仕立て屋のひとりごと

カランカラン、と店の入り口のドアが鐘を鳴らした。
「いらっしゃいませ」
父が穏やかな声で客を出迎える声がする。
奥の部屋で布地の在庫を確認していたナツメは、そっと様子を覗き見た。
(あの人だ)
思わず息をのむ。
その麗しい姿は、何度目にしても惚れ惚れしてしまう。
艶やかな漆黒の髪に、はっとするほど深い青の瞳、すらりと伸びた手足。まるで物語の中から飛び出してきたような、完璧な美青年の具現化。
この店の常連客であるその青年の名は、クロという。管理されている顧客リストの中でも、最も印象深い常連客であると言っていい。特に、ナツメにとっては。
ここは父の営む仕立て屋だ。路地裏にひっそりとたたずむこぢんまりとした店構えは、一見するととてもではないが流行っているようには見えない。けれど、父の丁寧で確かな腕に惚れ込んだ上流階級からの注文も多く、知る人ぞ知る名店と呼ばれている。
娘のナツメは幼い頃から父の仕事を眺めるのが大好きで、物心ついた頃には自然と鋏を操り針を手にしていた。好きが高じてめきめきと腕を上げたナツメはやがて店を手伝うようになり、まだ一人前とはいえないものの、二十二歳になった今では時折父に代わって一部の裁断や縫製を手掛けるようになっていた。いつか自分にも顧客がついて、その人を最も輝かせる服を提案し、すべての工程を自分ひとりでこなして最高の商品を作り上げるのがナツメの夢だ。
そんな夢想をする時、誰のために服を作ろうかと一番に思い浮かぶのが、このクロという青年の姿だった。
彼がこの店に通うようになって、もう七年ほどになる。父が生み出す美しいシルエットの外套も、柔らかな輝きを放つシャツも、彼が纏うと神が鑿を振るって作り出した彫像の一部分であるかのように、袖を通したその瞬間完璧な存在となる。父も同じように感じているのだろう、彼の服を仕立てる時は、常よりも一層嬉しそうだ。
いつも一人で訪れるクロだったが、今日は珍しく連れがいた。肩まで伸びた金の髪を持つ幼い少年が、彼の腰のあたりにまとわりついている。
(息子……にしては大きいわよね。弟? 甥?)
彼が結婚しているのかどうか、聞いたことはない。けれどこれまでの会話の内容や彼の様子から、恐らく独身だろうと見当をつけていた。
金の髪の少年は美しいヘーゼルの目を大きく見開き、きょろきょろと物珍しそうに店内を眺めまわしている。
「本日はどのようなものをご所望でしょう?」
「シャツを二着、新しく頼みたい」
「かしこまりました。どうぞおかけになってお待ちください」
父が優雅な、しかし迷いのない動作で、棚に並んだ生地をいくつか選び取る。毎回、彼はデザインや素材はすべて父の提案に任せている。その様子から、職人としての父をすっかり信頼していることが窺えた。それが、とても羨ましい。
ナツメは珈琲を淹れる準備を始めた。お客様にくつろいでいただくために、飲み物を提供するのもこの店のおもてなしのひとつだ。
(彼は濃いめの珈琲。砂糖もミルクもなし)
顧客ごとの嗜好も、きちんと把握している。
(あの男の子は、ミルクでいいかしら)
ついでに昨日焼いたクッキーも添えて盆に載せると、客用の椅子の脇にある小さなテーブルに丁寧に置いた。
「どうぞ」
カップを受け取りながら、クロが「ありがとうございます」とごく自然に返す。ただそれだけなのに、仕草がとても優雅だ。
ゆったりと椅子に腰かけているその姿は、何気ないのに大層絵になった。長い指がカップに添えられ、形の良い唇がその端に近づく。そうしたちょっとした動きにすら、うっかり目を奪われてしまう。
彼の所作や言葉遣いには品があり、育ちの良さを醸し出している。いつだって、注文するのは一級品の素材を使ったものばかり。間違いなくお金持ちだ。どこかの貴族だろうかと思ったけれど、父の所感では違うらしい。確かに、夜会服や狩猟服などの注文は一度も入ったことがないから、社交が必要な立場ではなさそうだった。
少年にもミルクの入ったカップを「どうぞ」と手渡すと、嬉しそうに「ありがとう!」と笑顔が返ってきた。
