ミスター・ラスと金色の少年
オルランド王国の首都・リーヴァイの中心からほど近い、それなりに裕福な中流階級が住んでいる地域に、そのテラスハウスはある。
狭い袋小路の道の両端に同じ外観の建物が二棟、向かい合うように並んでいる。赤レンガの壁には蔦が這いまわって窓をふさぎ、黒茶の瓦の隙間からは濃い緑色の苔が顔をのぞかせていて、どこか手入れの杜撰さを思わせる。しかし、このテラスハウスの住人であればこの自由気ままな植物たちは大家の趣味の一環だと知っている。袋小路の突き当たりにある一軒家、大家の家の前庭には、それはもう見事なエルダーフラワーの樹が今を盛りと白い小さな花をつけ、青いディルフィニウムとまだ青々とした葉を晒すばかりの薔薇の一群が、よりいっそうエルダーフラワーの花の白さを際立てている。テラスハウスの前にも小さな花壇が設けられ、こちらにはラベンダーが列をなして芳香を家々に届けていた。大家のマダム・スプリングとその夫は、休みの日には揃って庭仕事に精を出し、放っておけばテラスハウス前の花壇まで美しく整えられてしまう。この大家夫婦は、植物と猫をこよなく愛しているのだ。
そんなテラスハウスに、リーヴァイ警視庁の警部、ヘイリー・ラスは住んでいる。
非番の日、ヘイリーはほとんど一日を寝て過ごす。惰眠は日々リーヴァイの平穏のために身を粉にして働く警察の、数少ない娯楽なのだ。
しかし、ヘイリーの健やかな眠りは騒々しい玄関扉の開閉音に妨げられた。厄介な同居人、デュラン・コーディが帰ってきたのだ。
このデュランという男は、自分勝手、傲慢、気まま、尊大という言葉が上等な衣服に袖を通しているような人物で、平たく言ってとんでもなく性格が悪い人間なのである。
そう、デュラン・コーディは性格が悪いので、ヘイリーの安眠など一切慮らない。
デュランは乱暴に玄関扉を開けたその足でヘイリーの寝室に直行し、ノックもないまま部屋のドアを開けて盛大に顔をしかめた。
「いつまで寝てるんだ? もう十時だぞ」
「うるさいな……休みなんだから好きなだけ寝させろ……」
「そうやって休みの日にダラダラ寝ているから仕事の日もまともに起きれなくなるんだ」
口うるさい母親のような物言いをされて、ヘイリーは唸り声を上げた。
そもそも、行く当てがないからしばらく泊めてくれと急に転がり込んできたのはデュランの方だ。それなのに、家主であるヘイリーに対してこの態度はいかがなものか。そう思って、ヘイリーが苦言を呈そうとした時だった。
「さっきそこでマダム・スプリングに会ったぞ。ついでに今月の家賃を払ってきた。お前、先月の家賃を払い忘れたな? 立て替えておいたぞ」
「何から何まですみません……」
最高潮に不機嫌な理由が察されて、ヘイリーは素直に頭を下げた。デュランは決められた物事が決められた通りに進まないことを、非常に嫌う。
人当たりがいいのはヘイリーの方だったが、人付き合いがまめなのはデュランの方だった。例えば、毎朝すれ違うときに挨拶を欠かさないのがヘイリー。毎月きっちり決まった日に家賃を支払うのがデュラン。なので、ふたりは気が合わないことが多々あった。子どものころからの付き合いだが、相手の行動の意味が分からないことも未だにある。それでも一緒に暮らして重大な諍いが起こらないのは、お互いがどことなく抱いている、一種の敬意によるものだろう。
デュランは寝ぐせでくちゃくちゃになったヘイリーの栗色の頭を見下ろして、ため息をついた。
「いつまでそんな頭をしてるつもりだ、みっともない。さっさと櫛を通してこい」
それはお前が叩き起こしたせいだ、とヘイリーは主張したかったが、家賃を立て替えてもらった以上、反抗できる立場にない。仕方なく、粛々と身支度を整えた。
「お前の怠惰のせいで、マダム・スプリングにまんまとおつかいをさせられる羽目になった。責任を取れ」
ヘイリーが身ぎれいにしてもなお不機嫌をまき散らすデュランの言葉に、ヘイリーはぎょっと目を見開いた。
「えっ、無理だぞ! 今俺がどれだけ忙しいか知ってるだろ!」
社交シーズン終盤である十二月は、ローレルスクエアの繁忙期でもある。後ろ暗い所のある貴族が自領に戻る前に徹底的に調べ上げ、証拠を摑んで虱と蛆に汚染された牢屋にぶち込まなくてはいけない。そんなことは、デュランも重々承知しているはずだ。
そう主張すると、デュランはそれこそ蛆虫を見るような目でヘイリーを見た。彼の榛色の瞳はこれ以上ないほど侮蔑に染まっている。
「誰が、お前がやれと言った。お前に任せたら三日で済む仕事もひと月かかる」
「そこまでじゃあない!」
そもそもデュランが求めるスピードがおかしいのだと何度言っても、彼は一切聞く耳を持たない。無自覚に優秀なものだから、デュランは他人も自分と同じ要領でできるものだと思い込んでいる。まったく困ったものだ、とヘイリーはひとり頭を振る。
「マダム・スプリングのとこの猫が一匹、昨日から家に帰らないらしい。そのうち帰ってくるだろうが、一応探してほしいんだと」
「またか? ちょっと放蕩が過ぎやしないか」
マダム・スプリングのおつかいの内容を聞いて、ヘイリーは顔をしかめた。でかでかと「面倒くさいから嫌です」と書かれたその顔に、デュランは見下したように鼻を鳴らす。
「お前はこっちだ。ほら」
デュランはポケットから取り出した、二つに折りたたんだ紙片をヘイリーに差し出した。
「なんだよ、これ」
言いながら、紙片を開く。
中には、マダム・スプリングの字でいくつかの物品の名前が書かれていた。
