波間の横顔
対向車の少ない海岸沿いの道路を私は軽自動車でひたすら走っていた。日差しがやけに強く、海面に反射した光の粒が視界を眩ませる。効かせすぎた冷房の空気を逃がすため、運転席の窓を開く。爽やかな磯の香りと、湿度を含んだ空気が上半身を撫でる。不格好な森林が左手にあるせいで、進路はやたら湾曲していて、ハンドルを右に左に何度も回した。ずっと昔に一度だけこの辺りを訪れたはずだけど、景色まではあまり覚えていなかった。
つい先日の、お姉ちゃんからのメッセージがなければ、こんな場所、二度と来ないと思っていた。
『夏休みになったらお店に遊びにおいで。二十歳のお祝いをしてあげる』
年が十個離れたお姉ちゃんは、私が十二歳のときに家を出た。お姉ちゃんと会う頻度は減り、その生活にも慣れていたけど、つい、今回の誘いは応じてしまった。大学の授業がなくてもアルバイトや友人との約束がそれなりにあったが、私はたくさんの人に急な予定変更の謝罪をして、海辺の町を訪れることにした。
目的地に向かっている間、スケッチブックを手にしたお姉ちゃんの横顔が何度も思い浮かんだ。柔らかくうねった短い髪、色の白い肌、長い睫毛と絵画の対象だけに向けられる熱心な眼差し。
単身赴任中の父と、フルタイムワーカーの母だったため、お姉ちゃんと二人で過ごすことが多かった。幼すぎた私にはお姉ちゃんだけが頼りで、本当はいつだって傍にいてほしかった。それなのに、自由で身勝手で、興味が惹かれたものがあれば、会話さえ中断して絵を描きだしてしまう人だった。
繋いでいた手が前触れもなく離されて、振り返ると道端にしゃがみ込んで錆びた空き缶の絵を描いている。服の裾を引っ張ったり肩を揺さぶったりしても、何度声をかけても、お姉ちゃんは曖昧に返答するばかりだった。どれだけ注意を引こうとしても相手にされない。私は世界に存在しなくなったような気持ちになりながら、お姉ちゃんの横顔を眺めるしかなかった。しばらく絵を描いて満足したお姉ちゃんは、何事もなかったみたいに、不貞腐れた私の手を取る。
そんなことがたびたびあった。お姉ちゃんの関心が何に向くかなんて予想もつかなかった。予兆もなく自分の世界に入り込み、恐ろしいまでの集中力で筆を走らせ、私がいることを忘れてしまう。
絵を描いているときのお姉ちゃんを横から見るのはとてつもなく心細かった。でも、再び私の手を握り、上機嫌で話すお姉ちゃんに、やっぱり安心してしまう。
慣れない土地の、信号もない道を走り続ける。カーナビの示す目的地と、出発当初より縮まった到着予定時刻を確認する度に思う。どうしてお姉ちゃんはこんな辺鄙なところに住んでいるのだろう。とても暮らしやすそうには見えない、海に面していることだけが特徴の田舎街。しかも、お姉ちゃんにとって悪い思い出の場所のはずなのに。
代わり映えのしない景色がしばらく続いたあと、左手の森林が不意に開け、建物がちらほら見えてくる。潮風を浴びているせいかどこもかしこも色褪せていて、うら寂しい雰囲気が漂っている。人通りもなくて、周囲には活気というものが微塵も感じられない。錆を纏ったシャッターがいくつか視界を横切る。それでも、目的地には着実に近づいていた。
しばらくして、道路から砂浜が見下ろせるようになった。お姉ちゃんの営むお店は、海水浴場の端にあった。想像していたよりも大きな建物だった。
四台分用意されていた駐車場に車を停めると、待ち構えていたみたいなタイミングで、お店の中からお姉ちゃんが現れた。
「ミナちゃん、髪伸びたね」
お姉ちゃんは目じりをいっぱいに下げて笑う。その姿は記憶のものとほとんど違いがない。うねりのあるショートヘアだけでなくて、体軀や表情もなにもかも。ただ、両耳に白蝶貝の雫型のピアスが涼しげにぶら下がっていて、そこだけが唯一変わっていた。
懐かしかった。心底愉快そうなお姉ちゃんの表情に私までつられてしまう。それが気恥ずかしくて、建物に視線を移した。臙脂色に塗装がしてあり、以前は別のお店の看板が掲げられていたのか、横長で四角く囲われた一部分だけが白っぽく汚れている。建物は道路沿いの部分が二階になっているらしく、砂浜までの斜面に沿って一階が築造されていた。
「遠かったでしょ」
「まあね」
ひと月分の荷物を詰め込んだキャリーケースやリュックをトランクから取り出していると、お姉ちゃんの細い腕がぬっと伸びて荷物を受け止めてくれる。リュックを右の肩にかけて、「ずいぶん重たいね」と笑い、軽やかな足取りで建物に入っていく。