思わず、頬が緩んだ。なんて可愛らしい子だろう。よかったら食べてね、とクッキーも差し出すと、目を輝かせている。
「こちらの生地に、煌綾貝のボタンはいかがでしょうか。お色味はこちらのほうがお似合いかと」
父の提案する布地を、クロは手に取ってその肌触りや色合いを確認し、真剣な眼差しを注いでいる。
横でクッキーを頬張っていた少年も、興味深そうにその様子を見つめた。と、少年の手がおもむろに布に伸びる。
ぴしゃり、とクロがその手をはたき落とした。
「ヒマワリ。食べ物を持った手で触るな」
「僕も同じのほしい」
「十年後にな」
「なんで! 今!」
「お前はどうせすぐでかくなって、せっかく作っても着られなくなるだろうが」
「やだ、クロと一緒のがいいの! これがいい!」
「大人しくできないなら、もう連れてこない」
「やだやだー!」
ヒマワリという名らしい少年は不満そうに、クロの袖を引っ張って足をバタバタさせた。
クロは苛立ったように眉を寄せる。
「静かにしろ。でなきゃ、外に放り出す」
ナツメは、初めて見るそんな青年の様子に少し驚いた。
父やナツメ相手にはいつだって、大層礼儀正しく颯爽とした様子であったのに、この少年に対する態度や言葉遣いはひどく砕けている。
少年は頬を膨らませながら黙り込み、むっつりと俯いた。
納得いっていないらしい。可愛らしい顔はしかめっ面になっても可愛いけれど。ちょっと涙目になっているのに気づいて、ナツメは少し考え込んだ。
「あの……では、リンクコーデはいかがですか?」
咄嗟に、ナツメは言った。
「――はい?」
クロの怪訝そうな青い目が、ナツメを射貫く。
心臓が跳ねて、口から飛び出しそうになった。かつて、これほど間近にまっすぐ見つめられたことはない。全身の血が恐ろしく沸騰している。息が止まるかと真剣に思った。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。相手は大事なお客様だ。
「先日納品させていただきました上着と同じ生地が、まだございます。それでお帽子やタイなどお作りになるのはいかがでしょう。それなら、調整すれば長くお使いになれますし、お二人でご一緒にお召しになるとお揃い感が出て、とても素敵だと思いますよ」
棚を探り、先日クロのために仕立てた上着の布地を引っ張り出す。
「こちらです」
ヒマワリの肩に当ててみる。深い藍色が、金の髪によく映えた。
幼い顔にぱっと笑顔が広がる。
「それがいい! ね、クロ」
クロはまだ少し不服そうな顔をしていたが、やがて肩をすくめて「わかったわかった」と降参したというように両手を上げた。
「では、この子に帽子を」
「! かしこまりました!」
「あなたが作ってください」
有無を言わさぬその発言に、ナツメはぽかんとした。やがてその意味するところを理解すると、今度は不安になっておろおろとする。
「あの……私でよろしいのですか?」
「提案したのはあなたですから。あなたが適任でしょう」
慌てて父を振り返る。神妙な顔で父が頷くのを確認して、ナツメは胸の奥から湧き上がるものを感じ、頬を火照らせた。
「ありがとうございます! う、承りました!」
これが初めて、最初から最後まですべてを自らの手で作り上げる仕事になるのだ。ナツメは少し緊張しながら、少年の頭周りを丁寧に採寸した。
「誠心誠意、お作りさせていただきますね!」
帰り際、店先まで見送りに出てヒマワリにそう微笑みかけると、嬉しそうにぺこりと頭を下げ、「よろしくお願いします!」と礼儀正しく挨拶してくれた。しっかりしつけられているらしい。クロがこの少年に、手取り足取り色々と教えてあげているのだろうか。そんな風景を想像すると、なんとも微笑ましい。
「行くぞ、ヒマワリ」
長い脚でさっさと行ってしまうクロをヒマワリはぱたぱたと追いかけていって、ぱっとその腕にぶら下がるように抱きついた。クロは面倒くさそうな顔をしながらも、振りほどいたりはしない。
そんな二人が去っていく姿を、路地を曲がって見えなくなるまでついつい見つめ続けてしまう。
(私の、初めてのお客様……!)
