魔法使いの料理番


 あれは三年前の、寒い冬の日のことでした。
 木枯らしが吹く中、私はいつものように、お気に入りのレストランへと向かいました。街中に敷き詰められた灰色の石畳は冷え切っていて、肉球ごしにもそのひやりとした感触が伝わってきます。私は引きずっている後ろの右脚を少し(かば)いながら、寒さに足早になっている人間たちの合間を器用に抜けていきました。
 目的の赤(れん)()の建物に辿(たど)り着きました。暖かそうな色味のランプが灯った入口に、冬物の(がい)(とう)を着こんだ人々が次々と吸い込まれるように入っていきます。ここはこの街で人気の老舗(しにせ)レストランで、いつだってお客さんが絶えません。
 私はその様子を横目に、これまたいつものように裏口に回り込むと、身を縮めて(さく)の格子をするりと抜けていきました。猫の私は当然ながら、表の入り口から堂々と中へ入ることなどできませんから。
 裏口は(ちゅう)(ぼう)に面しているので、とても美味しそうな匂いが漂ってきて、私は思わずふんふんと鼻をひくつかせました。焦がしバターとディルの香りは、きっと鮭のソテーでしょう。肉を煮込む濃厚な匂いは鍋たっぷりの鹿肉のシチュー、甘いカルダモンの香りはパンが焼きたてであると告げています。煙突から上がるもくもくとした煙が寒空に立ち昇り、そこだけはとても暖かそうです。
 厨房の窓からは、(せわ)しなく指示を出すシェフの野太い声や、包丁が野菜を刻む小気味よい音、鍋同士が触れうかんと乾いた響きが漏れ聞こえてきます。
 私は勢いをつけて、傍に置かれていた木箱や(たる)を足掛かりに、その窓に向かってジャンプしました。私の後ろ右脚は、生まれつきうまく動かず()()ってはいますが、それでも左脚の力と前脚の動きを組み合わせれば、これくらいの跳躍は慣れたものです。
 古びた窓枠の隅に座り込むと、私は鼻を硝子(ガラス)に押しつけ、料理人たちの動きをひとつひとつ目で追いました。
 熱したフライパンの上で、綺麗な赤身の肉がじゅうと音を立てて焼かれています。そこへ()(はく)色のブランデーが回しかけられ青い炎が高く立ち上る様は、何度見ても美しいのです。ああ、あの方がじゃがいもを均一にスライスしていく手さばきの、なんと迷いのないこと。たった今オーブンから出されたのは、まさにそのじゃがいもを使ったであろう、こんがりと焼き色のついたクリーム仕立てのポテトグラタンです。お肉の付け合わせにぴったりでしょう。
 シェフが小鍋にかけていた特製レモンソースをスプーンですくい、味見してほんの少し塩を足します。それを焼き上げた白身魚にとろりとかけてやる手つきは、まさに芸術的です。彼が皿の(ふち)を布で静かに(ぬぐ)うと、それを給仕係が慣れた手つきで客席へ運んでいきます。もしもあの一皿をまるまる口にすることができたら、それはどんなに至福の時でしょうか。
 とてもお腹が空きました。
 今に始まったことではありません。私はいつだって腹ペコです。
 私の脚がうまく動かず、ほかのきょうだいのようには走れないとわかると、母は私にお乳をくれなくなりました。やがて母ときょうだいたちは、私だけを置いてどこかへ行ってしまいました。それから毎日毎日、食べるもののことばかり考えていた私は、街中でごみを(あさ)りながらなんとかこれまで生きてきましたが、中でもこのレストランの余り物は最高に美味しいのです。
 扉が開いて、皿洗いの青年が出てきました。
 彼はいつものように、ごみの入った桶を抱えています。その中には、料理に使われなかった魚の頭とか、野菜の皮、客の食べ残しなどが含まれます。私にとってはご()(そう)です。
 彼に見つからないように、私は樽の後ろに身を潜めました。以前、ごみを漁っているのを見られて、手ひどく追い払われたことがあるのです。
 裏路地に置かれた木箱にごみを捨てると、青年は疲れた様子で厨房に戻っていきました。明日の朝には、回収業者がこの箱をどこかへ運んでいってしまいます。それまでの間に、お腹を満たさなくてはなりません。
 私はうきうきと、ごみが溜まっている箱に近づきました。しかしその時、恐ろしい怒鳴り声が聞こえました。
