コーンスープの夜

リビングの時計は、先ほどから遅々として進まない。
ため息交じりに立ち上がった青藍は、空になったコーヒーカップを片手に、キッチンへ向かった。
分厚い硝子瓶からインスタントコーヒーを、付属のスプーンにたっぷり二杯。適当に沸かした湯を注いでかきまぜながら、暖簾で区切られたリビングの入口と、掃き出し窓の向こうに広がる庭を交互に見つめる。
そうしてまた時計を見やって、数分も過ぎていないことにため息をつくのだ。
「――そんな心配しなくても、大丈夫だよ」
暖簾の向こうから、すみれがひょいと顔を出した。
風呂上がりなのだろう。バスタオルを片手にスリッパをぺたぺたと鳴らしながら、青藍と入れ替わりでキッチンに駆け込んでいく。
自分のコップに紅茶のティーバッグを放り込んで、青藍の沸かした湯をこれ幸いにと注いでいる。ふわりと紅茶の甘い香りが漂う中、キッチンにストックされていた菓子の中から、クッキーのパッケージを二つばかりさらうのが見えた。
一つを開けて、中身を口にくわえたすみれを見やって、青藍はぽつりとつぶやいた。
「……もう十時やぞ。茜は何してんのや」
このところ、茜の帰りが遅いのである。
学祭が数日後に近づき、茜たちの作業は佳境に入っているようだった。最初は午後七時には帰ってきていたのが、八時になり、九時になり、今日はとうとう十時を過ぎても帰って来ない。
すみれがあっさりと笑った。
「だから大丈夫だって。近くに住んでる友だちと、タクシー相乗りするって言ってたじゃん。茜ちゃんも大人だから、ちゃんと気を付けてるよ」
盆に紅茶とクッキーを乗せたすみれが、掃き出し窓をがらりと開けた。途端に秋の終わりの冷たい風が、カーテンの裾をさらっていく。この時季の夜は、紅葉の色を鮮やかに染め上げる晩秋の気温だった。
「すみれ、玄関から出え」
「はあい、次からね」
軽やかにそう言って、すみれはひょいと庭に飛び降りた。からからと下駄の音が遠ざかっていく。あの様子ではきっと、次も窓を使うにちがいなかった。
昔からすみれは、こういうところを横着する。玄関まで回るのが面倒で、リビングの掃き出し窓を出入口に使っているのだ。
いつか茜に怒られるぞ、と苦笑しながら、青藍は開けっ放しの窓を閉めてやった。
風が途切れて、躍っていたカーテンが動きを止める。
ぞっとするような静けさが、リビングに満ちた。
午後十時。この時間、青藍がリビングに一人きりになるのは、久しぶりのような気がした。
たいてい茜がいるからだ。すみれと変わって風呂に行くまでのあいだ、ここで勉強をしたりコーヒーを淹れている。ときどき、新しい料理や菓子のレシピに挑戦していることもあった。
それを見ながら青藍はいつも――。
そういえば、と青藍はふと思った。最近は自分も、夕食のあと部屋にこもることが少なくなった。よほど仕事が立て込んでいなければ、自室に戻るのは、茜が離れに帰るときだ。
一人で過ごす時間がずいぶん減ったのだと、今になって気がついた。
だからだろうか。この静けさが、どうやら自分はさびしいらしいのだ。
時計を見上げた。針はいくぶんも進んでいない。
「……遅いなあ」
こぼした声があまりに所在なくて、青藍は自分で妙におかしくなってしまった。
静けさも孤独もあれほど大切だと思っていたのに、それがこんなにさびしいものになるとは、思ってもみなかったから。
――ぱしゃり。
水音がして、青藍はふと目を開けた。見上げた時計は、すでに十一時を過ぎている。あのままソファでうとうとしていたらしかった。
音は外の水場からだった。掃き出し窓を開けると、頬を撫でる冷たい風に混じって、ぱしゃり、ぱしゃりと断続的に水音が響いている。
