犬とヒマワリ

ヒマワリが初めて終島にやってきてから、半年が経っていた。
時折、不老不死を求めてやってくる歓迎しない訪問者はあるものの、基本的には静かな毎日が過ぎていく。記憶は戻らないまま、自分がどこの誰なのかもわからない状況に変わりはないけれど、そんな生活にもすっかり慣れた。
そうした中で、アオやクロと一緒に島の外へ出ることは、ヒマワリにとって大きな楽しみのひとつだ。
今日はアオが買い出しに行くというので、一緒に大陸まで連れてきてもらった。行きつけの店でどっさりと食材を確保し、ヒマワリの身の回りのものを買い足したりしながら、アオはヒマワリが楽しめるようにとあちこち寄り道もしてくれる。小さな島の中にずっといて、退屈してしまわないかと心配しているのだ。
「アオ、僕も荷物持つよ」
両手に紙袋を二つ抱え、さらに肩からかけた大きな袋にもたっぷりの荷物を詰め込んでいるアオに、ヒマワリは手を伸ばした。
「ありがとうございます。でも、ヒマワリさんには少し重たいですから」
「大丈夫だよ、僕持てるよ!」
自信満々に言い放つ。
「そうですか? では……」
アオは抱えていた紙袋をひとつ、ヒマワリに渡した。両手で受け取った途端、ずしりとした重さがのしかかって、思わず声を上げて前屈みになってしまう。中を覗くと、缶詰や瓶詰がどっさり入っていた。
「うぬぅう~~~っ」
必死になって紙袋を抱え上げ、よろよろと数歩進んだ。
しかし、それが限界だった。見かねたアオが、片手でひょいと袋を取り戻す。青銅人形のアオには、なんということもない重さなのだろう。
「ありがとうございます、ヒマワリさん。でもやっぱり危ないですから、俺が持ちますね」
ヒマワリは悔しさを堪えながら、背の高いアオを見上げる。なんの役にも立てないのが情けなかった。
「そうだ! 魔法を使えば浮かせて持っていけるよ」
「魔法は使わないと約束したでしょう?」
「だって……」
ヒマワリは不服そうに、頬を膨らます。
「アオ、両手が塞がっちゃうから、手が繋げない……」
「……!」
アオは驚愕したように動きを止める。そして、慌てて紙袋を二つとも右腕で抱えるように持ち替えた。
「大丈夫です、この程度の荷物、片手で余裕です! なんでしたらすべて頭に乗せて、両手を空けることも可能ですが⁉」
「それは恥ずかしいからやめて」
アオが差し出した左手を、ヒマワリはぎゅっと握った。
そのひんやりとした感触が、心地よい。
満足げな笑みを浮かべ、ヒマワリはアオと並んで歩き始めた。早く大きくなって、荷物を半分任せてもらえるようになりたい、と思う。
「ヒマワリさん。少し本屋に寄りたいのですが、いいですか?」
「うん。僕も絵本見たい!」
手を繋ぎながら、うきうきと本屋に向かう。アオはいつもこの本屋に寄るから、ヒマワリもすっかり道を覚えてしまった。
本屋が近づいてくると、その入り口の脇に見慣れないものがあることに気づいた。
白くて大きなものが、丸くなっている。
犬だ。
ヒマワリが背中に跨れそうなくらい、大きな犬だった。もふもふとした羊のような毛が特徴的で、動かなかったらぬいぐるみのように見える。
「わーっ、大きい犬!」
ヒマワリは歓声を上げて駆け寄った。
首輪もリードもついていない。よく見れば、その白い毛並みは随分と汚れていた。野良犬だろうか。
ヒマワリが近づくと、犬はピンと耳を立てて身体を起こした。途端に尻尾を振って、大きく鳴いた。嬉しそうに飛びついてきた犬を、ヒマワリは遠慮なく撫でまわす。野良犬にしては、随分と人懐っこい。
「アオ、僕ここでこの子と遊んでる!」
アオは少し心配そうに、犬を観察した。ヒマワリに噛みついたりしないだろうか、と懸念したらしい。
白い犬ははしゃぐようにヒマワリにまとわりついて、全身で喜びを訴えていた。
これなら問題なさそうだと判断したのだろう。アオは、
「遠くへ行ってはいけませんよ。すぐ戻りますから」
と言って、いそいそと本屋に入っていった。
ヒマワリは知っている。アオは本屋に入ったら、早くても三十分は出てこない。
