第230回短編小説新人賞 選評 『左回りのイワシ』度会メグ

編集C 主人公は、大学生の女の子。同棲している恋人の俊介のなにもかもが大好きで、幸福な毎日を満喫中なのですが、ある日、彼が浮気をしているかもしれないと気づいてしまってというお話です。面白かったですね。

青木 主人公の、俊介へのぞっこんぶりが、とてもかわいかったです。あまりに好きなものだから、浮気の疑いが生じても、目をつぶって知らないふりでやり過ごそうとするんですよね。

編集C 同棲している彼氏に浮気疑惑が持ち上がったときって、果たしてこういう反応になるものかなとちょっと疑問を感じる部分もありました。

青木 このまま主人公がずっとぐずぐずし続けていたら退屈な話だったかもしれませんが、終盤に俊介のデートシーンを目撃する場面で、主人公の気持ちがパッと正反対の方向へ変わりますよね。一瞬でパラダイムが変化する。そこがすごく面白かったです。

編集A ただ、そこに「左回り」という要素が絡んできて、私は読み筋がわからなくなりました。この話の中で、「右回り」は、「普通」とか「一般的」的なものを意味していますよね。「イワシの右回り」というのは、「何も考えず、大多数の流れにただ乗っている」、ということを指しているのだろうと思います。その場合、「浮気する男となんて、さっさと別れろ」というのが一般論であるとするなら、主人公は最初からそれに逆らっている。「浮気に気づいていないふりをします。俊介とは別れない」と自分の意志で決めている主人公は、ずっと「左回り」の状態にいたということになります。でも、その心境がラストシーンで真逆に変化するのですから、ラストの主人公は「右回り」になっているはずではないでしょうか?

編集B 同感です。ラストの「私だけ左回り」のところは、ちょっと話が矛盾しているように感じました。

編集A 主人公は22枚目のところでも、「イワシ(のように右回り)になりたい」「本能で群れの正しさに適応したい」ということを言っています。「右回りのイワシ」に、なりたいのになれていないのですから、その時点では「左回り中」ということになる。なのに主人公は、終盤でパラダイムシフトが起こった後も、なおイワシと反対の左向きに走っている。これでは、主人公の気持ちに変化が生まれた描写にはなり得ていないんじゃないかな。このあたりをどう解釈したらいいのか、よくわからなかったです。

編集E ラストで主人公が左回りに走っているのは、俊介のデート場面に衝撃を受けた生理的な反応だと思いました。それまでの「左回り」の自分のままぐるぐる走りながら、主人公は考え続けていますよね。今までは、見たくないものから目をそむけ、現実逃避していた。でも今、現実を突きつけられ、「彼に幻滅した」と思う一方で、「それでも彼を好き」という気持ちもまだ存在している。ラストの場面は、単に気持ちが変化したということではなく、現実を見つめながら、自分の気持ちとも改めて向き合っているということを描いているのではないかと思います。

編集A 最後には、走るのもやめていますからね。主人公は逃げるのをやめて、俊介と向き合おうとしている。でもその場合、向きの話はどう考えればいいのでしょうか? 走るのをやめたということは、最終的に主人公は「左回りのイワシ」ではなくなったということ?

編集B いや、ラストの主人公の語りからは、「左回りのイワシである自分は素晴らしい!」と思っているように読めます。でも、元々が左回りだったはずなのに、大きな変化が訪れたらしい後も「私は左回りだ、万歳!」となっているのはなぜなのでしょうか。

青木 ラストで主人公は立ち止まり、「俊介、話をしよう!」と言ってますよね。ここで主人公は、どんな話をするつもりなのでしょう? 私は別れ話かなと思ったのですが

編集A でも、俊介が浮気をしているかどうかは、まだわからないですよね。

青木 いや、この雰囲気は浮気じゃないですか? というか、これが浮気ではなくてただの誤解だったら、この話自体が意味のないものになってしまいます。

編集A ということは、やっぱり別れ話なのかな? でもそれだと、「浮気男となんて別れる」という、「右回り」の単なる一般論と同じになってしまいますよね。

編集C 加えて、タイトルにもつながらなくなりますね。

編集B 主人公が最後にどういう決断を下すのかは、この話において重要なポイントになると思うのですが、この先の展開を作者はどうするつもりだったのか、現状ではうまく読み取れないですね。

