秋の心
秋も深まる十月の末。
あけ放たれた窓からするりと入り込んだそれを、青藍はそうっとつまみ上げた。まだ緑の残る桜紅葉の葉だ。乾いた土のにおいがする。午後もまだ早い時間だというのに、空の青はすでに少しずつ色を薄れさせ、乾いた風の冷たさが心の奥底までをひやりとなでていくようだった。
深まる静けさも褪せた空の色も、秋はどこかさびしく、それがまた美しい。
ほう、と吐いた息を追うように、青藍が空を見上げたときだった。
「――青藍、早くしないと茜ちゃんが帰ってきちゃうよ」
振り返ると、キッチンの向こうですみれが頬を膨らませていた。淡い紫色のエプロンの上では、雀の子がこちらをふてぶてしく見つめている。
「もう焼けるんだから、早くきて」
ぶんぶんと手をふるすみれの瞳は、真夏の太陽もかなわないほどまぶしく輝いている。
「ああ、いまいく」
晩秋を迎え色を深める庭の美しさも、乾いた風が肌をなでる静寂の心地よさも、過ぎ行く季節のわびさびも、結局、この家の中で輝く太陽にはかなわないのかもしれない。
青藍はふと笑って、迷い込んできた葉のひとひらをそうっと庭に返してやった。
――本日、ハロウィンパーティを決行する。
昼過ぎ、学校から帰ってくるなりそう宣言したのは、すみれだった。
姉の茜は今年受験生、この秋は毎日勉強漬けで、少しばかり疲れているような気がする。だからその姉を元気づけたいのだと、小さな手を一生懸命握りしめてそう言われれば、青藍も陽時も反対する理由はない。
あかあかと火の入ったオーブンをながめながら、すみれがぽつりと言った。
「茜ちゃん、きっと喜んでくれるよね、最近すっごくがんばってるもんね」
その頭にぽんと手をのせてくしゃりとかきまぜながら、青藍はきゅう、と目を細めた。
「ああ、楽しみやな」
いつも少し遠慮がちなあの子はきっと、照れたようにはにかむのだろう。それが目に浮かぶようで、青藍も自分の口元がほころぶのがわかった。
大切な人がうれしそうに喜ぶさまを想像するのは、なんだか心が躍るものなのだ。
一番星の輝く夜空の下、平安神宮の大きな鳥居が黒々と星空を切り取っている。その下を足早に通り抜けながら、茜は静かにため息をついた。
受験はもう間近、ここしばらく茜が家に帰るのはすっかり日が沈んだあとである。
みんなと――大切な家族と、最近ちゃんと顔を合わせて話したのはいつだっただろうか。
それもあいまいで思い出せないのが、なんだかとてもさびしいのだ。
がらりと玄関の引き戸を開けた茜はわずかに目をみはった。
いつもはリビングから明かりの漏れ出している廊下が、今日はしんと闇に沈んでいる。
「……ただいま」
かすかなその声は、廊下の奥に転がるように消えていった。返事はない。
きっとみんなで青藍の離れにでもいるにちがいない。珍しくもない、いままで何度もあったことなのに、どうしてだろう。
ただいま、に返事がない、たったそれだけのことなのに、星のない暗い夜空に心が投げ出されてしまったみたいだった。
茜は重い体を引きずるようにのろのろと廊下に上がった。荷物を置いて手を洗って、夕食の準備をしなくてはいけない。
ため息を一つこぼしてリビングの暖簾を上げた――その瞬間だった。
ぱっと明かりがともった。
「――トリック・オア・トリート!」
おどろいて硬直した茜の目の前で、すみれが満面の笑みを浮かべている。
「びっくりした? 茜ちゃん、どう? びっくりした!?」
してやったり、と笑うすみれを呆然と見下ろす。一瞬のおどろきのあと、ねえ、ねえと茜の服を引っ張るしぐさに、どうしてだかむしょうにほっとした。
「……うん、びっくりした」
「ふふ、やった!」
すみれの笑顔に、茜もつられて顔を緩ませる。その妹の頬に妙なものが描かれているのをみとめて、茜は首をかしげた。