招き入れられた店内は埃っぽくて、手伝いが必要なほど繁盛しているようには見えなかった。二階のスペースをまるまる使った店内は広く、その分だけ閑散としている。お姉ちゃんがデザインしたTシャツや陶器や小物は、一つひとつを見ればなかなか冴えた品ではあったけれど、隙間だらけのテーブルやラックにぽつぽつと並んでいるせいか、全体的に見れば空寒い感じがした。
レジカウンターの裏にA4サイズの額入りの波の絵が飾られている。しわくちゃで、リングで留めたスケッチブックから強引に切り離したせいで、端がまばらに千切れている。見覚えがある幻想的な絵に目を奪われていると、「ミナちゃん」と呼ばれる。
「こっちへおいで」
海側に私の背丈をゆうに超すほど大きな窓が設置されていて、その前にお姉ちゃんが立っている。掃除の行き届いていない店内とは対照的にガラス製の窓はとてもクリアで、寄せては返す白波がよく見えた。
「良い眺めでしょ」
「どうしてこんなところに住んでいるの?」
質問の意味を理解しているはずなのに、お姉ちゃんはにっこりと笑って「思い出深い場所だから」とわけが分からない説明をする。
荷物を一階の居住スペースに運び入れたあと、お姉ちゃんは簡単に案内をしてくれた。私が使う部屋には、新しいベッドと古びた本棚があった。
一階の戸口から海に出ると、濃い磯の香りが鼻孔を刺す。涼しい潮風が吹いていて心地が好い。砂浜から見上げた建物は、一階の出入り口が錆びたトタン屋根になっていて、店側だけが取り繕われているようで可笑しかった。
「二十歳のお祝いをしないと」
お姉ちゃんはたっぷり時間をかけて、ダイニングテーブルにお皿を並べた。料理が不得意な人だから、ガスコンロの火は点けず、代わりに買ってきてあった缶詰や出来合いのお総菜を綺麗に盛り付ける。私が手伝おうとしても、「主役は大人しく待っていなさい」とキッチンから追い出されてしまう。絵を描くときと違い、お姉ちゃんの手つきはどこか覚束なかった。震えた菜箸でミートボールやサラダをつかむのは見ていて落ち着かなく、何回も手や口を出してしまいそうになり、その度にお姉ちゃんに追い払われた。
準備ができたあと、広いダイニングテーブルにL字型に座る。カーテンを開いたままの窓が正面にあって、橙色に染まる海辺が見える。お姉ちゃんは乾杯のためにグラスに少しだけ白ワインを注いでくれた。
「ミナちゃんと一緒にお酒を飲むのが夢だったの」
そう言って微笑むと、ほんの少しだけグラスを傾ける。差し出されたワイングラスの底には、まだ湿り気を帯びたラベルの痕があった。飲酒の習慣がないお姉ちゃんは、急ごしらえで私と一緒に楽しむための準備をしたのだろう。すこし雑なところがいかにもお姉ちゃんらしかったけれど、それでも私がここへ来るのを本当に楽しみにしてくれていたみたいだった。飲み込んだばかりのワインのせいか、喉のあたりがぽっと温かくなった。
「なんでお店なんて始めたの?」
「やってみたかったから」
「全然お客さん来なかったけど、今日だけ?」
「いつもそうだよ」
「それで大丈夫なの?」
「今はまだ」
「不安にならない?」
「先のことなんてどうだっていいから」
淡々とした調子でお姉ちゃんは答える。どうやって生きればそんな風に思えるのか不思議でならなかった。けれど、そういえば、そもそもこの人を理解できたことなんてなかった。
お姉ちゃんはそのあと、たまたま見つけた今の物件がどれだけ格安だったか得意げに語った。読書好きな私のために知り合いから貰った古本でびっしり埋めた本棚と、新調した寝具のことも。
「夏休み中だけじゃなくて、ずっといてもいいからね」
ほのかに顔を赤くしたお姉ちゃんはいつになく饒舌だった。
物件については、田舎町の古びた建物だから安いだけだろう。でも、お姉ちゃんがあまりにも嬉しそうだから、しばらく二人で暮らすこの家が、限りなく素晴らしい場所に思えてきた。
食事のあと、二階のお店を覗いてみた。月の明るい夜だったから、照明をつけなくても、大きな窓から入る光で店内は淡く照らされている。寂しげな品物の配置は、そもそもさほど売る気がないお姉ちゃんの態度そのものだった。
あの波の絵をもう一度よく見たかった。額縁の中のそれは、直接触れればボロボロに崩れてしまいそうなほど、しわくちゃに色褪せている。
夜の海は驚くほど近くで波音を立てていた。こんなところで平気で生活を続けているなんて、やっぱりお姉ちゃんはどこまでも呑気だ。