その間、たっぷりと遊べそうだ。
「お前、名前は?」
犬の頭をわしわしと撫でながら、ヒマワリは尋ねた。
当然、返答はない。
「僕がつけてあげる! うーん、白くて、もしゃもしゃだから……えーとね、えーと……ワタアメ!」
本当は最初に『シロ』を考えたけれど、クロは黒いからクロと呼ばれるようになったことを不満に思っていて、名付けたシロガネのネーミングセンスをいつもこき下ろす。だから、シロガネよりも少しは捻った名前にしたかった。
ワタアメ、と呼びかけると、犬は嬉しそうにわふっと鳴き声を上げた。
気に入ったのだ、と思ってヒマワリは得意げに胸を張った。
「ワタアメ、お腹空いてる? これあげる」
ポケットを探り、さっきアオに買ってもらったクッキーの残りを差し出す。
ワタアメはふんふんと鼻を鳴らし、無害なものか探るようにしてから、ぱくりと口に含んだ。しっかりと咀嚼する様子を、ヒマワリはじっと眺めた。
「ふふ」
思わず笑みがこぼれた。
やっぱり、動物を飼いたいな、と思う。
終島にはうさぎは何羽か住んでいるけれど、こんなふうに意思疎通するような感覚は得られない。
あとは竜が一頭いるけれど、そちらは決して撫でさせてなどくれないし、そもそも姿もなかなか見せてくれないのだ。一度だけ、セナと海に出たあの時だけは背中に乗せてくれたけれど、それっきりである。
ワタアメはクッキーを食べ終えると、ヒマワリの頬に鼻の頭を擦り付ける。くすぐったい、とヒマワリは笑い声を上げた。
「お前、独りなの? 家族はいる?」
頭を撫でながら、ヒマワリは尋ねた。
「いないの? 迷子なの?」
答えはないけれど、きっとそうなのだろう。
「あのね、僕も迷子なんだよ。一緒だね」
するとワタアメは、ヒマワリのまろやかな頬をぺろりと舐めた。
「ふふふ」
腕を回して抱きつく。生き物のぬくもりが心地よかった。
お手はできるのかと何度も試したり、落ちていた枝を放って取ってくるように命じてみたり、夢中になって遊んでいるうちにいつの間にか随分と時間が経ったらしい。
やがて、アオが購入した本を抱えて店から出てきた。
「おや、すっかり仲良くなりましたね」
「あのね、ワタアメっていうの」
「名前をつけたんですか?」
「うん!」
「こんにちは、ワタアメさん。美味しそうなお名前ですね」
アオがにこやかに挨拶すると、自分が呼ばれたことをきちんと認識しているのか、大きな声でわん! と返事した。
「先ほどお店の方に聞いてみたのですが、ここで飼っている犬ではないそうですよ。数日前からこのあたりをうろうろしているようで、どこか他所から迷い込んできたのではないかと」
「そうなんだ……」
少し疲れた様子のワタアメを、ヒマワリはじっと見つめた。
「ねぇアオ。この子、連れて帰っちゃだめ?」
「終島にですか?」
「うん。島で一緒に暮らそうよ」
「ううーん」
アオが悩むポーズを取る。
「広い庭だってあるし、きっとワタアメも走り回れて、居心地がいいよ」
「そうですねぇ。ですが、クロさんが何と言うか……犬はあまりお好きではないようですし」
「クロ、犬嫌いなの?」
「なんというか、しばしば犬を引き合いに出すんですよねぇ、こう、悪い喩えとして。犬みたいな名前なんて、とか、犬みたいに洗われるなんて嫌だ、とか……なので、あまり良い感情をお持ちではないような。竜は誇り高い生き物ですから、従属的な性分の生き物を見ると、いい気分がしないということなのではないかと」
「でもでも、クロだってこの子と一緒に暮らしたら、きっと絶対間違いなく可愛いって思うよ!」
ヒマワリは拳に力を込めて、ぶんぶん回しながら精一杯主張した。
「そうであればよいのですが……。ヒマワリさん、そもそも生き物を飼うというのは、とっても大変なことなんですよ。命あるものですから、大きな責任が伴います。毎日、きちんと面倒が見れますか? 飽きたら捨てる、というわけにはいきませんよ?」
「僕、できるよ!」
ヒマワリは胸を張った。
「ね、ワタアメ。お前も一緒に来たいよね?」
嬉しそうに鳴いて、答えてくれるかと思った。