「堆肥、ガーデニングシャベル、うちの庭に似合いそうなオーナメント五つ、麻ひもにウッドラベルに……なんだ? これ」
「おつかいだと言ったろ。今日の夕方までに行ってこい」
「ひとりでか!?」
「ひとりでだよ」
とてもではないが、ひとりで片付けられる量の買い物ではない。だというのに、デュランは無情にもヘイリーを切り捨てた。
ヘイリーの顔にも不満がありありと現れていたのだろう。デュランの榛色の瞳が、ぎらりと光る。
「じゃあ、取り換えるか? いつまでかかるか分からない猫の捜索と、その買い物を?」
「謹んでおつかいをさせていただきます」
ヘイリーが手のひらを返して頭を下げると、デュランはまた不機嫌そうに鼻を鳴らした。
マダム・スプリングのおつかいを達成するべく、ふたりはテラスハウスを出た。
すでに日は高いが、太陽は薄い雲に隠されていてその眩いばかりの光を地上に届けることができずにいる。雨と曇りの多いオルランド王国では何も珍しいことはない。むしろ、好天気と言っていいくらいの日和だった。
「俺は園芸店を回るけど、お前はどうするんだよ。また地道に路地裏をうろつくのか?」
「そのつもりだ。出ていってそう日も経っていないからな、近くでうろついているだろう。器量のいい子だったから、どこかで捕まっているかもしれないし……」
そんなことを話していると裏路地に続く道から、何か物が倒れる派手な音が聞こえてきた。ふたりは顔を見合わせて耳をそばだて──その派手な音が続いているうえに言い争う声まで聞こえることを確認して、頷きあった。
「ああ、どうか大したことじゃありませんように! 非番の日まで厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ!」
「じゃあお前はここで待ってろ。おれひとりで行ってくる」
「行かせられるか、ばか。何しでかすか分かったもんじゃない」
声は三人ぶん。男がふたりと、それより幾ばくか高い、子どもの声だ。少女のようにも聞こえるし、声変わり前の少年のようにも聞こえる。家出した子どもと連れ帰りに来た家の人間が騒いでいるならいいが、大人の怒鳴り声に含まれているのは明らかに悪意と苛立ちの色だった。子どもを標的にした犯罪の可能性は色濃く、そうであればデュランもヘイリーも見て見ぬふりはできない。そうでなかったとしても、デュランが行く気になってしまっている。こうなると、ヘイリーは黙ってデュランについていく以外ない。
意を決して、ヘイリーはデュランの後を追って路地裏へと踏み込んだ。奥に進んでいくにつれ差し込む光は細くなって、まるで夜に沈んだように暗くなる。子どもと大人が怒鳴りあう声はますます大きく響くようになって、その音量に合わせて、デュランの機嫌がどんどん悪くなっているのが、ヘイリーには手に取るようにわかった。
(出会い頭にステッキぶん回すような蛮行に出なきゃいいが……)
デュランは子どもの大きな声が嫌いだ。正確に言えば、子どもに大きな声を、特に拒絶の声を出させる状況が嫌いだ。なので、この状況は最悪だった。まずは原因の排除とばかりに、その場にいる大人を殴り倒しかねない。
そんなヘイリーの予感は、半分当たった。現場にたどり着いたデュランはステッキを手の中で滑らせると、その場にあった鉄製のゴミ箱を思い切りステッキのグリップで殴りつけたのだ。
ゴミ箱はけたたましい音を立てて転がり、その蓋は見事にグリップの形に凹んでいる。容赦なく打ち付けられたことが分かる惨状に、ヘイリーは冷や汗をかく。
ヘイリーの記憶が正しければ、あのステッキは相当な高級品だったはずだ。林業と木工業が盛んなエイベル伯爵領で採られたマホガニー材、しかも一枚の木板から削り出した形の、グリップと本体が一体になっているタイプ。そんなステッキを一切の躊躇なく、デュランは振り下ろした。その思い切りの良さを褒めるべきか詰るべきか、ヘイリーにはもう分からない。
哀れなゴミ箱が発した断末魔の叫びに、誰もが音の発生源へ目を向けた。身なりのいい、路地裏が似合わない男がふたりと、その男たちに腕を摑まれた、埃と泥に汚れた金髪の、恐らく少年がひとり。恐らく、としたのは、その子どもがあまりにも綺麗な顔立ちをしていたからだ。海原を掬い上げたかのような碧い瞳。その丸い瞳を縁取る、金色の長いまつ毛。このまま成長すれば、間違いなく傾国のひととなるだろう。ただ、細くとも骨ばった腕や大きな手のひらを見れば、第二次性徴前の少年であろうことは予想できた。
しばし少年に目を奪われたヘイリーをよそに、ステッキを持ち直したデュランは、彼らの驚愕になど目もくれず、冷たく言い放った。
「やかましい」
たった一言。一切の無駄を省いた一言は、少年の腕を摑み上げていた男を怒らせるのに十分だった。
「なんだ、貴様。邪魔を……」
「邪魔をしたのはお前たちのほうだ。大声でわめいて、大きな音を立てて……おかげでここいらの捜索は今日実施不可能になった。どうしてくれる」
「はぁ? 一体何の話だ。でかい音を立てたのは貴様だろう」
「いいや、お前たちが邪魔をしたんだ。お前たちがその子を襲いさえしなければ、おれはおれの仕事ができたんだ」
デュランは神経質そうに、ステッキの石突で地面をこつこつと叩いている。そのステッキのグリップ部分に施されていたはずの装飾の一部が割れて地面に転がっていることに気づいたヘイリーは、静かに悲鳴を上げた。
「さっさとその子を放して消えろ、誘拐犯。今のおれは機嫌が悪い、痛めつけられたくはないだろう」