「また来やがったな野良猫! あっちへ行け!」
 先ほどの青年が戻ってきて、私に向かって石を投げました。
「しっ! しっ!」
 私は慌てて逃げ出しました。路地を横切って、塀によじ登り、密集した家と家の間にあるわずかな隙間をすり抜けていきます。これなら、人間は決して追って来れません。
 しかし、とにかくお腹が空いていて、私にはあまり力が残っていませんでした。やがて暗く狭い路地に出ると、へなへなと座り込み、小さく丸くなりました。
 夜が近づくにつれて、寒さはどんどん厳しくなっていきます。
 私はそのまま、動くことができませんでした。動けば動くほど、お腹が空いてしまいますから。
「ああ、お前ここにいたのか」
 聞きなれた幼い声がして、私は顔を上げました。
 薄汚れた格好の少年です。
 いつも同じぼろぼろの服に、どこかで拾ったというマフラーを巻き、使い古されつばの折れたキャスケットを目深に被っています。履きつぶした靴はつま先が開いてしまっていて、歩く度にいつもカパカパと音がなりました。その裂け目から覗く彼の指先は寒さに晒され赤く腫れ、ひび割れができているのがわかります。
 彼は笑顔で私を抱き上げて、胸元に押し当てます。そうすると彼の温度が伝わってきて、私は嬉しくなりました。
 この子の名前は、ムクゲといいます。
 この街には、野良猫の私と同じように、路地裏で暮らす浮浪児がたくさんいました。彼もその一人です。そして、私にとって唯一の友人でした。
「腹減ってるだろ? パンを手に入れてきたぞ」
 彼はポケットから、固いパンを取り出しました。それを小さくちぎって、私の口元に差し出してくれます。
 正直なところ、猫である私はパンをあまり好みませんし、肉や魚が食べたいのですが、それでも彼がせっかく手に入れてきた食糧です。そして、何よりお腹が空いています。
 私はパンの切れ端に(かじ)りつきました。ムクゲは嬉しそうにそれを眺め、自分も残りを口にします。
 私だけでなく、彼も常に空腹なのです。それでも私に食べ物を分け与えてくれます。だから私も、人間が食べられそうなものを手に入れた時には、彼に半分差し出しました。もう半年ほど、そんなふうに協力して暮らしています。
「寒いなぁ。あったかいものが食いたいよなぁ
 ムクゲはパンを食べ終えると、身を縮めて手を(さす)りました。
「昨日、向こうの橋の下で子どもの死体が見つかったんだ。ほら、大人ものの山高帽を被った、あのそばかす顔の子だよ。よく、盗みに入ったパン屋の親父に殴られてるのを見かけただろ。あいつ、寒さで凍え死んだんだ。俺だって、明日にはそうなってるかも
 私は思わず、にゃあと鳴き声をあげました。
 彼が何を言っているのか、本当のところはっきりとはわかっていませんでした。当時の私には、人間の言葉を理解することはできませんでしたから。それでも、彼の不安な感情はわかる気がしたのです。そして同時に、私まで不安になりました。
 この子に、温かい食べ物を食べさせてあげられたらいいのに。レストランで出されるような、ほかほかの美味しいお料理を。お腹いっぱい食べたら、きっと彼はもっと笑顔でいられるでしょう。
「お前も俺も、春まで生き延びられたらいいなううん、絶対生き延びよう」
 ムクゲは抱えていた私を手放し、何かを決意したような顔で、大通りへと出ていってしまいました。
 なんだか嫌な予感がして、私は彼の後を追いかけました。
 ムクゲはゆっくりと歩きながら、道行く人々を観察するように眺めていました。暗くなって家路を急ぐ人や、酒場に飲みに向かう人など、広い通りでは人間たちがひっきりなしに行き交っています。
 そんな中、ムクゲはある人物の後をつけ始めました。
 身なりのよい青年です。毛皮のコートを羽織り、耳や指にたくさんの飾りをつけている様子から、きっとお金持ちなのだろうと思いました。
 ムクゲは狙ったように駆け出すと、その人にどんとぶつかりました。
「ごめんよ!」
 軽い調子で謝って、そのまま走り去ろうとします。
 しかし、青年がムクゲの首根っこを掴みました。さらにその細い腕を(ひね)り上げると、悲鳴を上げたムクゲの手から財布がぽとりと落ちました。
