つきっきりの親切な人
「あ、おはようニナ!」
リヒトは、ニナを見るなり笑った。
リーリエ国騎士団の宿舎である古城。
女性団員の部屋がある西塔の一階には、リヒトがいた。ニナが騎士団に仮入団して以来、リヒトは毎朝ここで、階段からおりてくるニナを待っている。
「おはようございます」
ニナはぺこ、と頭をさげた。
鎖帷子にかかる肩までの黒髪がゆれる。
青海色の目で、歩みよってくるリヒトを見あげた。
「昨夜は眠れた? 弓の的打ち訓練も二週目だけど、指は痛くなってない?」
「大丈夫です。村では毎日のように、弓で果物を射抜いて採っていましたし、リヒトさんに薬も塗ってもらったので。あ、あと競技場に踏み台を置いていただいて、ありがとうございました。汗拭き布を干しやすくて、助かりました」
ニナはリヒトの腹ほどの背丈しかない。
小柄なニナにとって、大柄な騎士たちが住む古城の施設は、生活するのに工夫がいる。
「いえいえ。まだ騎士団の生活にも慣れてないし、遠慮しないで声かけてね。食器棚のお皿まで手が届かないとか、甲冑が重くて運べないとか、どこにいたって飛んでくるからね」
じゃあ朝食に行こうか、とうながされ、ニナはうなずく。
連れだって歩きながら思った。
飛んでくるもなにも、リヒトは常にニナのそばにいる。自分の走力訓練を中断してまで周回遅れのニナを助け、大剣の打ち込みを後回しにしてニナの的打ちを手伝うなど、過剰なほど面倒をみてくれる。
――わたしをリーリエ国騎士団に勧誘したのはリヒトさんです。そのこともあっての気づかいでしょうが、申し訳ないくらいです。
ニナは隣を歩くリヒトをそっと見る。
長毛種の猫のような金髪が飾るのは、端正な甘い顔立ち。新緑色の目は爽やかで、騎士団のサーコートをまとった長身には品がある。物語に出てくる〈王子さま〉のような外見のリヒトは、面倒見のいい先輩騎士だ。
食堂に到着すると、リヒトが大扉をあけてくれる。
礼を言って食堂に入ったニナは、細い肩をはねさせた。
「ひゃ!」
入り口付近に、年長の団員たちが倒れていた。
〈中年組〉と呼ばれる彼らは、あるものはうーんうーんと苦しそうに呻き、あるものはいびきをかいて寝ている。汗まみれの下着姿で、脂と麦酒のひどい臭いがする。
「うっぷ」
ニナは口元をおさえた。
王都の酒場で夜通し宴会をし、朝帰りしたところなのだろう。リーリエ国騎士団の特徴をあらわした、〈きつい、きたない、きけん〉の〈きたない〉を具現化した悪臭に、えずきそうになる。
ちょっとごめんね、と、リヒトがニナを持ちあげた。
「え、あ、あの!」
「ニナはまだ十七歳でしょ。慣れないお酒の臭いで気持ちが悪くなったら、訓練ができなくなるからね」
ニナを縦抱きにしたリヒトは、心配そうに眉をよせた。ね、と首をかしげられ、ニナはつられてうなずく。
満足そうに笑ったリヒトは、ニナをしっかりと抱えた。転がっている中年組を迂回して窓際へと向かう。
若手が集まる長机には、先輩騎士のトフェルとオドが並んで座っている。
対面に並ぶ三つの椅子には、ニナの兄ロルフが、真ん中の席に座っている。
「……ニナの隣がよかったのに、邪魔するみたいに真ん中だし」
ぼそりと低い声がもれた。
ニナが見あげると、リヒトは笑顔だ。
幻聴が聞こえるなんて、やはりお酒の臭いをかいだせいかも知れない。そんなふうに首をかしげて、ニナはロルフの左隣に座った。
長身の兄と小さい妹。
ニナとロルフは、すぐれた騎士を輩出する村の出身だ。紛争解決手段である戦闘競技会で活躍するためには、屈強な体格が求められ、ロルフは国一番の騎士と呼ばれている。一方で小柄で貧弱なニナは、〈出来そこないの案山子〉と笑われていた。
短弓の技術を認められて国家騎士団員となったけれど、兄への憧れが強いニナは、やっぱり緊張してしまう。
おずおずと丸パンをちぎるニナに対して、ロルフの右隣に座ったリヒトは、あれこれと気をくばった。黙々と食事をするロルフをおしのけるように、ニナに果実水をついで大皿料理を取りわけ、気さくに話しかける。