デュランはあくまで居丈高に言い放つ。デュランが一言何か発するたびに、男たちの怒りの色が濃くなっていくのが分かって、ヘイリーは天を仰いだ。
「突然湧いて出て、何を言っている」
「痛い目を見るのはお前のほう……」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
先ほどゴミ箱を襲ったステッキが、今度は男たちに襲い掛かったからだ。
ゴツッという鈍い音が路地裏に響く。ふたりの男のうち、手前にいた男の肩に、ステッキのグリップがめり込んでいる。
一瞬、何が起こったか分からない、という顔をした男は、ぶらんとぶら下がって動かなくなった自分の腕を見て、悲鳴を上げて飛びすさった。おまけとばかりに、デュランの長い足が男の股間を蹴り上げる。
ひくひくと喉を震わせて涙を流す男に見向きもせず、手の中でステッキを滑らせたデュランがもうひとりの男のみぞおち目掛けてステッキの石突を突き出した。相棒を強襲され、ただ目を丸くするばかりだった男は「ごぶっ」という空気を吐き出す音を口から発してその場に崩れ落ちる。
もはやふたりとも、子どもから手を放して路地裏の汚い地面に転がっていた。
彼らを冷たく見下ろすデュランは、まるで民の上に君臨する王のようだ。ヘイリーはその横柄さに辟易しながら、こっそりと子どもを彼らから引き離した。
子どもは、ヘイリーを見上げて丸い瞳をぱちくりさせている。見れば見るほど、教会で見る天使像のような少年だ。男たちが何のためにこの子どもを襲ったのかは分からないが埃と泥さえ落とせば「商品」としての価値は充分あるように思える。
「大丈夫かい、君。住まいはどこ? 守ってくれるひとはいるかい」
「え、ええと……」
柔和な笑みを浮かべて質問するヘイリーに、少年は困惑の表情を浮かべた。
直前の彼の状況を思えば無理もないことだろう。なので、ヘイリーはあくまで優しく柔らかい対応を心掛ける。
「大丈夫、怖くないよ。あっちのお兄さんも、悪い人間じゃないから……」
「行くぞ、ヘイリー」
「ちょっと待ってくれないかなあ?」
せっかくヘイリーが子どもの保護をしようとしているのに、デュランは用事は終わったとばかりに立ち去ろうとしている。
思わず声を上げたヘイリーを、小ばかにしたようにデュランは見た。
「貴族のお家騒動に巻き込まれるつもりはない。馬鹿どものやる馬鹿げた争いに関わりたいなら、お前ひとりでやれ」
言われて、ヘイリーは目を瞬く。助け出した少年はどう見ても浮浪児で、貴族に関わりのある子どもには見えない。
「違う、馬鹿。そっちだ。その大馬鹿ふたり。そんな身なりのいいならず者がいるもんか。見ろ、あのカフスボタン。石は低級だが、カットはいい。少なくともそういう虚勢を張れる立場にいる人間だ。商人かとも思ったが訛りが違う。その男の訛りは上流階級のそれだ。そんな輩が子どもを攫おうとするなんて、お家騒動と相場が決まってる。違うか?」
イライラとまくし立てるデュランを、ヘイリーと子どもは揃ってぽかんと見上げている。
「お家騒動って……つながりが分からんぞ。貴族の屋敷の人間が子どもを攫おうとして、それがどうしてお家騒動になる」
「ああ、もう。お家騒動でも人身売買でも何でも」
デュランは冷たく言い放つ。
「貴族って時点で俺は関わりたくない。お前だって、下手なことになれば困るだろう」
そう言われて、ヘイリーは黙り込んだ。
貴族が大きな権力を持つこの国で、彼らに関わるのはいつも大きな利益と大きな危険が付きまとう。味方にすれば心強いが、一度敵に回せば平穏は永遠に遠ざかる。
本当にこの美しい顔の少年がお家騒動の火種だとしたら、今回は確実に後者だ。火の粉が降りかからない場所まで逃げるには、この少年を見捨てるほかない。
立ち上がりかけたヘイリーのジャケットの裾を、汚れた手が摑んだ。
「守ってくれるひとはいない」
美しい外見に見合わない、喉がつぶれたような、かすれ声だった。
「十日前に母さんは死んだ。売られそうになって、逃げてるうちに見つかった」
碧色の瞳が、ヘイリーを見上げている。子どもらしい無邪気さも、同情を乞う媚びも、その大きな瞳にはひとかけらも見えない。
「オレひとりじゃ逃げ切れない」
淡々と語る言葉は冷静そのものだ。虚勢も卑下もない。そういう喋り方をする子どもを、ヘイリーは知っている。ヘイリー自身もまだ子どもだったころ。やることなすこと極端で、目を離したら海を越えてどこまでも行ってしまいそうで、いつも不安だった。
「たすけて、ください」
ジャケットを握る少年の手が震えている。この可愛げは、ヘイリーが知っている子どもにはなかった。
ヘイリーは笑って、少年を抱き上げた。
「俺はヘイリー。君の名前は?」
「ベンジャミン。母さんには、ベニーって呼ばれてた」
「ベンジャミン! 君はお母さんに大切にされていたんだな」
ヘイリーがそう言うと、ベニーは嬉しそうにはにかんだ。
「年は? いくつ?」
「八つ。今年で九つ」
ベニーは年のわりに小柄な体格をしていた。恐らく、まともに食事を摂れていないのだろう。そのことに、ヘイリーは心を痛める。
「そうか。じゃあ、一度うちにおいで。体を綺麗にして、服を替えよう。それから温かいミルクを飲んで、おいしいサンドイッチを食べる。どうだい?」
尋ねられて、ベニーは遠慮がちに頷いた。ヘイリーはそれに笑顔で答える。
いい顔をしなかったのは、デュランだった。