黒の絵具だろうか、ガイコツの黒々とした眼窩が笑みの形にゆがんでいる。ごつごつとした質感といい、じっとりとした不気味さといい妙にリアルである。
「ほっぺたどうしたの?」
「青藍が描いてくれたの」
なるほど、やたらとリアルなのはそのせいか。
「もっとかわいい感じにしてあげればよかったのに」
やや不満そうな顔が割って入って、茜はそちらに視線をやった。陽時が電気のスイッチの前で腕を組んでいる。その隣で、青藍が心外そうに首をかしげていた。
「十分かわいいやろ」
「いや、怖いんだよ」
茜は軽口を叩きあう大人二人の顔を見て、ぽかんと口を開けた。
陽時の頬にはつぶれたようなオレンジ色のかぼちゃが。青藍のややすがめた目の下には、妙にひしゃげた白いオバケが、それぞれべったりと描かれていたからだ。
「どうしたんですか、それ」
二人は顔を見合わせて、同時に、くしゃりと相好を崩した。
「すみれが描いたの!」
眼下ですみれが自信満々に胸を張っている。
なるほど、新進気鋭の天才絵師と、街を歩けば人が振り返るほどの陽時の顔をキャンバスにするとは、わが妹ながらなかなかやるものである。
「よう描けてる、さすがすみれや」
「おれ、写真とったからいっぱい自慢するんだ」
この天才絵師と金色の美貌の主は妹にたいがい甘いのだ。
くいっと袖を引かれて、茜は眼下を見下ろした。
「すみれ、いっぱい練習したの! 上手?」
だれの心をも照らす星を散らした瞳が、褒めて、褒めてと笑っている。これはどうしたってかわいい。茜だって大人二人とたいして変わらないのである。
「うん、すごく上手だよ、すみれ」
その瞬間、花が開いたようにぱあっと頬を紅潮させた妹が、なんだか泣きたくなるほど愛おしくてたまらないのだ。
――今日はサプライズのハロウィンパーティらしい。
見回した部屋中には、オレンジ色の画用紙で作ったかぼちゃがあちこちに貼りつけられ、真っ黒な紙の蝙蝠が何匹も壁を飛んでいる。
テーブルの上には出前をとったのだろう、中華のオードブルとピザ、お寿司、鰻にケーキと、いわゆる「ごちそう」がずらりと並んでいて、茜は目を丸くした。
「こんなに頼んだんですか?」
「うん。好きなの食べなよ。残るなら明日の朝ごはんにすればいいし」
陽時が何でもないようにお箸やお皿を並べてくれる。
茜はあきれたように嘆息した。
青藍や陽時なら出前でも和食になりがちだから、これはすみれの好みだ。お寿司にピザに、とはしゃぐ妹のわがままを、大人二人がうれしそうに聞き入れたにちがいない。
「……こんどから、ちゃんと四人で食べられる分だけにしましょうね」
じろり、と視線を向けると、青藍と陽時がそろって目をそらした。
茜はふと、テーブルの端に追いやられるようにそっと置かれた皿に目をやった。
クッキーがこんもりと山に積まれている。このごちそうが並ぶ中で、それだけが妙に茜の目を引いた。
大きさも形も不揃いでいびつで、だれかの手作りだとすぐにわかる。中華のスパイスにも負けないやや香ばしすぎるにおいに、茜は思わずひとつ手にとった。
「あ……」
思わずこぼれたのだろう。すみれの声が聞こえた。
「どうしたの?」
「あの……それ、おいしくないかも」
ぎゅう、と小さな両手をにぎりしめてうつむいてしまう。
「すみれが作ったの?」
「ううん。みんなで作ったの」
茜は思わず顔を上げた。青藍と陽時が気まずそうに目をそらしている。二人とも、家事の類――とくに料理が少しも得意ではないことを、茜も知っている。
よく見るとキッチンには壁にも床にも小麦粉やチョコレートが飛び散っているし、シンクには洗い物が積み重なっていて、奮闘のあとが見てとれる。
「茜ちゃん、勉強たいへんそうだし、甘いお菓子なら元気がでると思ったの」
