第226回短編小説新人賞 選評 『編み拭う日々』岸田怜子

編集A 日々働いて生活している、ごく普通の女性の内面の微妙な変化を、「編み物と掃除」を軸に描いている話で、とても面白かったです。こういう切り口の作品って、本賞では今までに読んだ覚えがないです。派手さはありませんが、独特の感性を感じますね。

青木 私は個人的に、物を作る描写が大好きなので、とても楽しみながら読みました。

編集A 無心に編み物をすることで精神を安定させている、という主人公の人物設定は、とてもよかったと思います。

編集C 自意識過剰で人づきあいがうまくない主人公にとっては、何も考えずに没頭できる単純作業が、心の浄化につながっているんですよね。

青木 無心になって雑巾を編み、その雑巾で、今度は無心に掃除をする。編み物で頭と心を鎮め、掃除で部屋と自分を清めていく。見事な好循環です。

編集A 編み物に関する描写や説明には、実感がこもっていました。この作品を書くためにちょっと調べたとかではなく、作者さんはご自分でも編み物をされる方なんじゃないかな。実際はどうあれ、少なくとも、読んでそう感じられる描写になっていたと思います。この主人公にとって「編み物」がどれほど大事なのかということも、すごく説得力を持って伝わってきました。

青木 仕事に関する説明も興味深かったです。世の中には様々な仕事がありますから、他の人が具体的に毎日どういう業務を行っているのかなんて、知らないことの方が多いですよね。貴金属のアクセサリーパーツを作る会社の仕事内容を想像したことは今まであまりなかったのですが、主人公の語りを読むと、「なるほど。そういう仕事があるんだなあ」と、すごく納得できました。短い描写で的確に伝えられていたと思います。

編集A 金型がどうの繁忙期がどうのというあたりの描写にも、すごくリアリティがありましたよね。

編集F ただ、仕事の詳細が語られるのは6枚目からなのですが、そこへ来るまでに、シフト変更がどうのという同僚とのやり取りがけっこう長く描かれますよね。でも、読者は状況がまだよくわかっていないから、話に入り込めない。仕事に関する情報は、もう少し早く出しておいた方がよかったかなと思います。

編集D 同じく、主人公の年齢も、もうちょっと早く提示しておいてほしかったですね。職場における女性たちの人間関係の機微を描くにおいて、年齢は非常に重要です。

編集B 特にこの話は、職場の人間関係に悩んだり傷ついたりしている主人公を描いているものですからね。年齢や立ち位置は大きく影響してきます。

編集E 主人公はある日、ベテランのパート女性たちが、自分に関して口さがない噂話をしているのを偶然耳にし、ショックを受けます。ただ、私はこのパート女性たちの「ハンドメイド=貧乏」という価値観には、引っかかりました。そのうえ、「倹約している=男に貢いでいる」なんていうのは、論理の飛躍としか思えませんでした。

編集D 主人公の元カレも、「手作り=安上がり」と思う人間でしたが、これはまあいいんです。編み物なんてしたことのない男性がそう考えるのは、「知らないゆえ」でしょうからね。でも、このパートの中年女性たちは、子供もいるでしょうし、過去に手芸の一つや二つ、したことはあると思う。だったら、必ずしも「手作り=貧乏」というわけではないのはわかっているはずです。

編集B 主人公が生活を切り詰めているかどうかは、同じ職場で働いていたら、なんとなくわかるはずですよね。毎日決まったルーティーンで家事をこなし掃除も欠かさない主人公は、華美ではなくとも身ぎれいで、みすぼらしい格好などしていないだろうと思います。古びたカーディガンのことを安藤さんに指摘されたときも、すぐに新調していますよね。

青木 カーディガンを買った場面は直接には出てきませんが、まず間違いないだろうと思います。ただ、「(カーディガンの)背中に穴が空きそう」というのは、多少「ん?」と思わないでもないですけど。

編集A 袖口やひじが擦り切れるならわかるのですが、カーディガンの背中に穴が空くというのはイメージしにくかったです。まあ、話の本筋には関わらないことですけどね。

編集B とにかく、けっこう費用がかかるハンドメイドを長年趣味にできている主人公は、べつにお金に困っているわけでもないし、倹約家なわけでもない。それは周囲にもなんとなく伝わっていると思います。なのに、手編みのハンカチを持っていることでいきなり、「きっと貧乏なのよ!」と決めつける宇佐見さんたちの思考の流れは、なんだか不自然に感じました。

編集E そのうえ、「男に貢いでるんじゃない?」とまで言い出しますよね。「貧乏」だけでなく、「男関係」の悪口まで上乗せしている。ですが作中で描かれる主人公は男っ気のないキャラクターですので、発想の飛躍感が否めない。もしそういう内容の悪口にするなら、主人公が例えば弟や同級生といった男性と会っているのを見られて、男関係の根も葉もない噂を立てられていたとか、パートさんたちが「貧乏」と「男関係」を結び付けても不自然ではないような何らかの理由がないと、脈絡がなく感じられてしまいます。

青木 私だったら、「手編みのハンカチ」なんて目にしたら、「へえ、そんなものまで手作りできるのか」って、むしろ感心しますけどね。普通はそうじゃないかな?

