終島の小さな冷戦
集英社オレンジ文庫10周年フェア『魔法使いのお留守番』(白洲 梓)スペシャルショートストーリー
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「うるせーな! いつまでもつまんねーことごちゃごちゃ言ってんじゃねーよ!」
「つまらないこと? 大事なことですよ! ひどすぎます!」
クロとアオが言い争う声が聞こえて、ヒマワリは居間を覗き込んだ。
二人が互いに、大声で怒鳴り合っている。
ヒマワリはハラハラした。二人が喧嘩しているのを見るのは初めてだ。これまでクロが不貞腐れたり怒ったりすることがあっても、アオはいつもやんわりと受け流していたから、喧嘩に発展するようなことはなかったのだ。
それが、珍しくアオまで怒っている。
「もういいです! 知りません!」
「勝手にしろ!」
アオが部屋を飛び出していく。残されたクロはイライラした様子でソファに座り、手近にあった新聞を開いたが、文字が目に入っているとは思えない速さでバサバサとめくり続けていた。
とても話しかけられる雰囲気ではなく、ヒマワリは足音を忍ばせて自分の部屋に戻るしかなかった。今はそっとしておいたほうがよさそうだ。明日になればきっと機嫌も直って、いつも通りの二人に戻っているだろう。
しかし、ヒマワリの見込みは甘かった。
朝、食堂に入るとアオの姿はなかったが、すでに二人分の皿がテーブルに用意されていた。ヒマワリの席には、焼き立てのパンやオムレツが置かれている。
しかし、クロの皿に盛られているものに気づき、ヒマワリは目を丸くした。
小麦粉とバター、水に砂糖、生の卵、カップの中には珈琲豆。
原材料である。
アオはまだ、相当に怒っている。
ちょうどそこにやってきたクロは、自分の席に置かれた皿に気づくと無言でそれを見下ろし、昨日より一層不機嫌そうな顔になった。そして何も言わず、どかどかと足音を立てながら部屋を出ていってしまった。
階段を下っていく足音がして、ヒマワリはそっと耳をそばだてる。恐らくクロは、台所へと抗議に向かったのだ。案の定、再びクロとアオが大声で罵り合う声が微かに伝わってきた。ヒマワリは身を固くする。
二人が本気で怒っている声は、とても怖い。いつもの彼らとは別人のようで、ひどく不安になる。
しばらくすると、クロが苛立ちを隠しもせず階段を駆け上がっていくのがわかった。
とても食事が喉を通りそうにないヒマワリは、朝食に手をつけないまま部屋を出た。ぱたぱたと階段を駆け下って、明かりのついている台所を覗きこむ。
「ねぇ、アオ……」
ヒマワリは恐る恐る声をかけた。
「どうしました、ヒマワリさん」
アオはこちらを振り向き、にこやかな表情を向けた。
しかし手元では、大きな肉切包丁で分厚い肉をズダン! ズダン! と力いっぱいに切り刻んでいる。
どう考えても、あんなに細切れにする必要はない。
「……なんでもない」
ヒマワリはそろそろと顔を引っ込めた。
クロの様子を見に行こうと北の塔へと上がってみたが、部屋の中から何かを投げつけるような音が絶え間なく聞こえてきて、怖くなって引き返してしまった。クロもまた、相当に荒ぶっている。
それ以降、城は完全なる冷戦に突入した。
昼になってもクロは部屋から一切出てこないし、アオはいつも通り家事に勤しみながらも常にぴりぴりとした雰囲気を醸し出していた。しかも、わざわざ城中の絨毯の日干しを始めたと思うと、手にした棒で一心不乱に叩き始めた。島中に響き渡るその音が、聞いているだけで痛い。
もしもこのまま二人が仲直りしなかったら、一体どうしたらいいのだろうか。
ヒマワリは不安でいてもたってもいられず、シロガネの研究室に忍び込んだ。そしてシロガネの研究ノートや魔法書を広げては、喧嘩の仲直りをさせられる魔法がないかを探してあれこれと読み込んだ。
しかし残念ながら、魔法とはそう都合のいいものではないらしい。収穫がなく、ヒマワリはがっくりとして居間のソファに寝転がる。
じわりと心細さが募った。ずっとこんなふうに、ひりついた空気の中で暮らしていくのだろうか。
「おーい、誰かいないのか?」
唐突に、明るい声がした。
