屋根裏の番人
その日の終島は、朝から冷たい雨に包まれていた。
ヒマワリは薄墨色のどんよりした空を窓から見上げて、今日は外では遊べないな、と考える。
さて、何をして遊ぼうか。
アオは書斎のソファで買ってきたばかりの新刊に夢中になっているし、クロは寒いと言って居間の暖炉の前に陣取って動かない。
薄暗い廊下を歩くと、床板がきしきしと鳴った。こんな雨の日は、灰色の古城はいつにもまして陰鬱で、おどろおどろしい雰囲気を醸し出す。そんな風情も、ヒマワリは嫌いではない。
(そうだ、あそこへ行ってみよう)
ヒマワリはランプを手に取ると、軽やかに階段を駆け上がった。
「へえ、あれもキノ派の絵なのか。古典主義だっけ? なんか印象違うな」
『うむ。この作者は古代文明に大層感銘を受け、遺跡の発掘なども自ら行い世界中を回ったのだ。この絵は彼の研究成果によって独自に――』
三階から話し声が聞こえて、足を止める。
ロングギャラリーの入り口で、石膏像が饒舌に蘊蓄を語っていた。
それに愛想よく相槌を打っているのは、ミライだ。
「向こうの奥にあるやつ、よく見たら油絵じゃないよな。あれって糸?」
今度は別の絵を指さす。
『ほほう、よく気づいたな! それは刺繡絵画だ。下絵をもとに、刺繍職人が針と糸で縫い上げたものなのだ』
「えー、すごい。戻ったら探してみよ。倉庫にあるかな……」
「ミライ!」
声をかけると、未来からやってきた青年はこちらを振り返って、「よう、ヒマワリ」と軽く手を振る。
「今来たの?」
「いや、結構前。こちらのご高説を拝聴してた」
石膏像は自分の話を熱心に聞いてくれる相手が大好きなので、大層嬉しそうである。
「おもしろい?」
「美術史かじったことあるから、なかなか興味深いよ。俺の時代じゃ聞いたことのない話もあったし」
「ふーん」
ヒマワリにはさっぱりである。
「そろそろ下に降りようかと思ってたとこ。ヒマワリは何してんだ?」
「屋根裏部屋に行くの」
「屋根裏?」
ヒマワリはふふふ、と意味深に笑う。そして、声を潜めた。
「あのね、このお城にはね、絶対に動かしてはいけない人形があるんだよ」
「絶対に動かしてはいけない、人形……?」
その背徳的な言葉に、ミライの目が好奇心にきらりと光った気がした。
『おい小僧! まさかそれは、屋根裏にあるあの人形のことか?』
石膏像が怯えたように言った。
「そうだよ」
『だめだ、絶対に動かすな!』
ミライが首を傾げる。
「なんで動かしたらだめなんだ?」
『あれはこの城が建造された当初から屋根裏部屋に置かれていて、もし動かせば城が崩れ落ちると言い伝えられているのだ! そんなことになってみろ、私の大事なコレクションたちが無惨な姿に……! ああ、考えるだに恐ろしい!』
真っ白な石膏像が、心なしか真っ青な顔になった気がした。
「あれー、アオは、動かしたら島が海に沈むって言ってたのにな」
「言い伝えなんて、人づてに伝わるうちに内容がブレるもんよ。それにしても、俺はそんな話聞いたことなかったな。アオはなんで知ってたんだ?」
「昔、シロガネに聞いたんだって。で、シロガネは、この島を買った時に前の持ち主からその話を聞いたって」
「ふぅん……」
「今から、その人形見にいってみようと思って」
「動かしたらだめなんだろ?」
「動かしたらだめとは言われたけど、見たらだめとは言われてないもん!」
胸を張って答える。
ミライは少し考えるように顎を摩る。
「なるほどねぇ。よし! 俺も行こうかな」
「! 本当?」
「呪いの人形ってわけだろ? 面白そうじゃん」
ヒマワリは嬉しくなった。ミライのこういうところが好きである。彼は大人だけれど、いつも子どものヒマワリと同じ感覚で一緒に遊んでくれるのだ。
怪しい場所に入り込む時、一人より二人のほうがどきどきわくわくするに決まっているし、何より心強かった。
「こっちだよ!」
ヒマワリはミライの手を引いた。
後ろで石膏像が『小僧、絶対に触るなよ!』と叫んでいるのが聞こえたが、彼は喋ることはできてもその場から動くことはできないので、その声はどんどん遠ざかっていく。