車に乗ってでたらめな経路で旅をし、道中で惹かれたものを描くことに没頭していたお姉ちゃんは、二十歳のときに海で溺れて生死をさまよった。荒々しい波に見惚れ、岩礁を足場にして描画へ夢中になっていたら、突然激しくなった波に攫われてしまったのだ。すこし離れた砂浜へ打ち上げられ、たまたま通りかかった地元の人が呼んでくれた救急車で近くの病院まで運び込まれた。
お姉ちゃんの意識が戻って実家へ連絡が届くまでの二日間、捜索のため、両親はほとんど不在だった。十歳だった私には手伝えることがなく、ずっと部屋に取り残されていた。一人には広すぎる空間はあまりにも静かで、なにをしていてもお姉ちゃんの姿や声が浮かんだ。どこかでトラブルに遭っているお姉ちゃんが心配で、もう二度と会えないのではないかと途方もなく怖かった。
次にお姉ちゃんと会ったのは、退院するお姉ちゃんを、病院まで迎えに行ったときだった。姿を見なかったのはたった数日なのに、顔を合わせるまで私は妙に緊張してしまっていた。
痩せたというよりやつれて、顔や腕中に擦り傷を作り、全身をガーゼに包まれたお姉ちゃんは、どこまでも痛々しかった。それなのに満面の笑みを向けてくるから、なにもかもちぐはぐに見えた。
ひたすら心配する両親と私をよそに「平気だよ。むしろなかなかない経験ができた」と、お姉ちゃんは、まだ傷だらけなのにこの事故を一人で勝手に過去の笑い話にしていた。
死にかけたくせにそんな態度だったから、少しでも目を離せば、またお姉ちゃんがいなくなってしまう気がした。私は当時夢中になっていたすべてを投げ出して、見張るようにしてお姉ちゃんについて回った。友人との間で流行っていたアニメも、アイドルも、全部どうでも良くなっていた。
部屋に籠もって絵を描く姿をすぐ脇で眺めていると、「ミナちゃんとこれだけ一緒に過ごせるなら、溺れた甲斐があった」とお姉ちゃんは可笑しそうに笑った。溺れる前だって一緒に暮らしていたのに。置いてきぼりにするのはいつもそっちのくせに。
体調が快復したあとも、お姉ちゃんはたびたび絵を描きに車で海へ出かけた。こっちの心配なんて気にも留めていない。不安になったところで空回りするだけだから、私はもう諦めて、いちいち心を乱されないようにした。
事故から二年後、私が十二歳のときにお姉ちゃんは「一人暮らしがしてみたくなった」と唐突に家を出ていった。やっぱり、なにもかも気まぐれで勝手な人だった。
お姉ちゃんと会うのも連絡をするのも少しずつ頻度が減っていった。けれど一年ほど前、「お店をはじめてみた」とハガキが送られてきた。差出人住所を見てすぐに、お姉ちゃんが溺れた海の近くだと気が付いた。忌むべき場所なはずなのに、そこで暮らしているお姉ちゃんはなぜだか楽しそうだった。
疎遠になったのはお姉ちゃんが勝手なせいで、私から距離を埋めるつもりはなかった。でも、お姉ちゃんを拒んでいたわけではない。今回の誘いは素直に嬉しかった。
しわくちゃの絵は、十年前にお姉ちゃんと一緒に砂浜へ打ち上げられたものだった。波に呑まれながらも、お姉ちゃんはスケッチブックをけっして手放さなかった。
荒々しい水面に浮かぶ気球型の水と、そこから散る写実的な飛沫。それはお姉ちゃんが波に呑まれる瞬間まで見惚れていた景色だった。けっして私の目には見えない、惹かれることのない出来事。実在しているかどうかさえ疑わしい。
私は窓の外に目を向けた。暗い海が静かに揺らいでいるのが見える。そんなはずはないと分かっていたけど、水の球体が夜の海面に浮かんでいる気がした。海水は夜の色に染まっていて、月明かりに照らされた砂浜が白く光っていた。淡い光の中を動く人影があった。気ままに不規則にゆらゆら揺れる足取りは、波打ち際に吸い寄せられる幽霊みたいだった。
人影の正体は、部屋着姿のお姉ちゃんだった。
数年ぶりにお姉ちゃんと暮らすことになったけれど、その生活習慣はほとんど変わっていなかった。お昼過ぎに目を覚まし、散歩したり、リビングでまどろんだりし、他に用がない限りは自室に籠もっている。いまはオンラインでデザインの仕事を請け負っていて、それを熱心にこなしているらしかった。来客がないのではなく、ドアベルの音にお姉ちゃんが気づいていない可能性もあった。だけどやっぱり、私が店番をしている間、誰も来なかったし、そもそも店の前を通る車が少なかった。
