夏の終わりに、きみと出会う

コーヒーの香ばしい匂いが、飴色の店内に穏やかに満ちている。
紀伊陽時は陶器のカップを、こつりと指先でつついた。この香りは悪くないと思うのだけれど、独特の苦みはいまだに好きになれない。
「――ほんなら、その新しいのをちょうだい。挽き方はいつもどおりで」
やわらかな京都の言葉に、陽時はふと顔を上げた。カウンターに肘をついて、男が喫茶店の店主に話しかけている。藍色の着物に涼しげな絽の羽織は、終わりかけとはいえいまだ蒸し暑い、京都の夏にふさわしい。
老年に片足を突っ込んだその男は、久我若菜――通称『月白』という。
日本画の絵師で、『月白』は雅号であるらしかった。
京都岡崎にある邸、月白邸に住んでいて、しばらく前に転がり込んだ中学生の陽時を、とくに何も理由を聞かずにあっさり受け入れてくれた人だ。
心の広い大人物だと深く感謝したのだが、しばらく月白邸で暮らしてみたところ、どうもそれは違うのではないかと、最近は思い始めている。
月白邸には食えない芸術家や職人たちが、勝手に住みついたり出ていったり、あるいはふらりと戻ってきたりしていて、結局、正式な住人の人数は月白自身も知らないという。小競り合いは日常茶飯事で、白熱した議論が殴り合いの喧嘩に発展することもあった。
それを止めるでもたしなめるでもなく、けらけらと笑って眺めている月白を見て、このじいさんは心が広いというよりは、たぶん面白いことが好きなだけなのだろうな、と陽時は思っている。
ともかく陽時には、居場所ができた。
実家を飛び出してきた身としては、素直にありがたかった。自分の自由を縛り付ける紀伊家には、もうずいぶんとうんざりとしていたから。
――京阪出町柳駅から数分のところにあるこの喫茶店は、月白のいきつけであるらしかった。黒い口髭を丁寧に整えた店主が、ふいに陽時のほうを向く。
「どうや、うちのコーヒー」
きゅうと目を細めた陽時は、口元を淡く吊り上げた。声変わりが終わって、陽時の声は甘さが滲むやわらかな低さに落ち着いた。
「こんなおいしいコーヒー、初めて飲みました。ありがとうございます」
「はあ、あんたえらいかっこええな。学校でモテるんとちがうか」
「そんなことないですよ」
どこに行っても聞かれるそれに、陽時はあたりさわりなく返しておいた。カップからすすったコーヒーは香り高く、けれどやっぱり苦くて好きじゃないと思った。
自分が人目を引く容姿であることは、ずいぶん前からわかっていた。
適当に笑っておけば、とくに女子たちは色めき立って話しかけてくる。それだけでクラスでも学校でも、それなりに快適に過ごすことができた。
月白邸の芸術家たちやこの店主の前でも、どこでも同じだ。
だから陽時は、いつも意識して笑みに甘さをのせるようにしている。それが一番楽だから。
店主が奥の袋から豆を量り取りながら、肩をすくめた。
「一番弟子は、相変わらず愛想あらへんのにな」
カウンターの、月白から二席空けたところに座るそいつが、ふい、とよそを向いた。
目の前のコーヒーには、当たり前のように手もつけない。
縦にひょろりと長く、黒い髪も瞳も夜を閉じこめたようで、色素の薄い自分とは正反対だと陽時は思っていた。
愛想の一つもなく、頬杖をついてにこりともしないところも。
名前は、久我青藍。
同じ歳だけれど、身長はほんの少しそいつのほうが高い。それなりに素材は悪くないように見えるのに、いつも背中を丸めてのそりと歩くのがもったいない。目つきはおせじにも穏やかとはいえないが、切れ長の目からのぞく瞳はときどき、恐ろしいほど美しい星の煌めきを灯すことがあった。
久我青藍は、月白の一番弟子である。
彼について陽時が知っていることは、ほんのわずかだ。
