宋帝王からの手紙
ここは生きとし生ける者が輪廻する六道のうち、最下層にある地獄道、すなわち冥界である。
行方不明の弟を探す翠は、閻魔王・天鴦のはからいで、冥界の中枢となる閻魔庁の内部の王宮の台盤所で働かせてもらっている。
ある日の昼下がり、翠は天鴦に呼び出され、外廷の王の執務の間にいた。
用があればたいてい天鴦のほうから翠のもとに来てくれるのだが、今日はちがった。
「これをあげるよ」
執務机の席についていた天鴦が渡してきたのは絹製の布袋だった。
「なんですか、これは?」
問いながら、受け取った布袋の中をのぞいてみると、中には豆か、木の実とおぼしきものがずっしりと入っていた。
松の実ほどの小さな粒で、艶があり、きれいなあずき色をしている。
「今日、所用で閻魔庁をおとずれた宋帝王が手土産がわりに置いていったんだ。近しい者たちと食べてみてくれと」
「宋帝王……」
地獄の審判を担う十王のうち、邪淫に関する罪を裁く第三殿目の王だ。十王会議の夜に少し話したのでよく覚えている。女官たちをさざめかせるほどの美形だった。
「食べられるんですか?」
「ああ。両婦地獄で採れる笙甘という木の実だそうだ。そのままでも食べられるし、すりおろして料理に混ぜたり、のせて焼いたり蒸したりしてもいいらしい」
両婦地獄というと、二股をかけた浮気者の亡者が堕ちる小地獄である。
「味見してごらん」
言われるままにひと粒食べてみると、燻した落花生みたいな味がした。あとからほのかに不思議な酸味が残る。
「少し癖があるけど香ばしくておいしいです」
酸味に惹かれてもうひとつ食べたくなる。
「そうか。なら、台盤所の女官たちにも食べさせみてくれ。反応がよければ、今後、宮廷料理に取り入れるとしよう。宋帝王からもぜひそうしてほしいと勧められたんだ」
宮廷御用達となれば現地の生産者は潤う。王宛ての手土産とは、それを目的に支度される場合が圧倒的に多いのだという。
「わかりました」
翠は笙甘の実を袋の口を縛りながら頷いた。
翌日の昼下がり。
食材庫の清掃担当だった翠が掃除を終えて裏庭に出たところへ天鴦がやってきた。
どことなく深刻な表情だ。なにかあったのだろうか。
「えっ?」
天鴦の登場とともに、裏庭に放ってあった鶏がなぜか、わき目もふらずにものすごい勢いで彼のもとに集まってきた。
「こらっ、どうしたの、いきなり……」
黒ヤギたちまでが柵を越して、メェメェと鳴きながらやってきた。
「どうしたんだ、こいつらは。腹でも減ってるのか?」
「さっきあげたばかりです」
餌の刻になるとわりと懐いて寄ってくるものだが、こんな足の踏み場もなくなるほどでもないので翠も驚いた。
「それよりどうだった、笙甘の実の評判は?」
問われてはっと思い出した。
「あ、そういえばあとからみんなに披露するつもりですっかり忘れてました」
女官頭が不在だったのでひとまず調味料の棚に置いておいたのだ。
しかし、その場所をたしかめてみても袋は見当たらなかった。
「おかしいな。どこいったんだろ。たしかに棚に置いたはずなのに……。だれかが無断で食べてしまったのかな」
休憩中でおのおの出払っているために、たずねることもできない。
「食べられたのだとしたら厄介だな」
「どうしてですか?」
そうするよう勧めたのは天鴦なのに。
「実はあれは手土産ではなく危険食材の報告のための見本だったそうなんだ。係の者の不手際でまちがった物を渡す羽目になってしまって申し訳なかったと、さきほど宋帝王から詫び状が届いた」
「危険食材ですか?」
いわくつきのために市井での取引を禁じられている食物のことだ。
「ああ。なんでも媚薬まがいの効果があるから不特定多数の相手には食べさせないよう注意せよとか」
「媚薬まがいの効果?」
「食したあと一番はじめに見た相手に惚れるらしい」
「えっ」
翠はすでに食べてしまったのだが。
(そういえば、なんだか胸がいつもよりどきどきするような、しないような……)
「ほんとにそんな植物が存在するんですか?」
鼓動の高鳴りなど気のせいだとごまかしたくて問う。
「俺も眉唾だと思っているんだが、両婦地獄の土壌には多情な亡者の血がふんだんに染み込んでいるから、その影響でよからぬ植物が育つらしい。だれかが食べたのだとしたらまずい」
なるほど。
「でも問題ないです。どうせここのみんなははじめから天鴦様か、そのまわりの冥官のだれかにめろめろだもの」
女官たちの話題は天鴦、もしくは彼のとりまきの美顔の若手冥官らの噂でもちきりである。
ふと、天鴦が瞳をのぞいてきた。
「おまえもそのひとりか、翠?」
翠はどきりとした。
「ち、ちがうと思います」
なんとなく目をそらした。
「そういえばおまえ、執務室で味見していたよな。気分はどう。俺に惹かれるような感じは……?」
すっと顎先をすくって問われる。天鴦の美貌が近くなって鼓動が一気に高まる。
「べ、べつに、とくになにも……、小さいのをひと粒食べただけだし……」
しどろもどろになったが、この状況ならたぶん、媚薬効果などなくとも、だれでもどきどきしてしまうと思う。
「一分のときめきもなしか?」
「なしです」
「ほんとうになにも……?」
天鴦はじっと瞳を見つめてくる。
「……ありません」
たぶん。
「さみしいな。実は抱かれたいとか口づけられたいとかいう激しい感情を持てあましているわけでもなく?」
「あるわけないわ」
翠は真っ赤になって天鴦の手をうち払った。
「もう天鴦様は仕事に戻ってください。わたしも黒ヤギさんたちを小屋に帰さなきゃ」
なぜか、これでもかというくらいにふたりのまわりに押し寄せてきているのだ。興奮して鳴き声をあげているのもいる。
「冗談はさておき、残りはどこにいったんだろうな」
あっさりと翠から手をひいて天鴦がつぶやく。
(冗談……)
媚薬の影響のほどを探っていたというより、いつものごとく、こっちをはらはらさせて息抜きを楽しんでいただけのようだ。
「わかりません。あとからよく探してみますね」
翠が落ち着かない心地のまま、黒ヤギの頭を撫でかけたところで、
「あーっ、おめーら、なんで小屋から出てこんなところに集まってきてんだ?」
聞き慣れた声がして、翠はふりかえった。
猫耳の小柄な見習い女官の古桃が、翠たちを取り囲む黒ヤギや鶏を見て目を丸くしている。
「いいところに来たわ。桃、調味料の棚に置いてあった木の実を知らない? 袋に一杯あったはずなんだけど」
古桃がきょとんとした顔になった。
「ああ、それならあたしが朝、こいつらにぜんぶ食わせたぞ」
「え?」
「は? エサじゃなかったのか?」
「…………」
たしかに似ているが。
どうりでみんなが天鴦のもとに集まってくるわけだ。
「……こんな効果覿面なら相手が家畜でよかったな」
鶏と黒ヤギに思いきりすり寄られながら天鴦がぼやいたのだった。
【おわり】