しかし、ワタアメはふと、あらぬ方向を見据えてぴたりと動きを止めた。
そして突然、ぱっと走り始めた。
「え、ワタアメ! どこ行くの⁉」
ヒマワリは慌てて追いかける。
「待って!」
「ああっ、ヒマワリさん! 走ったら危ないですよ!」
アオの声が聞こえたが、ヒマワリは構わずワタアメを見失うまいと全速力で後を追った。
すると、道の向こうでワタアメが、一人の少女に飛びつくのが見えた。
突然人に襲いかかるなんて、とヒマワリは驚いた。
「ワタアメ、だめ……!」
すると少女は驚いたように立ち竦み、
「……ウタ⁉」
と叫んだ。
「ウタ? 本当にウタなの⁉ 父様、母様、見て! ウタよ!」
ワタアメに抱きついて泣き出した少女の様子に、ヒマワリは呆気に取られて立ち止る。
ワタアメは、さきほどヒマワリとじゃれていた時とはまったく違う、歓喜に満ちた甲高い鳴き声を幾度も上げながら、されるがままになっていた。
傍にいた彼女の両親らしき男女もまた、驚きの声を上げ、その大きな犬を撫でる。
「まぁ、本当に! 一体今までどこにいたの? 心配していたのよ!」
「こんなところで会えるなんて! ずっと探していたんぞ、ウタ!」
ワタアメは彼らに何度も顔を擦りつけ、尻尾を激しく振り続けていた。
「奇跡ね! 一年も行方不明だったのに……!」
「さぁ、おうちへ帰りましょう、ウタ! お前の大好きなお肉をたくさん用意するわね! ああ、こんなに痩せてしまって……可哀相に。きっとたくさん辛い目に遭ったのね。でも、もう大丈夫よ」
三人は泣き笑いながら、ワタアメを連れて去っていった。
その様子を、ヒマワリは無言のまま見送った。
いつの間にか、すぐ横にアオが立っている。
「飼い主が見つかったようですね」
「うん……」
「よかったですね」
「……うん」
そう返事をするヒマワリの表情は、晴れやかとは言い難かった。
あんなに嬉しそうに懐いてくれたから、あの犬は自分のことが好きなのだと思った。
でも、そうではなかったのだと、ワタアメが飛びついた少女を見て気づいた。
金の髪を肩で切り揃えて、遠目に見るとヒマワリにちょっと似ている。
いや、ヒマワリが、彼女に似ていたのだ。
アオに手を引かれて島へと戻る間も、ヒマワリはずっと塞ぎ込んでいた。
アオは心配そうにあれこれ話しかけてくれたけれど、ヒマワリはただ小さく頷くだけだった。
城に帰りつくと、ミライが姿を見せていた。
「おや、いらっしゃい、ミライさん」
「よう。――どうした、ヒマワリ? しょげた顔して」
ヒマワリは肩を落とし、俯いたまま居間のソファに座る。
ミライと向かい合ってチェスを指していたクロが、ちらりと視線を送った。
「それが……」
アオが一連の出来事を説明する。するとミライは、得心したように両手を広げた。
「なるほどなー、犬飼いたい期が来たかぁ。あるよなーあるある、子どもの頃一度は思うよなー」
「というよりも、なんというか、目の前であの犬さんを搔っ攫われたような状況が、非常にショックだったようでして……」
ミライは腕を組み、妙に重々しく何度も頷いた。
「うんうん、そうだよなぁ。俺も昔、飼ってたインコに餌をやろうと籠を開けた途端、逃げられたことあってさ。開いてた窓からあっという間に飛んでいって、二度と戻ってこなかったよ。帰巣本能みたいなやつで帰ってくるんじゃないかと、一か月くらい餌を用意して待ってみたんだけど、全然だったな……薄情なやつだぜ。俺の名前も言えるようになってたし、毎日いい餌をたらふく食べていたくせに! あんな温室育ちじゃ厳しい自然界で生きていけるとも思えないから、野犬にでも喰われてるんじゃないかって想像しては、純真無垢な少年だった俺は毎日泣いて暮らしたもんだ……。やつは自由を手にするために大空に羽ばたいていったんだって、なんとか自分を納得させようとしてさ……あ、思い出したらちょっと泣けてきた」
「何の話だよ」
クロが突っ込みながら、チェスの駒を動かす。
「ヒマワリ、元気出せ! 犬なんかいなくてもさ、ほら、ここにでかい竜がいるだろ。世界でここにしかいないんだぞ? 犬よりもよっぽどすごいんだぞ⁉」