「おい。おれの話を聞いていたか? その子に関わるのは……」
「俺の行動を決めるのは俺だよ、デュラン」
強ばった表情のベニーを抱きなおして、ヘイリーはデュランに言い返した。
「お前は関わらなきゃいい。俺は俺で好きにするから。お互い不干渉。それでいいだろ?」
「……家に連れて帰るつもりなんだろ。それなら不干渉とは……」
「あれは俺の家だよ、デュラン。転がり込んできたのはお前だ」
言葉を遮られて、デュランは面食らったように目を丸くした。そして、面白くなさそうに舌打ちをひとつして、ヘイリーとベニーの傍をすり抜けていく。
壊れたステッキに構いもせず、いつも通り堂々と、前だけを見てデュランは歩いていく。
ヘイリーはそれを見送って、ひとつため息をついた。
自分の思い通りに人が動かないと不機嫌を顕わにするのは、昔からのデュランの悪癖だ。
「あの……オレ……」
ベニーが躊躇いがちに声を上げた。不安と後悔に満ちたその顔に、ヘイリーは笑ってみせる。
「大丈夫。これくらいの喧嘩はいつものことさ」
「仲、悪いの?」
「いいや」
いっそ嫌って縁を切ってしまえば、デュランに煩わされることもなくなるだろう。きっと、たった一度でもヘイリーがデュランを拒絶すればデュランはヘイリーに二度と関わらない。それが分かっていながらヘイリーがそうしないのは、あの不器用で生真面目で融通が利かない傲慢な友人を放っておけないからだ。
「仲はいいよ。だから喧嘩するのさ」
小競り合いのような軽い喧嘩は、ないよりもあった方がいい。特にデュランのような、言われないと分からない、偏屈な奴には。
ベニーは、よく分からない、と首をかしげてみせた。その様がなんとも愛らしくて、ヘイリーは柔らかな笑みをこぼした。
風呂に入れて衣服を替えさせたら、ベニーはがらりと印象を変えた。ヘイリーが適当に実家から持ってきた昔の服を着せただけなのに、一見、どこかの名家のお坊ちゃんのようだ。
「母さんは、月光館って娼館の娼婦だったんだ」
身支度を整えさせている間、ぽつりぽつりとベニーは自分の身の上を語った。
「父さんのことは聞いたことなかったけど……どこかの貴族、だったみたい。一か月くらい前から、オレを引き取りたいって言ってきてて。でも、母さんが拒否してた。八年も放っておいたのに今更言ってくるなんて、何か裏があるに違いないって」
半端に伸びたベニーの金髪を梳いてやりながら、ヘイリーはそれを聞いていた。ベニーの言葉はやはりどこか平坦で、まるで他人事のようだ。
「半月前かな。急に、母さんが体調を崩して……あっという間に死んじゃった。娼館のだんな様は、オレを渡すことに積極的だったから……もともとオレは娼館じゃ厄介者だし、たぶん、相当金が入るんだと思う。このままじゃ売られると思って、なんとか逃げ出した。でも、思ったよりうまく逃げられなくて……」
ベニーの言葉を聞きながら、ヘイリーは胸を痛めていた。この子は、自分が置かれた立ち位置をよく理解している。
娼婦が子を産んだことも、その子がここまで大きくなるまで育てられたことも、正直異例だ。ただ一点、父親が貴族である──今後、多大な金になる卵である可能性がある──というだけで、生かされてきたのだろう。
強請るもよし、実父に売るもよし、これだけ器量が良ければ好事家の手も伸びてくる。娼館の主人からしてみれば、今回の父親からの申し入れは願ってもない機会。できるだけ値を吊り上げて売りつけたいに違いない。そうなると、ベニーを追うのは実父だけではなく、娼館の主人も手を打っているはずだ。
(さて、ここからどうするか)
綺麗に整えた金髪をクッキー缶の包装に使われていた赤いリボンで結んでやりながら、ヘイリーは胸中で呟いた。
思わず手を差し伸べてしまったが、一介の警察官に過ぎないヘイリーの手に負える事件ではない。子どもひとり養うくらいの蓄えはあるが、敵方が貴族となれば、ヘイリーの縁者すべてに迷惑がかかっていくと考えるべきだろう。
ヘイリーがふっと一瞬ため息をついたのを、ベニーが不安そうに見上げた。すぐにヘイリーは笑みを浮かべて、結ったばかりの金髪を撫でてやる。
敏い子だ。ヘイリーが不安や惑いを見せれば、あっという間に姿をくらましてしまうだろう。
「ま、なんとかなるさ。いざとなれば、王宮に逃げ込んでやる」
「王宮に?」
ぱち、と碧色の瞳が瞬いた。
「そうさ。女王陛下は下々の声をよくお聞きになる方だ。そんな方に泣きつけば、君の親父殿だって引き下がる。自分の力だけじゃ勝てない喧嘩はな、より強い相手を味方に引き入れた奴が勝ちなんだ」
オルランド王国を統治して長い女王は、労働階級主体の政治を敷いている。一日の半分は労働階級との謁見の時間に充てているほどだ。
そう胸を張って主張するヘイリーの様子がおかしいのか、ベニーはくすくすと笑い声を漏らした。ヘイリーの冗談に笑えるくらいの余裕はできたらしい。
「さて、それじゃあ食事にしよう。ハムは好きかい?」
ヘイリーの言葉に、ベニーは笑顔のまま頷いた。
昼食を済ませたふたりは、マダム・スプリングのお使いリストを手に街へと出た。
いくつかの用品店を回り、リストに載っていたものを全部買い終わるころには、夕方になっていた。ふたりは、それぞれ両腕いっぱいに荷物を抱えて家路をたどる。
「重くないか? もう少し俺が持とうか」
「ううん、大丈夫。これくらいならひとりで持てる」
麻ひもの束とウッドラベル、小さな猫のオーナメントをふたつ抱えたベニーは、時折荷物をゆすりあげるようにしながら、必死に息を上げてヘイリーの後をついてくる。