その日からナツメは、ヒマワリのための帽子製作に励んだ。
何枚もデザインを描き散らし、型紙を作り直し、試作を繰り返す。あの青年の隣に並ぶということは、父の服の隣に並ぶということだ。生半なものではその資格はない。一寸たりとも気は抜けなかった。
全身全霊で取り組む日々は、何より充実していた。完成した帽子は、カジュアルすぎないキャスケット帽。直線的なシルエットを取り入れて、いくらか上品に仕上げた。あの少年が被ったら、さぞや愛らしいに違いない。
そして隣にあの美しい人が、これと揃いの上着を羽織って立ったなら――。想像するだけでぞくぞくした。
あとは本人に試着してもらい、最後の調整をするだけ。
ナツメは、二人が再度来店する日をうきうきと待ちわびた。
ところが、受け取り予定日を過ぎても、一向に彼らが店を訪れる気配はなかった。春の終わりの注文であったのが、ひと月が過ぎふた月が過ぎ、やがて夏が過ぎて、そして秋になった。
代金は前もって支払ってもらっている。このままでは、お金をもらうだけもらって納品できないという事態になってしまう。
ナツメは気を揉んだ。
結局、クロが久しぶりに姿を見せたのは、注文を受けてから半年も過ぎた頃だった。こんなに長く来店期間が空いたのは初めてだ。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
父がいつも通り、穏やかな微笑みを浮かべて迎え入れる。しかし、クロの姿をじっと見つめると、
「――クロ様、お痩せになりましたか?」
と尋ねた。
これまで幾度もその手で採寸し、その身に纏う服を作り上げた相手だ。父の目は、すぐに彼のサイズが変わったことを見抜いたらしい。
クロは驚いたように、自分の顎を撫でた。
言われて初めて気づいた、というように。
「そうかも……しれません」
一体、この半年の間に彼に何があったのだろう。彼の白皙の面は、以前より憂いを帯びているように思えた。
クロが一人であることを確かめてから、思い切って声をかける。
「あの……本日は、ヒマワリ様はご一緒ではないのですね。ご注文いただいたお帽子、出来上がっているので最後の調整をと思っているんです。またご都合のよろしい時に、是非ご一緒にご来店ください」
するとクロは、微かに表情を強張らせた。
「すみませんが――その帽子は当分、こちらで預かっておいていただけますか」
「え?」
「あいつは、しばらく来れないので」
「……さようで、ございますか」
不安が胸をよぎる。クロだけでなく、あの少年にも何かが起きたに違いなかった。
(もしかして、重い病にでもかかったのかしら? それとも、事故、とか……)
問いただしたかったが、客の私的な部分に立ち入ることは決してしてはならない、というのが父の教えだった。
本人が自ら進んで話すならば構わない。話したそうにしていたら、むしろ質問を投げかけてやるほうがいい。相手の為人もわかるし、作り上げる衣装をいかに相手の生活に馴染むものにするか、その手掛かりにもなる。けれど、語りたくない素振りを見せたなら、絶対に踏み込んではならない。
クロは、この話題を避けているように見えた。
「――かしこまりました。大事にお預かりさせていただきます」
すべてを飲み込んで、ナツメはそう微笑んだ。
うららかな、春の午後。
薄暗い保管庫で、ナツメは棚の上から、よいしょと大きな箱を持ち上げた。少し積もった埃を、ぱっと掃ってやる。
収められているのは、初めて自分で客のために手掛けた帽子。
この帽子を作ってから、五年の年月が流れた。
持ち主はいまだ、姿を見せないままだ。
蓋を開け、手に取ってみる。
時折こうして、取り出して眺めては、傷みはないかと確認し、丁寧に手入れをする。あれから、父に認められて自分の客も持つようになり、なんとか一人前と呼べる職人にはなれたけれど、常に試行錯誤の日々だ。けれどこうしていると、いつだって初心を取り戻して、新しく挑戦する気持ちが生まれる。
