真砂なす 第一回

『宝石商リチャード氏の謎鑑定』番外編

 ミュンヘン・ミネラルショーを訪れるのはこれで三度目だ。ミュンヘン国際空港からUバーンと呼ばれる地下鉄に乗り、かつては飛行場として使われていた大規模展示場前で降りる。
 すぐそこが、世界最大規模のミネラルショーの会場だ。
 初めてここに来た時にはリチャードと一緒だった。二度目は一人で買い付けにやってきた。五年前と三年前の話になる。今回は初回と同じようにリチャードと一緒だが、それだけではない。
「シャウルさん、もう例の場所にいるかな」
「まだでしょう。彼は無駄な時間を嫌います。時間つぶしに別の場所で別の商談を入れているのでは?」
 何と何と、今回のミュンヘンミネラルショーには、ラナシンハジュエリーの主要メンバー三人が揃っているのだ。ヴィンスさんがいれば完璧に勢ぞろいなのだが、彼は現在香港(ホンコン)で開催されているオークションの下見会に(おもむ)いている。みんなそれぞれ仕事があるのだ。だからこそ三人も揃うのは珍しい。もちろん俺とリチャードも単純に遊びにやってきたわけではなく、シャウルさんもそれは同様だ。彼は彼で古い馴染みであるディーラーと話があるそうで、俺達はそれぞれ新しいお店と新規()(きゃく)層の開拓を狙っている。それぞれ別の日程で動いていたのが、何となく重なりそうだったので、では会いましょうかというボスの号令一下、ここでランデブーと(あい)()ったのである。
 例の場所とはカフェやレストランではない。ブースだ。
 多くのミネラルショーと同じく、ミュンヘンショーも数々のストーンディーラーや小売り業者、あるいは個人『ブース』と呼ばれるショップの集合体によって形成されている。その数、実に五万。日本が誇る創作の祭典コミックマーケットの出店数が二万だというので、その倍以上のブースが出ていることになる。それぞれのブースにはナンバーが振られていて、イベント会場はさながら()(ばん)の目状に区切られた都市だ。それぞれのブースの中で、きらめく宝石や(あら)(けず)りな原石、樹木のように腕を伸ばす()(ぜん)(きん)の標本や、人が入って写真撮影を(たの)しめそうなアメシストのアゲートなどが展示されている。全てがミネラル、いわゆる鉱物にまつわる祭典だ。売り手の商品も石なら、買い手が求めているのも当然、石である。
「H65、H65このあたりかな」
「師匠」
 いち早くリチャードが声を上げた。俺も頭を巡らせる。
 人の流れでごったがえす通路の向こうに、まるで魔法の世界から浮かび上がってきたようなブースが存在していた。しかしこのデコレーションはブースというより『店』だ。
 軒先の椅子に腰かけていたシャウルさんは、いつでも同じ思わせぶりな仕草で振り向き、豊かな口ひげをくゆらせるように微笑んだ。
「ごぶさたしていますね、リチャード。(なか)()さん。お元気でしたか」
「はい、つつがなく」
「おかげさまで元気にしてます! 先だってはミネラルウォーターとぶどうジュースを箱で贈ってくださってありがとうございました。おいしかったです」
「どういたしまして。水分とビタミンの補給は重要です。今日も飲んでいますか」
「がぶがぶ飲んでます! あ、もちろん酒は一滴も飲んでないですよ」
(せい)()
「ははは。あなたは相変わらず楽しい。ウマル、こちらが私の弟子たちです」
「サラーム。シャウルのお弟子さんたち。この()(じん)とうまくやれるということは、相当なへそまがりとお見受けします」
「初めまして、ウマルさま。ご安心ください。それほどうまくはやっておりません」
 いい笑顔で答えるリチャードに、俺は噴き出さないようにするのに苦労した。
 シャウルさんが待ち合わせ場所に指定してきたのは、まるでアラビアンナイトの世界から抜け出してきたようなブース、H65番『シェヘラザード』だった。天井がわりの鉄柱から吊り下げられたランプ、(しょう)(しゃ)なテーブル、ティーポット。背の高い戸棚の中に閉じ込められた数々の鉱物標本がメインの商品であることは明らかだったが、それ以外の小道具も含めて売り物だろう。この『店構え』を見ていると魔法の力に(ひた)ってしまって、その欠片だけでも家に持って帰りたいような、そんな気分にさせられてしまう。
 英語とドイツ語で『展示者 ウマル・シャリーフ』と書かれた札を首から下げている男性は、頭に(えん)()色のフェズ帽をかぶっていた。シャウルさんと同じイスラム教に()()している人なのだろう。背はシャウルさんより低く、俺たちの顔を()てからずっとにこにこしている。五十代くらいの優しそうな人だ。
 俺は店の中に足を踏み入れ、まずテーブルの上に置かれたティーセットに驚いた。クオーツつまり水晶や、フローライトすなわち蛍石をカービングしたカップやコースターが並んでいる。ミネラルショーでもたまに見るが、ここまで細工が凝ったものは珍しい。硬度の低いフローライトの細工物に合わせたのか、コースターは細い金属の縁に囲まれているが、この縁を作るのにも相当の技術が必要になるだろう。一歩間違えれば石が砕け散ってしまうからだ。見ているだけで胸が熱くなってくる。極め付きは宝石をちりばめた地球儀だ。直径が一メートルくらいあるので、それぞれの地図に海や陸として(ぞう)(がん)されている貴石や半貴石の大きさも相当になる。アンティーク風のふるぼけた風合いになっていて、まさにマジックアイテムという雰囲気だ。回したらオパール色のオーラが立ち上りそうな気がする。
 そして。
「リチャード、チェスセットがあるよ。素材が全部石だ」