普段よりずいぶん歩調を緩めてはいるが、小柄な子どもの足にはまだ早かったらしい。ヘイリーは反省して、さらに歩調を遅く調整する。それに気づいたベニーは、少しだけ不満そうな顔をして、それでも何も言わずにヘイリーについてくる。
ベニーは我慢強かった。八つと言えば、もっとわがままに振る舞う。口数の少ない子どもというわけでもないのに、荷物を持たされて連れまわされても、文句のひとつも言わない。むしろ、子どもと思って気遣うと機嫌が悪くなる。そして、その不満すら口には出さない。
おそらくは、娼館での教育だろう。もっと小さなころから大人と同じ扱いをされて、下働きとしてこき使われる。その理不尽を自分が得た正当な地位だと思い込んでいるから、必要以上に子ども扱いされると侮られたと思って怒る。その怒りを言葉にしないのは、すべての主張を反抗として罰せられるからだ。
知れば知るほど難儀な子どもだ、とヘイリーは心の中で唸った。言うことを聞かせるのが容易いぶん、扱いが難しい。
警察官という職分以前に、大人として、ベニーを子どもとして扱ってやらなければいけない。彼が大人と同等に扱われるべき立場であるならともかく、少なくとも今は、ベニーは窮地に立つ哀れな子どもだ。
彼をどう扱ったものか悩むヘイリーは、ベニーとたわいもない会話を交わしながらテラスハウスの前へと帰ってきた。
「ああ……しまった」
扉の直前で、ヘイリーは顔をしかめて舌打ちする。その顔を、ベニーが見上げた。
「悪い、ベニー。俺の手落ちだ」
「なにが……?」
ポケットから鍵を取り出す暇はあっても、錠を開ける暇がない。このテラスハウスは袋小路になっている。住人たちは皆各々仕事をしていて、在宅かどうかは分からない。大家のスプリング夫妻は高齢だ。どう考えても、巻き込むべきではない。
そうやって、逃げ道を探してはバツをつけていきながら、ヘイリーは背後を振り返った。
テラスハウスから大通りへとつながる道を塞ぐようにして、ふたりの男が立っている。ふたりとも泥に汚れ、片方は小汚い布を包帯替わりに肩に巻いている。夕日を背にしているせいで、顔立ちは分からない。だが、その男たちが、昼前にデュランが打ちのめした男たちであるのは察しがついた。ふたりとも、追い詰められた表情で爛々とヘイリーとベニーを睨み据えていたからだ。
ヘイリーは咄嗟に体を固くしたベニーを背後に庇う。ベニーさえこの場から逃がしてしまえば勝ちだ。問題はどこに逃がすか、ということだが。
「逃げる場所はないぞ」
せせら笑うように、包帯の男が言った。もうひとりの男も、ごろごろと笑っている。
「その子どもを返せ。日没までに屋敷に連れ帰らなければ俺たちがお叱りを受ける」
傲岸不遜に言い放つ男に、ヘイリーの眉がぴくりと動いた。
「お前は誰を相手にしているのか分かっているのか? さる貴族のお方だ。大人しく子どもを渡せば、何かしらの報酬をくださるだろう。拒めば……」
言外に滲まされた、分かっているな、という圧に体を震わせたのは、ヘイリーではなくベニーだった。怯えを浮かべた表情で、ベニーはヘイリーを見上げる。ヘイリーは男たちを睨みつけて、ベニーの体を自分の体の陰に押し込んだ。
「拒めば、なんだい? 私刑にでもするかい」
ことさらに底意地悪く、ヘイリーは笑ってみせた。
領主夫人に挨拶をしなかっただけで、幼い子どもが鞭打たれるような社会だ。大の大人が反抗の姿勢を見せれば──しかも、母を亡くした子どもを引き取ろうとする父親の申し出を邪魔すれば──良くて私刑、悪くて投獄。警察官が逮捕されるなんて冗談にならないうえに、囚人にどんな目に遭わされるか分からない。
そんなことは、貴族優位のこの国に生まれた時点で分かっている。それでも、背中に隠したこの子どもをみすみす渡して、その後心穏やかに過ごせる気はしなかった。
「ヘイリー、オレ……」
気色ばむ男たちを前にして、ベニーは自らヘイリーの陰から出ようともがく。彼の二の腕を強く摑んでそれを制し、男たちと睨みあった。
「だいたい、さる貴族ってのが嘘くさい。本当はただの成金が娼婦の気を引きたさについた嘘なんだろ? だから金で釣るなんていう下品な手しか取れないんだ。違うか?」
「なっ……貴様!」
「若様を侮辱するか!」
嘲笑うように煽るヘイリーに、男たちはそれぞれ忌避感を顕わにする。ヘイリーは、そのうち包帯の男の言葉を聞いて、にやっと笑った。
「若様! 若様ね、つまりこの子の父親はまだ爵位を継いでいないわけだ。ご当主さまはこの子の存在をご承知なのか? 連れていったところで、お叱りを受けるのは変わんないんじゃないか?」
ヘイリーの言葉に、男たちが怯んだ。
オルランドで「貴族」として認められるのは爵位を持つ一家の主だけだ。その嫡男は形式として、父の持つ爵位のうち二番目に高い爵位を名乗ることになっているが、あくまで形式であり、正式には貴族ではない。さらに、爵位の多くは生前贈与ができない。つまり、今の当主が死なない限り、その子は貴族にはなれず、当主の決定に従わなければいけない。
ベニーの父親がベニーを自分の後継者にしようとしても、ベニーの祖父がそれを許さなければベニーはまた追い出されるだけだ。そうなれば、彼が行きつくところは救貧院だ。
男たちの反応を見るに、ベニーを迎えようとしているのは父親である「若様」の独断だろう。なおさら、彼らにベニーを引き渡すわけにはいかなくなった。