編集A この話において、どういう状況が「右回り・左回り」なのかということがわかりにくい。だから心情描写がしっかりある一方で、何を描いた話なのか読み取りにくくなってしまったように感じます。

編集E これは私の推測ですが、おそらく作者の中には、「右回りのイワシと逆向きに走る主人公を書きたい」という発想が先にあったのではないでしょうか。そこに向かって話を作っていった結果、うまくつじつまが合わなくなってしまったのではと思います。

青木 それはあり得ますね。タイトルとテーマと、「ここだけは絶対に書きたい!」という場面だけを先に決めてしまったので、ほかの部分に無理が生じてしまったのかもしれない。

編集A 主人公の友人のみっちーがFX詐欺に遭いかけたエピソードも、おそらく「右回り・左回り」に寄せたエピソードだろうと思います。ただ、「FX詐欺に引っかかる=愚かな大衆がやりそうなこと」と解釈するなら、みっちーは右回りですが、「普通の人はそんな詐欺に引っかからない」ということなら、逆にみっちーは左回りということになる。

編集B 判然としないですね。ここもやはり、「右回り・左回り」という要素に絡めようとすることで、かえってわかりにくくなっていると思います。

編集E 確かに、「左回りのイワシ」はアイディアとしては面白いし、「使いたい!」と思う気持ちも分かるのですが、「人間は自分のこととなると、正しい判断が下せないことがよくある」というこのお話に使うモチーフとして適切かどうか。ちょっと立ち止まって、無理なアプローチになっていないかを見直してほしかった。

編集D 書きたい話とエピソードがうまく噛み合っていないように感じました。言葉や要素のチョイスには、他にも気になるところがありました。例えば、先ほどの「FX詐欺」というのは、脇役にくっつける要素としては強すぎると思います。しかも、自動売買ツールを50万円で買わされそうになっているなど、描写がリアルで細かい。全体の話の中で、このFXのエピソードだけ、妙に生々しいものになっています。

編集A これでは、みっちーのほうが気になって、主人公の話がかすんでしまいかねませんね。

青木 しかも、その「FX」というのが、後々話に絡んでくるのかと思ったら、この場面だけのアイテムでしかなかった。だったらもう少し、おとなしめの要素にしておいた方がいいと思います。

編集D しっかり者で賢いという設定のみっちーなら、FX話の怪しさには最初から気づきそうなものですから、脇役としてキャラクターに与えられた役割にもそぐわないと思います。「あのみっちーでさえ、自分のこととなると正しい判断ができないのか」というエピソードにしたいのは分かるのですが。

青木 もうちょっと軽めの要素なら、何でもいいですよね。例えば、とある安価なハンドクリームに絶大な効果があると信じ込んでいて、朝晩顔に塗りたくってるとか。

編集A 少なくとも、主人公の話を食うレベルの要素は避けてほしかったですね。あと、冒頭に、マンション名として「バナナハウス」というのが出てくるのですが、これも私は必要なかったなと思いました。

編集D わかります。やけに印象的なんですよね、「バナナハウス」という語句が。

編集A 印象的な言葉を作品に投入できることは、センスの一つだとは思うのですが、やはりそれは必要なときに効果的に使えてこそだと思います。

編集D この話において、「バナナハウス」は重要な情報ではないですからね。特に、冒頭シーンに出てくると、どうしても読者は注意を向けてしまう。言葉選びが読者に与える作用について、もう少し客観的な判断ができるようになると良いかと思います。

編集C でも、冒頭シーンの描写そのものは、私はとてもいいなと思いました。主人公のぞっこんラブ状態が、すごくよく伝わってきますよね。

青木 恋人のことが好きすぎて、脳内がお花畑になっちゃってる女の子の気持ちを、とてもうまく描写できていたと思います。十代、二十代には、こういう子よくいそうですよね。なんだか、読んでてニヤけちゃう感じで、私はこの冒頭シーンはすごく好きです。本当に可愛い。

編集A ここまでの「好き好き」状態から始まったのに、ラストの場面では大きく気持ちが変化していますよね。視野狭窄状態から一気に目が覚めるという、落差のある展開はとても良かったと思います。