ヒマワリははっとして、ドアを開けて現れた人物に思わず飛びつく。
「ミライ……!」
「おっ、いきなりの大歓迎」
ヒマワリを受け止めながらふざけた調子で笑うミライの笑顔が、もはや眩しい。
ヒマワリはくしゃりと顔を歪め、涙を滲ませる。
「ミライ~~~! うう~~~!」
泣き出したヒマワリに驚いたミライは、「なんだなんだ、どうした?」と困惑しながらもヒマワリの頭を撫でてくれる。その温かさに、余計涙が止まらなくなった。
ヒマワリは昨日から続くこの状況を、泣きながらもつっかえつっかえ説明した。ミライは腰を落とし、その要領を得ない話に合いの手を入れながら、辛抱強く耳を傾ける。
「へぇ、アオがそんなに怒るなんて珍しいな」
「ねぇ、どうしたらいい? 僕、こんなの嫌だよ……」
「うーん……」
するとどこからか、クロの怒声が響いてきた。
「――お前みたいなのとこれ以上一緒に暮らせるかよ! 俺は出ていく!」
「ええ、ご勝手にどうぞ!」
いつになく冷淡に、アオが言い放つのが聞こえた。
ヒマワリとミライは顔を見合わせると、慌てて部屋を飛び出した。
階段の踊り場で、クロとアオが睨み合っている。クロの手には旅行鞄がぶら下がっていた。どうやら身の回りのものをまとめて、本気で出ていくつもりらしい。
「クロ、どこ行くの!」
「さぁな。とにかく、あのバカげた人形のいないところだ」
そう言い捨てて階段を駆け下ってきたクロを、ミライが引き留める。
「おいおいクロ、落ち着けよ。家出なんて、思春期の子どもじゃないんだから」
「うるさい!」
クロはミライの手を振り払い、裏の出口へと足早に向かった。古井戸からどこかへ行ってしまうつもりなのだ。ヒマワリは焦って、「待って!」と後を追った。
するとクロは、ふと何かに気づいたようにぴたりと足を止めた。
「……待てよ。何で俺が出ていかなきゃいけね―んだ」
くるりと振り返ると、そっぽを向いているアオに向かって叫ぶ。
「おい、お前が出て行けよ、アオ!」
「意味がわかりません。出ていきたい人が出ていけばいいでしょう」
「じゃあ勝負だ。負けたほうが出ていく。それでどうだ」
「勝手なこと言わないでください。俺はクロさんと違って忙しいんです」
「あー、そうだよな。本気で戦ったら、お前俺に勝てないもんな!」
アオがぴくりと反応した。かたかたと揺れ始める。
「……はい? 負けるのはクロさんのほうでは?」
「はぁ? おい、表出ろ!」
「望むところです!」
二人は我先にと争うように、外へ飛び出していく。
「クロ! アオ!」
慌てて追いかけると、城の前に陣取った二人が殺気を漲らせながら、互いにその身を揺らがせているのが目に入った。それぞれ、本来の姿――竜とゴーレムに変化しようとしているのだ。
「え、まさか、竜対青銅人形の世紀の決戦始まる? 往年の怪獣映画かよ」
ミライはそわそわと期待に目を輝かせている。
しかしヒマワリは、足が震えるのを感じた。
二人は本気なのだ。本気で戦って、そしてどちらかがここを出ていくつもりなのだ。
ヒマワリは力いっぱい叫んだ。
「や、やめてよ、二人とも……! 出ていかないでよぉ……! お願いだからぁあ……!」
ひくひくとしゃくりあげ、大声で泣き出したヒマワリに、クロとアオは驚いて動きを止めた。
「ヒマワリ……?」
「ヒマワリさん……?」
「ずっとみんな一緒がいいよ……! どこにもいかないで……っ!」
うわああん、と激しく泣き続けるヒマワリを、ミライが慌てて宥める。
「だ、だーいじょうぶだって、ヒマワリ! 二人とも出ていったりしないって。――な? そうだよなお前ら?」
ミライはヒマワリの頭や背中を優しく撫でながら、そうだと言え、と暗に要求する笑顔を二人に向けた。
クロとアオはたじろいで、互いに困惑した視線を交わした。いつの間にか、さきほどまでの殺気は消え去っている。
アオが心配そうに、ヒマワリのもとへと駆け寄った。
「ヒマワリさん……」
「アオ~~!」
ヒマワリは涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を、アオの腰に押し当てるようにしてしがみつく。
「二人とも、どこにも行っちゃやだ……」
「わ、わかりました。大丈夫です、どこにもいきませんよ。ね、クロさん!」