カランカラン、と店の入り口のドアの鐘が鳴るのが聞こえた。お客様だ。
ナツメは手にした帽子を箱に戻し、慌てて店頭へと足を向けた。
「ねぇ、せっかくだから夜会服でも作ろうよ。お詫びも兼ねてさ、クロとアオと僕ので、三人分」
「どこに着てくんだよ、そんなもん」
「終島でお祝いパーティー開こう。全部うまくいって、無事に戻ってこれたらさ」
「……まぁ、お前はそのうち必要になるかもな。実家のほうで舞踏会だの晩さん会だの、色々あるんじゃねーの」
「そんなの呼ばれても出ないよ。あ、でも、クロとアオも一緒なら行こうかな」
「なんでだよ。誰が行くか、面倒くさい」
「えー、二人が正装してびしっと決めてるところ見てみたいー!」
騒がしい声が聞こえてくる。
ナツメはぴんと背筋を張って、落ち着いた足取りで近づくと、店の入り口に立っている二人に声をかけた。
「いらっしゃいませ」
一人はクロだ。彼はこの五年の間も、幾度か来店してくれている。
そして、彼の隣に立つ人物を目にして、ナツメは微かに息を呑んだ。
覚えのある金の髪。美しい花が咲くような、ヘーゼルの瞳。
その背丈はぐんと伸びていたが、それでもまだ少年と言っていいであろう面差しの中に、あの幼い笑顔が重なった。
「――お久しぶりです。お待ちしておりました、ヒマワリ様」
ヒマワリは驚いた様子で笑った。
「名前、憶えててくれてたんだ」
ナツメは頷く。
「もちろんでございます」
「遅くなってしまってごめんなさい。あの時頼んだ帽子、受け取りにきたんです」
「はい、すぐにお持ちいたします」
ナツメが運んできた箱を開けると、ヒマワリは歓声を上げた。
「これこれ! お揃いのやつだ!」
今日のクロが纏っている上着は、まさにこの帽子と同じ生地で父が作ったものだ。わざわざ選んで着てきたに違いない。
「実際に被っていただいて、最後の調整させていただきますね。どうぞこちらへ」
ヒマワリを姿見の前に誘導し、そっとその金の髪の上に被せてやる。
「いかがですか?」
「――わぁ、すごい。ぴったり」
ヒマワリは目を丸くして、鏡の中を覗き込む。
ナツメは微笑んだ。この五年の間も、彼の成長を予想して、少しずつ調整をしておいたのだ。それでもナツメの目で見れば、今の彼の頭に完璧に沿うためにはもう少し修正が必要だった。
「少しお直しさせていただきますね。お掛けになってお待ちください」
飲み物を提供してから、帽子を手に奥の作業場へと入る。針を手にしたところで、そっとクロが近づいてきたのに気づいた。
「どうされました?」
クロは少しだけ躊躇うように、口を開いた。
「長い間預かっていただき……感謝しています」
「ようやく持ち主のところへ旅立つことができて、この帽子が誰より喜んでいますわ。――その上着、本当によくお似合いです。お二人が並んだ姿を見たら、父も喜ぶでしょう」
「店主は、今日はご不在ですか?」
「父は――先月亡くなりました」
クロは驚いたように口をつぐみ、やがて「そうでしたか」と呟く。
「前回お会いした時は、お元気そうでしたが」
「ええ、本当に急なことだったので。前日まで、いつも通りここで忙しく働いていたんですよ。それが突然倒れて、そのまま」
「……残念です。素晴らしい職人でした」
「ええ、本当に」
ナツメは作業の手を止めず、クロに語りかける。
「この店は、私が跡を継ぐことになりました。父に比べればまだまだ未熟ではありますが……それでも、父に胸を張れる、よい仕事がしたいと思っています」
継いだといっても、父がいないのならばと離れていった客もすでに多い。クロは相当に厳しい目を持っているから、彼もまた、もうこの店に来ることはないのかもしれない。
「あなたは十分、優れた手を持っています」
ナツメは驚いて手を止め、顔を上げた。
「ここ二年ほどの俺の注文した品は、いずれも主だった部分は店主の仕事でしょうが、いくらかあなたの手も入っているでしょう。着心地が、さらによくなりました」
頬が熱くなるのを感じる。