 彼は舌打ちしながら、泣き叫んでいるムクゲを見下ろしました。
「おいクソガキ。コソ泥にしちゃ下手くそすぎるぜ」
 とても鋭い眼光でした。刈り上げた頭には、なんだか不思議な模様が描かれています。
「放せよ!」
 ムクゲは逃れようと必死に抵抗しますが、相手はびくともしません。
 周囲の人々が、何事かと二人の周りに集まってきました。ムクゲを指さして「また浮浪児だ」「嫌になるな」と顔を(しか)めています。
「俺、知らないよ! ちょっとぶつかっただけだろ!」
 ムクゲが泣いています。
 私はぱっと飛び出しました。そして、ムクゲを押さえつけている青年めがけて、精一杯ジャンプしました。ムクゲの背を踏み台にして、相手の顔に向かって飛びつくと、思い切り爪を立てたのです。
 私の攻撃は止まりませんでした。とにかく必死で、何度も何度も爪で引っ掻きました。
 しかし、私はあっけなくその青年によって引き剥がされ、首根っこを掴まれた状態でぶらりと宙に吊り下げられました。
「やめろ! そいつを放せ!」
 ムクゲが私を助けようと、彼に食ってかかりました。
 すると青年は、私とムクゲを同時に無造作に放り投げました。そして取り戻した財布を(ふところ)にしまうと、そのまま何も言わずどこかへ立ち去っていってしまいました。
 私は転がったムクゲに駆け寄りました。
「大丈夫か?」
 ムクゲもまた私を心配そうに抱き上げ、そしてじろじろとこちらを見ている大人たちの視線から逃げるように、暗い路地裏へと逃げ込みました。
「あーあ、しくじった。冬を越すには、金が必要なのにあいつの財布、重かったなぁ。うまくいけば、お前にも魚やミルクを買ってやれたのに」
 ムクゲは汚れた壁に背を預け、肩を落として座り込みました。
 私は彼を元気づけようと、なんども頬を摺り寄せました。すると、冷たく白いものが降ってきました。
 雪です。
 ムクゲも空を見上げました。
「今年初めての雪だそりゃ寒いや」
 はぁっと彼の吐いた息は、とても真っ白でした。まるで粉砂糖を振るったみたいに、冷えた空気に散っていきます。
 雪がしのげる場所を探して、ムクゲは私を抱えて街を彷徨(さまよ)い歩きました。外灯も家々の明かりも徐々に消えていき、暗く冷たい夜が押し寄せてきます。やがて辿り着いたのは、人気のない倉庫の軒先でした。古びた木箱が積まれ、わずかに風を避けられるその隅に腰を下ろすと、ムクゲは小さく丸くなりました。
 震える彼の腕の中で、私はなんとか自分のぬくもりが彼の助けになってほしいと願いました。雪が倉庫の屋根を叩く微かな響きと、ムクゲの小さな胸の鼓動を耳にしながら、私は眠りに落ちました。
 けれど、翌朝目が覚めると、ムクゲは倒れこんだまま動きませんでした。
 彼の身体にはうっすらと雪が積もって、淡く輝いていました。凍てついた空気がひどく澄んでいて、恐ろしく静かです。
 私は何度も前脚で彼を揺すって、耳元で大きな声で鳴きました。けれどムクゲは、いつものように笑いかけてはくれません。
 どうしよう、どうしよう。
 私は必死で鳴き声を上げながら、助けを求めました。
 誰か助けて。ムクゲを助けて。
 路地を抜け、大通りに出ると、道行く人間にしゃにむに飛びかかりました。
 向こうで子どもが倒れてるの、助けて。
 しかし、人々はまとわりつく私を(うっ)(とう)しそうに蹴飛ばしたり、無視していってしまいます。
 私は鳴き声を上げ続けました。
 誰か、誰か。
 するとふいに、大きな影が私に覆いかぶさりました。
 驚いて見上げると、昨日ムクゲが財布を盗もうとした青年が、じっとこちらを見下ろしています。
 その鋭い眼光には恐怖を感じましたが、それでも私を目に留めてくれただけマシに思えました。私は彼の靴を噛んで、ぐいぐいと引っ張ろうとしました。ムクゲのいる場所に連れていこうとしたのです。
 しかし当然、小さな私の力ではそんなことは不可能でした。
 それでも、何度も何度も靴に噛みついて鳴き続ける私に、彼は何かを感じ取ったのでしょうか。屈みこんで、大きな手をこちらに伸ばしました。
 怖くて思わず身を縮めた私は、喉元に何か冷たいものが触れるのを感じました。