親しみのない土地でお姉ちゃんと過ごしていると、昔、二人で電車に乗って母の生家へ向かった記憶が蘇る。私は四歳で、お姉ちゃんは中学二年生だった。二時間足らずの道程が、当時の私には途方もなく遠く思えた。
その日、保育園に迎えに来てくれたお姉ちゃんによる説明を、幼い私はなにも理解できていなかった。母方の祖母が急逝して、報せを受けた母は職場から直接実家へ向かった。祖父はすでに亡くなっていたから、母が喪主を務めることとなり、しばらく滞在しなければならない。父は単身赴任中で、すぐには自宅へ戻れない。子供だけで数日に亘って留守番するのは難しく、私たちは母と合流するしかなかった。
いつもは母が運転する車で揺られている間に到着していたから、それ以外の経路に現実味がなかった。特に電車は不慣れだった。切符を改札に通すのも、ホームに滑り込んできた車両の入り口のわずかな段差を乗り越えるのも、車窓の景色がどんどん知らないものになっていくのも、全てが不安で仕方なかった。
お姉ちゃんは移動の間、一冊だけ持ってきていた絵本を読み聞かせてくれた。電車が行き違いのために停車すると、お姉ちゃんは例によって唐突に、車窓に映る駅名標や踏切の絵を描き始め、満足すると読み聞かせを再開する。スケッチブックと絵本を何度も行き来する様は壊れた機械のようだったけど、その日ばかりは、すぐ隣で座るお姉ちゃんの温もりだけが心だよりで、その意識がスケッチブックに向いていても気にならなかった。
最寄り駅から祖母宅まではすこし距離があったけれど、終バスはすでになくなっていて、私たちは歩いて向かうことになった。道路沿いには田園が続き、街灯がぽつぽつと灯っているだけの不吉に暗い道だった。私はすっかり疲れ果てていたし、夜道が怖くて泣きじゃくってしまった。お姉ちゃんは何度も私を励まし、前に進むのを拒む私を背負って、ひたすら夜道を歩いた。自分だって疲れていただろうに、そう感じさせないぐらい明るい調子で「もうすぐだからね。あとちょっと頑張ろうね」と、話しかけ続けてくれた。「着いたら一緒にお絵描きしよ。ミナちゃんに私の色鉛筆を貸してあげるから」
お姉ちゃんはいつになく陽気だった。
しばらくして温かく光る古い平屋が見えてきて、無事に長い移動は終わった。その日の夜、見慣れない天井とわずかに黴臭い敷布団になかなか寝付けなかった。でも、すぐ隣で薄く寝息を立てているお姉ちゃんに安心し、いつの間にかするりと眠りに落ちていた。
自由で身勝手な人だったけど、そのときの私はお姉ちゃんさえいてくれるなら何もかも大丈夫な気がしていた。
お店には全然客が来ないから、昔のことばかり思い出していた。
店番があまりに暇だったので、私はそこら中を掃除していった。お姉ちゃんの生活と部屋の汚れ具合を見る限り、ここに住み始めてからホウキをかけたことなんて一度もないに違いない。堆積した埃を拭い取っていくと、どこもかしこも色調がわずかに明るくなった。
掃除に疲れたら、窓辺で涼みながら読書をした。真夏のわりに店内へ入り込む日差しは厳しくなく、大きな窓をわずかに開放しただけでも潮風が爽やかに吹きこんできて、気候の良い場所だった。
昼食と夕食は、毎回お姉ちゃんの時間に合わせてとった。仕事をしていないときのお姉ちゃんは基本的にぼんやりと眠たそうで、一緒にいるとそこはかとなくけだるい気配が伝染してくる。お姉ちゃんは昔と変わらずマイペースで、呼び出したくせに私のことを放ってばかりだった。そんな態度は正直なところ気に入らなかったけれど、一日の時間がいつもよりゆっくりと流れていく生活は心地が好かった。
家の前には海があるだけで、絶え間なく寄せては返す波も、真っ青な水平線も、お姉ちゃんと違って私には惹かれるものがなく、すぐに見飽きてしまった。退屈な夏休みだった。でも、それが悪いことだとは思わなかった。
店番をしながら本を読んでいたら、階下のお姉ちゃんに呼ばれた。
「ミーナちゃーん」
描き上げた絵でも披露するつもりなのか、ずいぶんと弾んだ声だった。階段を下りながら、会話にならないほど絵に熱中してしまうお姉ちゃんの姿をしばらく見ていないと気づいた。私の来訪で気を遣ってくれているのかもしれないけど、かつては常に持ち歩いていたスケッチブックも見当たらない。
リビングを覗いてみると、ダイニングテーブルを壁側に寄せて、空間を広くした部屋の真ん中にお姉ちゃんが立っていた。
「おいでミナちゃん、見せたいものがあるの」