確かに父の監督の下、クロの注文の製作に補助として携わることを許してもらっていた。けれど、それが伝わっているとは思わなかった。
「……嬉しい、お言葉です」
落ち着け、と自分に言い聞かせた。浮かれていい加減な仕事になってはいけない。視線を落として、作業に戻る。
「あの……これは、私の独り言、なのですが」
視線を落としたまま、ナツメは言った。
「この店は、お客様の個人的な事情には決して立ち入ることはありません。私はただ、目の前のお客様にご満足いただけるものを作り続けるだけです。それがどんなお客様でも。十年後も二十年後も、例えばその姿が変わっても、あるいは――まったく変わらなかったとしても――私は、自分の仕事をするだけです」
彼がこの店を訪れるようになり、十年以上の時が過ぎた。
初めて目にしたあの日から、絵から抜け出てきたのかと真剣に思ったあの時の夢のように麗しい姿から、彼にはまったく歳を取った気配がない。
美しいその面は、今も昔も二十代の若者にしか見えなかった。ただ若く見えるとか、若作りだとか、そういう問題ではない。仕立て屋としていつもその身体を、骨格を、肌の色を、ほんの少しの変化であっても、隅の隅まで観察してきた。だから、断言できる。
彼は明らかに、歳を取っていない。
父との会話から漏れ聞いた内容から察するに、彼はこれまで、かなりの数の店を渡り歩いている。恐らく、数年ごとに通う店を変えているのだろう。自分の変化のなさを、誰にも気取られないように。
そんな彼がこんなにも長い間この店を贔屓にしてくれていたのは、ひとえに父の腕を見込んでくれていたからだ。
ナツメが店主となった今、彼は別の店に移ることを考えているのかもしれない。ナツメの腕に満足できないというなら、それは仕方がない。けれど、もしもただ、いらぬ詮索や疑念を生むことを恐れているだけならば――。
クロは、何も答えなかった。
「できました」
調整を終えた帽子を手に、ヒマワリのもとへと戻る。
今度は、完全にぴったりだった。
ヒマワリは嬉しそうに鏡の中の姿を見つめ、いろんな角度から眺めまわしている。
「クロ、どう? どう? 似合う?」
腕を組んでその様子を見つめるクロも、満足している様子だった。
二人並ぶその光景に、ナツメは思わず吐息を漏らす。満足感と、そして同時に、少しの喪失感が滲んだ。
ヒマワリがそのまま被って帰る、というので、ナツメは店の前で二人を見送った。
「ご来店、まことにありがとうございました」
「今度、改めて夜会服の注文に来ますね! ね、クロ?」
ヒマワリに脇をつつかれて、クロは少し眉を寄せた。
「――三人分、お願いすることになると思います。もう一人、今度連れてきますので」
ナツメは、息をするのも忘れた。
世界が、一瞬で色づいたような気がした。
震える手を握りしめ、ナツメは深く深く、頭を下げた。
「はい、お待ちしております!」
去っていく二人の後ろ姿を見つめながら、ナツメは考えた。
もしもこれが、ナツメが主人公の物語であったなら。
きっと、いつも店にやってくる素敵な美青年と別の場所でばったり遭遇したり、一緒に事件に巻き込まれたり、そうこうするうちに距離が近づいて惹かれ合ったり――そんなふうにしていつか、彼と結ばれる筋書きが用意されているのだろう。
わかっている。現実には、そんなことは起こらない。
それでもナツメは、失望も落胆もしていなかった。
これから先、何年、何十年、彼のために服を作り続けることができるだろうか。それはナツメの手を離れ、彼の生きる世界を、ともに寄り添って生きていく。
思い描いてみる。
いつか年老いた自分が、若く美しいままのクロに、最後の一着を贈る日。その瞬間、自分はきっと、溢れるほどの幸福に満たされる。
二人が完全に見えなくなっても、ナツメはしばらく、店の前に立ち尽くしていた。
やがて我に返り、扉を開く。カランカラン、と扉につけた鐘が鳴った。
浮かんでくる夜会服のデザインを急いで描き止めようと、ナツメは軽やかな足取りで、作業場へと駆け込んでいった。
【おわり】