「当然ですよ! ミネラルショは石のお祭りですからね」
 ウマルさんが得意げに笑う。シャウルさんはまだ椅子から腰をあげない。リチャードは少し、自分の師匠を(あき)れたような顔で見た後、俺の方についてきた。そう(あせ)るものじゃない。それぞれの仕事の時間まで丸二時間ほどあるから、特に用はないけれど会おうという話にもなっているのだ。
「へえー、これは全部(だい)()(せき)なんですね! キングの王冠だけがクオーツか、すごいなあ」
 俺は能天気な英語で喋った。ドイツでは当たり前のように英語がよく通じる。リチャードも英語で応じた。
「インテリアとして飾っても、大変(おもむき)がありそうですね」
「飾る場所を選ばないと、大きいから部屋の掃除が難しそうだけどな」
「掃除のことを考えるのが、いかにもあなたらしい」
「ははは。これを見て実際に遊ぼうとするのは少数派だよ、お弟子さんたち。二人とも、ひょっとしてチェスが好きなのかい?」
 首をかしげるウマルさんに、こっちにいるのは俺のチェスの先生なのでと、俺はリチャードを示した。リチャードが胸に手を当てて一礼する。鬼のような強さの持ち主で、教えてもらいはしたが互角に戦うことは一度もできなかった。そんな俺でも、仕事の待ち時間中にニューヨークの公園でわいわいチェスを指している人たちの中に混じった時は、それなりの勝率で戦えたので、そんなに悪い腕前ではないと思うのだが、段違いとか格上というものはどこにも存在するものだ。
 ウマルさんは嬉しそうに笑った。
「そりゃあいい! 嬉しいね、私もボードゲームが好きで、特にチェスに目がなくてね。こういうものをつい仕入れてしまうんだ。じゃあやっぱり、このお兄さんの先生はシャウルなのかい」
「もちろんです、ウマル」
「多少教えていただきはしました」
 師弟の間にバチッと火花が散るのを、俺は見た気がした。リチャードがスリランカで充電に励んでいた期間、リチャードから中国語を教わるのと並行して、シャウルさんもリチャードに色々なことを明らかに料理以外だろうが教えていたらしい。その中にはチェスをはじめとしたマインドスポーツも含まれていたと聞いていたが、多分それは、俺とリチャードの『ポーンはこう動きます』式レクチャーとは全く別次元のものだったのだろう。そしてこの師弟の間には、多少の意地の張り合いがある。
 こういう時に活躍するのも俺、板挟みマンこと中田正義の務めである。
「それにしても今日、ここで会えてよかったですよ! ショーの最中には仕入れ業務があるとして、その後はどうしますか。シャウルさんはどこのホテルに滞在しているんでしたっけ。Uバーンとトラムだったらどっちの沿線ですか?」
「不肖の弟子A、あなたはもしかして自分が私よりチェスゲームに熟達しているとでもお思いなのではありませんか?」
「そのようなことは決して。私は英国人ではありますが、最近は秘書のおかげで日本的(けん)(じょう)の美徳を身に着けつつありますので」
「イギリスからやってきた狐のような顔をしてよく言います」
「スリランカの民話では狐は愛すべきものと思われているとか。光栄です」
 俺の気苦労は無だった。待て待て待て、待ってくれ。この雰囲気は一体どうしたことだろう。ひょっとして俺のいないところで二人は何らかの連絡を取り合い、それでまた微妙に空気が悪くなったりしたのだろうか。そうなると困る。俺の知らない事情でトラブルが起こっても、俺の持ち(ごま)ではどうしようもない。最近それなりにものになってきた『歌って踊る』作戦も、この二人の前では無意味だ。
 どうしましょうウマルさん、ご迷惑をおかけしてすみません、と日本人的謙譲の美徳あるいは他の何かを発揮して俺が視線を送ると、ウマルさんは何故か子どものように目を輝かせていた。この人もシャウルさんとうまくやれるタイプの人なのだろうか。
「シャウル、ちょうどいいじゃないか。ここでその人と決着をつけたらどうだい。ええと、お兄さんのお名前は何と言うのですか」
「リチャードと申します」
 ウマルさんは丁寧にリチャードに頭を下げ、アラビア語で(あい)(さつ)した。名前を教えてくれてありがとうという意味らしい。柔らかな物腰とは裏腹に、目は爛々(らんらん)と輝いている。
「シャウル、リチャードさんも、ここで腕前を披露したらどうかな? しばらく時間があるんだろう。お客さんが一番入る時間はランチタイム後くらいだから、今は(なが)(ちょう)()になっても構わないよ。リチャードさん、私もシャウルほどじゃないのですがチェスが好きでね、是非二人の戦いを見せてくれないかな」
 それにこのお兄さんが店の前に座っていてくれるとみんなうちの店を見て行くしと、ウマルさんは付け加えなかった。が、ちゃめっけに満ちた目が雄弁に語っている。俺の上司はハウスマヌカンではないのでそれはちょっと、俺が間に入ろうとすると、リチャード当人がそれを留めた。
「私は戦うのに(やぶさ)かではありません。師匠、あなたは私が戦おうとするとのらりくらりとお逃げになる。私の腕前をからかっておきながら、実際は打ち負かす自信がないのでは?」
「いつの間にか大口をたたくようになりましたね、弟子A。ウマル、お茶を買ってくる必要がありますよ。茶菓子もあればなおよいですね」
「もちろん茶器も茶葉もあるよ。ポットはクリスタルだけどね」
 完全に置いて行かれてしまった俺に、ウマルさんはウインクを寄越した。そしてようやく、俺は()に落ちた。
 何のことはない、この三人は全員チェスに目がないのだ。