お姉ちゃんはそう言うと、足元に用意してあったアルミバケツを手に取った。いつの間にか外へ海水を汲みに行っていたようで、砂粒が漂うマリンブルーの液体がバケツになみなみと入っていた。屋内だから振動も風もないのに、水面が細かく震えて波打っている。
前触れもなく、お姉ちゃんはバケツの水を床へまき散らした。その行動の突飛さに私は息が止まりそうになった。
せっかく掃除をしたのに、と腹立たしく思ったのは一瞬で、私はすぐに、目に映る光景の異様さに気が付いた。海水は辺りへ流れ広がらずに、お姉ちゃんに集まっていく。そして足元で渦巻き、速度を上げ、辺りにわずかな飛沫を上げながら、その全身を覆っていった。
「びっくりした?」
海水の膜の中で、お姉ちゃんが破顔するのが見えた。
お姉ちゃんを包む海水が、十年前に描かれた不思議な水の球であることは明白だった。波に呑まれる直前まで見惚れていた景色は実在したものだったのだ。自在に変形する海水は、お姉ちゃんの呼吸や表情の動きに呼応し、滑らかに揺らいでいた。
スケッチブックを片手にした二十歳のお姉ちゃんが岩礁に立ったとき、その不思議な波は球体になって、海面を優雅に漂っていた。次第に波が荒れだしたけど、絵に没頭するあまり、お姉ちゃんは逃げなかった。当然のごとく波に攫われ、海中へ身を投げ出され、潮のうねりに弄ばれた。大量の海水を飲んで死を予感したときに、不自然な水圧に突然背中を押されたお姉ちゃんは、砂浜に打ち上げられた。
「この子が私を助けてくれたんだよ」
透明な膜に触れるようにして、お姉ちゃんは手のひらを前に向ける。すると、全身を包む海水はその動きに合わせて形状を変える。
信じがたい出来事に、私はなにも言えなかった。
「来て」
お姉ちゃんが私を手招く。海水の膜が正面だけ開ける。水面越しではないお姉ちゃんの視線を浴び、私は引き寄せられてしまう。
「聞いてみて」
お姉ちゃんはTシャツの裾を捲り上げ、白い肌と、細い腰を露にする。そして私の頭を抱えこみ、ゆっくりとお腹のあたりに押し当てた。左耳がお姉ちゃんのおへそに触れると、そこから音が聞こえた。
波の音がしていた。体の奥底から響くように、砂浜を撫でる水のうねりが鳴っていた。鼓動より遥かにゆっくりで、それでもたしかな拍を刻んでいた。
「溺れたときに心臓が止まっちゃったけど、この子から波のエネルギーをもらって私は動いているの」
嘘みたいな説明なのに、お姉ちゃんの内側から響く音は本当で、建物の外から聞こえる波と同じリズムで穏やかに鳴り続けている。
お姉ちゃんは私から離れ、バケツを手に持った。宙を舞っていた海水が、そこへ集約されていく。あたりに散ったわずかな飛沫さえ余さずに。
私は膝立ちのまま、海水が楽しそうに揺れているのを眺めていた。
バケツの海水は普段は浅瀬を遊泳しているらしく、お姉ちゃんは私を驚かせるためにわざわざ家へ連れてきていたようだった。
「ナミちゃんを海へ返しに行くからついてきて」
「ナミちゃん?」
「そう。波だから、ナミちゃん。かわいいでしょ?」
お姉ちゃんはバケツを嬉しそうに見せてくる。中には不規則な振動をする海水があるだけで、可愛いかどうか分からなかった。紛らわしい名前も嫌だった。
海辺まで私は渋々ついていった。片手にぶら下げたバケツを、お姉ちゃんは軽やかに運んだ。ナミちゃん、はお姉ちゃんの歩調に合わせてタプタプ揺れたけれど、けっして溢れたりしなかった。
すぐ傍で現実離れしたことが起きているのに、隣を歩くお姉ちゃんは昔となにも変わっていない。
「もうすぐ海に帰れるからね」
お姉ちゃんがバケツに話しかけると、ナミちゃんはうねうねと動く。表面に目も綾な模様を浮かべ、ガッツポーズをするみたいに水面を細長く隆起させる。歓喜の踊りは終わらない。
「それ、ずいぶん懐いているんだね」
「長い付き合いだからね。触ってみる?」
お姉ちゃんはバケツを差し出してくる。ナミちゃんは、予想外の展開に驚いたのか、踊りを止めている。
「触って大丈夫なの?」
「もちろん」
不気味だったけれど、私は勧められるまま恐る恐るバケツに手のひらを浸してみた。思っていたよりもべたべたした触感で、わずかに含まれた砂の粒子が皮膚をくすぐった。ナミちゃんも緊張していたのか、最初は恥ずかしそうに身を縮ませていたけど、次第にほどけて、さらさらの水になった。