ヘイリーに不利を看破された男たちは、逆に吹っ切れたらしい。力ずくでもベニーを連れていくつもりなのか、いつの間にかナイフを取り出して構えている。
(実力行使で来てくれるならありがたい)
腐ってもリーヴァイ警視庁所属の警察官だ。そこらの屋敷に雇われているだけの使用人に負けるはずもない。
問題は、背後に庇ったベニーだ。ひとりと戦っている間に、もうひとりにベニーを奪われては元も子もない。
にじり寄ってくる男ふたりを注視しながら、打開策を探す。扉に背を向けたままではどうにもならない。ジャケットのポケットを探って鍵を取り出し、後ろ手にベニーに渡す。
「開けて、すぐ中に入りなさい。俺を待たずに閉めて鍵もかけてじっとしているんだ。できるね」
「で、でも」
「できるね、ベンジャミン」
重ねて言うと、ベニーはぎゅうっと鍵を握りしめた。すぐさま彼は扉に向き直り、鍵を鍵穴に差し込む。少し手間取りはしたが、自分が入るだけの隙間を開けて、ベニーはするりと中に入った。
その扉がちゃんと閉まって、施錠の音が響いたのを確認して、ヘイリーはほくそ笑んだ。
やはり、ベニーは賢い子どもだ。この状況で自分がどう動くのが最適か、良く分かっている。
ベニーの姿が扉の向こうに消えたことに、ふたりの男はますます表情に怒りを滲ませた。殺気すら放ちながら、男たちはヘイリーに迫る。
それを迎え撃とうと、利き足を引いた時だった。
「懲りんやつらだな。警察を呼ばれたいか?」
いらいらと、不機嫌そうな声が袋小路に響いた。見れば、男たちの後ろに、壊れたステッキを持ったままのデュランが立っている。
デュランに気づいた男たちは、昼間の惨状を思い出したのか、さっと顔色を変えた。怒りと興奮で赤く染まっていた顔が、恐怖で青くなっている。
トン、トン、とステッキの石突で地面を叩きながら、デュランは見下すように男たちを眺めまわす。
「選べ。ここでまたおれやそいつに痛めつけられるか、帰ってケアリー卿に任務失敗の報告をするか。どちらにせよ、お前たちが痛い目を見るだけだ。そう変わりはしないだろう?」
言われて、男たちはぎょっと目を見開いた。どうやら、デュランが口にした名前は彼らの「若様」で間違いないらしい。
「貴様……どうやってその名前を……」
ギリギリと歯嚙みをする包帯の男を、デュランは鼻で笑った。
「ケアリー卿に言っておけ、兎角醜聞は回りやすい。紳士クラブでいろいろ喋りすぎないように、と」
紳士クラブ。上流階級の紳士たちが集う、会員制のクラブだ。参入するためには何かしらの条件を──例えば資産の量だったり、共通の趣味を持っていることだったり──満たす必要がある。
「なんだ、お前。関わるなとかなんだとかと言っていたくせに、ちゃっかり調べてきてるじゃないか」
「うるさい、馬鹿。どこかの馬鹿が首を突っ込んだせいだ」
からかい交じりのヘイリーの言葉に、デュランは苦々しく答えた。
言葉こそとげとげしいが、入り込める紳士クラブ全てを回ってきたのだろう。靴は汚れ、ジャケットは草臥れている。
デュランのこういうところが、どうにも憎めないのだ。傲慢で自分の好悪でしかものを考えていないように見えて、他人のために走ることもできる。
包帯男が、唇の端を引きつらせながら嘲笑の表情を形作った。
「戯言を。貴族の情報を簡単にそこらの庶民に漏らすものか。適当に言った名前が偶然当たっただけだろう。何を勝ち誇ったように……」
「奥方が亡くなったのが五年前。これは父に宛がわれた女で、夫婦仲はそこまで良くなかった。まあ、貴族には珍しくない夫婦だ。その奥方が生んだ十歳の息子……つまり、ケアリー卿の嫡男が、先々月に亡くなっている。これにより、ケアリー卿の父君、ダライアス伯爵は直系の孫を失った。残るのは独身で女遊びとギャンブルが大好きなふがいない息子だけ」
つらつらとデュランが語り出した言葉に、男たちはさっと顔を青くした。
貴族という生き物は、意地と見栄を張って生きるものだ。どれだけ弱点を抱えていても、どんな醜聞があっても、たとえ綱渡りのような日々を送っていても、他人に見せる顔は優雅で美しくなければいけない。それなのに、デュランは淡々と知り得た情報を開示していく。こんな、中流階級の家々が立ち並ぶ中で。
「そうなると、当然伯爵は息子に再婚を勧める。爵位と領地を守るためには嫡男の存在は必須だ。だが、女好きのケアリー卿はまだまだ遊びたい……そこで思い出したのが、九年前に娼婦に産ませた子だ」
デュランの長く骨ばった指が、ベニーが逃げ込んだテラスハウスを指さした。
冷ややかなデュランの瞳には、確かに侮蔑の色が滲んでいる。それは、身勝手な貴族社会への蔑みだ。
戯れに子どもを産ませて、放置する。都合のいい駒として使うために、無理やりにでも手に入れる。そこにベニーやベニーの母親の意思は介在しない。全てケアリー卿の望むがままことが進み、彼だけに都合がいい。
それはひどく不誠実で、理不尽で、乱暴な現実だ。
「……下衆が」
思わず、ヘイリーは吐き捨てた。デュランほど過激ではないにしろ、ヘイリーも貴族優位のこの国の構造には思うところがある。
ヘイリーの言葉に、デュランはにやりと笑った。
「なんだ、お前も文句が言えるんじゃないか。普段からその調子でいればいいのに」
「バカ言え。貴族の恨みなんか買っても何の得にもならないだろ」
ヘイリーはデュランの軽口にため息交じりで答える。そのやり取りを聞きながら、男たちは再び憤怒で真っ赤に顔を染めた。
「貴様ら……よくも、よくも貴族を虚仮にしたな……」
