彼女の家族
中学一年生の野々宮郁人は、自分の前に立ちはだかる二人の男を見上げて、ごくりと息を吞んだ。握り締めた手のひらに冷や汗がにじむ。
――彼らはこの春、郁人にはじめてできた彼女、七尾すみれの兄替わりという人たちであった。片方は黒髪、片方は金髪である。
彼女の家族関係が少々複雑であることは、郁人も知っていた。
幼いころに両親を亡くしたすみれは、小学一年生のころから姉と二人で、平安神宮の近くにあるこの月白邸というところに居候しているそうだ。
この黒髪と金髪は、ここの家主と住人らしい。
つまり彼らはすみれにとって、血のつながらないまったくの他人なのだ。
それなのにこの二人は、「おれたちが兄ですよ」と言わんばかりに、すみれの彼氏である自分をしっかりと牽制してくるのである。
「なんだ、やっぱりこいつ呼んだの?」
金髪が腕を組んだ。とろけるような声の奥に、ぴりりとした敵意をはらんでいる。
紀伊陽時。
太陽の光をたっぷりとまぶしたような金色の髪に、滴るような甘さのにじむ顔立ちをしている。学校の教室に放り込んだら、ものの十秒でクラス中の女子が群がってきそうだ。
気圧されて視線を落とした先、自分の腕にはまったシルバーのバングルが見えた。格好いいと思って買ったはずが、急に子どもっぽく見えた。
いや、負けてなるものか。自分だって数年もすればこうなるはずだ。ぜったいそうだ。
ぐっと顔を上げたその先で、凍り付くような黒曜石の瞳と目があった。
「――よう来たな」
金髪よりさらに身長が高く、さらりとした黒髪が無造作に肩に散らばっている。眠たに細められた黒々とした瞳が、今は睨みつけるように郁人を見下ろしていた。
この家の家主、久我青藍だ。
郁人のかわいい彼女であるところのすみれが言うには、彼は日本画の絵師というやつだそうだ。話を聞く限り、一日中邸にこもって絵を描いているか、寝ているか、酒を飲むか、仕事を持ってきた依頼人を追い返しているそうだ。だめな社会人だと思う。
郁人は立ち並ぶ二人を挑むように見上げた。
「よろしく、っす」
この自称〝兄〟たちに、自分はなんとしても勝たなくてはいけない。
今のところ、彼女の――すみれの尊敬のまなざしは、彼氏の自分ではなくて……。
すべて、この〝兄〟たちに注がれているのだから。
――よく晴れた日曜日の今日。郁人が誘われたのは、月白邸で行われるというホーム―パーティだった。
案内されたリビングには、すでに準備が整っていた。
スライスした丸太を並べたようなテーブルの、その中央にはガラスのポットが置かれている。中はたっぷりの紅茶で満たされていた。
大きな皿には、金色の厚焼き玉子とトマトの一口サンドウィッチ。切り分けられたフルーツはたっぷりのシロップとともに白い鉢に。隣の細長い皿には、生ハムやアボカド、エビ、チーズなどが並んでいて、みたこともない花びらが散っていた。
郁人は、落ち着かなさそうにあたりを見回した。パーティといえばたこ焼きの両親のもとでは、こんな雅やかな催しとは一切縁がなかったからだ。
「いらっしゃい、郁人くん」
ぱたぱたとキッチンから駆けだしてきたその人に、郁人は詰めていた息をほっと吐き出した。心もちしゃきっと背筋を伸ばす。
「こんにちは、お姉さん」
すみれの本当の姉で、名前は七尾茜という。
華やかではないけれど、道端に咲く小さな花のようにほろりと素朴に笑う。この人にはまちがっても嫌われたくないなと思うような、そんな人だった。
「今日はよろしくお願いします」
へら、と笑うととたんに真上から声が振ってきた。
「茜にはずいぶん礼儀正しいな」
黒髪がじろりとこちらを見下ろしている。心なしか先ほどよりも迫力が増している。反射的に体が竦むのが悔しい。
「……あ、茜さんは、すみれのお姉さんですから」
「その理屈やったら、ぼくらにも礼儀正しくせえ」
郁人はむっと口を尖らせた。この人たちに朗らかに心を許すつもりにはなれなかった。
だってこの人たちは、本当の兄弟ではない。
どれだけ、年齢が離れていても憧れの対象だとわかっていても。彼女のそばにいる格好いい男なんて、みんな残らず、大嫌いだ。
「……だって、ほんまの家族とちがうやないですか」
心の声がこぼれ出てしまったのだと、そう気がついたときには遅かった。
ぐっと、だれかが郁人の腕を引いた。振り返ると、すみれだった。
「――……郁人のばか。嫌い」
「えっ」
するりと離れていったその手を、あわてていたせいでつかみ損ねた。
「すみれ!」
焦って情けなく声が裏返る。目があった彼女は唇を引き結んで、やがて言った。
「ほんものだよ。青藍も陽時くんもわたしと茜ちゃんの家族」
泣きそうな顔をしているときは、本当に怒っているときだ。
すみれがこんなふうに、自分の心をさらすのは珍しい。いつも明るくて無邪気で、悪口や皮肉の一つや二つ、さらりと笑って流してしまうからだ。
「……ごめん」
郁人はすみれの手を救い上げて、ぐ、と握り締めた。
うつむいたすみれがほろりと言った。
「ほんとに、ほんとの家族なの」
「うん」
「……だいじなの」
ときどきすみれは、同じ年の自分たちよりずっと先を見ていると思うときがある。それはきっとこれまで彼女が失ったものや、我慢してきたことの積み重ねなのだ。
「わかった。おれが、だめだった。ごめんな」
それが大人びていて格好よくて、きれいで。
そうして、少し背伸びをして、頑張りすぎているように見える。
