凶悪令嬢の策略

イスキア王国の王宮は、王都レゾンの郊外にある。
白い石材で組まれた建物は、正面から見れば羽根を広げた鷲のような形をしている。
柱頭や窓枠などいたるところに細かな装飾がほどこされ、広大な庭と、庭と地続きの森が広がる壮麗な宮殿の主は、わずか六歳の国王カミルだ。
そのカミルに下された命令をかなえるべく、王宮女官長シェリルは庭の通路の脇に植えられた低木の陰に隠れていた。シェリルは長い黒髪を馬の尾のようにまとめ、動きやすい軍服を着て、枝の隙間から行きかう人の様子を窺う。夏草の濃い香りが鼻孔をくすぐった。
――今日こそ仕留める。
手にしているのは刃をつぶした模造の剣。だが、これで力を入れて殴れば、下手をしたら致命の一撃になりうる。
足早に歩いてきた銀髪の男が木の前を通り過ぎていく。シェリルは一拍の間のあと、木の陰から飛びだし、男の背中に剣で殴りかかろうとした。
が、男の動きのほうが早かった。瞬時に振り返ると、手にしていた分厚い本で剣を受け止める。
「なっ……」
「殺気が消せていませんよ」
男は端整な顔に皮肉な笑みを浮かべて言う。
シェリルはむうっと唇を尖らせた。
「本で防御するなんて」
「これは我が国の法律全書です。法は剣よりも強いのですから、あなたがわたしを殺せないのは当然です」
しれっと言い放つ男に、シェリルは剣を手元に引き寄せた。
「法が強いのではなく、あなたが手練れなのでしょう?」
ため息をついて、男を見上げた。
艶のある銀の髪に切れ長の青い目。目の下のほくろが色香を漂わせる青年の耳を飾るピアスがきらりと光を弾いた。
男の名はエリアス・クラウベル。イスキア王国の宰相であり、幼王カミルを補佐するエリアスは、この国の最高権力者である。
――そして、わたしの夫。
カミルを守るためにシェリルはエリアスと結婚し、ふたりは利害で固く結ばれた夫婦になった。
「わたしの腕など、たいしたものではありませんよ」
「嫌みとしか聞こえませんよ?」
シェリルの攻撃など微風を受けたかのようにかわしてしまう。
エリアスは武芸に秀でており、ちょっとやそっとでは倒せない。そんな男を――なにより夫を襲撃するのには、理由があった。
「ところで、まだあきらめないんですか?」
エリアスの涼しい笑みに、シェリルは眉を寄せた。
「あきらめませんよ! 陛下直々のご下命なんですから!」
きっかけは五日前のこと。
幼王カミルは、政はエリアスに一任し、今は将来にそなえて勉学の最中だ。
だが、遊びたいざかりのカミルは、隙あらば勉強から逃れ、宮殿の庭で泥んこあそびや追いかけっこに興じる。
勉強をさせたいエリアスと勉強をしたくないカミル。一昨日、ふたりは交渉の果てに、とある条件を果たせばカミルが休暇を得られるという約束を交わした。
「五日間の間に、わたしがあなたに一発お見舞いしたら、陛下が三日の休暇を得られるという約束……。これを果たさないわけにはいきません!」
「あきらめてはくださらない?」
「あきらめませんよ! わたしは陛下の女官長です。陛下のご意向を叶えるのが、わたしの役目です」
というわけで、昨日からエリアスを狙っているのだが、なかなか一発お見舞いできない。
朝食を共にした際に投げたバターナイフは避けられ、ベッドに入る前に放った蹴りも見事にかわされた。
ベッドの上では休戦協定を結んでいるので、寝ているときに手出しはできない。それゆえ、隙を見つけては襲っているのだが、今に至るまで“一発お見舞い”できていなかった。
シェリルは再び剣の切っ先をつきつけた。
「おとなしくやられてください、エリアス・クラウベル。陛下の遊興の時間のために……!」
「それは無理ですね。わたしの役目は陛下を補佐すること。そして、陛下を養育し、立派な王にすることです。おめおめとあなたに打ち倒され、陛下の貴重な勉学の時間を奪われるわけにはいきません」
「休暇は、たった三日ですよ⁉」
「その三日の間に覚えられる単語、読める書物、解ける計算問題。遊ぶために使うのはもったいないでしょう」
エリアスは真顔で続けた。
「それに、学びこそが遊興です」
「正論ですけど、陛下が望んでいるのは、そういうたぐいの遊興ではありません」
シェリルは剣でエリアスの心臓のあたりを狙った。
「とにかく、お命ちょうだい――ではなく、ちょっと痛い思いをって……⁉」
エリアスが分厚い本を放り投げてきたから、シェリルは思わず剣を捨てて本を受け止めた。
全身をクッションにして、しっかりと抱きとめる。
その間にエリアスは背を向け、さっさと歩きだしている。
「なんてことをするんですか? 大切な本なんでしょう!?」
エリアスは振り返り、満足そうに微笑んだ。
「責任感のあるあなたならば、受け止めてくださると思いましたよ。あとで部屋まで持ってきてください」