でも、とすみれの声がどんどん小さくなっていく。
「レシピを見てがんばったんだけど……すっごく焦げて、食べたらおいしくなくて」
泣きそうなすみれの頭をぽん、となでて、陽時がことさら明るい声で言った。
「おれたちじゃ、茜ちゃんみたいにはいかなかったんだよね。ちゃんとしたお菓子も買ってあるから、あとでそっちを――」
その言葉を途中で遮るように、茜は手に持ったクッキーを一口かじった。
舌触りはざらざらとしていて、ところどころ焦げているしそのわりに妙に甘い。つまり、決してお世辞にもおいしいとは言えない。
けれど、と茜はじわりと胸の中に広がるあたたかさに、口元をほころばせた。
「……おいしいです」
これは、みんなが茜のためにつくってくれたものだ。
きっと一生懸命、茜のことを考えてがんばってくれたものなのだ。
だから多少いびつでもちゃんとしていなくても、焦げていても甘すぎたって、これよりおいしいクッキーを茜は知らない。
「すごくおいしい」
そう言って笑った茜の頭を、青藍の大きな手がぽん、となでてくれたのだ。
ハロウィンパーティは大いに盛り上がり、途中から慣れない酒を飲んだ陽時がテーブルに突っ伏して、はしゃぎ疲れたすみれがソファで寝落ちしたあたりでお開きとなった。
すみれを離れまで連れていき、陽時を自分の部屋に放り込んだあと、軽く片付けをしていたらすっかり夜半過ぎである。
「茜、ちょっとそこ開けて」
片付けを手伝ってくれていた青藍が、小さな手鍋に水を注いで火にかけた。
ふつふつと泡が立ち上るのを待って、冷蔵庫からパウチ袋を取り出してメモを見ながらぶつぶつと何かをつぶやき始めた。
「この棒は砕く、三角の粒が四個、星の形のは一個、とがったやつは二個……」
ふわりと漂う香りはスパイスだろうか。煮だしたあとに紅茶の葉をいれて、開いたころにたっぷりの牛乳を注ぐ。山盛りの砂糖を慎重にいれてしばらくたったあと、最後に茶こしでこしてマグカップに注いでくれた。
甘いミルクと花のような紅茶に複雑なスパイスの香りが混じる。チャイだ。
「青藍さん、こんなのよく知ってましたね」
「……調べた」
青藍がふい、と視線をそらした。これがどうやら照れているらしいと茜が知ったのは、最近のことだ。
「いただきます」
一口すすったそれは、複雑なスパイスの香りが甘いミルクに丁寧に織り込まれているようで、体も心もほっとあたためてくれた。
「それ飲んで、今日はもう寝ぇ」
青藍がためらったように茜の頭にぽん、と大きな手をのせてくれた。
少しごつごつしていて、美しいものを生み出す。茜の大好きな手だ。
「茜はいつも、ようがんばってるさかい」
柔らかな京都の言葉が耳をくすぐって、ぐ、と心の奥から熱が上がる。ほろりほろりとさびしかった心に星がともっていく。
秋の静けさが満ちていく。
からりと乾いた風が通るその静寂は、夕暮れに染められた帰り路によく似ている。
さびしくて早足になって。わたしのことを、おかえり、と迎えてくれる場所に帰りたいのだと心が急くのだ。だから秋は、少し人恋しい。
ふわ、とあくびを繰り返す青藍に、茜はその服の裾を無意識につかんでいた。
「茜?」
「もうちょっと。飲み終わるまで、いっしょにいてください」
そこにいてくれるだけでいい。何も話さなくてもいい。
でもこのおうちがわたしの場所だと、何度だってそう思えるように。
もうしばらく、隣にいてほしい。
それは言わなくても伝わったのだろうか。
「……飲み終わるまでや」
少しばかりぶっきらぼうな、けれど笑みを含んだそれに、茜は小さくうなずいた。
マグカップからゆらゆらとあたたかな湯気がたちのぼる。
甘くほろ苦い香りが満る。
秋の夜が、ゆっくりと更けていく。
【おわり】