青木 同感です。幸せな恋気分でフワフワ浮いていた主人公なのに、否応なく現実を突きつけられた途端、サーッと気持ちが醒める。あの急転換の場面はすごくよかった。

編集D ただ、この場面の描き方にはもう少し注意が必要だなと感じました。主人公は俊介のデート相手について、「よりによって女子高生のギャルだと?」「しかも私よりよっぽど頭の悪そうな女」と言っています。恋人の浮気相手ですから、多少手厳しくなってしまうのは理解できるのですが、今の描き方では、「チャラついたギャルなんて、バカばっかり」「ギャルを好きになる男なんて、くだらない」という決めつけを作者がしているようにも捉えられかねません。

青木 確かに。ここはちょっと、描き方を工夫したほうがいいですね。

編集D 「ギャル」がどうこうということではなく、あくまで「自分と正反対のタイプの女の子を俊介が選んだ」ことに主人公が衝撃を受けたのだということが分かる書き方であれば、そこまで気にならなかったかと思います。

編集A まあでも、女子高生に手を出している時点で、私も俊介には幻滅しましたけどね。

編集D ただ、俊介がこのギャルとどこまでの関係なのかは、現状でははっきりしない。「水族館デート」というのは、このエピソードにおける浮気現場としてはちょっと淡すぎると感じます。「俊介大好き!」な主人公が決定的に打ちのめされるシーンを作りたいなら、もう少し明確な浮気場面を設定した方がよかったのではないでしょうか。

青木 あるいは、「浮気」にする必要もなかったかもですね。「俊介のすべてが好き!」と思っていた主人公なんだけど、とある一面を目の当たりにして、「ええー、こんな人だったの?」と一気に気持ちが醒める。そういう流れにすることができるのなら、他の要素でも成立しただろうと思います。

編集D 俊介については、もう少し描写を頑張ってほしかった。顔もあまり見えてこないですし、現状では、「水滴の滴るまつげ」くらいしか、映像が浮かばなかったです。俊介が読者にとっても魅力的な男性であればあるほど、ラストのシーンでの「幻滅感」がより際立ったのではと思います。

青木 主人公はこんなにも俊介が好きなのですから、もっとくどいほど外見描写を入れて、「そういう俊介のすべてが大好き!」、とやってくれてもよかったですね。

編集C でも、「彼はこうこうこういう顔です」と羅列するより、一部分だけをクローズアップして描写したほうが、主人公の恋愛感がより強く伝わってきたりしませんか?

編集D そういう方法論は、この作者は心得ていらっしゃると思います。文章はすごく上手いですよね。ただ、ここまでで指摘されているように、描写の塩梅や語句のチョイスにもう少し客観性があればと感じるところがあって、非常に惜しいなと思いました。

編集B 文章力自体は、とても高いですよね。一文は長めなのですが、読みやすいです。描写も非常にみずみずしい。先ほどの「まつ毛」のところも、私は「光る描写だな」と思いました。

青木 比喩が上手いですよね。全体に、水に関係する比喩が多いのですが、「水族館」と絡めているのかなと思います。非常にセンスの良さを感じますね。

編集B ただ、誤字脱字が多く、人称が統一されていなかったりといった点が気になりました。

編集C 一人称小説のはずなのに、地の文に「瞳は」と書かれているところとかありましたね。

編集B この作者なら、読み直せば気づけるだろうと思いますので、見直しをしっかりやってほしいですね。

青木 あと、台詞は今一歩かなと感じました。会話としてはちょっと硬かったり、説明台詞が長々と続いたりしていますよね。こういうあたりは、少し手直しが必要かと思います。でも、台詞を書くのは、けっこう慣れですからね。あまり気負って「作ろう!」とするのではなく、最初はバーッと思いつくまま、台詞だけを5ページくらい書いてみるといいと思います。で、使うのは、その中の5行くらいだけで。こういう練習を繰り返していると、台詞に関するセンスってどんどん伸びてくると思います。ぜひ試してみていただきたいですね。

編集A 緩急のついた話で、文章もうまい。テーマがしっかりあるのもすごく良かったのですが、ややアイディアに引っ張られ過ぎてしまったかなと思います。センスのある書き手なのは間違いないので、今後もぜひ頑張ってほしいですね。