「もう子どもを渡すだけではすまんぞ。その生意気な舌、動かんようにしてやる」
ふたりの男は、それぞれデュランとヘイリーに向き直った。男たちは、手にナイフを持っている。それをデュランとヘイリーに向けて、ステッキしか持っていないデュランや、素手のヘイリーを侮るようにナイフをきらめかせている。
その小者丸出しの仕草に、デュランがため息をつく。
「想像力を働かせろよ。このステッキが仕込み杖じゃないという保証はあるのか? 昼間これでぶちのめされただろう」
デュランがコン! と高く石突の音を響かせる。その硬質的な音に、昼間の惨劇を思い出したのだろう、包帯男の顔が引きつった。
「それに、よく考えろよ。家の前でこんなに騒ぎを起こしてみろ。大家の家には電話だってある。警察を呼ばれて困るのはそっちだろう?」
男たちの視線に、一瞬迷いが浮かんだ。畳みかけるように、デュランは続ける。
「お前たちも勤め先は考えた方がいい。何でもケアリー卿は賭博にのめり込んで大変な懐事情だそうじゃないか。ダライアス伯爵にも、財布の限界はある。傷害事件で前科を作っている場合か?」
「あ、もしかして所属してる紳士クラブって『ローデッド』か? 悪質ないかさま師がいるって噂のとこじゃないか。カモにされたんだな、可哀そうに」
デュランとヘイリー、ふたりに揃って悪しざまに言われて、男たちは動揺を見せた。貴族に対する忠誠心が、保身に揺れた瞬間だった。
「どうせおれたちは他に行くところもない。今、ことを起こす必要もないだろう。帰ってゆっくり対策を考えるんだな」
犬を追い払うように、デュランが手を振った。ヘイリーにとっては見慣れた、デュランがよくやる仕草だ。
しかし、それは殺気立った男たちの神経を逆なでして逆上させるには、充分すぎるほど侮辱的な仕草だった。
「なめやがって……何様のつもりだ!」
包帯男が、デュランに向かって怒鳴った。そして、ナイフを構えたまま突進していく。
「デュラン!」
デュランのもとに駈け出そうとしたヘイリーを、もうひとりの男が阻む。仕掛けてしまった以上、もう止められない。そう判断してのことだろう。
「どけ!」
叫んだヘイリーは、ひるむことなく目の前の男に突っ込んだ。咄嗟に突き出されたナイフの切っ先を軽くかわし、その腕を逆にとらえる。手首を反対に捻ってやれば、男はあっけなくナイフを取り落とした。
「恨むなよ!」
ナイフを遠くへ蹴り飛ばしたヘイリーは、男をそのまま地面にねじ伏せて思い切り腕を捻りあげた。ゴキン、と肩が外れる鈍い音と、男の悲鳴が重なる。
痛みにわめく男を地面に転がして、ヘイリーが顔を上げたときには、デュランはもう包帯男を制圧していた。
ステッキで思い切り打ち据えられたのだろう。包帯男は、すでに赤く腫れあがりかけている腕で、頭を守るように抱え込んで地面に倒れていた。
その肩にステッキの石突を埋めながら、デュランは包帯男を見下ろしている。
「何様、なあ」
くく、とデュランの喉が鳴る。
さながら極悪人の笑みに、ヘイリーは近寄ることをためらった。
「デュラン様、だ。覚えておけ」
一度ぐっと石突を押し込んで、デュランはステッキを男の肩から離した。
包帯男はくぐもった唸り声をあげて、その場にぐったりと倒れて動かなくなった。
「おいおい、デュラン……」
やりすぎだ、と苦言を口にしかけたところで、顔見知りの制服警官が小路に駆け込んできた。
息を切らしたその警官は、倒れた男たちと地面に落ちた二本のナイフ、それから無傷のデュランとヘイリーを見て、首をかしげた。
「ええと、男性が暴漢に襲われている、と通報があったのですが……被害者は、どちらで?」
誰が暴漢か判断しかねている様子の彼の言葉に、ヘイリーは高らかな笑い声をあげた。
「まあまあ、大変だったわね、あなたたち。お夕飯の準備をしてあってよ、上がってらっしゃい」
事情聴取のためにふたりの男と一緒に警察署に連行され、へとへとで帰ってきたデュランとヘイリーを出迎えたのは、心配顔のマダム・スプリングだった。
「ああ、ありがとうございます。もうお腹ペコペコで!」
ヘイリーはにこにこ笑いながら、玄関に繋がるステップを上がった。デュランはむっつりと押し黙ったまま、ヘイリーの後をついていく。
蔓ばらを思わせるひょろりとした風貌のマダム・スプリングの後ろから、ひょっこりとベニーが顔を出した。不安そうにしていたその顔は、ヘイリーの顔を見たとたん、ほっと安堵に緩んだ。
「ベニー! よかった、無事で。マダム・スプリングによくしてもらったかい?」
「うん。クッキーもらった」
「よかったなあ」
小走りで近寄ってきたベニーの頭を、ヘイリーは優しく撫でてやる。ベニーは嬉しそうに笑って、喉を鳴らす猫のようにヘイリーの手にすり寄った。
「本当にしっかりした子ねえ。突然警察に電話してくれって言われた時は何ごとかと思ったけど……」
ヘイリーとベニーの様子を微笑ましそうに見ていたマダム・スプリングがそう呟いた。
あの時、ヘイリーの家に入ったベニーは、男たちとヘイリーたちが争っている隙に裏口から外に出たそうだ。そして家の裏をぐるりと回ってマダム・スプリングの家の裏口を叩き、何ごとかと出てきたマダム・スプリングに助けを求めた。
「おかげで助かりました。ありがとうございます、マダム・スプリング。ベニーも。よく思いついたな」
褒められて、ベニーは嬉しそうにしている。それに水を差したのは、例にもれずデュランだった。
「あまりおだてるな、調子に乗る。もしあいつらにまだ手下がいたら捕まっていたかもしれないんだぞ」