かすれるような小さな声がした。
「うぅ、さむ……つめたい、寒い」
交互に繰り返すそれに怪訝そうに眉を寄せて、青藍は庭へ降りた。
すみれが花を育てている畑をぐるりと回ると、そこにはいつも青藍が使う水場がある。離れで洗えないものに使うこともあれば、すみれが庭の道具の土を流していることもある。
そこに、小さな影が丸まっていた。
「……茜?」
途端に影が、ひょこりと顔を上げた。水道から伸びる青いホースを持ち上げたまま、リビングの灯に照らされたその顔が、くしゃりと笑う。
「ただいまです、青藍さん」
耳と鼻を真っ赤に染め、唇ががくがくと震えている。
そばには脱ぎ捨てられた靴と靴下が。今朝着ていった厚手のカーディガンは、出しっぱなしの物干しに引っかけられている。裸足の脚はふくらはぎまで、カットソーは肘までまくり上げられていた。
青藍は唖然と立ちすくんだ。
「おまえ……もう、冬やのに」
――もう冬を迎えようというこの寒い中、あろうことか外の水道で手も足も投げ出しているのはどういうわけか。そう問い詰めたかったのだけれど、その一瞬で口からこぼれたのは、短いひと言だけだ。
ひゅう、と吹いた風に、茜が身を震わせる。
「絵を描いてたら絵具まみれになっちゃって……大学で落とす時間なかったんです」
学祭前の特別準備時間ぎりぎりまで制作にいそしんでいた茜たちは、時間切れで急かされるように大学のキャンパスから追い出された。
四苦八苦しながらタクシーに乗り込んだものの、足の裏も手のひらも絵具だらけである。
「このままおうちには入れないので、外で洗ってからにしようと思って」
くしゅ、と小さなくしゃみが弾ける。
青藍は大きな手のひらで文字通り頭を抱えた。
妙な気の使いかたをすると思った。茜にはどこかでまだ、この家に遠慮がある。それが自分を苛立たせていることに、青藍はもう気がついている。
茜の腕をつかんで立たせると、青藍は言った。
「……風呂」
「わ、待ってください」
たたらを踏んだ茜が、足をあわててスニーカーに突っ込んでいる。
「もうちょっと、このままだと廊下とか汚れちゃいます」
「あとから拭いたらええ」
つかんだ腕がずっと冷たくて、青藍はぎゅうと眉を寄せた。掃き出し窓から押し込むようにリビングに上げると、茜が弾かれたように片足を上げた。
すでに庭の土と絵具と水が混じった足跡が、くっきりとフローリングに残っている。そこから動こうとしない茜に、これ見よがしにため息をついてみせる。
「すみれに着替え持ってきてもらうから、そのまま風呂行き。湯は沸いてる。ちゃんと湯舟つかって百まで数えるんやで」
「子どもじゃないんですから」
思わずといったふうな反論が返ってきたから、青藍は口の端を吊り上げた。腕を組んでじろりと見下ろしてやる。
「真冬に水浴びなんか、子どもでもせえへんけどな」
とたんにぎゅう、と茜が唇を結んだ。正論だと思ったのだろう。
「……いってきます」
せめてもの抵抗だろうか。爪先で跳ねるように風呂に駆けていく茜の背を見つめて、青藍はなんだかおかしくなった。
フローリングに、まだらに染まる足跡が点々と残っている。いつもの彼女ならきっと残さないそれが、心を許された証のような気がして、ふいに愛おしくなった。
足跡を拭きとってキッチンで湯を沸かしていると、離れからすみれが着替えを届けにやってきた。カウンターに置かれたマグカップとインスタントコーヒーを、ちらりと見やる。
「茜ちゃん、明日も早いみたいだよ。コーヒーはやめたほうがいいかも」
菓子鉢から追加のクッキーを二枚さらって、掃き出し窓からまた駆け出していく。そこから出入りするのはやめろ、という言葉も忘れて、青藍はじっと考え込んだ。