だから今、この手をぎゅっと握り締めているかわいくて大好きなこの人が、せめて一人で泣いたりしないように。
おれだって、頑張らなくてはいけないのだ。
郁人はすみれの手を握りなおすと、顔を上げて青藍と陽時に向き合った。
「……すみませんでした」
まちがえたのは自分で、それは声に出して認めなくてはいけないと思うから。
深く下げた頭の上で、しばらく沈黙があって。
ふ、と空気が緩んだのを感じた。
「ああ」
静かな海の底のような声がした。青藍の深い黒の瞳が、本当にわずかばかり微笑んでいるような気がした。
「――郁人くん席に座って」
だまって成り行きを見守っていた茜が言った。優し気な瞳に、もう一度深く頭を下げて、郁人はすみれの隣に座った。
茜が最後にテーブルに置いたのは、つるりと磨かれた木の鉢だ。なかには色とりどりのマフィンが、あふれんばかりに積みあがっている。
「これ、茜さんが焼いたんっすか」
一つ一つは手のひらの半分ほど、香ばしいきつね色に濃厚な茶色、ここからでも抹茶の香りがわかる緑、愛らしいハートのチョコレートがトッピングされたピンク色。
「今朝、すみれと焼いたんだよ」
「茜ちゃん!」
焦ったようなすみれの声に、思わずかたわらを振り返った。
とたんにふいっと視線をそらされてどきりとする。まだ怒っているのだろうか。注意深く観察すると、耳の端が少しばかり赤くなっているのがわかった。
これはだいじょうぶだ。かわいく照れているだけだ。
「ありがとう、すみれ」
ふ、と笑うとすみれが小さくうなずいた。
「別におまえだけのためやないし」
「おれたちのためでもあるから」
黒髪金髪コンビが横からうるさい。
うつむいてもごもごとためらっていたすみれが、小さな声で、ぽつりと言った。
「…………郁人が、おいしいって言ってくれたらうれしい」
――見たか! これは彼氏であるおれの完全なる勝利だ!
横で打ちひしがれている黒髪と金髪を横目に、郁人は勢い込んで言った。
「おいしい!」
「……まだ食べてないじゃん」
「わかる、ぜったいおいしいやん」
焦げてたって生焼けだって、砂糖と塩をまちがえたって。
真っ赤な顔でそういう彼女の手作りが、この世で一番おいしいに決まっている。
――ごつごつとした指先から生み出される、なめらかな線に目が奪われる。
筆先から糸を引くように紙の上をすべるその赤色が、ふつり、と途切れた瞬間。郁人は、自分が呼吸を忘れていたことに気がついた。
空気を震わせ雲の形を変える、夜に向かう風。木の葉がすれるかさりとした音。木々の影が深く濃く地面に伸びる。
夕暮れの空が焼ける、冷たい赤――。
そのすべてをこの人は、紙の上に閉じ込めてしまうのだ。
「……すげえ」
思わずそうこぼす。
畳の上で覆いかぶさるように絵に向き合っていた青藍が、ちらりと顔を上げた。
ふん、と鼻を鳴らせて薄く笑っている。あからさまに挑発されているとわかっていても、郁人はその絵から目が離せなかった。
「ね、すごいでしょ、郁人! 青藍は格好いいでしょ!」
すみれのはしゃいだ声に、ぐっと手のひらを握り締める。
くやしい、くやしい――こんなの、ちっともかないそうにない。
けれど一番悔しいのは――。
「…………きれいや」
そう言ってしまう、自分だ。
郁人の生きてきた短い人生のなかに、この絵の美しさを表現する言葉はない。その圧倒的な色の前に、ただきれいだと、それしか言うことができなかった。
かたわらで茜がぽつりと言った。
「よかったねえ、郁人くん」
眉を寄せたのがわかったのだろう。茜が肩を震わせた。
「青藍さんがここに、よその人をいれるの、珍しいんだよ」
郁人は思わず、顔を上げてあたりを見回した。
天井までの作り付けの棚に、詰め込まれた色とりどりの紙。開いた扉の向こうにはおびただしい数の小瓶や袋が並んでいて、どうやら日本画の絵具であるらしい。
つまるところここは、久我青藍の仕事部屋――アトリエのようだった。
深い絵具のにおい、焚きしめられた涼やかな香、静謐な空気。
ここは特別な場所なのだと、そう気がついたとたん。頬が変な形にひきつった。
「……そう、っすかね」
くやしい。この人に……こんな美しい絵を描くひとに認められて、ちょっとうれしいな、と思ってしまった自分が、とても悔しい。
唇をへの字に曲げたままよそを向いた郁人に、くすくすと茜が笑った。気づかれているのかもしれなかった。
「あのね――」
かたわらのすみれがこちらを見ている。
「わたしもね、青藍みたいに絵を描く人になるんだ」
その瞳を見つめていると、きゅう、と胸が痛くなる。
大人びているのに憧れにまっすぐな、キラキラとしたきみの瞳が好きだ。たとえそれが、おれではないだれかに憧れているのだとしても。
「そっか……」
わくわくを隠すことのできない、まばゆい笑顔が好きだ。
握った手のひらに伝わる、きみの手のひらの、あったかさが好きだ。
「おれ、応援するよ」
きっとだれより高く飛ぶことができる、そう信じて疑わない明るい笑顔が好きだ。
「ずっと、ぜったい、すみれを応援する」
だからそんな、宝物みたいなきみを、おれは一生大切にするんだ。
とろけそうな夕暮れの色のなかで。大好きなきみと、きみの家族にそう誓う。
そうやって手を握り合って笑い合うこの瞬間が、これまで生きてきたぜんぶのなかで、一番、泣きそうなくらい幸せだった。
【おわり】