ふたりの、そのあと
京都伏見の酒蔵『清花蔵』の跡取り、清尾拓己はその日、それはもう不機嫌だった。
まず第一に、気候がよくない。
京都の夏は過ごしやすいとはいえず、熱気が蓋をしたかのような盆地に、たまに吹く風はたっぷりと湿度を含んでいる。
滴り落ちる汗を手の甲でふいて、拓己は深くため息をついた。
拓己の実家、清花蔵の母屋は古く部屋が広いこともあって、エアコンの効きも悪い。そのうえみな、この暑さにすっかり慣れていて、夏は自然の風がいいなどと、縁側に続く窓を開け放してしまうのである。
涼やかなのは、軒先につるされた風鈴のちりんと甲高い音ばかりだ。
次に食である。
ここしばらく、実家の食卓はそうめん一色になっていた。拓己の母、実里が原因だ。
最近、母は世間からずいぶん遅れてSNSを見始めた。主に料理動画だそうだ。
夏におきまりの、変わり種そうめんつゆの動画を見ていて、自分でも作ってみたくなったらしい。このところ寝ても覚めても、そうめんつゆの開発に夢中なのだ。
忙しい母にとって、今の閑散期が楽しみに使える時間だと思えば仕方がないのだが、それにしたって実家に戻るたびに、ざる山盛りのそうめんはそろそろ辛い。
「……もうしばらく、そうめん見たない」
諦め混じりにつぶやいたそれに、こたえる声があった。
「そうか? このつゆなんか、辛くてざくざくしていてうまいぞ。食べたことのない味だ」
玻璃の器に顔をつっこんで、器用にそうめんをすすっているのは、小さな白い蛇だった。口元にちょんとついているのは、具だくさん瓶詰ラー油の唐辛子だ。
拓己はじろりとその姿を見やって、また深く嘆息した。
これが不機嫌の理由の、三番目である。
この白蛇はシロと名乗る、京都の洛南、伏見に棲む水神である。雨が降ると人の姿になり、そうでないときはこの小さな白蛇の姿であった。
拓己の……口が裂けても言いたくはないが、友だちでもあった。
今は自分の棲みかを離れて、あちこち気ままにめぐっているそうだ。風に流され、雨にのって移動する、人ならざるものの営みを拓己は理解できないが、きっと日々を楽しんでいるのだろうと思っている。
戻ってくるたびに、その金色の瞳を輝かせているとわかるから。
そのまま二年でも三年でも、好きに遊んでいればいいと思っていたのだが、どういうわけかこの水神は、たびたびここに戻ってくる。
「……おまえ、春にも帰ってきたやろ。頻繁にうちに顔だすんやめろ」
「今は盆だろう。人は盆に集まって宴会をするんだ。おれも参加したい」
小さな体をのけぞらせているのは、どうやら胸を張っているらしかった。それに、と金色の瞳が、深い光を帯びた。
「おれの居場所はいつだって、あの子のそばだ」
その声音はとろりととろけるはちみつのように甘い。眉を寄せた拓己の口から、こらえ損ねた舌打ちが零れ落ちた。
この水神は迷惑なことに、拓己の、それはもう大切でかわいくて愛おしい奥さんのことを、ことのほか大切にしているのだ。――執着とも呼べるほどに。
それが腹立たしくて仕方がない。
あの子はおれのなのだと。そう言う権利は今、夫である拓己にだけあるはずなのに。拓己の奥さんはとても優しいから。この白蛇のことを、大切な友人と受け入れてしまうのだ。
……そう、奥さんである。
去年結婚した拓己の妻、旧姓三岡ひろが、この不機嫌の一番の原因でもあった。
爽やかな青い色のワンピースが、縁側に翻る。
「――実里さん、ラー油と胡麻油とマヨネーズちょっと、あと葱! 最高です!」
ほっそりした指先が、瑞々しい青葱を散らした硝子の器をかかげる。母が、うれしそうに両手をあわせた。
「ほんま? じゃあ明日は、うちもその組み合わせにしてみる!」
母にほめられてはにかむひろに、拓己はぱちぱちと目を瞬かせた。奥さんの笑顔は、今日はことさらまぶしい気がする。
興奮したように頬に赤みがさして、楽しそうにはしゃいでいるのだ。
「……かわいい」
ぼそり、とつぶやいて、拓己はごつりと机に突っ伏した。
なんて理不尽だ、不公平だ、ひどいことだ。
この愛おしくてかわいい笑顔が、彼女の一番大切な存在であるはずの旦那さん――つまり拓己に、本日一度たりとも向けられていないのである。
ふい、とその目がこちらを向いた。
好きになってからどれくらいたつのかわからないというのに、性懲りもなく期待でどきりと鼓動が高鳴る。
「ひろ……」
その瞬間、ふとそらされた視線に拓己は息をつめて、またごつんと卓に伏した。
「……何をしたんだ、跡取り」
足元から聞こえる白蛇の声が、やや同情的なのが悲しい。
――盆での清花蔵の宴会を、ひろはことさら楽しみにしていた。
三日も前から実里と同じ動画をチェックし、そうめんつゆをあれこれ試し、今朝などいつもは寝ている時間に起きだして、ずっとそわそわしているのだ。
拓己はそれを、微妙な心持ちで見つめていた。