「はぁ⁉」
「これから会議がありますので、そのあとにお願いします」
エリアスが軽く手を上げてから去っていく。
シェリルは唖然とし、声もなく彼を見送るしかなかった。
それから、シェリルはエリアスを狙うも、ことごとく失敗してしまう。
四日目の朝、カミルの部屋に赴いた。
この国の王であるカミルは、金色のふわふわした髪の愛らしい男児だ。椅子に座り、テーブルに置いた課題を前に、うんうんうなっている。
カミルはシェリルの報告を聞くと、浮かない表情になった。
「シェリル、エリアスに勝てないの?」
「……面目次第もございません」
シェリルは肩を落として謝罪する。
「僕、このままだとお勉強をお休みできないよ」
カミルの前には十枚ほどの文書がある。これを読んで要旨をまとめるのが今日の課題だ。
シェリルはつい眉尻を下げた。
「お気の毒な、陛下……。お勉強ばかりさせられて……!」
「さきほどまで、庭で巣を出入りする蟻を観察しておられましたが」
シェリルの侍女・ミリアムが冷静に指摘する。
「勉強の合間の休みと、ずーっとお休みするのは違うんだぞ!」
とカミルが言えば、シェリルもうなずく。
「確かに、休暇は大切です。後ろめたい気持ちで遊ぶのと大っぴらに休暇を得るのは違います」
カミルは首を傾げる。
「でも、エリアスは強いんだよね」
「正攻法だと、なかなかやっつけられません」
「うーん、どうしたらいいかな」
カミルはペンをインク壺に勢いよく突っ込む。跳ねたインクがカミルの手につき、シェリルはハンカチーフで拭いてやる。カミルがぱっと顔を輝かせた。
「一発って、別にぶったり、蹴ったりじゃなくてもいいよ」
「はい?」
「あのとき、エリアスはシェリルがエリアスに一発お見舞いしたら休暇をくれるって言ったけど、どういう一発かは言わなかった!」
「なるほど、打開策はそこにありますね」
「詭弁ではございませんか?」
ミリアムが疑問を挟んだ。
「ううん。詭弁じゃない。そこを細かく打ち合わせしなかったエリアスが悪い」
とシェリルが強弁すれば、カミルが何度も首を縦に振る。
「そうだよ」
「それに、エリアスがいつもやっていることよ」
と言えば、ふたりとも深くうなずく。
エリアスは冷酷非情、人の心がないなど悪評頻々たる男である。
それというのも、彼が他人の失敗や失態をうまく利用して利益を得る悪漢だからだ。
彼のせいで領地を削られ、あるいは懲罰的な税を課された貴族にとって、エリアスは憎んでも余りある仇敵なのだった。
「というわけで、悪辣な男には悪辣な手を使ってやりましょう!」
シェリルは“凶悪令嬢”として社交界に名を馳せている女である。
――エリアス・クラウベル。自分の妻がどれほど“凶悪”か、思い知るがいいわ。
明日こそはエリアスの鼻を明かしてやる。
そんな気持ちを込めて、シェリルはこぶしを握った。
期限最終日の午後、シェリルはエリアスを誘って茶会を催すことにした。
場所は王宮南棟のサロンだ。
サロンの壁には王国各地を描いた絵が飾られ、座り心地のよいソファと木目の美しいテーブルが置かれている。
「……この茶会には、どういう企みがあるんですか?」
ソファに座ったエリアスが、ずばりと訊いてくる。
向かいに座っていたシェリルは首を傾げた。
「感謝のお茶会ですけど」
「本当に?」
「それに、あなたとわたしが結婚してから……えーと、何日経ったかしら」
「百八十日です」
「よく覚えていますね」
シェリルは、エリアスのカップに甘い香りを放つ茶を注いでから目を見張る。
「覚えていますよ。愛しい妻を得た記念日ですから」
「棒読みですよ」
「心を込めたつもりですが」
シェリルは自分のカップにも茶を注いで微笑んだ。
「でも、うれしいです。わたしと結婚した日数を覚えていてくださったのが」
「あなたは覚えていらっしゃらないようですが」
「そ、そうでもありませんよ。細かい数字をつい端折ってしまう癖があって」
手を合わせて、にっこりと笑う。
「さ、どうぞ。毒は入っておりませんから」
エリアスがカップを持ち上げたとき、カミルが入室した。
「シェリル! エリアス! 結婚してから何日経ったかわかんないけど、おめでとう!」
「陛下、お勉強は――」
エリアスが眉を跳ね上げる。
「シェリルにプレゼントをあげたい。でも、エリアスから渡してほしい!」
カミルの言葉に、シェリルは焦った。
セリフに微妙な怪しさが宿っている。
「陛下が渡してやってください。シェリルが喜びます」
「いやだ! エリアスが渡してほしい」
カミルがエリアスに布張りの箱を手渡す。エリアスが蓋をあけ、目を見張った。
中にあるのは、鈴蘭の押し花である。カミルのお手製だ。
「……これは陛下がお渡しください」
「えー」
「わたしはわたしで贈り物を持っております」