 何が起きたかわからず、その違和感に必死に身を捩ります。首の周りに、何かがまとわりついているようです。
 私は鳴き声を上げました。そのつもりでした。
「これは何? 私に何をしたの?」
 それは、言葉でした。
 人間がいつも口から発している音です。ですが今は、私の口から流れ出たように聞こえました。
 驚いて耳としっぽをぴんと立てる私に、若者は言いました。
「何があった。言ってみろ」
 わけがわかりませんでしたが、それでも彼の言葉の意味がしっかりと理解できました。私は思わず叫びました。
「この先で男の子が倒れてるの! 動かないの! お願い、助けて!」
 私の鳴き声いいえ、言葉は、彼に明確に伝わったようでした。
 彼は眉を(ひそ)めて立ち上がると、私に向かって、
「案内しろ」
 と言いました。
 私はムクゲのもとへと向かって走り出します。ちらちらと振り返ってみると、彼はその後をちゃんとついてきてくれました。
 それでようやく、本当に私の考えていることが人間に伝わっているのだとわかりました。
 彼は倒れているムクゲを見つけると、すぐに自分の毛皮のコートを脱いで彼を包んでくれました。そして、どこからともなく杖を取り出しました。
 彼は、魔法使いだったのです。
 私が言葉を喋れたのも、そして人の言葉がわかるようになったのも、彼が私につけてくれた首輪のお陰でした。それは、動物の言葉を翻訳する魔道具だったのです。
 魔法使いは、ムクゲに魔法をかけました。()()魔法というのだそうです。低体温症になっていたムクゲは、あと少し処置が遅ければ死んでしまっていた、と後になって教えてもらいました。
 その魔法使いこそ、タタラ様。
 当時はまだ、北の魔法使いではありませんでした。
 その後、ムクゲは順調に回復し、タタラ様の紹介で孤児院に入ることになりました。
 それからすぐに、ムクゲはある裕福な夫婦に引き取られることが決まりました。なんでも、病気で早くに亡くした息子さんにムクゲがとてもよく似ていて、一目見て気に入ったのだそうです。
 孤児院に入ったムクゲのもとを、私は何度も訪ねていました。けれど彼が養父母に引き取られる日、私は決して彼の前に姿を見せないようにしました。ムクゲが以前、私を飼いたいと彼らに頼んだ時、養母が猫アレルギーのためそれはできないと言い渡されたのを知っていたからです。
 ムクゲはその日、出発の時間までずっと、私のことをあちこち探し続けていました。真新しい清潔な服を着て髪に(くし)を入れた彼は、別人のようでした。もう靴もパカパカしていません。綺麗に磨かれた革靴を履いています。
 彼はきっと、これからまったく別の世界で生きていくのでしょう。
 最後まで私を探し回る彼から隠れ続けて、私は寂しくも嬉しい思いで、馬車に乗って去っていくその姿を陰から見送りました。
 彼は幸せになることでしょう。それならば、私はもう満足なのです。
 そんな私の首根っこを、背後からひょいと掴み上げる人がいました。
 タタラ様です。
 彼は私を己の懐に入れて、ご自身の屋敷に連れ帰ってくださいました。
 そのぬくもりは、かつてムクゲが与えてくれたものとまったく同じで、私はムクゲともう会えないのだと改めて思うと、しくしくと泣いてしまいました。
 けれど同時に、すぐ傍にあるタタラ様のぬくもりが、私を慰めてくれました。だから私は、涙を流しながらも、不思議と寂しいとは思わなかったのです。
 やがて私は、ジェニーという名前をもらいました。
 以来ずっと、タタラ様の料理番として、お傍にお仕えしているのでございます。


 シェフのジェニーは、城の厨房で夕食の仕込みをしながら、そんな昔の話をアオに語っていた。
 アオはカタカタと震えながら、湯にくぐらせた豆の皮むきに勤しんでいる。
「アオさん、どうしました、大丈夫ですか⁉ 寒いですか⁉」
「いいえ、寒いのではありません。感動が感動が俺を震わせているだけです! もはやこれは、世界名作劇場!」
 よくわからないことを叫びながら揺れ続け、そして同時に綺麗に剥いた豆をボウルに入れていくという作業も、手を止めることなく続けている。ジェニーは感心した。彼は優れた料理人である。