東院本家からやってきたらしいということ。出自についてはだれもが口をつぐむような事情があること。いつもほとんどだれとも話さず、不愛想が極まっていること。そのくせ住人たちには妙に気に入られていて、それがまた気に食わないということ。
――あまりに美しい絵を描くということ。
暇があれば、与えられた離れの部屋の隅に丸まって、一心不乱に絵を描いている。
紙に覆いかぶさって呼吸すら忘れ、頬に絵具を擦りながら筆を走らせるそのさまを見るたびに、陽時はいつも圧倒される。
激しく生々しく、体も感情もすべてぶつけて、心を剥き出しにして絵に向かうさまは、とても生きづらそうで、苦しそうだけれど。
ほんの少し、うらやましかった。
「――行くで、陽時」
はっと顔を上げると、月白がひらひらと手を振っていた。
喫茶店の扉をくぐった先、午後のアスファルトの上は、うんざりするほど暑かった。
陽時はちらり、と後ろを振り返った。それから、かたわらの月白に向かって片眉をはね上げる。
「豆の挽きあがりまでどこかで待つんやろ。あいつ、帰したほうがええって」
陽時は夏がとくに嫌いではないけれど、後ろを歩く青藍は、たぶんだめだ。
こちらが不安をおぼえるほど、左右にふらついているし、ときどき立ち止まっては、涼しかった喫茶店を名残惜しそうに振り返っている。
これでも気をつかったつもりだったが、当の本人から反対意見が出た。
「……帰らへん。ぼくも月白さんと……待つ」
じろりと睨みつけられたのは、気のせいだろうか。
大人びた顔していつも涼しげで、たいして感情を出さないくせに、ときおり瞳に燃えるような色が乗る。
吸い込まれてしまいそうな瞳から目をそらして、陽時は肩をすくめて前を向いた。傍らで月白が、妙に訳知り顔で笑っていた。
糺の森からの風が、背を押すように吹き抜けていく。
先を歩く月白を追って、陽時も陽光が焼く河原に下りた。二本の川がまじりあうこの場所を鴨川デルタと呼ぶ。三角形の頂点をはさんで、西岸と東岸を、ぽつぽつと飛び石がつないでいるのが見えた。
豆を挽くのを待つあいだ、ここで時間をつぶすのがいつもの流れであるらしい。
「……暑いな」
川面を渡る風がわずかばかりの涼しさをはらんでいるものの、太陽はまだ夏の熱さで、遮るもののない石畳を容赦なく焼いている。
どこか木陰でも、とあたりを見回したとき、月白が陽時の腕をつかんだ。
「ほな、競走しよかな」
ニヤリと笑うそれは、住人たちがときどき言う、”いい歳したじいさんの食えない悪人顔”であった。
――西岸からの最初の一歩は、長方形だ。
隣に並ぶ青藍は、明らかにうんざりした顔をしていて、めずらしく意見が合うなと思った。中学生にもなって飛び石遊びは遠慮したい。
二歩先の長方形で、月白が手を振っている。
「準備はええか!」
年寄りにはハンデが必要だ、と厚かましくも二歩先行したあのじいさんは、こちら側の中学生二人よりよほどやる気で元気だ。
「はいはい」
適当に返事をして、陽時はふ、と息をついた。
飛び石の最初のいくつかは、水位の低い川からすっかり全身を現していて、隙間には深緑色の下草が瑞々しく伸びあがっている。その端がわずかに浅い黄色に染まっていて、ふいに訪れる秋を感じた。
「ようい――」
あ、っと顔を上げた。
「どん!」
半ば反射で、陽時は足元の石を蹴った。いくつか長方形が続き、それから斜め前に千鳥。あっさり月白を追い抜かして、また長方形。
もう少しで、鴨川デルタの三角形の頂点だ。
凪いだ水面に、ふいに自分の顔が映って見えた。次の瞬間にはかき消えてしまった、ほんのひととき。
それが存外必死な顔をしていて、すっと頭が冷えた。
おれ、何やってんのやろ。なんでこんなことに一生懸命になってる?
