときたので満足ではありましたが、ラストでもう一押し、盛り上がりがあったほうがよかったという意見も分かります。

編集C そうですね。今までの経緯を語って、「夜も更けたな。ではまた」で話が終わっては、「すべては過去のこと」と受け容れているような雰囲気で気持ちが落ち着きすぎている。

編集D 淡々と過去の出来事を語るだけにとどまらず、今の時点にいる主人公が感情を高ぶらせるところがあると良かったかもしれませんね。例えば、語りかけている相手に何かを言われて、思わず激しく言い返すとか。「いかにそしられようとも、今自分にできることは、こうやって本当のことを伝えて、殿の汚名を雪ぐことだけなのだ!」というような。

青木 そういう描写がもしあれば、主人公の殿様への愛と悔恨がもっと読者に伝わりましたよね。心を捧げたいのにその相手がいない。やっと見つけたと思ったのに、悪評にまみれたまま無残に殺されてしまった。しかも、自分の落ち度のせいでです。主人公の心情を考えると、本当にやるせない。そこを最後にもう少しだけ、読者にわかりやすくアピールしてもよかったと思います。

編集D このストイックな語り手が、武士らしからぬ乱れを最後に見せてくれたら、私はラストで号泣していたかもしれないです。

編集E ところで、調べてみたところ、どうやらこの作品は、能の演目の『望月』が下敷きになっているようですね。そちらは、宿の亭主である「友房どの」が主役の、仇討ものです。終盤の宴の場面で、役者たちの披露する見事な舞と、どう首尾よく仇討ちを果たすかというハラハラドキドキな展開との絡み合いが最大の見どころらしいです。

編集B それは知らなかったです。なるほど、今作はそのストーリーに沿った話なのですね。となると、ちょっと見方は変わってきてしまうかもしれません。完全オリジナルの話だと思っていましたので。

編集C 冒頭の1枚目で物語の基本設定を簡潔に説明できていて、とてもいいと思っていたのですが、ここの部分も、元ネタの設定を紹介していたということでしょうか。

青木 元々の作品では、舞と仇討が絡み合って盛り上がるのがクライマックスシーンだったわけですね。だから、視点人物もテーマも変えている今作では、そこが見せ場にならず、なんだか違和感があったのでしょう。確かに、なるほどです。謎が解けた感じがします。

編集E ただ、今作の主人公は作者のオリジナルと言っていいと思います。元ネタにも殿様の従者は登場しますが、特に突出したキャラではないようです。

編集B ということは、正月の包みを褒めてもらい損ねたとか、夜更けの庭で殿様と話したとかというエピソードは、作者のオリジナルなのですね? それなら、そんなに大きな問題でもないかな。私は、キャラクターの肉付け部分がいいと思いましたので。

編集A 元ネタがあること自体は構わないのですが、こと応募作に関しては、それが分かるようにしておいてほしかったですね。作品は多くの読者が読むものという意識は、いつも持っておいてほしい。

青木 タイトルには「望月」という言葉が入っていますし、人物名もそのまま使っている。元ネタを隠そうなどという意図が作者にないのは明らかだと思います。でも、あらぬ誤解を受けても損ですので、ここはラストに一行、「(能『望月』より)」とでも書いておいてほしかったですね。

編集B 元ネタがあるということは、やはり、最初から一段底上げされているとも言えます。そこは気になる点ではありますが、本作に関しては、ちゃんと換骨奪胎ができていると見ていいと思います。

青木 ただ、忠義に篤いはずの主人公がうっかり殿の名前を漏らしてしまうとか、殿様を一人残して眠ってしまうとかという大きく引っかかる展開は、元の話に沿おうとして無理が生じた結果にも思えます。むしろ、完全オリジナル作品でこのテーマを描いていたほうが、もっと完成度が上がっていたかもしれないですよね。そこはちょっと惜しいなと感じます。

編集C すごく感情移入した読者もいれば、いろいろ引っかかって入り込めない読者もいた。評価がやや分かれてしまったのは残念でした。でも、心に沁みる話を30枚の中でちょうどよくまとめた手腕は、高評価に値すると思います。次の機会にはぜひ、完全オリジナルの作品も読ませていただきたいですね。