「……実家なんか近いし、しょっちゅう飯食いに行ってんのやから、盆いうてそんな特別か? ……せっかく蔵もひろも夏休みやし、二人で朝寝したりのんびりしたりしたいやん」
それでなくとも勤勉な蔵と神社の跡取りは、日々忙しく、二人でゆっくりする時間も存外ままならないのだ。
シロが白けた顔でつぶやいた。
「それをひろに言ったのか」
……言ったのである。
拓己は無言で、くしゃりと髪をかきまぜた。
「そしたら、お盆はみんなと一緒にいるから、わがまま言わないでって……」
「ふっ、く、ははっ……!」
シロが身をよじって笑い転げている。びちびちと尾で畳をたたく音までが憎たらしい。
「さびしくてかまってほしくて、拗ねているのか。子どもでももう少し聞き分けがいいな」
「うるさいな。はっきり言うな」
わかっている。子どもなのは拓己だ。
のそり、と顔を上げた。
障子の隙間から見えるひろは、拓己の母と、兄と、姪……親戚たちの間で楽しそうに、あの笑顔を振りまいている。
引っ込み思案で何もできなくて、拓己が手を引いて前を歩いてやった子どもは、もうどこにもいないのだ。
だから焦って手を伸ばして、大好きだと言って抱え込んで。これで安心だとたかをくくっていたら、今度はその笑顔が自分以外に向けられるのが、いっそう不安でたまらない。
ため息交じりに、ぽつりとつぶやいた。
「……ままならないもんだな」
「それが人だろう」
笑いの気配をにじませる白蛇の、金色の瞳のずっと奥に、人の心への羨望と深い愛おしさがあることを、拓己は知っている。
空を仰げばすでに、星は秋のかたちをしている。ふっくらとした月は西の空を煌々と照らしていた。
「きれいだねえ」
ひろはほう、とため息をついて、空を見上げた。
宇治川派流のさらさらとした水の音、しっとりとした夏の風が頬に触れる。重く湿度のあるそれは、ずいぶんとなじんでしまった京都の風だった。
「瑞人さんも、若菜ちゃんも元気だったし、実里さんが喜んでくれたのもうれしかった」
お酒を少し飲んだからだろうか。ふわふわとした足取りはいつもよりずっと軽く、星空に浮き上がってしまいそうだ。
ちらりと振り返ると、拓己が無言でうなずいた。
今朝から拓己の様子がおかしい。なんだか不機嫌そうなのに、ふと気がつくとじっとこっちを見ている。
ややあって、もそりと拓己が言った。
「……ひろも、ずいぶん楽しそうやったな」
「うちは親戚が少ないから、こうやってお盆で集まって、みんなでごはんを食べたりするの、今でも楽しいって思うんだ」
拓己がわずかに目を見開いた。やがて深く嘆息して、くしゃりと髪をかきまぜている。ますます様子がおかしくて、ひろは首をかしげた。
「拓己くん、どうしたの? 調子悪い?」
「……いや。自分の大人げなさに呆れてる」
その緩めた口元が、笑みのようにも、子どもが拗ねているようにも見えた。
「ひろが楽しかったんやったら、よかった。でも――」
夏の風がゆるゆると吹き抜けるだけのいとまをあけて、やがてぽつりと拓己が続けた。
「おれのことも、もうちょっとかまってくれたかて、ええやん」
きょとん、として。
ひろは、こらえきれずに口元をほころばせた。
「ふ、あはは……っ。今日、ずっとおかしかったの、それだったの?」
「……笑うな」
「くく、ふふ、拓己くんも、そういうことあるんだ」
ひろの「旦那さん」はお嫁さんを独り占めしたいのに、格好いい大人でもいたくて。その葛藤で困り果てている、とてもかわいい人なのだ。
ひとしりき笑ったあと、ひろはぱっと手をさしだした。
「はい」
しばらくためらいがあって、やがて、あたたかな手にぎゅっと包まれる感覚があった。そこからドキドキと跳ね上がる鼓動までが、聞こえてきそうだった。
「ここからは、拓己くんが独り占めだね」
いつも余裕の旦那さんに仕返しのつもりだった。ふふっと笑ってそう言うと、見上げた拓己の顔がぐっとひそめられている。
ふいに、ぐいっと引き寄せられた。
「わ、拓己くん!」
見上げた顔は耳まで赤く、けれど、その奥に宿った小さな熱がはっきりと自分をとらえているのがわかる。
つられて、自分の顔にもぶわっと熱が昇った。
「ここ、外!」
「ここからは、おれが独り占めなんやろ」
「そ、うだけど」
ぐ、と抱き寄せられた力は一向に緩まない。
「……帰ったら縁側でお茶しよな。明日も休みやし昼まで一緒に寝て、朝ごはんか昼ごはんかわからへんごはん食べて、夕方までごろごろしよ」
耳元で聞こえるその声が、甘くかすれているのがたまらなく愛おしい。
「なあ、早う帰ろ」
満足したように離れたその熱が名残惜しくて、でもしてやったりと笑うその顔に、なんだかとても悔しい気もして。
でも見上げたその人が、うれしそうに笑っていたから。
まあいいか、とぜんぶを許したくなってしまうのだ。
【おわり】