歩調を緩めて、適当にこのあたりで、遅れている月白を待とうか。
そう思った瞬間。真横を、さっと長い影が通りすぎた。
青藍だ。ぱちり、と目が合った。
その口元がわずかに吊り上がったのが、不思議とはっきり見えた。
その一瞬で腹の底が沸騰した。
「……あの野郎」
舌打ちして次の亀に飛び移る。
身長では負けているかもしれないが、脚の長さではちょっと勝っているはずだ。それに青藍よりは日々、体を動かしている自信がある。
絶対に負けたくないと思った。
鴨川デルタの頂点に飛び移って石畳を駆けた。
風を切る――頬に、首筋に汗が伝う。
東岸に向かって長方形、亀、千鳥――。
あと一歩で追いつく、その瞬間。
あ、と思った。目の前で青藍が、ずるりと足を滑らせたからだ。
ばしゃん、と跳ね上がった水が頬に散った。
「おい、大丈夫か!」
勢いで追い抜かして、あわてて立ち止まる。振り返ると、亀の背中から滑り落ちた青藍が、ぽかんとこちらを見上げていた。
浅い川底についた両手を見て、陽時は目を見張った。
「手! おまえ、手ぇ大丈夫か!」
「……手?」
目の前に両手をかざして、青藍が確かめるようにふらふらと振った。ケガもひねった様子もなくて、そこで陽時は、やっとほっとした。
あの美しいものを生み出すそれが失われるのは、あまりに恐ろしかった。
跳ね上がった鼓動が落ち着いていく。
いつの間にか追いついた月白が、隣の亀からニヤニヤと笑っていた。
「……くそ」
低く毒づいたのが青藍の声だとわかって、陽時は安堵とともに、腹の底からこみあげてきた笑いをかみ殺し損ねた。
「ふ……ははっ」
「……笑うな」
こちらを見上げる青藍が舌打ちまじりに言った。
「いや、だって……おまえ……っ」
そんな顔もするのか。気まずいようなふてくされたような、悔しいとか恥ずかしいとか、そういう感情がこいつにも備わっていたのか。
絵を描くときにしか見せないあの、星を抱いたような瞳と燃えるような激しさは、とてもいい。でもそれ以外は、不愛想でつまらないやつだと、ずっと思っていたけれど。
「めっちゃ面白いやん」
ぐ、と唇を結んで、濡れた手で青藍が髪をかき上げる。それから、ふん、と鼻で笑った。
「おまえも阿呆みたいに大口開けて、笑ってるくせに」
陽時はぽかん、と口を開けた。
そういえばこんなふうに心の底から笑ったのは、久しぶりだった。うわべに貼りつけたそれではなく、ただ楽しくておかしかった。
「……うるさいな」
くしゃりと髪をかきまぜた。自分でも照れ隠しだと思った。仕方がないから、川に座りこんだままのそいつに手を差し出した。
「ほら」
引き上げてやった青藍は、髪はぐしゃぐしゃで、濡れた服には流れてきた草や木の枝があちこちはりついて、ひどい有様だった。
「男前やん」
ふん、と青藍は鼻で笑っただけだった。
東岸に降り立ったのは、二人同時だった。
振り返ると、月白がゆっくりと千鳥から長方形に飛び移るところだった。競走だと言ったくせに、優雅に川面を吹きわたる風を味わっているらしい。
座りこんで両手を後ろについた。
青い空には真白の雲が一筋流れていて、その高さにはっきりと秋の気配がある。
ふと隣を見やると、青藍も同じようにしていた。ちらりと視線があって、何か言いたそうにしばらくもごもごしていたけれど、やがて吹いた強い風に紛れこませるように、ぽつり、とつぶやいたのが聞こえた。
「仕方あらへん。おまえが、二番弟子や」
口を開いて、また閉じて。陽時は困ったように視線をそらした。唇の端がむずむずして、うまく言葉が出てこない。
いま自分がどんな顔をしているのか、わからないのははじめてだ。
空はすがすがしく晴れ渡っている。
隣で空を見上げているそいつの瞳が輝いた。
指先がこつ、と躍っている。瞳の色は深まり、体が伸びあがって、そのまま見えない何かに吸い込まれてしまうのかもしれないと思う。
きっといま、絵を描きたくてたまらないのだ。
それぐらいはわかるようになった。
同じ空を見上げる。ふいに、こいつの筆が掬う色を、そろえてやりたいと思った。
「――おれは月白さんの弟子にはなられへんよ」
陽時は立ち上がった。視線の先では、月白が最後の飛び石を踏んだところだった。ちらりとこちらを見上げた青藍が、何でもないように言った。
「ふうん」
その声にわずかなさびしさが滲んでいると、こいつは気づいているのだろうか。
「そうやな……おまえとやったらせいぜい――」
声は震えていないだろうか。妙な気恥ずかしさに顔がゆで上がりそうだ。
「――友だち……ぐらいやろ」
ぴくりと顔を上げた青藍と、目を合わせないようにするので必死だった。これ以上、照れていると思われるのは癪だ。
「……そうか」
だから、応える声の奥に滲んだかすかな喜色にも、気づかないふりをした。
家業は嫌いだ。でもこいつの指先が描く色を、選んでそろえて、その背を押し上げてやりたいと思った。
美しい空の群青を、真白の雲の胡粉を。瞳の奥に煌めく金箔、空から降り注ぐ黄檗色、燃える黄緑、山吹と薄紅の花々、吹きわたる風を、音を、やわらかな光を――この心を描くために。
おれの全部を使ったっていい。
「――まあ、いつかおまえが、月白さんぐらいなったら、やな」
「なったら、何や?」
首をかしげた一番弟子に、陽時はふ、と笑ってやった。
「別にぃ」
不機嫌そうなその顔を見て、陽時はまたまばゆく笑ったのだ。
その頬を夏の終わりの風が、そうっと撫でていった。
【おわり】