ぴしゃりと鞭打つようなデュランの言葉に、ヘイリーはため息をつく。
「お前な、なんでそう厳しいんだ。ベニーはまだ八つだぞ。充分よくやってる」
「この子を甘やかす大人はそりゃ大勢いる。でも無条件でずっと守ってくれる大人はもういないんだ」
丸く見開かれたベニーの碧い瞳が、薄く張った涙の膜で揺れた。子どもに母の死を無遠慮に突きつけるデュランに、非難の視線が集まる。それでもデュランは一向に気にせず、言葉を続けた。
「この子は容姿が人並外れて優れている。貴族の血も引いている。甘やかして利用しようと目論む輩はそれこそ星の数だ。……君は、身の振り方を考えなきゃいけない。同年代の子どもよりもずっと、なんなら大人よりもしっかりしないといけない。そういう立ち位置にいることを知るべきだ」
デュランはまっすぐ、ベニーを見つめている。その視線は、大人に向けるそれと同等で、愛らしい子どもに向ける温かみなど一切含んでいない。それでも、ベニーは真正面からその視線を受け止めた。数秒、見つめあった後に、ベニーはひとつ、こくりと頷いた。
「分かった。……ありがとう」
「よし」
デュランは懐から名刺入れを取り出した。フクロウと馬蹄が刻印された、祖父からもらったという年季の入ったその名刺入れから、一枚名刺を抜き出す。デュランの名前と肩書、住所が記されただけの、シンプルな名刺だ。
その名刺の裏に、デュランはさらさらとサインをふたつ、書き込む。
何ごとかと見守る一行の前で、デュランはベニーの前に跪いたかと思うと、サインした名刺をベニーに差し出した。
「君の面倒を見てくれそうなひとに心当たりがある。バカがつくほど真面目で、公正さだけが取り柄みたいな男だ。きちんと君が事情を説明できれば、君を守ってくれるだろう」
差し出された名刺とデュランの顔を、ベニーは交互に見比べる。その表情からは、困惑と動揺が読み取れた。
「なんで……オレのこと、目障りじゃないの」
「別に君個人のことはどうとも思っていない。君を狙う貴族が鬱陶しいだけだ。うちの馬鹿が首をつっこんだ以上、さっさと君が身を守れる場所を紹介した方が話が早い」
「なんでお前はそう愛想のない、つっけんどんな言い方しかできないんだ」
狼狽えるベニーに素っ気ない返事をするデュランに、ヘイリーは呆れた目を向ける。
言葉足らずというか、自分の意図を正しく伝える意志がないというか、デュランは往々にしてこういう物言いをする。そのせいで勘違いされることも多々あるというのに、一向に改善する気配がない。
「おれは不誠実が嫌いだ。理不尽も。力ずくに進められる物事ほど見苦しいものはない。だから君のクソ親父の目論見を邪魔したい。それだけだ」
ふん、とデュランが鼻を鳴らす。ベニーはまん丸な目でデュランを見つめ、それから名刺を見た。
たった一枚の名刺。これを取るかどうかで、ベニーの将来は大きく変わる。ヘイリーは余計な口を挟まずに、黙ってベニーを見守った。
「……ヘイリー、言ったよね」
「うん?」
ベニーの碧い瞳が、ちらっとヘイリーを見た。
「勝てない喧嘩は、より強い相手を味方につけた方が勝ちだって」
そう言って、ベニーはデュランが差し出した名刺を取った。それを大事に上着の内ポケットにしまいこんで、ぽんと服の上から叩く。
「あとで、なんて書いてあるか教えてね。オレ、字を読むのは苦手なんだ」
「ああ、もちろん」
ベニーとヘイリーが笑いあう。それを見ていたマダム・スプリングがハンカチで涙を拭ったときだった。
「なぁん」
いつの間にか近寄ってきていた、金茶色の毛足の長い猫が、マダム・スプリングのスカートに体をすりつけて一言鳴いた。
「まあ、プラムちゃん! 今までどこにいたの? 心配していたのよ!」
マダム・スプリングは金茶猫のプラムを抱き上げて、その鼻に自分の鼻をくっつける。プラムはまた「なぁーん」と鳴いて、マダム・スプリングの頬に薄茶色の肉球を押し付ける。
「あいた。爪が出ていてよ、プラムちゃん。お腹がすいたでしょ? あなたの好きなご飯を用意していてよ。ちょっとお待ちね……あ、ごめんなさい、あなたたち。ダイニングに料理は並べてあるから、先に食べていてちょうだい。私は後から行くわ。ごめんなさいね」
マダム・スプリングは猫を抱いたまま、ぱたぱたと奥に引っ込んでいく。
それを三人はぽかんと見送ってから、自然と視線はデュランに集まった。
「デュラン……マダム・スプリングのとこの行方不明猫は……」
「プラムだ。探す手間が省けたな」
デュランは脱力するように、ため息を吐き出す。
「自由気ままで何よりだ。……かくありたいものだな」
その言葉に、ヘイリーとベニーは顔を見合わせる。ふたりとも、言いたいことは同じだった。──デュランほど自由気ままに振る舞う人間を見たことがない──けれど、それを口に出したらデュランが機嫌を損ねることは分かっていたから、肩をすくめて苦笑するにとどめる。
ふたりのアイコンタクトに気づかないまま、デュランはダイニングに進んでいく。悠々と歩くその足取りは、まるで猫の王様のようだ。
「行こう、ベニー。マダム・スプリングの料理は絶品なんだ」
「うん、知ってる。ミートパイを味見させてもらったんだ」
「ミートパイがあるの? やった、好物なんだ」
くすくす笑いながら、ヘイリーとベニーもデュランの後を追った。
【おわり】
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