編集B 主人公も、「今までで一番、綺麗に編めた気がする」と、出来栄えに満足していました。だから、いい感じに仕上がっていると思うのですが、江崎さんは「あんな貧乏くさいハンカチ」なんて言っている。

編集E 誰かひとりが個人的にそう思っているということならまだわかりますが、三人のパートさん全員が、「手編み」と聞いて一瞬引いている感じでしたよね。どうしてそろいもそろって、こういう反応になるのでしょう? このあたりはちょっと、作者の作為を感じてしまいました。

編集D 作者都合の展開になってしまっているということですね。主人公が傷つき、でも立ち直るという話を描くためには、まずパートの女性たちにひどいことを言われる場面が必要だった。このパートさんたちは、作者のプラン通りのストーリー展開にするために、役割として登場させられたキャラなのだと思います。だから、主人公の陰口を叩く無神経な中年女性たちという、かなりステレオタイプなキャラクターになってしまっている。

編集B 同じ脇キャラでも、冒頭とラストに登場する「トイレ掃除のおばちゃん」は、奥行きのある人物として描けていましたよね。だからこそ対照的に、パートのおばさんたちの人物造形がひどく浅いものに感じられてしまった。

青木 この「掃除のおばちゃん」のキャラクターは、すごくよかったと思います。こういう人物を描くことができる書き手なのですから、江崎さんたちにももう少し、人間的厚みを持たせてほしかったですね。

編集D ただ、主人公はパートのおばさんたちのことを、特別好きなわけではないですよね。一定の距離を保ってなんとかやっていければそれでいいという気持ちだったはず。なのに、「手編み」をけなされたことで、ここまで傷つくものでしょうか?

編集C だから、自意識過剰なんです。いろいろ気にし過ぎちゃう人なんです。主人公はそういう自分を自覚しているし、明確に語ってもいます。

編集A 自意識過剰になりがちな自分の心を、編み物とお掃除で日々守っているんだけど、自分の噂話をたまたま耳にして、また傷ついてしまったんですよね。

編集E まあでも、こんな根も葉もない悪口を言われたら、自意識過剰でなくとも普通に傷つくと思います。

編集A パートのおばさんたちの会話もそうですが、何よりも主人公は、安藤さんが自分の味方をしてくれなかったことに傷ついたのではないでしょうか。

編集E そうですね。好意を寄せていた分、裏切られた気がしてしまった。「そうかもね」という言葉は、江崎さんたちへの同調に聞こえます。ここで安藤さんが、「そんなことより」って話をさりげなく転換してくれれば、主人公の悪口を言うことを避けているなということが主人公にも読者にもわかるのですが。

青木 あるいは、「そうかもね」と言いつつも、その言い方がすごく投げやりだったとかね。「この話を切り上げたい」と安藤さんが思ってることが伝わってきていれば、主人公もここまでショックを受けなかった。

編集B でも、それだと主人公が傷つかないから、ストーリーが流れていきませんよね。

編集D このあたりの描き方には、やはりちょっと作者の作為が透けてしまっているように思います。主人公が傷つく流れにするために、パートのおばさんたちにひどいことを言わせ、安藤さんにも同調させている。

編集B もう少しだけ、作り手側の作為を読者に感じ取らせない自然な描き方ができていたら、と思いますね。すごく惜しいなと。

青木 ただ、安藤さんて、普通の人じゃないですか? 悪い人ではないけど、めちゃくちゃいい人というわけでもない。普通です。

編集C はい。「そうかもね」というのも、噂話をあえて否定したりせず、さらっと流しただけのことだろうと思います。

青木 安藤さんは、人間関係への対応がナチュラルにうまい人ですよね。軋轢が起こりそうな場面を、いつもするりと上手にやり過ごしている。主人公はおそらく、安藤さんのそういうところに憧れっぽい気持ちを抱いて、好きになったのだろうと思います。自分が苦手なことを、うまくやれている人だから。

編集B でも安藤さんのほうは、主人公に対して特別な気持ちはなかった。誰ともうまくやる人で、主人公はその「誰とも」の中の一人でしかなかった。

編集C そうとは知らない主人公がつい、「安藤さんだけは分かってくれてる」と、勝手に期待しちゃったんですよね。自意識過剰だから。

編集A うん。でも、特に自意識過剰とかではなくても、こういうこと、普通にあると思います。勝手に期待して、勝手に裏切られた気分になっちゃうことって。

青木 ありますね。ただ、今回の出来事は「編み物」に関することでした。主人公としては、そこだけは否定されたくなかった。安藤さんとはカーディガンの話もしたし、「きっとわかってくれてる」「かばってくれる」と期待していた。けれど、そうはならなかった。