それからナミちゃんは、人懐っこく手のひらに纏わりついてきた。指と指の間にたしかな圧力を持った水が入りこみ、手のひらごと包み込まれ、私たちは握手をする形になった。お姉ちゃんがナミちゃんのおかげでいま目の前に居続けてくれているのなら、私は手のひらに触れて脈打つこの子に、感謝をしなければいけない。
しばらく砂浜を歩き、サンダルで来ていたお姉ちゃんはそのままの足取りで浅瀬へ入っていった。波の飛沫が衣服を濡らすけれど、まったく気にしていない。
お姉ちゃんはバケツの中身を浅瀬でひっくり返した。ナミちゃんは水中で一度大きく広がり、バケツ一杯分のかたまりに戻って、気持ちよさそうに海へ浸透していった。辺りの海水よりもわずかに緑色が深くて、ナミちゃんがどこにいるのか、なんとなく分かった。わき目も振らず辺りを泳ぎ回る様子はなんだか犬みたいで、ずいぶんと上機嫌に見えた。
隣に戻ってきたお姉ちゃんは、熱心な眼差しで楽しげなナミちゃんを眺めていた。
ナミちゃんを紹介してもらってからは、一緒に砂浜を散歩するようになった。お姉ちゃんは抱えている仕事が忙しそうで、徹夜明けのクマを目元に作っている日もあった。ナミちゃんは、お姉ちゃんの姿を見つけると凄まじい勢いで波打ち際に寄ってきた。
ナミちゃんの正式な体積は不明で、バケツ一杯分より少ないときもあったし、海水を吸って軽自動車ぐらいまで大きく膨れているときもあった。お姉ちゃんはいつもTシャツに短パン、サンダルという、濡れても構わない恰好をして、両耳には白蝶貝のピアスをぶら下げ、躊躇なく浅瀬へ入る。その足元にまとわりつくナミちゃんは、やっぱりお姉ちゃんのことがとても好きなようだった。
妙な既視感があった。目の前の光景が非現実的すぎて、その正体へ辿りつくのに少し時間がかかったけど、ナミちゃんを眺めるお姉ちゃんの横顔は、私の存在を忘れて描画に没頭するときとまったく同じだった。
お姉ちゃんが一人暮らしを始めたのは、私が十二歳の時だった。その頃にはもう身勝手なお姉ちゃんにすっかり呆れていたから、寂しいとは思わなかった。
一人での留守番もだんだんと慣れて、中学校から部活動に入って忙しくなった。高校でも、大学でも、時々顔を合わせるお姉ちゃんよりも日常を共にする友人たちの方がかけがえのないものに感じられた。
海辺のお姉ちゃんは物思いに耽る私を尻目に液体と戯れていた。くるぶしまでしか濡れない程度の浅瀬にいたはずなのに、気づけば腰元まで海面に浸かっている。お姉ちゃんが右手を上下左右に動かし、ナミちゃんはそれにつられてふわふわ浮かんでいる。
一緒に暮らさずとも姉妹の縁が切れるわけではない。会うのが久しぶりでも、お姉ちゃんのいる空間は不思議と肌になじむ。なにがあってもお姉ちゃんはお姉ちゃんだ。
心地よさそうにぷかぷかと仰向きで海面に浮かぶお姉ちゃんの身体を、甲斐甲斐しくナミちゃんが支えている。波に運ばれる姿は、どうしても十年前の出来事を連想させる。痛々しい傷だらけの身体に、一人で過ごした静かな部屋、もう二度とお姉ちゃんに会えないかもしれないという恐怖。
ナミちゃんがどれだけ好意的だろうと、得体の知れないものに生かされている状況には、不安を覚えずにはいられない。姉妹なのだから、空回りだろうが諦めていようが、やっぱり心配になってしまうのに、お姉ちゃんはいまだに気にも留めてくれない。
私なんて存在していないみたいな態度で、お姉ちゃんはナミちゃんと楽しそうに遊んでいる。サンダルの内側に入ってくるざらざらした海砂の感触がやけに不快だった。
海に浮かんでいたはずのお姉ちゃんはいつの間にか浅瀬に戻り、海水に足を浸していた。ふらふらとあたりを歩いた後、砂浜に立つ私を振り向き、なにかを言う。口元の動きで短い言葉を発したのは分かるけれど、その声は潮風にかき消されて、私の耳まで届かない。こちらに背を向け、海のもっと深いところまで進んでいってしまう。何度呼びかけても、お姉ちゃんは振り向かない。やたらと眩しくて、姿勢の良い背中を見ているだけでも目が痛む。どれだけ手を伸ばそうと、お姉ちゃんは離れていくばかりで、おぼろげな日の光に触れることしかできない。瞼を刺す光が和らぐ頃には、お姉ちゃんの姿はもう消えていた。
夜中にふと目が覚めた。暗い部屋の中は静まりかえっていたけど、波の音が絶え間なく響いていて、ベッドに触れる背中までその振動が届いている気がした。
妙な夢を見たせいか、私は涙を流していた。お姉ちゃんが去っていく情景がやけにリアルで、心臓がばくばく音を立てている。全身には厭な汗をたくさんかいていた。