〈出来そこないの案山子〉として軽んじられ、村人の雑用係だったニナには、信じられない境遇の変わりようだ。豚すね肉の煮込みを骨からほぐし、はいどうぞ、と差しだしてくるリヒトを、ニナはぼうっと見やる。
思わず口にしていた。
「……リヒトさんは本当に親切なんですね」
「ぶは!」
先輩騎士トフェルが噴きだした。
ぶくく、と腹を抱えるトフェルの背を、オドがさする。近くの席に座る団員たちが呆然とした顔を見あわせた。トフェルはひーひーと笑いながら、戸惑うニナを指さした。
「そんなのんきにかまえてると、知らないあいだに皿にのせられて食われちまうぞ。リヒトのはただの親切じゃなくて、おまえの気を引こ――もが!」
リヒトが腕をのばし、骨付き豚肉をトフェルの口につっこんだ。
「いやだなもうそんなにがっついちゃって! まあ料理婦ハンナはなにをつくっても美味しいけど、肉料理はとくに最高だからね!」
肉塊をぐいぐいとトフェルの口におしこんで、リヒトはニナに向きなおる。
なにごともなかったように笑いかけた。
「そうだニナ。天気がいいから、今日は〈迷いの森〉の道案内をしたいんだけど、どう?」
「あの、宿舎から王都への道は、もう五回くらい案内していただきましたが……」
「……そうかもだけど、この古城がある〈迷いの森〉は、名前のとおり迷子になりやすいからね。緊急時に迅速に移動できるよう、完璧に覚えた方が安心だと思うんだよ」
ニナは、なるほど、とうなずいた。
リヒトの道案内は、焼き菓子を食べながらの散歩のようなものだ。ニナの好きな花や服の趣味など私的な質問も多く、丸一日がかりとなるけれど、せっかくの気づかいだ。
「――ニナ」
ロルフが唐突に口を開いた。
木杯をかたむけながらつづける。
「昨日の弓の訓練を見たが、二十歩の距離の的打ちが不安定だった。騎士の本分は競技場だ。〝成長を妨げる懸念材料〟は、早い段階で排除した方がいいだろう」
「懸念材料……排除?」
眉をよせたリヒトに、ロルフは秀麗な顔を向ける。長い黒髪がかかる隻眼が、大剣の一閃のように光った。
「……おまえはこのところ、基礎訓練をおろそかにしているようだ。走路を百周と、大剣の打ち込み千回。規定回数をこなせなければ懲罰もやむを得ぬと、団長が渋い顔をしていた」
ニナは、はっと息をのんだ。
兄の指摘で、己がリヒトの時間を使っていたことに気づかされた。あわてて立ちあがると、いきおいよく頭をさげる。
「本日は一人で的打ちをします。ご厚意に甘え、迷惑をおかけしてすみません。リヒトさんはどうか、ご自身の基礎訓練を優先してください!」
――夜の鐘が鳴った。
西塔の一階。階段まで送ってきてくれたリヒトに、ニナは折り目ただしく礼をする。
「あの、今日もわざわざ、ありがとうございました」
「とんでもない。見送りは、むしろおれがありがとうだからね。ていうか走路百周と打ち込み千回くらいで諦めてたら、〝さりげなく邪魔してくる兄さま〟に、排除されちゃうからね」
「……えと、兄がなにか?」
「ううん。リーリエ国の一の騎士は、意外と妹思いだなーってこっちの話」
じゃあまた明日の朝ね、と手をふった。
廊下を遠ざかっていくリヒトを、ニナは目を細めて見つめる。
リヒトが基礎訓練から戻ったのは夕食時だ。
ぜえぜえと息を荒らげていたリヒトは、それでもニナの食事の世話を焼いた。使用した矢の点検に加わり、的打ち板の張り直しを手伝った。げっそりした顔に笑顔を浮かべ、ふらつく足でニナを送ってくれた。
「……お疲れだったのに、リヒトさんはやっぱり親切な方です」
ニナはなぜだか温かい胸をおさえる。
頬をほんのり赤らめると、自室への階段をのぼっていった。
小さな足音が遠ざかってまもなく、料理婦ハンナの怒鳴り声が廊下にひびいた。
「――ちょっとリヒト、こんなところで倒れてたら通行の邪魔だよ! ……疲れて足腰がたたない? 腕があがらないだって? 知るもんか、さっさとおどき! 金髪をむしって放り出すよ!」
【おわり】