カミルが困惑した顔でシェリルを見る。シェリルは大きくうなずいた。
「じゃあ、シェリルに渡す」
カミルに手渡された箱を、シェリルは丁寧に礼をして受け取った。
エリアスを罠にはめるための仕かけの品だが、純粋にうれしい。
「陛下、ありがとうございます」
「いつもシェリルには遊んでもらってるもん。それで、エリアスの贈り物ってなに?」
カミルは興味津々のまなざしをエリアスに向ける。
「陛下の贈り物ほど価値があるものではありませんが」
そう言いながらエリアスがテーブルに置いたのは、ごく小さな箱である。中から取り出したのは、指輪だった。
黄金の指輪は薔薇が彫られ、血の色をしたルビーが中心に嵌め込まれている。
「きれいですね」
「あなたの指にぴったりだと思いますよ」
エリアスがシェリルの左手をとり、薬指に指輪をはめる。
シェリルは指を目の高さにして、角度を変えつつ指輪を眺めた。
「きれいですね。あと、これを嵌めたまま殴ったら、けっこう痛そう」
「指輪として使ってください」
呆れたようなエリアスの口調に、あわててうなずく。
「もちろん基本は指輪として使うんですけど、武具としてもいけそう――」
そこで、カミルのもの言いたげな視線に気づいた。あわてて立ち上がり、エリアスの隣に移動する。座って小首を傾げてみせた。
「ありがとうございます」
「なぜ隣に座るんですか?」
明らかに不審な表情をされ、シェリルはあわてて彼の首に腕を回した。
「お礼がしたいんです。せいいっぱいのお礼ですから、受け取ってください」
それからエリアスの頬に唇を寄せる。なめらかな肌に唇が触れた瞬間、カミルがわあっと歓声をあげた。
「やった! シェリル!」
「陛下、一発お見舞いしましたよ!」
シェリルは立ち上がり、上機嫌のカミルと手を合わせた。
「……これはどういうことですか?」
エリアスが呆然としている。
呆けても美しい顔を見ながら、シェリルはにっと笑った。
「手で殴るのも、足で蹴るのも野蛮です。ですから、わたしの唇で一発お見舞いしてやりました!」
「シェリル、強い! かっこいい一発だったよ!」
「そうでしょう。めちゃくちゃ強烈なくちづけですから」
「おかしいでしょう、これは。さすがに一発とは認められませんよ」
エリアスの抗議を聞き、シェリルはカミルと顔を見合わせてからエリアスに応じる。
「一発です!」
「そうだよ。一発だ。エリアスは、一発はどういうものかって説明しなかった」
「指定がなければ、一発の幅は広いですよね」
シェリルは掌が合うほど近づけてから、肩幅以上に広げた。
「……なるほど、わたしの落ち度というわけですね」
エリアスが立ち上がって息を吐いたあと、目を細めた。妙な迫力があって、シェリルの背が冷える。
「これから陛下と交渉する際は、用語の定義からはじめましょう」
「……エリアス、怒ってる?」
カミルの問いに、エリアスは穏やかに微笑んだ。
「いいえ。陛下がずる賢くお育ちになられ、非常に安堵しております。人の上に立つ者は、他人の意見を聞く素直さと、その裏を見抜く鋭さがなければ、やっていけませんから」
エリアスから圧を感じ、シェリルは抱きついてきたカミルの背を撫でる。
「三日、休めますよね?」
ダメ押しの質問に、エリアスは大きくうなずいた。
「もちろんです」
「よかった」
「ところで、あのくちづけはお礼ではないでしょう」
エリアスの指摘に、シェリルは目を丸くした。
「そうですね。一発です」
「お礼をいただけないんですか?」
エリアスは不敵な笑みを浮かべている。
――さすがに、あんまりな仕打ちだったわ。
だまし討ちだし、かなり強引な手段だったことは認めざるを得ない。内心では気が咎めてもいる。
「では、お礼をいたします」
シェリルはカミルから離れると、エリアスのそばに立つ。
――なんだか緊張する。
一発お見舞いという名目であればできたことだが、お礼という意味でのくちづけはふだんしないから照れ臭い。
シェリルはエリアスから腰を抱かれて、見つめられる。
勇気を出して頬にそっとくちづければ、エリアスが満足そうな顔をした。
「……これでいいんですか?」
「いいですよ。これはちゃんとお礼のくちづけですからね」
かえって一発お見舞いされた気がして釈然としないが、シェリルはうなずく。
「悪党らしい迫り方ですよね、本当に」
「あなたは悪党の妻にふさわしい方ですよ。わたしを騙したんですから」
上機嫌のエリアスを眺めていると悔しくて、シェリルは彼の頬にもう一発くちづけをお見舞いしてやる。
面食らったようなエリアスに、胸を張って言ってやる。
「あなたも凶悪令嬢の夫にふさわしい方ですからね」
互いを認めるように微笑むふたりのそばで、休暇を得たカミルが無邪気に飛び上がっていた。
【おわり】