編集A 主人公にとって「編み物」がいかに大切かということが、安藤さんには全く届いていなかった。だから余計にショックが大きかったんですよね。この状況は、ナイーブな主人公には相当きついと思う。

編集B そこを突然、「トイレ掃除のおばちゃん」が救ってくれたんですよね。このラストはすごく良かったと思います。まさかこの人物が話を締めてくれるとは思いもしなかった。

編集D ラストの場面で、この「掃除のおばちゃん」が、不意に生きたキャラクターとして立ち上がってきますよね。冒頭シーンでは情景の一部みたいな存在だったのですが、このラストシーンによって、「このおばちゃんにも、いやどんな人にも、それぞれの確かな人生があるんだな」と改めて気づかせてくれました。

編集A このおばちゃんも、編み物をやる人なんでしょうね。主人公の手編みのハンカチに目ざとく気づいて、「あら素敵」と思ってくれていたのでしょう。で、掃除を仕事にしているわけですから、この人もまさに、「編み拭う人」。

青木 人生経験をたっぷり積んでいそうな方ですよね。でもこのおばちゃんは、主人公に教訓を垂れたりしない。編み方を聞いて、「分かった。ありがとね」と言って、すっと退場していく。このおばちゃんをしつこく描かなかった作者のセンスは、すごくいいなと思います。

編集F ラストにさりげない救いのある、とてもいい話でしたよね。ただ私は、もう少し主人公に具体的な行動があってもいいかなという気がします。救いが向こうからやって来るのではなくて、主人公が自分で行動することによって救われたという話なら、もっと良かったのにと。

青木 ただ、安藤さんの「そうかもね」に傷ついた後、主人公はひたすら掃除をしますよね。一晩かけて家中を磨き上げている。これは一応、行動と言えるのではないでしょうか。地味ではありますけど。

編集C それに、「こんなことで傷つきすぎたりは、もうしないぞ」と自分を戒めていますよね。「あの人たちに悪気があったわけじゃない」「何もかもを放り出して殻に閉じこもったりなんて、二度としない」と、自分に何度も言い聞かせている。自分で自分を必死に支えようとしているのは立派だったし、すごく好感が持てました。

編集G 雑巾を編み、その編んだ雑巾で掃除をする。主人公は「編み拭う人」ですから、傷ついた日も「編み物と掃除」をすることで立ち直ろうとしているんですね。

編集A ただ、冒頭とラストのトイレのシーンは、ほぼ同じですよね。「掃除したてなのに、使ってごめんなさいね」と思いながらトイレに入るということが、繰り返されている。ここに何かしら変化をつけたほうがいいのではとは思います。ラストのトイレの場面では、主人公は自分なりに何かを乗り越えかかっているという段階にいるわけですから、そのことが多少でも表現されていてほしい。

編集E ラストで、主人公のほうからおばちゃんに声をかけてもよかったですね。心の中で思うだけではなく、「掃除したばかりなのに、使ってすみません」と、実際にひと言話しかける。そしたらおばちゃんも、「いいのよそんな。これが私の仕事なんだから、全然気にしないで」って笑顔で返してくれるとか。

青木 「何言ってんの。私がきれいにしたところを使ってもらえたら、私も嬉しいのよ」とかね。そういうひと言があれば、このおばちゃんの仕事への姿勢というか、人生への姿勢みたいなものが感じ取れますよね。「編み拭う人」の先輩でもあるトイレ掃除のおばちゃんの姿に、主人公が明るい光を見出すという、いいオチになったかと思います。

編集E 結局、主人公が見習うべきは、一見素敵っぽい安藤さんじゃなくて、掃除のおばちゃんのほうだったんですよね。だからやっぱり、主人公から思いきって声をかけるという展開があったほうがいいんじゃないかな。

編集F それなら、主人公が半歩前へ踏み出したことにより世界がちょっと変わった、ということが読み手に伝わりますよね。

編集D ラストでおばちゃんが唐突に話しかけてきた、という感じもなくなるから、そういう点でもいいと思います。

青木 もちろん、展開やエピソードをどうするかというのは作者さんの決めるものですので、これが正解ということではありませんが、一つの参考にしていただければ嬉しいですね。

編集B かなりよくできていた作品なのですが、あとほんのちょっとの詰めが足らないようなところがいくつかあって、非常に惜しかったですね。受賞作とは僅差で、総合的な評価は非常に高かったです。新たな作品を、ぜひまた読ませていただきたいですね。