二人で最上階まで上がり、廊下の突き当りにある塗装の剥げたドアをゆっくりと開いた。ランプに火をつけて、中を照らす。箱やら家具やらが雑多に置かれていて、一見ただの物置だ。だがそれらの奥に、狭く暗い階段が伸びていた。
「へー、こんなとこに階段あったんだ」
「未来にはないの?」
「上の階はあんまり使ってないから、めったに来ないんだよなぁ。まぁ改築されてなければ、まだあるんじゃないかな」
軋む階段を上ると、今度は古びた梯子が現れた。ランプを掲げてみると、梯子の先には跳ね上げ式と思しき小さな正方形の扉が見える。
ヒマワリはそれを両手で力いっぱい押し上げた。が、重くてなかなか持ち上がらない。
ミライが手伝ってくれてようやく、ギギギと重苦しい音が響いた。
扉を押し開き、二人は四角い開口部からそっと頭を出す。
そこには屋根の梁が剥き出しの、薄暗い空間が広がっていた。さすがにここはアオも日常的に掃除をしないのだろう、埃っぽくてヒマワリは少し咳込んでしまう。
斜めに走る天井に取り付けられた天窓からわずかに明かりが差し込んでいるが、外は雨が降りしきっていてさほど明瞭には部屋を照らしていない。雨粒が叩きつけられる音が、頭上に大きく響き渡った。遠くで、唸るように雷が鳴り出している。
梯子を登り切って上がり込むと、ヒマワリはランプをかざした。
やがて二人は、呻くように揃って声を上げた。
「――うわっ」
部屋の中央部にひっそりと、一体の小さな人形が置かれていた――というか、無造作に床の上に倒れていた。
しかもうつ伏せに。
それは恐らく、男の子の人形だった。相当に古いらしく、肌は変色して茶色く、金の巻き毛はあちこち抜けて頭は穴だらけだ。着せられた服も色褪せ虫食いの跡もあって、襤褸を纏った乞食にすら見える。伏せている状態なので、どんな顔をしているのかまでは判別できなかった。
ヒマワリは思わず、ミライのセーターの裾をぎゅっと掴んだ。自分から見に行こうと言っておいて怖がるのはカッコ悪いと思いなんとか我慢するが、そのぼろぼろの風情や部屋の薄暗さや雷の音も相まって、なんだか背筋が寒くなる薄気味悪さだった。
「怖っ……」
ミライも、若干顔を引きつらせた。
「これがその人形? 仮にも絶対動かすなって言うくらいなのに、雑な扱いにも程がない? 逆にその雑さが怖い、逆に」
怖い、とはっきりミライが口にしてくれたことで、ヒマワリは少し落ち着く。大人の彼が怖いというなら、自分が怖いのも当然である、と開き直れた。
ヒマワリは勇気を出して人形にそっと近づくと、屈んで覗き込んだ。
ランプを近づけると、その陰影が人形を余計におどろおどろしく見せる。
「……ちょっと、触ってみようか」
一人ではないことで妙な冒険心が前に出て、思わずそう口にした。
「待て待て。魔法だか呪いだか知らないけど、本当に城が崩れるだの島が沈むだのしたらさすがに困る。未来に返った時、俺どうしたらいいんだよ」
「動かしたらだめ、だけど、触ったらだめ、とは言ってないでしょ」
「確かに。……いやいや。そこの微妙なニュアンス、正しく伝わってるかどうか怪しいもんだぜ。ほんの少し振動を加えただけで、発動する魔法かもしれないだろ」
ヒマワリは少し口を尖らせたが、無理に触ろうとはしなかった。もちろん、ヒマワリだって島が沈んだりしたら困る。
「誰がここに置いたんだろうね。昔、ここに住む子どもがいたのかな」
「人形の持ち主だった男の子がこの世に未練を残して早死にし、その魂が人形に……なーんてのが、呪いの人形のお約束だよな。こう、部屋に置いておいたはずなのに、気づいたら窓の向こうからこっちを見てる、とか……」
その時、かっと閃光が走った。どぉん、という重苦しい音を立てて、雷鳴が轟く。
思わず、ヒマワリは悲鳴を上げてミライに飛びつく。
しかしすぐに我に返って、慌てて身体を離した。人形や雷に、いちいちびくびくしていると思われたくなかった。
勢いよく後退ったヒマワリは、踵に何かが当たるのを感じた。
(え?)
