第228回短編小説新人賞 選評 『サクラメント』あむだ前歯

編集A 支配的な夫に隠れて推し活をしている主婦のお話です。彼女がのめり込んでいるのは宝塚。だから、いわゆるヅカオタですね。「宝塚」という言葉は直接には登場しないんだけど、まず間違いないと思っていいでしょう。

編集H 推しがどんなに素敵な人かということが滔々と語られていて、主人公の心酔ぶりが伝わってきました。文章や比喩もうまいと思います。私はイチ推しにしました。

編集C 主人公が本気で推しにのめり込んでいるということは伝わってきました。ただ、推しの魅力が伝わってくるという描写にはなっていなかったように思います。主人公がこんなにも夢中になっている肝心の推しの姿が、あまり見えてこない。男役のトップで、それなりに素敵な人なんだろうなと、なんとなく想像できる程度です。描写の分量がすごく多い割に、ぼんやりとしかイメージできませんでした。

青木 わかります。読んでいて、なんだかもどかしいですよね。かなりの行数、というか枚数を費やして推しを賛美しているのですが、その推しの素敵さが今ひとつ読者に迫ってこない。主人公の推しへの情熱は分かるだけに、残念でした。

編集C 延々と書き連ねることで、狂気的な推し萌えを表現しようとしたのかもしれないけど、あまり効果を上げていなかったですね。

編集B 同じような描写が繰り返されて、単なる羅列になってしまっています。横へ広げるのではなく、縦に深掘りしてほしかったのですが。

青木 そうですね。最初から最後まで、「彼女は美しい」「彼女は輝いている」「そんな素敵な推しに、私は心酔しています」ということが語られて、ちょっと話が平坦になってしまっていました。ルックスでなく、人としての魅力のあるエピソードがあればと思いますね。

編集B 押し入れで写真を見ているときも、実際に観劇しているときも、主人公の語りはテンションが同じですよね。「愛」とか「萌え」とかというには、淡々としすぎているように感じました。もっと、言葉にならない瞬間みたいなものも、描写されていいんじゃないかな。神々しい推しを前にした主人公の心の熱い高まりみたいなものが、実感として語りから伝わってこなかったです。

青木 もう少しエピソードがほしかったですね。話の展開と推しへの愛を、もっと密接に絡ませてほしかった。ストーリーはちょっと不足気味だなと感じます。

編集C 推し活の描写と並行して、横暴な夫との結婚生活が描かれているのですが、この二つの話が今ひとつうまく絡んでいなかったと思います。

編集E 主人公は、夫から強い束縛を受けながら暮らしていて、その生活に、窒息しそうな息苦しさを感じています。しかも夫は、愛ゆえに妻を束縛しているのではなく、支配して隷属させることを楽しんでいる。誰だって、こんな生活が楽しいわけがない。でも、じゃあなぜ主人公は、この生活に甘んじているのでしょう? そこがよく分からなかった。

編集C 同じくです。こんな嫌な夫とはさっさと別れればいいのに、どうしてそうしないのかな。

編集E 首に縄をつけられて生活しているわけでもないし、家同士の取り決めで強制的に夫婦にさせられたわけでもない。自由意志で結婚したんですよね。だったら、こんなひどい扱いを受けて嫌気がさしたなら、離婚すればいいのに。子供もいないですし、一人で働いて暮らしていくことは十分可能だと思うのですが。

編集B その選択肢を、主人公が全く考えもしていないのが、ちょっと不思議ですよね。ほんとに、どうしてなんだろう? そのあたりの解像度が上がると、もう少し共感して読めたと思うのですが。

編集C 「現実が辛い。でも離婚は不可能。だから、現実逃避として推しにのめり込んだ」ということであれば、わからないでもないんです。でも、もしそういうことなら、それを読者に納得させられるだけの描写なり説明なりが必要です。「そんなひどい状況なら、夢の世界に逃げこんでも仕方ないよね」と思えるくらいのものがほしい。