ものすごく喉が渇いていて、水を飲みに部屋から出ると、玄関から物音が聞こえた。覗いてみると、サンダルをつっかけたお姉ちゃんが外へ出ようとしていた。
「なにしてるの?」
不意打ちだったせいか、お姉ちゃんはわずかに身を固くし、そのあとでなんてことないみたいに表情を崩した。
「なにも。散歩しようと思って」
「暗いから危ないよ」
「平気。ちょっとだけだし」
「やめときなって」
「大丈夫だよ。いつもしてるもん」
ここを訪れた初日、幽霊のように夜の海辺を漂うお姉ちゃんの姿を見た記憶が蘇る。私が気づいていなかっただけで、お姉ちゃんは何度も海に吸い寄せられ、ナミちゃんと戯れていたのだろう。
「溺れたくせに」
気づけばそんな言葉が口をついて出ていた。勝手気ままなお姉ちゃんに腹が立った。
ナミちゃんのおかげで二度と溺れることはないのかもしれない。でもそんなの私は知らない。何回だって心配になるのに、どうしてそれを分かってくれないの。十年も前から意味不明な状況に陥っておきながら、今になって急に呼ばれたのも理解できない。バケツで驚かす演出も、死にかけたくせにずっとへらへらしている不謹慎さも、ぜんぶ癪に障る。
不満は声になって吐き出されていて、お姉ちゃんの表情が珍しく強張っていた。思えばお姉ちゃんに直接反発するのは初めてだった。
いたたまれなくなって私は自室に戻った。部屋の外からお姉ちゃんが私の名前を呼ぶ声がしたけど、聞こえないふりをした。
もどかしくて悲しくて、乾いたばかりの目元が再び痛む。私がなにを言っても、お姉ちゃんは、どうせまたナミちゃんに会いに行くのだろう。
見向きもしてもらえない私はお姉ちゃんの横顔しか知らないのに、興味を惹いて絵の対象にさえなったナミちゃんは、常にお姉ちゃんと正面から向かい合える。それが憎らしかった。
くだらないことに、私は液体なんかに嫉妬していた。
しばらくベッドで横になっていたけれど、なかなか眠りにつけなかった。廊下はすでに静かになっていて、ふと喉の渇きを思い出した。
ドアノブに手をかけてみたが、廊下側でなにかがつかえて扉は半分ほどしか開かない。足元に視線を落とせば、ほっそりとした腕が床に転がっている。
「お姉ちゃん!」
動揺した私は、慌ててその身体を揺さぶってしまった。お姉ちゃんは薄く目を開き、か細い声で私を呼んだ。意識があって安堵したけど、どうしてこんなことになっているのか分からなかった。救急車を呼ぶため、部屋へ携帯電話を取りに戻ろうとしたら、お姉ちゃんは「まって」と呟いた。
「ミナちゃん、海まで連れていって」
そうすれば良くなるから、と息も絶え絶えに続ける。この期に及んで海の話ばかりするお姉ちゃんに少し腹が立ったけれど、大人しく従うことにした。ぐったりしたお姉ちゃんを背負い、私は玄関に向かう。
「すぐ着くから」
二人分の体重を乗せた足は砂浜に巻き取られそうになった。細身のお姉ちゃんは軽かったけど、体力のない私はどうしたって情けない足取りになる。
「ミナちゃんにおんぶされる日が来るなんて、夢にも思わなかった」
右の耳元でお姉ちゃんのか細い声が鳴る。
「逆はあったよ。覚えてる? おばあちゃんが死んじゃったとき、二人で一緒にお母さんの実家に帰ったよね」
「覚えてるよ」
「訳もわからないままほとんど知らない場所へ向かって、すごく怖くて不安だった。でも、お姉ちゃんがいてくれたから平気だった」
動揺のせいか私の声色はへんに明るくなってしまった。空回りしていると分かりつつも、不慣れなその態度を止められなかった。
「うん。ミナちゃんの前だから強がっていたけど、本当は私も怖かった」
気恥ずかしそうに弾んだ声は初めて聞くものだった。不意に私は、お姉ちゃんの揺らがない奔放な態度は、つい今までの私と同じく、ただ器用に立ち回れなかっただけの気がした。
磯の香りと波の音が全身を包む。寄ってくる波で足先が濡れる。私は恐る恐るお姉ちゃんを湿った砂浜に下ろした。そのまま流されてしまわないか心配でぎゅっと抱きかかえて浅い海面に浸っていると、ぐったりとしたお姉ちゃんの腕に、すこしずつ力が入ってくる。気づけばナミちゃんが私とお姉ちゃんの身体を包み込んでいた。
「ごめんね、黙っていて」
ナミちゃんは嬉々として私たちの周りで渦巻いている。お姉ちゃんはぽつぽつと語り始める。