なるほど、夜のコーヒーは眠れなくなることもあるらしい。
縮こまって寒さに震える茜の姿を思い出して、ぐっと眉を寄せる。せめて何かほかに、体があたたまるものがあるだろうか。
瓶を棚に戻して、指先がためらうように宙を泳いだ。
棚の奥に、平たい箱が三つほど重なって置かれている。黄色と白色が混じった箱で、一つは空いていて、銀色の平たい袋がはみ出していた。
インスタントのコーンスープだった。
茜とすみれが、寒い日の朝に好んで飲んでいるものだ。
耳を澄ませると、かすかにドライヤーの音がする。もう数分もすれば茜はリビングに戻ってくるだろう。
しばらく悩んで、銀色の袋を一つ引っ張りだした。中の粉をマグカップに落として、沸いた湯をそうっと注ぐ。木のスプーンでくるくるとかきまぜた。
たしか底に溶け残りやすいと聞いているから、できるだけしっかりと。ほろりと漂うその匂いは、コーヒーに慣れた自分には少し甘い気がした。
暖簾を上げて茜がリビングに戻ってきた。足取りはふらふらとおぼつかない。片手に抱えたバスタオルの先がリビングの床を引きずっていた。
体があたたまって眠たくなったのだろうか。
「あったまったか?」
数瞬遅れて、ぼんやりと返事が返ってきた。
「……はい」
ソファに沈み込むように座ってこちらを見上げた茜の頬は、刷いたように朱を帯びている。放っておくとこのままここで、眠り込んでしまいそうだった。
「ずいぶん遅かったな」
時計を見るとすでに十二時を回っている。茜が肩をすくめた。
「もうちょっと早く帰る予定だったんですけど、途中から楽しくなっちゃって」
手を広げて灯にかざしている。今はつるりときれいなそこには、先ほどまではべったりと絵具がついていた。その感触を思い出しているのか、細い指を折ったり広げたりを繰り返している。
「……楽しかったな」
へへ、と笑う彼女を見ていると、もっと早く帰れとか、遅くなるなら連絡をいれろとか、言おうと思っていたことが全部、どうでもよくなった。
茜のことだからきっとわかっているだろう。
ため息をついて、青藍はことり、とマグカップを彼女の前に置いた。向かいのソファに自分も腰かける。
「何か腹に入れてから寝え」
とろりと今にも落ちてしまいそうだった瞼が、ぱっと見開かれた。
真白のマグカップに、黄金色のコーンスープが満ちている。バターをひとかけら溶かしたのは、茜とすみれがやっていたのを思い出したからだ。
「作ってくれたんですか?」
「……別に。お湯入れただけや」
大げさに喜ぶ茜になんだか気恥ずかしくなって、青藍はさっと目をそらした。
ふ、と茜が口元をほころばせる。それから止まらなくなったのか、くふくふと笑いながら、白いマグカップをそうっと手に取った。
「ありがとうございます」
ふう、と茜が息を吹きかけて冷ますたびに、甘い匂いが立ち上る。バターが交じると少し香ばしくなるのだと知った。
組んだ脚に頬杖をついて眺める先で、一口すすった茜がほろりと笑った。スリッパが脱げた足がはしゃぐようにぱたりと揺れる。
「あったかいです」
どういうわけか、ぐ、と胸がつまった。
だれもいなかったリビングに、ほろりと灯がともったようだった。
この時間、コーヒーやあたたかい飲み物を用意してくれるのは、いつも茜だった。ソファで寝てしまう自分を、寒いからと心配して少し怒るのも。
今日はなんだか、全部がちぐはぐだ。
でもこういう夜もたまには悪くないと、青藍はそう思う。
少なくとも孤独に浸されたあの静けさよりは、ずっとあたたかな幸福に満ちているから。
【おわり】