 まだあまり人がいない展覧会場の片隅で、スーツの男二人が勝負を始めた。それぞれの商談の開始時刻を俺は()(あく)しているが、まだ二時間は余裕がある。こういう遊びもいいものだろう。
 不敵に微笑むシャウルさんが譲ったので、リチャードが先攻の白。シャウルさんが黒。素材はそれぞれ大理石と黒曜石だ。それぞれの王の冠だけがルチルクオーツ入りの水晶で、金の針のようなインクルージョンがしゃらしゃらと輝いている。椅子もまた凝っていて、クッション以外の部分は大理石やアゲートを組み合わせた大層な細工物だ。
 シャウルさんは優雅に脚を組み、口を開いた。
「ただ勝負をするのでは面白くありません。何かを賭けませんか? たとえばあなたが負けたら、これまで私に作ってきた数々の借りの負債を返済すべく、一層業務に(ふん)(れい)するとか」
「え? シャウルさん、これ以上リチャードを忙しくするのは」
「ご心配なく、中田さん。あなたの業務も『リチャードの業務』という形でくくらせていただきますので、忙しくなるのはあなたの上司だけではありません」
「それのどこが『ご心配なく』なのですか、師匠」
「そうか? 俺は少し安心したけどな。リチャード、負けても大丈夫だ。俺が忙しくなるだけらしい。って言っても、お前は気にするか
「尋ねるまでもないことを尋ねないでいただきたい」
 しかし、とリチャードは言葉を続けた。俺ではなくシャウルさんに向けて。
「私が勝った場合はどうなるのです?」
 シャウルさんはドラマに出てくる名探偵のように、片方の黒い眉をひょっと持ち上げた。どうやったらこんな顔ができるのか俺には見当もつかない。
「おや? そのようなことがあり得ると?」
「師匠、(ごう)(がん)()(そん)も度を超えると()()(もう)(まい)の親戚になり得ます」
「四字熟語を使えば日本語(たん)(のう)に思われると思っているなら、それこそ大きな勘違いでしょう、わが弟子」
「秘密主義のあなたの昔話を聞いてみたいと思っているのは私だけでしょうか? 正義、あなたも興味があるのでは?」
「えっ? そ、それはそうだけど」
 ほら、と言わんばかりにリチャードは『師匠』の顔を見た。シャウルさんはやれやれと言わんばかりの顔をして、チェス盤を促した。
「私はあなたの手を待っているのですよ。まずはお指しなさい」
「では」
 リチャードはポーンを二マス進めた。親指と中指でポーンの頭をつまむ手つきは優雅で、俺は惚れ惚れしてしまう。間髪をいれずうち返すシャウルさんの手つきは、駒の下の方を親指と人差し指でつまむタイプだった。
 少し考えて、リチャードが二手目を指す。シャウルさんも二手目。素早い。

 リチャードは少し眉間に皴を寄せ、俺には見えない何かを盤上に見ようとするような目をしながら、そっと駒を進めた。と。
「そうですね、ではどこから始めましょうか」
 だしぬけにシャウルさんが喋り始めた。
 何を? と言いたげに目をすがめるリチャードに、シャウルさんは皮肉な笑みを返した。
「決まっています、私の昔話ですよ。どうせ私が勝つことは決まっています。せめてもの暇つぶしに、少しくらいは聞かせてあげようと思いましてね」
タイムキーパーがいないのをいいことに、長考の時間を取ろうとしているのでは」
「ナンセンス。私はあなたのために多少の手加減をしてあげようと言っているのですよ、わが弟子。そうですね、それでは初めの初めから」
 私が彼女と出会ったところからと。
 シャウルさんがそう言った時には、俺たちはアラビアンナイトに出てくる王さまのように、物語の中に引き込まれていた。

【つづく】