そう言ってミライは、クロの頭をがしがしと撫でる。すかさずクロがその手をぴしゃりと払いのけた。
「俺は飼い犬じゃねぇ」
ソファの上で膝を抱えていたヒマワリは、ちらりとクロのほうを見た。
「……だって、クロは全然変身してくれないし」
「まだ言ってんのか」
「撫でさせてもくれないし」
「お前なぁ」
「じゃれて遊んだり、ぎゅって抱きしめたりもできない……」
「いや、できるだろ。それはこのままでもできるだろ? なぁ?」
ミライが面白そうに、クロの肩をぽんと叩いた。
顔を引き攣らせたクロが、じろりと睨む。
「おい、ミライ」
「抱きしめるのはできるだろ、ほら、どーんといけ」
クロは心底嫌そうな表情になる。
しかし、ヒマワリが寂しそうな目でじっと見つめると、耐えられなくなったように視線を逸らした。
「ヒマワリさん、俺は背中に乗ってもらって構いませんよ。撫でてもらうのも遊ぶのもなんでも問題ありません!」
アオが慌てて言い添える。しかしヒマワリは、
「……アオはひんやりしてるから、そういうのとはちょっと違うの」
と悲しそうに言った。
がしゃん、と音を立ててアオが固まる。ショックだったらしい。
ミライが焦ったようにフォローした。
「悪気はない。悪気はないんだ、アオ、許してやってくれ。ひんやりしてるのもいいと思うぞ、夏場なんかは特に! なんだったら俺が撫でてやろう、ほらほら!」
ミライはアオの肩を抱いて、慰めるようにわしわしと頭を撫でた。
クロが呆れたように、大きくため息をついた。
その夜は、ベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。
ヒマワリに背を向けて走っていってしまった、あの白い犬の姿が何度も脳裏に浮かぶ。
確かに犬を飼ってみたかったけれど、その夢が叶わなかったからこんなに落ち込んでいるわけではない。
まるで、予言のように思えてしまったのだ。
クロもアオも、今はヒマワリの傍にいてくれるけれど、いつかシロガネが戻ってきたら、きっとあんなふうに自分に背を向けていってしまうのではないだろうか。
想像したら涙が出そうになって、ヒマワリはぎゅっと目を瞑った。
すると、どこからか不思議な音が聞こえた。
大きな翼が羽ばたくような、空気を切る音。
それは徐々に近づいてきて、すぐ傍までやってきた気がした。
なんだろう、と目を開ける。明かりを落とした室内には、窓から微かな月明かりが差し込んでいたが、その向こうでゆらりと大きな影が揺れたのに気づいた。
「!」
ヒマワリは跳ね起きた。
夜の闇を切り取ったような窓越しに、黒い竜の双眸がきらりと輝いている。
「クロ⁉」
慌てて窓を開くと、黒竜がその頭を突き出した。
何も言わないけれど、ヒマワリには、声が聞こえた気がした。
――撫でたけりゃ、撫でろよ。
ヒマワリは、拒否されないだろうかと恐る恐る手を伸ばした。そうして、固い鱗に覆われたその身体に、そっと触れる。
竜の目が、微かに細められた。けれど、怒っている気配はない。
ほっとして、ヒマワリは両手で撫でまわす。
「ありがとう……クロ」
思わず、首にぎゅっと抱きついた。
あんなに嫌がっていたのに、こうしてわざわざヒマワリのために変身してくれたのだ。それが、ひどく嬉しい。
そうしてヒマワリはその夜、すっかり幸せな気持ちで眠ることができたのだった。
ところが翌朝、昨夜のことをクロに尋ねると、
「夢でも見たんじゃねーのか」
と素っ気なく返されてしまった。
そんなはずない、と主張してみたものの、夢でないという証拠もなかった。
どんなに頼んでも、滅多なことでは竜の姿を見せてくれないクロだ。改めて考えてみれば、ただヒマワリの願いを叶えるためだけにあんなことをするだろうか。そう思うと、確信が持てなかった。眠れずにベッドで丸くなっていたと思っていたけれど、実際にはとっくに寝入って、自分が望む夢を見たのかもしれなかった。
それでも、あの時触れた感触も体温も、ヒマワリはしっかりと思い出せるのだった。
【おわり】