“粋”と“夏流”のダブルキャスト
「オレ、大学に行ってみたいんだけど」
そう切り出したのは、舞台「ルシア」稽古期間中のとある夜。洗い終わった洗濯物を、二人で浴室に干している時のことだった。
オレ――子役出身、業界歴が長いわりに知名度はいまいちの売れない俳優・鷹山粋と、二年前にデビューして早々にブレイクし、今や超人気俳優となった香乃夏流。真逆な二人が朝起きたら入れ替わっていたという、冗談としか思えない事態が起きてから二週間。
原因不明。どうすれば元に戻るのかも不明。二人とも「ルシア」の稽古の真っ最中だったため、霊能者(?)的な相談先を探す暇もなく、ツテもなく、ただ入れ替わりをごまかすのに必死になっているうち、気がついたら同居を始めていた。
そもそもぽっと出の新人がオレになりすますこと自体、難易度が高すぎるミッションだ。何せオレは子役の時から真剣に芝居を学んできた。知名度はともかく、演技に関しては同世代の中で誰にも負けない自信がある。
一方、高校卒業後に演技経験ゼロでデビューした夏流は、様々な仕事に追われる中、芝居の勉強やレッスンが後まわしになりがちだったらしい。顔合わせの時の印象はまさに「大物風を吹かしているわりに実力がない顏だけの俳優」以外の何物でもなかった。
だがそんな夏流も、どうひいき目に見てもイケメンとは言えない(悪くはない……と思う。たぶん)オレと入れ替わったことで、生きていく上で顏に頼れない人間の苦労を思い知り、マジメに演技力を磨こうと奮起したようだ。自宅でも自主稽古に明け暮れるなど、下手なりに一生懸命取り組んでいる。
そしてオレは、この入れ替わりの事態が続いているうちに、かねてよりチャンスをうかがっていた件をひとつ、実現させたいと考えていた。
Tシャツを広げながら、夏流が訊いてくる。
「大学に行くって……俺として俺の大学にってこと?」
「そう」
オレは高校を卒業後、進学せずに役者をしつつフリーターとして生きていく道を選んだ。それを後悔してはいないけど、ただ今後の演技の参考までに「学生として大学で講義を受ける」という体験をしてみたい。
ちょうどいいことに夏流は大学生である。マネージャーの萌子さんによると、仕事が忙しくてほとんど通えていないそうだけど、思いついてふらりと構内に入っても問題のない立場だ。そして今、オレは夏流と入れ替わっている。このチャンスを逃してなるものか。
「何かマズかったりする?」
いちおう相手の事情も気にかけつつ、自分のTシャツをばさっと広げてハンガーにかける。その時、自分の手の中にあるシャツと、夏流が干しているシャツがまったく同じデザインだと気がついた。趣味が似てるとは思わないけど、夏流とは不思議なくらいTシャツがかぶる。
「マズくはないけど……」
答えは歯切れの悪いものだった。あまり乗り気でなさそうだ。
「でもつまらないかも。俺は、その……」
「友達いないから、行ってもぼっち?」
「いっ、いないわけじゃない。けど……」
もごもごとした説明によると、入学してすぐに夏流をめぐって女子学生たちによる競争、対立、衝突が同時多発。それを治めるために一人選んで「特定の彼女」を作ったところ、それが余計に火に油を注ぐ事態を招き、結局同性からは忌避され、異性にも「女が争うのを見て楽しんでいる」という事実と異なる噂を流され、孤立していったらしい。
つまり友達いないんだな。――オレは心の中でツッコミを入れた。
夏流は身長が185センチ強、誰もが認める顔の良さでありながら、それを人付き合いに活かすスキルを絶望的なまでに持ち合わせていない。加えて言葉足らずにより、ありもしない悪気を疑われることが多く、スタッフや共演者の評判もあまりよろしくない。人気がなくなればすぐに消えるタイプだ。
オレだって他に道がないところまで追い込まれなければ、こいつと同居しようなんて思わなかっただろうし、同居しなかったら、少なくとも悪気はないと気づかなかったはずだ。
オレになりきる体験を通して少しずつ変わってきているとはいえ、まだいまいち表情が乏しくて何考えてるかわからないところもある。
ともあれ「大学生体験をしてみる」というオレの希望がかなえられるなら、「ぼっち卒業」を手伝ってやってもいい。そんな思いではあった。
「これを機に大学再デビューしちゃおうぜ」
「再デビュー?」
訊き返してくる声はやや疑わしげである。ほほーん。十日間とはいえ一緒に稽古しておいて、オレの実力が信じられないってか。無礼者め。
浴室乾燥機のスイッチを入れながら、オレは自信たっぷりうなずいた。
「まかせとけって」
※
「まかせとけって」
粋にそう言われれば、まるで望みのないことでも、何とかなるかもしれないという気になってくる。