 タタラの研究対象として一週間ほど前からこの黒の岬に滞在しているアオは、一見人間に見えるが、実はそうではないのだという。青銅人形という古代兵器で、機械でできているのだとか。
 アオはジェニーの料理を大層気に入ってくれて、よくこうして手伝いをしながら作り方や隠し味について質問し、実際に一緒に作ってみることもある。アオの知っている料理もまた、ジェニーには初めて聞くものも多く、お互いに色々と教え合うのはとても楽しい時間だった。
「タタラさんは一見怖いように思えますが、実はとてもお優しい方なんですねぇ」
「そうなんです!」
 ジェニーはにこにこして、ボウルの中で()でたじゃがいもを潰していく。
「私も、初めて見た時は怖い人だと思いました。きっと逆さ吊りにされて毛をむしられ皮を剥がれ血を抜かれて猫鍋にされてしまうと、本気で恐れました」
「相当怖かったんですね」
「でも、マスターは本当にお優しくて、素晴らしいお方なんですよ」
「ちょっとぉ、その程度で『私、マスターのこと全部知ってます』、みたいな顔しないでよぉ。あんたなんかより私のほうがマスターのことを理解してるし、誰よりも愛してるんだからねっ」
 白豹のペネロペが、先ほどジェニーが出した鹿の肝を()みながら声を上げた。
 少し前にお腹が空いたと言って厨房に押しかけてきて、なんだかんだとずっと居座っている。タタラが研究室に(こも)っているから、暇なのだそうだ。
 ペネロペはいつだって、タタラの傍から離れようとしない。けれど彼が研究室に入る時には、何人たりとも一緒に中へ入ることはできないのだ。
「マスターは優しいけど、素っ気なくてぶっきらぼうなところがたまらなく素敵なのよぅ。
甘いところだけ愛するなんて浅いわ。ごみを見るような冷たい視線も、塩辛いくらいぞんざいな口調も、ぜんぶひっくるめて愛してこそ真のしもべでしょ? どんなに邪険にされたって、潜り込んだベッドから何度蹴り出されたって、私にはわかってる。あの容赦ない一蹴りの奥に、私への深い愛が溢れてるって!」
 尻尾をぺしぺしと床に打ちつけながら、ペネロペはまくしたてた。
 彼女はタタラに一目惚れをして、勝手についてきて彼の傍に居座るようになったのだという。ジェニーが初めてタタラの屋敷にやってきた時には、ひどく警戒されて「この泥棒猫ッ!」と詰られ追い回されたものだ。
「はい、ペネロペさんには敵いません」
 そう言うと、ペネロペはご満悦というように胸を反らす。
 ジェニーは決して嘘ではなく、本当に彼女には敵わないと思っている。
「ジェニーさん、ムクゲさんにはその後お会いしていないのですか?」
 アオが尋ねた。
「はい。でも、マスターが一度、様子を見に行ってくださいました。偶然見かけた、と仰ってましたけど元気に暮らしていて、友だちもたくさんできたとか」
「会いたいとは思わないのですか?」
「ムクゲが美味しいものをたくさん食べて、暖かい家で安心して眠っているのなら、それでいいのです。それに私も、ここで何不自由なく暮らしています。ほかの皆さんも、とてもよくしてくださいますし。あ、このエプロンは、ブレンダさんが作ってくださったんですよ」
 そう言って、身に着けているお気に入りのエプロンを持ち上げる。
 シロクマのブレンダは、(さい)(ほう)が得意なのだ。ジェニーのために、彼女に合う小さな可愛らしいエプロンを()い上げてくれた。
「言葉って素晴らしいです。言葉さえあれば人ともほかの種族とも、こんなふうに色んなことが分かり合えるんですから。伝えることができる、というのは、それだけで魔法のようだと思います」
「そうかぁ?」
 狐のヒースが、皮肉っぽく言った。彼は厨房の端に置かれた休憩用の椅子に座りながら、ずっと手鏡を(のぞ)き込み、気取った態度で髭を整えている。
「人間てやつは、その言葉を使って平気で嘘をつくんだぜ。話し合って分かり合えるなら、(いくさ)なんてのは起きないってもんよ」
 皮肉っぽい口ぶりで、ふんと鼻を鳴らす。
 ヒースは縄張り争いに負けて人里に下り、農作物などをくすねながら生きてきた狐だ。ある時人間に捕まって毛皮を()がれそうになったところをタタラに救われたのだが、人里での暮らしが長かったことで妙に人にかぶれていて、人間というものに対して色々と思うところがあるらしかった。