恐る恐る、振り返る。
ヒマワリに蹴飛ばされた人形が、ごろりと仰向けに転がっていた。
「!!!!」
ヒマワリは飛び退り、またミライに抱きつく。
動かしてしまった。
しかも、顔が露になった人形は、さらに薄気味悪さを増していた。右目は取れてぽっかり黒い穴が開いているし、塗装の剥げた頬にはたくさんひび割れが入っている。うっすらと笑みを浮かべたその表情は、妙にぞっとさせられた。
真っ青になっているヒマワリとは対照的に、ミライは「ああー……」と呆気にとられた様子で頭を掻く。
「動いちゃった、かぁー」
きょろきょろと周囲を見回す。
「とりあえず、城が崩れ落ちたりはしてないな」
「ど、ど、どうしよう」
あわあわしているヒマワリをよそに、ミライは落ち着いた風情で人形に近づいていく。
「ミライ!」
ひょいと人形を抱えると、先ほどと同じ場所にうつ伏せに置き直した。
「大丈夫?」
「今のところ、ナイフ持って襲ってくる気配もないし、大丈夫だろ」
ヒマワリは、この人形がナイフを持って襲い掛かってくる場面を想像してみた。怖すぎる。
ミライは窓の外を覗き込むと、
「島が沈む気配もないな」
と肩を竦めた。
「今のところ無事だ。よし、戻ろうぜ」
「う、うん……」
二人は跳ね上げ式の扉を潜って、四階へと戻っていった。明るい廊下に出ると、ヒマワリはようやくほっと息をついた。
いまだに心臓がどきどきしているけれど、ともかく何も起きなかったのだ。ミライがいてくれてよかった、と心底思う。落ち着いて対応してくれる人がいなかったら、パニックになっていた。
「や、やっぱり、迷信だったんだね! ただの人形だったんだ!」
少し震える声でそう言ったヒマワリに、ミライが「うーん」と首を傾げる。
「城が崩れる……は迷信だとしても、あそこにあんな人形が置かれてるのには、なんか意味がありそうだけどなぁ」
「ね、もう下に行こう! ぼ、僕、お腹空いた! アオにおやつもらおう!」
早くあの屋根裏から離れたくて、ヒマワリはミライの手をぐいぐいと引いた。
階段までやってきたとことで、ふと後ろのほうで、ドアが開く音が聞こえた気がした。
はっとして振り返ったが、先ほど出てきたドアはきちんと閉じられていた。
「……?」
「どうした、ヒマワリ」
「あ、ううん」
不安になってミライの手を握り締め、そそくさと階段を降りる。
やがて屋根裏部屋から遠ざかるにつれ恐怖心は薄れ、徐々にヒマワリは達成感に満たされていった。
自分はやり遂げたのだ。あのおどろおどろしい場所を勇敢に冒険して、動かしてはならない人形を(うっかりではあるが)動かし、しかし何事もなく戻ってこれた。
「ふふふ」
ミライと一緒に、アオに用意してもらったケーキを食べながら、ヒマワリはにまにまと笑った。外はどしゃぶりの雨になっていて、雷の音と風の音がこだましているが、それでもヒマワリはなんだかもう怖くない、と思った。
自分は冒険を生き抜いた勇者なのだ。
「ご機嫌ですね、ヒマワリさん」
給仕をしながら、アオが言った。
「うん! あのね、アオ。さっき――」
いいかけて、ヒマワリはひくんと喉を鳴らした。
窓の外に、何か見えた気がした。
時折空を真っ白に染め上げる雷光。その光に照らし出されて、窓枠の端に、影ができていた。
小さな顔。
片方の目が空洞の。
頬には大きなひびが入って――。
ヒマワリは悲鳴を上げた。
「ど、どうしました、ヒマワリさん⁉」
「なんだなんだ?」
アオとミライが驚いてヒマワリを見る。
「……そ、外! そこ、窓に!」
二人は、ヒマワリが震えながら指さす先に視線を移した。
「窓がどうしました?」
しかしそこには、強く打ち付ける雨粒と暗い庭が覗いているだけである。
ヒマワリは目を擦った。
(見間違い……?)