ナミちゃんに助けられてから、しばらく普通の生活を送っていたけれど、定期的にお姉ちゃんは調子が悪くなるようになった。原因は分からないが、なぜか海へ行きたくなり、衝動に従うと体調が回復する。海でエネルギーを溜めて、その分を陸で消費することを繰り返していた。
「だんだんと陸で過ごせる時間が短くなっていって、最近ではもう、夜のほとんどを水中で過ごしているの」
お姉ちゃんの言葉を聞いたナミちゃんは無数の球体に分離し、歓喜するようにそこら中を飛び跳ねる。異様に陽気な動作に、もう一度お姉ちゃんが攫われてしまうと背筋が凍る。月明かりに照らされて海水の一粒ひとつぶが反射する。煌びやかで奇妙なぐらいに美しい光景だった。弱っていくお姉ちゃんの肉体を癒せるのは、恨めしいことにナミちゃんしかいないのだ。
「助けてくれた」なんて言うけれど、こいつは意図的にお姉ちゃんを攫って、その上で助けたに違いない。お姉ちゃんを海に縛り付けて二度と離れないようにしている波の化け物は、見てくれだけが美しく、どこまでもおぞましい。
「私はいつか、海の中でしか生きられなくなるの。そうなる前に、今のミナちゃんと一緒に過ごしてみたかった」
月が雲で陰り、真っ暗で、波の音だけが響く。誰の姿も見えない海で、腕の中で私を抱き返すお姉ちゃんは、場違いに愉快な声で言った。
「なんで楽しそうなの?」
「こんな状況になれば、ミナちゃんは最後まで傍にいてくれるでしょ?」
耳元でくすくすと笑う声が聞こえる。どこまでも勝手で変わらなくて、それでも本当は寂しがり屋だったらしいお姉ちゃんに、思わず私まで笑ってしまう。
「バカじゃないの」
海辺で夜を越し、日の出とともに私は浅く幸福な眠りから目を覚ました。砂粒と海水で衣服はベタベタに汚れていたけれど、お姉ちゃんの顔色はすこぶる健やかなものに戻っていた。
シャワーを先に譲ってくれたお姉ちゃんについて、細長いお湯を浴びながらずっと考えていた。平気で離れていくくせに、最後になって呼ぶなんて、どこまでも身勝手だ。
波の化け物をバケツに汲んでおいて陸で暮らし続けることは出来ないのかと尋ねてみた。すでに試した結果、二人して元気がなくなっていくだけだという。
お姉ちゃんと化け物は、今日も浅瀬で楽しげに飛沫を上げて戯れている。
「ねえミナちゃん、これあげる」
お姉ちゃんはこちらを振り向き、両耳につけていたピアスを海に落とさないように一つずつ慎重に外していく。
「いっつも海にいて、そのうちなくしちゃう気がするから、ミナちゃんが使って」
差し出されたのは、涙の形をした白いピアスだった。
「私の手作りだよ。ナミちゃんがくれた綺麗な貝殻で作ったの。ミナちゃんにあげてもいいよね?」
お姉ちゃんが尋ねると、化け物はうんうんと頷く代わりに、飛沫を弾ませる。
この上なく不気味で理不尽な存在のはずなのに、嫌悪感を抱いているのは私だけだった。お姉ちゃんは満足げな顔で潮風に短い髪を靡かせている。
お姉ちゃんがあんまり絵を描かなくなったのは、陸で生活できる時間が短くなっているからなのだろう。スケッチブックを手にしていないお姉ちゃんは、本当に違う生き物になってしまったみたいだった。
それでも、お姉ちゃんは最後に私といたいと言ってくれた。
夢の中で見た、声のないお姉ちゃんの口元の動きが脳裏をよぎる。勝手な思い込みかもしれないけれど、あのときのお姉ちゃんは、「一緒に来て」と言っていた気がする。そんな風に考えてしまう時点で、私にはもう他の選択肢なんてなくなっていたのだ。涙型のピアスを大人しく受け取る。お姉ちゃんが海にしかいられないのなら、私はこれから先もずっと、ここに住み続ける。
たぶん、同じなのだろう。お姉ちゃんが波の化け物に海辺へ縛り付けられているように、私はきっと、お姉ちゃんのいる場所からもう離れられない。私に見つめられるのは波の隙間から覗ける横顔だけかもしれないけど、もうそれで充分だった。
真夏はいつの間にか通り過ぎて、日中の日差しの厳しさは和らいでいる。大学の長期休暇も終わりが近づいていた。
どれだけ呆れても、諦めたつもりになっても、屈託なく笑う憎らしい顔を、私は大切に思ってしまう。いつかいなくなってしまうのなら、先のことなんてどうだっていい。まさしくお姉ちゃんの言う通りだった。
波の音が聞こえる度に、不吉に感じながらも、お姉ちゃんの礎になっていると思うのだろう。これから先何度でも、海面に浮かぶ白い横顔と水飛沫に私は見惚れ、これから先何度でも、水上から投げかけられる言葉に、悲しくも、嬉しくもなってしまうのだろう。
【おわり】