編集E 例えば、生活に必要なものは全部夫が買って、主人公は財布も持たせてもらえないとかね。ちょっと出かけようにも、電車賃すらないとか。

編集G でもそれだと、推しにつぎ込むお金がないから、そもそも「推し活する」という話が成り立たないですよね。

編集C じゃあ、夫は基本ひどい奴なんだけど、時々すごく優しくしてくれることがあって、それにほだされてずるずる結婚生活を続けているとか。

青木 モラハラ夫と共依存してる可能性はありそうですよね。そのあたりを、もっと描写しておいてくれたらよかった。

編集D 作中に「過干渉の親」という言葉が出てきますので、もしかしたらこれが手掛かりの一つになるのかもしれない。締め付けのきつい親から逃げる手段として結婚を選ぶケースは、実際ありますから。とにかく実家を出たくて、「誰でもいいから」と適当な結婚をする。そうしたら今度は夫から嫌な目に遭わされ、後悔する羽目になるという人は、結構いると思います。

青木 大きな決断をする勇気が出なくて、現状維持をずるずる続けてしまうという人も、結構多いと思います。それに、もしかしたらこの主人公は、親から虐待されていたか何かで、自己肯定感が低いのかもしれませんね。だから、少々ひどい扱いを受けていても、夫という庇護者の元から出ていく決心がつかないとか。

編集B ただ、一人称の語りを読むにおいては、洗脳されているとか、共依存状態に陥っているという印象はあまり受けないです。むしろ、夫の性格を冷静に分析・把握しているように見える。

編集A 確かに。推し活がバレないように、何食わぬ顔で嘘をつき、ごまかし、巧みに夫をコントロールしていますよね。

編集E 主人公は表面上は、従順で鈍くさい妻の振りをしながら、その実、夫のことを軽蔑しているように思えます。妻を束縛して支配してネチネチいたぶっては楽しむ最低の男だと、内心でひどくバカにしているように感じました。

編集B 同感です。「夫に虐げられても抵抗ひとつできない弱々しい妻が、推し活に一筋の光を見出し、それを唯一の心の支えになんとか生きている」という構図にするには、主人公の自我は強すぎるように思う。本人が語っているよりずっとしたたかな女性に感じられて、話に乗り切れませんでした。作者が描こうとしているものと、実際に描いたものとの間に、乖離が生じている気がします。

編集E そもそも、夫がそこまで嫌な男なんだったら、どうして結婚したのでしょう? あるいは、結婚後に本性が分かったということなら、どうして離婚しないの? 「自分の墓を掘る仕事」「首まで地面に埋められた私」「酸素ボンベなしで深海を歩かされるような生活」、などという絶望的な状況にいるのなら、どうしてそこから出ようとしないのでしょう? 自分からは何も行動を起こさずに、ただ相手を悪者にしているように感じられて、どうしても引っかかってしまいました。主人公に対しては、共感できないまでも、せめて理解はしながら読みたかったのですが、ちょっと難しかったです。

青木 夫のケイさんのことも、今ひとつよくわからなかったです。主人公のお尻をドンッと蹴る場面はあるのですが、日常的にDVをしているかどうかまでは不明です。何の仕事をしているのかもわからないですよね。束縛夫なら、妻を一歩も外に出さないのかと思えば、近所の人とのお出かけはむしろ推奨している。モラハラ傾向があるのは間違いないですが、ものすごくひどいレベルとまでは言えないような気もする。マインドコントロールされているなら、夫が正しい、悪いのは私となるはずなのですが、そういうわけでもない。現状では、人物像をちょっと掴み切れなかったです。

編集B 「夫は、押し入れの下段なんて絶対に見ない」というのも、かなり不自然に感じました。支配欲の強い夫なら、奥さんがしょっちゅう頭を突っ込んでいる場所に興味を示さないわけがないと思います。むしろ、帰宅するたびに、何か変化がないか家中をチェックして回ったりするんじゃないかな。

編集C それに、こういう話だったら、ある日ついに推し活が夫にバレて、怒り狂った夫に祭壇をメチャクチャにされ、写真もグッズも全部捨てられてしまってみたいな展開にしてもよかったのではないでしょうか。

編集F 話に緊迫感が生まれますよね。まあなんにせよ、推しの退団によって、主人公の夢の日々はとうとう終わりを迎えます。で、主人公はどうするのかなと思っていたら、「推しの最後の舞台を見届けに行く」という。話がそこで終わっていて、かなり戸惑いました。主人公の気持ちに何らかの変化が起きていることは分かるのですが、「推しのラストステージを見に行きます」ということが、この話全体を締めくくるものになり得ているのか、よくわからなかった。