「ヒマワリさん?」
「な、なんでもない……」
困惑しながら、食べかけのケーキに視線を戻す。
(あれ……?)
ケーキが、妙に減っている気がした。
まだ半分はあったはずなのに、あと一口ぶんほどしか残っていない。
(僕、食べたっけ……?)
なんだか、変な感じだった。
ずっと誰かに見られているような気もする。
「――ねぇ、ミライ、ちょっと来て!」
ケーキを食べ終わると、ヒマワリはミライを自分の部屋まで引っ張っていった。
「うわ、なんだよ?」
訳が分からない様子のミライを部屋に入れると、ヒマワリはきょろきょろと周囲を見回し、窓のカーテンも閉め切ってから、声を潜ませた。
「ねぇ、ミライには見えなかった?」
「何が?」
「屋根裏にいた人形! さっき、窓の外にいたんだ!」
「人形~?」
ミライが首を傾げた。
「本当だってば! どうしよう! 動かしたから、怒ってるのかも――」
突然、とんとん、とドアを叩く音が響く。
そんな音にすらびくっとして、ヒマワリは身を固くした。
「……アオ?」
恐る恐る尋ねる。わざわざノックをするなんて、この城ではアオくらいだ。
しかし、返事はない。
どうしたのだろう、とヒマワリはドアの取っ手に手を伸ばす。
「アオ?」
ドアを開くと、足下にはあの人形が転がっていた。
「―――――!」
ヒマワリは悲鳴を上げて飛び上がった。
人形は仰向けになって横たわっている。その口元には、先ほどのケーキに塗られていた生クリームがべっとりとついていたのだ。
ヒマワリは真っ蒼になってミライに抱きついた。
「おい、どうした⁉」
「人形が……!」
ミライが困惑した様子で、廊下を確認にいく。
「? 何もないぞ」
「!」
ヒマワリはミライの後ろから、恐々ドアの向こうを覗き込んだ。
人形が転がっていた場所には、確かにもう何の影も存在しなかった。
ざっと血の気が引いていく。
「おい、大丈夫か? すごい顔色悪いぞ」
「……ミライ、ねぇ、もう一回一緒に、屋根裏に来て」
「え?」
「あの人形が、ちゃんとあそこにあるか確かめないと!」
ヒマワリはミライの手を引いて、今見たことを説明しながら階段を上った。その声はすっかり震えている。
「――つまり、人形がお前を追いかけてきて、ケーキまで横取りしたって?」
説明を聞きながら、ミライが言った。
「あの場所にまだあるなら、僕の見間違いかも……でも、もしなかったら……」
ヒマワリはごくりと唾を飲み込む。
二人は屋根裏へ続く階段を上り、梯子に手をかけた。ミライが跳ね上げ扉を持ち上げて、ガタンと開く。
その瞬間、ミライの姿がぐにゃりと歪むのが見えた。
「あ、やべ……」
「ミライ!」
「ごめん、ヒマワ――」
彼の姿は、ふっと掻き消えてしまう。未来へ戻る時間が来てしまったらしい。
一人取り残され、ヒマワリはぞっと恐怖に包まれた。
よりによってこの瞬間、この恐ろしい空間に一人。
ぶわっと汗が滲んだ。
ヒマワリは身を竦めながら、恐る恐る開口部から顔を出す。
薄暗い屋根裏部屋は、静まり返っている。
息を詰めて、視線を彷徨わせた。
その床のどこにも、あの人形の姿はなかった。
「ない……」
震えながら、ヒマワリがか細い声を上げた。
ではやはり、見間違いではないのだ。
さっき現れた、あの人形は――。
ヒマワリは慌ただしく梯子を下り、転がるように階段を駆け下って、泣きながらアオとクロの姿を探した。
暖炉の前に陣取り、酒を注いだグラスを傾けていたクロを見つけ、勢いのまま飛びつく。
「わっ、なんだよ」