“香乃夏流”の評判は、きっと粋が思っているよりもずっと悪い。今は通学していないため噂も下火になっているだろうが、一時期は大学のどこにいても白い目を向けられた。
そんな俺になりきる演技をしつつ、大学で友達を作るなんて難易度が高すぎる。それでも。
それでも、俺とちがって対人スキルが図抜けている粋ならやってのけるかもしれない。そう信じさせる力強さが、粋の言葉には確かにあった。
(そういうとこ、本当に憧れる――)
中学生の時に初めて舞台を見てからずっと、粋は俺の理想そのものだった。芝居の実力、実績、コミュニケーション能力、自信。当時コンプレックスの塊だった俺がほしいものを、彼は全部持っていた。追いかけ始めるのに時間はかからなかった。粋が出演する舞台は全部観たし(なんなら全通したし)、ドラマも映画もチェックした。個人のグッズは作ってなかったから、舞台のグッズは全部買った。出演者の粋は当然どの舞台のTシャツも持っていて、狙ったわけじゃないけど、同居を始めてから着ているTシャツがかぶることが多々あった。
そもそも俺が芸能界に入ったのは、少しでも粋の姿を見たかったから。
が、もちろん粋にそのことは言っていない。気づかれている様子もない。
男のファンに騒がれるのは微妙だって、共演者の初音君も言っていたし、変なやつって思われて距離を置かれたらきっと立ち直れなくなる。
だから同居人になった時には、嬉しさよりもパニックのほうが勝った。そもそも俺は別に粋とつながりたかったわけじゃなくて、スタジオや舞台の裏にいる姿を遠目に見るだけでよかった。近づくなんてとんでもない。壁のように空気のように応援できればそれでよかったのだ。
なのに入れ替わりなんていう奇妙な事態が発生し、ある日突然自分が粋になってしまうという極めて恐れ多い事態に見舞われた。まったくもって不本意である。そもそも粋は俺なんかとちがって(以下、延々と推し語りのため割愛)。
大学に行くのは、稽古前の午前中ということになった。
平日の朝である。そのまま稽古場に向かえるよう荷物を持って家を出た。帽子に黒ぶちメガネ、マスクという芸能人三点セットを身につけた粋と並び、久しぶりにキャンパスに向かう。“夏流”が“粋”に構内を案内するという設定だ。
だがしかし、着いて早々に二人で棒立ちになった。なんと大学は夏休みだったのだ。
「……ま、そりゃそうだよな」
粋のつぶやきに両手を合わせて謝る。
「ごめん! 長く来てなかったから忘れてた!!」
思い至らないほうがどうかしている。すでに七月末。長期休暇どころか、休日と平日の差もない仕事をしているおかげで完全に失念していた。
粋は軽く手を振る。
「いや、オレも気づけって話だし。しょうがない。ささっとまわって帰るか」
というわけで二人で構内をひとまわりする。休み中なのは悪いことばかりではなかった。早い時間のせいか人影はまばら。おかげでのびのびまわれる。
粋は、講義室では教壇を見下ろす景色をおもしろがり、講堂では中規模劇場と同程度の席数に驚いていた。オレにとっては見慣れた景色だが、粋の目には色々と新鮮に映っているようだ。図書館、体育館などをひと通り見終わった頃には11時を過ぎていた。
朝は閑散としていた構内も、ぼちぼち人の姿が目立つようになってきた。最後に昼だけ食べていこうという話になり学食へ向かう。
長期休暇中、学食は短縮営業になるとのことだったが、それでもまずまず人がいた。暇を持て余していると思しき学生たちは、“夏流”が姿を見せたとたんにざわりとする。帽子にメガネ、マスクをしているというのに、すぐ気づいたようだ。
粋はそんな視線の中を、誰とも目を合わさないように歩き、トレーを手に取って列に並んだ。内に閉じこもった感が実に俺らしい。
カレーライスを注文して受け取ると、四人がけのテーブルに二人で向かい合って腰を下ろした。粋が帽子とマスクを外したとたん、再びざわめきが起きる。あちこちで名前がささやかれた。こっそり写真や動画を撮る人もいる。
とはいえそれでも遠巻きにされていた。注目はするが誰も話しかけてこない。こっちを見てヒソヒソと話す様子に嫌な汗が出た。大学だけではない。コミュ障のくせに緊張が顔に出ない俺は、高校でも、中学でも、こんな感じで孤立していた。最初は話しかけてくれるものの、上手く答えられずにいるうちに「尊大で気難しくて人の気持ちを考えない人間」のレッテルを貼られて遠巻きにされた。
いたたまれない過去の記憶が次々に湧き出し、襲いかかってくる。緊張と羞恥に締めつけられて息ができなくなる。その時、粋が「おい」と低く言い、足を蹴ってきた。
「“粋”はおまえといる時、そんな顏しないだろ」
「あ……っ」
