これからも
(旅行、楽しかったなぁ……)
大いに盛り上がったブライダルフェアからひと月が過ぎた、六月の下旬。羽田空港に向かう飛行機の中で、高瀬紗良は旅行の思い出をふり返りながら幸福にひたっていた。
『紗良さんは俺と旅行、行きたくない?』
『い―――行きたいです! フェアが終わったら絶対に行きましょう』
恋人の本城要とそんな約束をしたのは、昨年の十二月。それから半年を経て、念願の旅行が実現した。ともに三日間の休暇をとることができたので、二泊の旅行だ。
『紗良さん、どこか行きたいところある?』
『そうですねえ……。最近は仕事詰めだったし、温泉に入ってまったりしたいな。このまえ小夏さんと一緒に泊まったホテルには、温泉がなかったから』
『いいね。俺も久しぶりに入りたい』
『温泉がメインなら、ホテルよりも旅館に泊まりたいですね。お料理も和食で』
『部屋食にして、ゆっくり食事を楽しむのも贅沢だよなぁ。ところで紗良さん、予約するのは一部屋でいいんだよね?』
『え? あ、も、もちろんですとも! せっかくの旅行なのに、別々のお部屋なんてさびしいじゃないですか。わたしは要さんと一緒がいいです!』
大事な言葉は、きちんと口に出して伝えたい。勢いこんで答えると、要は『そう言ってもらえて嬉しいよ』と笑ってくれた。
『近場だと箱根に熱海、草津とか……。有名な温泉地はいろいろあるけど、このあたりはいつでも気軽に行けるからなあ。今回は二泊だし、ちょっと遠出してみる?』
『あっ。それなら飛行機に乗りたいな』
『飛行機?』
『はい。実はあまり乗ったことがなくて。最後に乗ったのは、高校の修学旅行のときでしたね。就職してからは、旅行も近場で一泊ばかりだったし』
『俺もそうだよ。ホテルの仕事はやりがいがあるけど、たまにはもてなされる側に回るのもいいよな。じゃ、飛行機で行く温泉地って条件でしぼりこんでいこうか』
ふたりで意見を出し合いながら、旅行の計画を練るのは楽しかった。必要なものを買いそろえ、バッグに少しずつ荷物をつめていくのも心が躍った。前日はわくわくしすぎてほとんど眠れず、飛行機の中で爆睡し、要にからかわれてしまったけれど。
その要は、いま―――
紗良はちらりと視線を動かした。通路側の座席で、要は紗良の肩にもたれるようにして眠っている。離陸してからしばらくは、窓の外を見てはしゃぐ紗良につき合ってくれていたのだが、いつの間にか目を閉じていた。旅の疲れが出たのだろう。
(要さん、レンタカーの運転もしてくれたものね。わたしは免許を持ってないから、代わることもできなくて……)
要と話し合って決めた旅行先は、九州の大分県。別府と湯布院に一泊し、移動にはレンタカーを使うことにした。食事に定評がある老舗旅館はややお高めだったのだが、どちらも風情ある純和風の素敵な宿で、のんびりと羽を伸ばすことができた。
仕事に邁進するのもいいけれど、たまにはせわしない日常から離れ、非日常の世界に身を置くことも必要だ。丁寧につくられた食事は彩り豊かで美味しかったし、夜空に浮かぶ月を見上げながら入る露天風呂は、日々の疲れをじんわりと癒してくれた。
上質な空間で味わう、贅沢なひととき。ひとりでもじゅうぶん幸せだけれど、要とふたりならもっと楽しい。普段のデートよりもはるかに長い時間を過ごすことで、お互いのあらたな一面を知ることもできたし、充実した旅行だった。一泊より長いとはいえ、過ぎてしまえば二泊も意外とあっという間だ。
(でも、写真はたくさん撮れたから)
紗良のスマホのアルバムには、この三日間で撮影した大量の写真が保存されている。
人物を撮ることを避けていた要は、先月のブライダルフェアを経て、その呪縛から解放された。要が撮ってくれた旅行中の自分はとても嬉しそうにしているし、ツーショットに応じてくれた要の表情も明るかった。きっと彼も紗良と同じく、今回の旅行を満喫したのだろう。そう思うと心の中がほんわかとあたたかくなり、幸福感で満たされる。
スマホの画面から顔を上げた紗良は、ふたたび要のほうに目を向けた。無防備な寝顔を間近でながめることができるのも、恋人の特権だ。それだけ気を許してくれているのが嬉しくて、愛おしさがこみ上げてくる。
紗良は肘掛けに置いてある要の手に、自分の手をそっと重ねた。起こすつもりはなかったのだが、要は気づいたらしい。その肩がぴくりと動いたかと思うと、ゆっくりとまぶたが開かれる。
「ん……? 俺、寝てた?」
「ええ、一時間ほど。要さん、ずっと運転してくれていたし、疲れたでしょう。わたしも免許があればよかったんですけど」
「いや、俺が紗良さんを横に乗せてドライブしたいだけだったから、気にしないで。運転するのも好きだしさ」
にこやかに答えた要が、ふと肘掛けに視線を落とした。重なっている紗良の手を見つめながら、優しく微笑む。
「馴染んできたね。この指輪」
「そう見えます?」
「うん。買ったときより似合ってると思う」
紗良が左手の小指にはめているのは、少し前、誕生日のプレゼントとして要が買ってくれた可愛らしいピンキーリングだ。
地金はピンクゴールドで、六月の誕生石である小さなムーンストーンがあしらわれている。今月のはじめにふたりでお店に入り、相談しながら選んだものだ。
『この指輪、素敵ですね。控えめで可愛い』
『ピンキーリングか。うん、いいね。紗良さんのイメージにも合ってる感じだ。気に入るものがあってよかったよ』
ピンキーリングや誕生石は、お守りとして身につける人も多いらしい。仕事中はつけられないが、それ以外では必ずはめるようにしている。要からの贈り物だと思うと、見ているだけで心がはずむ。
「もうすぐ羽田に着いちゃいますね……」
さびしくなってつぶやくと、要が肘掛けに置いていた手のひらをひっくり返した。紗良の指に自分の指を絡めて、ぎゅっと握る。
「そんなに楽しかったなら、またふたりで旅行しよう。紗良さんと一緒に行きたいところは、まだまだたくさんあるんだ。これからもつき合ってくれるかな?」
「もちろんですとも。要さんと一緒なら、どこに行っても最高です。これからも、ふたりでいろんな思い出をつくりましょう」
つないだ手に力をこめて、紗良と要はおだやかに微笑み合った。
【おわり】