編集H ここで主人公は初めて行動を起こしたわけですから、「一歩踏み出した」というラストになっているのではと、私は思いましたけど。

編集D ようやく主体性を取り戻したわけですよね。

編集B いや、夢を見て過ごしていられた時期が終わるのですから、主人公は新たなステージに行かざるを得ないですよね。でも、その方向性が読み取れない。推しの最後の舞台を見届けるのはいいんだけど、その後はどうするつもりなのでしょう。それこそがこの話の結末になるはずと思えるのに、そこは描かれず、曖昧なまま終わってしまっています。元々、夫との息詰まるような生活がなかったら、この主人公は推しにハマることはなかったかもしれないですよね。その推しがいなくなるのですから、当然、夫との関係も変わらざるを得ないと思います。ラストでようやく主人公が動き出したかと思ったら、「この後、どうなるか分からない」、で終わってしまった。読み手としては、不完全燃焼な気持ちです。

青木 私は、このあと主人公は離婚するんじゃないかなと思います。ラストの段階では、まだ主人公は「よくわからない」と言っていますが、「憎い繋がりなら切ろう」と思って家を出ている以上、夫の元に戻るとは思えないです。確かにあまり明確に描かれてはいないけど、主人公は離婚への道を歩き出して、今はその一歩目、ということなんじゃないかな。

編集H 私は、離婚するかしないかは、そんなに大きな問題ではないと思います。主人公は長いこと、自分が築いた押し入れの祭壇の中に引きこもっていたわけですよね。その祭壇を自ら壊して外へ足を踏み出したということが、最も重要なのではないでしょうか。

編集C ただ、主人公が、自分をここまで追い詰めていた夫と一度も対峙することなく話が終わるというのは、なんだか解せない感じです。夫の支配下から、ついに主人公が羽ばたくというのであれば、一言でいいから、夫にきっぱり物申すような場面があった方がよかったのではないでしょうか。それなら読者もすっきりするし、主人公の変化も明確に伝わってきたと思います。

青木 まあ、何も言わずスッと出ていくという、こういう別れ方の方がリアルかなとは思いますが、確かに、全体的にもう少し、人間ドラマを描くことにページを割いてほしかったきらいはありますね。現状では、推しに対する脳内賛美に過剰に枚数を費やしている感じですので。

編集C これははっきりとは書かれていないのですが、私はこの主人公は、男性嫌悪的なものを抱えているのかなと思ったりしました。

青木 それは私も感じました。この作品の中の「推し」は、アイドルやロックスターに置き換えはできないのだろうな、「宝塚」であることに意味があるのだろうなと。

編集C 「女性のエロスは、男性のためのものとは限らない」とか、「今度は、一人の人間として彼女を愛したい」なんて語っている箇所もありましたよね。そこから主人公の人となりの一端が窺える気がしたのですが、それ以上のことは書かれていなくて、うまく読み取れなかった。なんだかもどかしいです。せっかく「宝塚」をメイン要素にしているのなら、そういう「女性性・男性性」みたいなところをもう少し掘り下げてほしかった。

青木 19枚目の、「女性の身体は、色気は、性欲は、決して彼ら(男性)のものではない」というあたりの描写は、すごく良かったと思います。でも、もう少し深められたのではとも思えて、もったいなかったですね。

編集C 全体に、もうほんのちょっと描写を足すだけでも、解像度や納得感は格段に高まったのにと感じられるところが多くて、惜しいなと思いました。

編集G あと、原稿についてですが、改段落したときの最初の文頭が、一字下げになっていませんでした。もしかしたら、Wordの「自動一字下げ機能」を使っているのかもしれませんね。テキスト変換すると、Word依存の機能は消えてしまいますので。

編集H テキスト変換後にファイルを開いてみたら状態が分かりますので、送信する前に、とりあえず一度は確認してみてください。こんなことでわずかでも評価が下がってしまうのは、非常にもったいないですので。

編集B 話自体は面白かったです。「推し活」を、こういう切り口で描いているのも、非常に興味深かった。この作者さんは、「萌え心」がわかっている方だなと感じます。ただ、その割に、文章から熱量が伝わってこなかった。もっと思いきって、「推しへの愛」を存分に表現してくれていいのになと思います。次回はぜひ、作者自身のパッションが迸る作品を読ませていただきたいですね。