驚いたクロが、顔をしかめた。
「クロ! どうしよう! ナイフ持った人形が襲ってくる!」
「はぁ~?」
べそべそと泣いているヒマワリに、クロはわけがわからず途方に暮れている。
その夜、ヒマワリは怖くて一人では寝れないとクロのベッドに無理やり潜り込み、その傍でアオに一晩中見張っていてほしいと頼み込んだ。
そうして二度と、あの屋根裏部屋に近づくことはなかったのだった。
「動かしてはいけない人形、ねぇ……」
シロガネはうきうきと、足下に転がった古びた人形を見下ろした。
この島を購入してから、シロガネはすぐに城の中の探検を行った。探検は、普通の部屋を見るだけではつまらない。地下や屋根裏のような、暗く人目につかない場所こそ、探検のし甲斐があるというものだ。
しかもこの城の屋根裏には、いわくつきの人形があると聞いていた。
なんでもこの城が出来た時から人形はそこに置かれていて、動かせば城が崩れ落ちるとか、島が海に沈むとか言われているらしい。
そんなものがあると聞けば、確かめずにいられるものか。
見る限り、人形に魔法がかけられた気配はない。
「ふむ」
シロガネはおもむろに、人形に手を伸ばす。
躊躇いもせず、ひょいと持ち上げてみた。
暗い部屋はしんと静まり返っている。城が崩れたり、島が沈む様子もない。
ぼろぼろの人形を、よくよく観察してみる。
何の変哲もない人形だ。
「まぁ、気味は悪いけど……あ、ごめんね」
なんとなく睨まれた気がして、人形に謝る。
人形が横たわっていた場所を見下ろし、屈みこむ。コンコン、と床を叩いてみた。周囲も何度か叩いてみたが、人形の下の部分だけ音が違う気がする。中が空洞になっているようだった。
シロガネはそうっと、床板を動かしてみた。
するとカタン、と音を立て、一枚だけ見事に外すことができた。明らかに、誰かが細工したものである。
剥がした板の下のくぼみから現れたのは、封筒の束だった。
ひとつ取り上げてみる。封は開いていたので、
「ちょっと失敬」
と一応断って、便箋を取り出した。
ざっと目を通すと、そこには熱烈な愛の言葉が連ねられていた。
昨夜は嬉しかった……
あなたを想うと心が張り裂けそうだ……
会える日を心待ちにしている……
もうひとつ、今度は別の筆跡の手紙を読んでみる。内容から察するに、さきほどの相手への返事のようだ。
どうやらこの手紙の束は、二人の人物の間で交互にやりとりされたものらしい。
彼らは秘密の恋人であったようだ。周囲に悟られないよう、手元に互いの手紙は置かず、この床下に隠してやりとりしていたのだろう。
シロガネはその暗い屋根裏部屋を見回す。
(人形は目印ってことかな。で、ばれないように、この人形は動かしたらいけないという話を作って人を遠ざけていた……)
ひとつだけ、未開封の封筒があった。
つまり、相手は読まなかったのだ。どうやらそれが、最後の一通らしい。
気持ちが離れたのか、それとも――永遠の別れが訪れたのか。
シロガネはその封を開けることはせず、元通りにしまって床板をはめ直した。人の恋文を晒すような趣味はないし、送られた相手が読まなかったものを自分が読んでいいとは思わなかった。
人形もまた、最初のうつ伏せの状態にして、その上に置いてやる。
ふう、と息をついて腰に手を当てた。
これまでもきっと、肝試し的に人形を見に来た者はいたであろうし、面白半分に人形を動かした者もいたかもしれない。しかし恐らく、手紙の存在には気づかず去っていったのだ。