 そこへ、猿の執事がきびきびとした動作で姿を見せた。その(せき)(がん)で、ヒースをじろりと(にら)みつける。
「ヒース、いつまでそこで油を売っている。銀食器はすべて磨き終わったのか?」
今やろうと思ってたところでーす」
「さっさと取りかかりなさい」
 ヒースはキャベンディッシュに見えないようにひどく嫌そうに顔を顰めてから、澄ました足取りで食器の収蔵庫へと向かう。
 キャベンディッシュは、ここでは一番の古株だ。かつて群れの中の小競り合いで片目を失い、足手まといとして群れから追われたのだと聞いたことがある。タタラから全幅の信頼を寄せられており、黒の岬で彼に逆らおうとする者はいなかった。
「ジェニー、マスターが研究室を出られた。お食事をご所望だ」
「! はい!」
 ジェニーはぴょこんと尻尾を立てた。
 彼女の主であるタタラは、よく長時間研究室へと籠って出てこなくなる。その間は寝食を忘れがちで、部屋から出てくるといつもお腹を空かせているのだ。
 ペネロペが嬉しそうに立ち上がって、尻尾を振りながらいそいそと厨房を出ていった。タタラのもとへと向かうのだろう。少しでも彼と一緒にいようと、いつだって必死なのだ。そんな姿がとても可愛らしいな、とジェニーは微笑ましく思っている。
 疲れているであろうタタラのために、ジェニーは急いで料理を用意した。サーモンの蒸し焼きに、ほくほくのマッシュポテト、えんどう豆のスープ。それから、研究室から出てきた後にはいつも甘いものを欲しがるから、たっぷりのチェリーソースをかけたライスプディング、さらに甘い香りのシナモンロールを山盛りに。
 アオも手伝ってくれて準備ができると、キャベンディッシュがそれらをワゴンに載せて、静々と運んでいくのを見送った。
「ジェニーさんはいつも、タタラさんが食べているところには同席されないんですか?」
「はい」
「でも、美味しく食べてくださっているか、気になりませんか? 俺はいつも、給仕をしながらヒマワリさんやクロさんの様子をついつい(うかが)ってしまいます」
「もちろん、気になりますが
 かつてジェニーが、タタラのもとにやってきた時。まず初めに、執事であるキャベンディッシュから「お前は何ができるのだ?」と尋ねられた。
 ジェニーはすぐに、「料理をします!」と答えた。あのレストランで、料理人たちの手順や動きを散々見てきたから、自分にもきっとできると思ったのだ。
 するとタタラは、猫の手でも調理器具を扱えるように、ジェニー専用の補助具を作り出してくれた。お陰で包丁を自在に操れたし、フライパンの中身を軽々とひっくり返すことだってできるようになって、ジェニーは嬉しくてたまらなかった。
 けれど初めて作った料理は、焦げ付いたり煮込みすぎたり。何度も味を見て、なんとか食べれるものにしたつもりだったけれど、果たしてタタラがこれで自分を認めてくれるかどうか、ひどく不安だった。
 だから、タタラが食べる様子を見るのは怖くて、食事中は厨房の隅でじっと待っていたのを覚えている。
 しかし、やがてキャベンディッシュが持ち帰ってきた皿は、すべて綺麗さっぱり空になっていた。それを見た瞬間、ジェニーは嬉しさと(あん)()で泣いてしまった。
 言葉はすごい、と今でも思う。
 それでも、言葉がわからなくてもちゃんと伝わることはあって、それは人間も動物も変わらないのだ。ムクゲの腕の中で、ジェニーは温もりとともに、彼の思いやりをはっきりと感じていたのだから。
「気にはなりますがマスターは、ちゃんと伝えてくださいますから」
「なるほど、感想を教えてくださるんですね」
「いえ、そうではないのですけど
 ジェニーの言葉に、アオは少し、不思議そうに首を傾げた。
 しばらくすると、キャベンディッシュが戻ってきた。
 彼が押してきたワゴンには、空になった皿が積み上がっている。ソースの名残すら残っていない。
 ジェニーはそれを見て、ふふふ、と笑いながら髭をそよがせた。
 明日は彼のために、何を作ろうか。
 そんなことを考えながら、ジェニーは戻ってきた皿をいそいそと洗い始めた。

【おわり】