同意を迫られ、クロは不承不承というように、「おう……」と答える。
「本当?」
ぐずぐずとまだ泣いているヒマワリの涙をぬぐいながら、アオが「本当です」とおろおろしている。
「もー、一体喧嘩の原因は何なんだよ?」
ミライが腰に手を当てて尋ねた。
アオはもの言いたげに、ちらりとクロを見た。クロは腕を組んで、むっつり黙り込んでいる。
「それは……クロさんが俺に、あまりに残酷で無体な仕打ちをしたので、どうにも我慢ならず……」
「大げさすぎだろ」
「だってそうじゃないですか!」
「うんうん、それでクロが? 何したって?」
ミライに促され、アオは怒りを思い出したように拳を握り締める。
「クロさんが、俺が読みかけでテーブルに置いておいたミステリ小説の……ネタバレをしたんです……!」
「…………うん?」
がくがくと揺れながら、アオはまくしたてた。
「犯人が誰なのか、すごくすごく気になっていたんですよ! 解決編を読むのを楽しみにしていたのに! それをクロさんは勝手に読んだ上に、犯人が誰でトリックがどうだとか、全部喋り始めて! こんなことが許されると思いますか? ミステリにおいて絶対にやってはならない悪魔の所業ですよ……!」
「だから、わざとじゃねーって言ってんだろ。お前がもう読み終わっていると思って――」
「あの神々しいほど主張していた栞が見えませんでした⁉ 見えませんでしたかっ⁉ どう考えても未読でしょう!」
しかしクロは反省する様子もなく、ぷいと顔を背ける。
「はん、あんなもん、読まなくて正解だぜ。真相が荒唐無稽すぎて、壁に投げつけてやろうかと思ったわ」
「確かに、凶器は海を越えて飛んできた凍ったバナナで、密室トリックは夢オチで、探偵が実は犬で、真犯人が結局誰だったのかは読者のみなさんの解釈次第です、みたいな終わり方には賛否両論あると思いますけど! それを自分で読むのと、人から聞かされるのは全然別問題です!」
「……なぁ、それどんな話なの?」
ミライは呆れたように言った。
再び言い争い始めた二人を眺めながら、ヒマワリはしかし、ほっとしていた。
アオもクロも、お互いが本気で嫌いになったわけではないのだ。
ヒマワリは右手でクロ、左手でアオの手を握った。二人は驚いて口を噤み、金の髪の少年を見下ろす。
「クロ、わざとじゃなくてもちゃんと謝らないとだめだよ」
「え……」
「アオも、あの朝ごはんはちょっと陰険なやり方だと思う」
「ヒ、ヒマワリさん……」
「二人とも、ちゃんと謝って。ほら」
真顔で促されて、二人は怯んだように顔を見合わせた。
そして、たどたどしくも気まずそうに、
「悪かったよ……」
「すみませんでした……」
と謝罪の言葉を述べた。
ヒマワリは満足そうに、よし、と頷く。
ミライが肩を竦め、勢いよくパンパン、と手を叩いた。
「よしよし、これで喧嘩は終わりな! さ、中に入ろうぜ。俺お腹空いたなー」
「僕も!」
「……俺も」
クロがぼそりと言った。彼は朝から何も食べていないのだ。
「……では、何か作りましょうか」
アオも、まだ少しだけそっけない口調である。
「ちょうど大量のミンチがあるので……ハンバーグにしましょう」
「やった、ハンバーグ!」
掴んだままの二人の手を引きながら、ヒマワリは軽やかな足取りで城への道を戻っていった。歩幅の大きな二人に負けじと、跳ねるように大股に歩く。その口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、二人が本当に戦ったら、どっちが勝つの?」
「俺だろ」
「俺です」
答えはほぼ同時だった。
再び、二人の間で火花が散る。
「……やっぱり、決着をつけましょうか」
「ふん、受けて立つぜ」
「待て待て、お前らが本気でやりあったら城も島もぶっ壊れる! 腕相撲にしろ、腕相撲で決着をつけなさい!」
ミライが割って入り、平和的な代替案を提示した。
その日、真剣勝負の腕相撲大会は深夜まで続いた。
ヒマワリは途中で眠ってしまって、結局どちらが勝ったのかはわからなかったけれど、翌朝の朝食はきちんと二人分のパンとオムレツが用意され、淹れたての珈琲の香りが漂っていたのだった。
【おわり】