我に返る。そうだ。今のオレは“粋”なんだ。孤立する“夏流”の友達。粋はヒソヒソ声も意に介さない様子でカレーを平らげ、やがて小さくつぶやく。
「誰か一人くらい話しかけてくるかと思ったけど、そんな感じないな……」
「うん、ごめん……」
「なんでおまえが謝るんだよ」
粋は、あくまで“夏流”を演じることにこだわっている。極度の人見知りの“夏流”が、自分から知らない人間に話しかけるのはNG。そう考えているのかもしれない。
とはいえこんな息詰まる状況に身を置かせているのが、だんだん申し訳なくなってくる。
俺は顔を上げた。
「あの、別に俺はぼっちでもかまわないし。ていうか慣れてるし。もういいよ。行こう」
トレーを手に立ち上がろうとする俺の前で、粋はさりげなく周囲を一瞥し、くちびるに仄かな笑みを浮かべる。
「まぁ見てろって」
そう言うと、ポケットからスマホを取り出すふりで、空になっていたプラスチックのコップを腕で倒した。
コップは軽い音を立てて床に落ち、近くで食事をしていたグループの足下へと転がっていく。
男子学生二人と女子学生二人のグループだ。
粋は慌てた素振りで立ち上がり、コップを追いかけた。拾いながら四人におずおずと声をかける。
「すみません……。水、かかりませんでしたか」
“香乃夏流”に急に話しかけられた四人は驚いたように首を振り、「や、全然」「平気だから」「気にしないで」とそれぞれ返してきた。最後の女子学生が、緊張した面持ちで話しかけてくる。
「あの、香乃夏流くん、だよね?」
粋はだまってうなずく。女子学生は「やっぱり!」と仲間と顔を見合わせた。
「うちの大学にいるって聞いてはいたけど、まさか会えるなんて!」
「え、めっちゃうれしいんだけど!」
「ヤバいヤバい、どうしよう!」
はしゃいだ声を上げる学生たちへ、粋は人見知りらしく小さな声で応じる。
「友達に、大学を案内したくて……」
「あぁ、それでか」
「びっくりしたー!」
普通に会話しているのを見たせいか、周りで様子をうかがっていた学生たちもいっせいに寄ってくる。
人だかりの中で、粋はあくまで、慣れない人間のなかで少々困惑しつつ根気よく話に応じようとする“香乃夏流”を演じていた。
勝手な写真撮影が目に余るレベルになってきたところで、俺は粋のフリで割って入る。
「あの、この後仕事だから、俺達そろそろ行かないと。――“夏流”」
粋はうなずいて皆に「ごめんね」と声をかけた。
「そっか、残念」
「また来る?」
名残惜しげな声には「うん」と控えめに返す。と、女子学生から悲鳴がもれた。
「またね!」
「待ってるね!」
少し話したおかげで打ち解けたというていで、粋はみんなに手を振りながら、その場を離れる。学食を出ようとした俺達の背中で、「噂ほどひどい人じゃなかった」という声が聞こえてきた。そのとたん、粋が「ほらな」って言いたげな、笑みまじりの目を向けてくる。
「すごい――」
思わずこぼれかけた声を呑み込んだ。その分強い気持ちで、心の中で叫ぶ。
(やっぱり粋はすごい!!!!)
“香乃夏流”のキャラを守りながら、するりと人の中に入っていき、俺の評判を簡単に塗り変えてしまった。
建物を出たところで、粋はマスクと帽子と眼鏡をつけ直しつつ言う。
「あれで『悪く言われてたけど実際はそうでもなかった』って噂が広がるだろ」
「粋、本当に天才すぎる! あんなにあっという間にやってのけちゃうなんて……」
「バーカ。おまえの顏がいいから、すんなりいったんだよ」
くしゃりと笑う、その笑い方は粋のもの。俺の顔だけど、やはり中身がちがうと別の人間に見える。
人目が集まる中、小走りに進みながら、粋は俺の背をたたいてきた。
「おまえも、まずまず俺っぽくできてたよ。まだ修行が必要だけどな」
大学の門を出てタクシーを止める。停車してドアを開けたタクシーに、俺に続いて、粋が乗り込んでくる。その時には完璧に“夏流”の顔に変わっていた。
俺も“粋”の話し方を意識して行き先を告げる。舞台の稽古を行うスタジオ。タクシーが静かに走り出したところで、マネージャーの萌子さんから“夏流”に電話がかかってくる。「稽古に遅れないように」というリマインドだった。通話が終わると粋は口を閉ざす。稽古に向けてすでに集中を始めているようだ。
初めて二人で共演する舞台「ルシア」の稽古は、まだ三分の一を終えたあたり。何もかもまだこれからだ。
大きな仕事を得た粋のチャンスをダメにしないよう、そして入れ替わりがバレないよう、俺も気持ちを切り替えて意識を研ぎ澄ませていく。
十分ほどでタクシーはスタジオに着いた。入口に二、三人のスタッフの姿がある。自動で開いたタクシーのドアから足を下ろす。その瞬間から、俺たちの舞台はもう始まっていた。
【おわり】