ときめきの宝石サンド
お盆を過ぎ、暑さのピークは通り過ぎた――かと思いきや。
（とけそう……）
定時で職場を出た実音子は、夕方とは思えない強い日差しに肩を落とす。
今日も今日とて、上司からの理不尽な叱責や、客からの身に覚えのない言いがかりを受け、身も心も疲弊していた。その上この気候だ。常日頃から抱える希死念慮に押しつぶされそうになる。
（こんなときこそ……お店へ寄って帰ろう）
春に出会ってから数か月、疲れ切った実音子の心を癒し続けてくれる店、『フルーツサンド 招きねこ』へ足が向かう。
天高く枝を広げる桜の木の向かいに、洋風レンガ造りの二階建てメゾネットが建っている。手前の駐車場に出ているイーゼル型の看板は、実音子が通う度に手伝いで描かせてもらっているものだ。
ここへ来たら、あるべき場所へ帰ってきたようで、ようやく呼吸を取り戻せた心地がする。
住居一体型の店の出入り口は、リビングの大きな掃き出し窓だ。そこを開ければ、来客を知らせるチャイムが鳴った。
「はーい」
二階から穏やかな声がして、男性が螺旋階段を下りてくる。背が高くすらりとした体型に、浮き世離れした美形の彼は星浦瞬、こちらの店主だ。
「あっ、ねこちゃん。いらっしゃいませ」
優しくほほえまれると、実音子の胸の内でくすぶっていた暗いものはすうっと霧散した。
（やっぱり、来てよかった）
カウンター横のガラスケースをのぞき込んで、今日のラインナップを確認する。
そこには、種なしの巨峰を円に並べて花をかたどったブドウのフラワーサンドが鎮座していた。
（あれ、五個。結構残ってる）
かわいい見た目で、発売当初から売れ行きが良かったはずなのだが……。
そんな疑問の視線に気づいた瞬は、眉を下げる。
「ここ数日、昼間ほとんどお客さんが来なくて」
「そうなんですか」
「残暑が厳しすぎるせいかな。日が暮れた辺りから、またぽつぽつと来始めるんですけどね」
「何時くらいまでお店を開けているんですか？」
「適当……ですかね。まあ自宅なので」
ふにゃっと笑って二階を指す。しかしその顔には、暑さのせいもあるだろうが若干の疲労が滲んでいた。
（あまり無理してほしくないな）
なにか力になれないだろうか。付け焼き刃的に「全部買います！」と言えば済む問題でもない。
「その、差し出がましいとは思いますが、しばらくのあいだ昼間いったんお店を閉めて、夕方からまた開ける……みたいな形にしたほうがよくないですか？ そうすれば二階でされているお仕事も捗るでしょうし……」
「それもそうですね。あ、そうだ。ちょっと待ってて」
彼は思い出したふうに背を向け、キッチンからなにかを持って戻ってくる。
「これ」
問答無用で唇へ押しつけられて、思わずぱくりとくわえ込む。
驚くやら、距離の近さに恐縮するやらで目を回していれば、彼はこちらの焦りなどまったく気にせず右目をつむる。
「シャインマスカット。今朝一房だけ歩夢が持ってきたんです」
（高級ブドウ……！）
ぱりっとした皮が前歯に小気味よく、メロンよりも際立って甘い果汁が口中にほとばしり、舌の上で妖艶にとろける。
たった一粒でも極上の味わいだ。
「すごく……おいしいです」
「でしょう？ 明日からにしようかとも思ったんですが、起爆剤に今からこのサンド出してみようかな」
「絶対売れます！」
思わず拳を握って力説する。しかし、客が来なければ話にならないわけで。
「ねこちゃん、もしよかったらシャインマスカットのイラスト描いてくれませんか？ 表の看板にライト取り付けて目立つようにしようかと」
「もちろんです」
「ちょうど夜光チョーク買ってきたんですよ」
赤・黄・緑の三色セットの紙箱を渡されて、俄然やる気が湧いてくる。
窓を開けて外へ出たところで、ふっと別の考えが浮かんだ。
「あのっ、もし大丈夫なら……ここに直接描いてみてもいいですか？」
「え？ 駐車場に？」
「はい。近所の子が家の駐車場にチョークでお絵かきしているのを見たことがあるんです。終わったらじょうろで水をかければ消えるみたいで」
小さいイーゼルよりも、駐車場に大きく描かれたイラストは、暗くなっても目立つのではないか。
瞬は瞳を丸くして……くしゃっと笑み崩れた。
「いいですね！ じゃあ僕は、駐車場全体を照らせるように工夫してライトを取り付けます」
（嬉しい……）
意見を受け入れてもらえたことも。役に立てるかもしれないことも。とびきりの笑顔を浮かべてくれたことも。
暑さなんて忘れてしまった。
中腰で、夢中になってフルーツサンドを描く。
蛍光の黄色と緑をほどよく混ぜて、シャインマスカットの実を塗っていく。大通りを車が通り過ぎるたび、ライトが反射してきらりと輝いた。
「宝石みたいですね。黄緑色の……なんだっけ？」
軒下にライトを取り付けた終わった瞬が尋ねてくる。
「……ペリドット、ですか」
「そうそう、そんな名前。よく知ってましたね」
「持っているとポジティブになれる……とかで、なんか気になる石だったので。えっと、八月の誕生石ですし」
ネガティブな自分にパワーをくれたらいいなと、ブレスレットを買ったことがあるのは秘密だ。
「わあ、なにあれ」
早速、駅方面から歩いてきた女性二人が足を止める。
「こんばんは、フルーツサンド屋です。シャインマスカットの宝石サンド、今なら取り扱っていますよ」
瞬が宝石にも勝る笑みを向ければ、女性たちの瞳はときめきで満たされる。
「買います！」
彼女らの邪魔をしないようにと、実音子は外で片づけをしながら待った。
その後も、客が連続でやってくる。ものの十分で四組の客が入り……慌ただしく見送ったところで瞬が外へ出てきた。
「ごめんなさい！ ずっと外にいさせちゃって。中で待っててもらえばよかった」
「いいんです。ここからでも、どんどん売れていくのが見えて……楽しかったので」
シャインマスカットの相乗効果で、売れ残っていたフラワーサンドも無事完売したのだった。
（なんだか……すごく嬉しい）
この幸せな気持ちを抱いたまま床につきたい。自分用のフルーツサンドは買えなかったが、十分すぎるほど満足していた。
「イラスト、消してから帰りましょうか？」
「いや。ライトを消すから、イラストはそのままで大丈夫です。それより……これ」
ぽんと手渡されたのは、縦一直線にペリドットの輝きが並んだシャインマスカットのサンドだった。
「え!? 売り切れたはずじゃ……」
「最後の一個、ちゃんと残しておきました。これはお礼なのでお代はいりません」
「だ、だめですっ、いただくわけには」
「もうレジ締めちゃったので返品不可です」
茶目っけたっぷりに両手をクロスさせてくる。これは断れない。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
（ううん、本当に……わたしこそが、ありがとうだよ……）
ポジティブな宝石サンドは、一口ごとに驚きと興奮と感動が紡がれる圧巻の味だった。
【おわり】