いつかまた、この人形を動かす人間はきっと現れる。その時、シロガネと同じようにこの手紙の存在に気づく者もいるかもしれない。
シロガネはその手に、ぱっと杖を取り出した。
「この子には、本物の番人になってもらおうかな」
人形に、魔法をかけてやる。
いつかこの人形を動かす者があったら、丸一日、どこまでも追いかけていって恐怖を与える魔法。二度とここへ来ようとは思えなくさせるように、そして、この人形に触れれば恐ろしいことが起きるのだと、さらに吹聴してもらえるように。
「――よし」
魔法をかけ終わると、シロガネは満足そうににんまりと笑った。
「これでこそ、屋根裏に置かれた謎の人形に相応しいでしょ! 怪しげな古城には、やっぱり謎と怪談がなくっちゃね!」
軽やかな足取りで屋根裏を後にすると、シロガネは階段を降り、一階で掃除をしていたアオに声をかけた。
「アオ。あのね、屋根裏には上がらないようにね。掃除もしなくていいから。あそこには、絶対に動かしたらいけない人形があるんだ。動かすと――この島が海に沈んじゃうからね!」
ミライは跳ね上げ扉を持ち上げ、その隙間からじぃっとその暗い空間を見つめた。
暗い梯子の上で、いきなり一人である。
中途半端なところで未来に戻ってきてしまった。
頭上には、ついさっき過去で開けたはずの扉。
せっかくなので、と思いもう一度扉を押し上げて、未来においては初めて、この屋根裏の中を覗いてみたのである。
あれから随分な年月が経っているわけで、もうあの人形だって無いかもしれないと思ったのだが――。
思わず、ため息が漏れた。
「ある……のかぁ~」
視線の先には、古ぼけた人形が転がっている。
過去で見たあの人形が、一層年季が入ってぼろぼろの状態で倒れていた。
ミライは、ぱたりと扉を閉めた。
(見なかったことにしよう)
あんなものに追いかけてこられるのは、御免である。
それに今はむしろ、古くなって腐りかけている、足下の梯子のほうがよほど怖かった。
ミライは冷や汗をかきながら、一歩一歩、恐々と梯子を下りていく。さらに狭い階段を下りて出口のドアを見つけると、ほっと息をついた。
「――あれ?」
ドアを開いて差し込んだ光が、壁に立てかけられていた一枚の絵を照らし出した。そこは変わらず物置になっていて、雑多な物がしまい込まれていたのだが、その絵には見覚えがある。
「あーっ、ここにあったんだ」
先ほど過去で見た、刺繍絵であった。一見して油絵のような獅子の絵だが、よく見れば恐ろしく細かい糸で出来上がっている。
気に入ったのでどこかに飾ろうと思い、手を伸ばした。
その時、足に何かが当たったのを感じた。ことん、と軽いものが倒れる音が響く。
それは、小さな人形であった。
長い黒髪を持つ少女が、うっすら笑みを浮かべて横たわっている。どうやらうっかり蹴飛ばしてしまったらしい。
(また、人形……)
その姿に、なんとはなしに不穏なものを感じる。
あんまりヒマワリが怯えていたから、感化されてしまったらしい。これはただの人形で、何の関係もないというのに。
ミライは気を取り直して、倒れた人形を元通り立たせてやると、絵を小脇に抱えて廊下に出た。
「さーて、どこに飾ろうかなー。ロングギャラリーのもとあった場所か、階段の踊り場にでも……」
階段に差し掛かった時、ふと足を止めた。
遠くで、ドアが開閉するような音を聞いた気がしたのだ。
ゆっくりと振り返る。
今出てきた突き当りのドアは、確かに閉じられている。
「……気のせいか」
ミライは少しだけ足早に、階段を下りていった。
【おわり】