黒猫探しの休日

その黒猫には、まだ名前がない。
だからみな、「猫」「黒猫」と、愛想もそっけもない名前で呼んでいる。
御幸町スタアライトビルヂングの南側、空をつく尖塔の中に住んでいて、三階と四階の間に設けられた踊り場がお気に入りの寝床だ。
だから今日も猫は、ちゃんとそこにいるはずだった。
「……あれ? 猫ー。おーい黒猫、どこいったん?」
一抱えもある餌袋を両手で振りながら、穂積良子は踊り場をきょろきょろと見回した。
南側に開けた窓から夕暮れの淡い橙色が、街からあふれるようにじわりと滲み入ってくる。十月半ばの乾いた風が、頬をさらりと撫でた。
夕暮れはずいぶん早くなり、秋は静かに深まっていく。
――あれから、季節が一つ過ぎた。
七月末、このビルの階下に店を構えるセレクトショップ『トワイライト』での研修を終え、良子は大阪で、本来の希望である事務職に従事することになった。このスタアライトビルヂングの四階に住み続けることに決めたのも、そのころだ。
ここの住人でいるための条件のうち、一つがこの踊り場に住む猫の世話だった。
日曜日の今日。夕方の餌の時間になって、猫の姿が見えないことに良子は気がついた。いつもは餌の袋をガサガサ鳴らしていれば、どこからともなく姿を現すのに。
階段を二、三段上がったところで、途方に暮れていたときだ。
「――何してんの?」
滴るような甘い声に、良子はあわてて振り返った。そのさきで、きゅう、と細められた瞳が、夕陽の赤色を映しながらこちらを見上げている。
藤堂敦基だった。
このビルの管理人であり、ファッションブランド「キサラギ」の刺繍作家でもある。
シャツの胸元から、藍色のトライバルタトゥーがちらちらと見え隠れしている。ふわりと香るのは、先ほどまで吸っていたのだろう、煙草のそれだった。
ここに住むようになってしばらく経つけれど、ときおり訪ねてくるこの人の甘やかな声にも、どこか妖しさを呑んだ静かな瞳にも、いまだにそわそわとしてしまう。
「いなくなっちゃったんです。黒猫」
そう言うと、藤堂があたりをぐるりと見回した。
「外、出てしもたか?」
「いえ、柵はちゃんと閉まってたので、大丈夫だと思うんですが」
尖塔の出入口と各階に設けられた青銅の柵は、猫が外に出てしまわないように、いつもきちんと締め切られているはずだった。
藤堂は真ん中で分けられた癖のある黒髪を、くしゃりとかきまぜた。
「それやったら――あいつのところやろ」
ごつ、と厚みのあるスニーカーの底を鳴らせて背を向けた藤堂が、踊り場で肩越しにこちらを振り返った。
「ほら、行くで、良子ちゃん」
「あ、はい!」
反射的にその背を追って、階段を駆け下りる。藤堂が三階の柵扉を開けたところで、良子はぴたりと足を止めた。
「……葉山さん、ですか?」
夕暮れの朱に満たされた尖塔とは違い、三階の廊下はすでに青い夜に沈んでいた。ぼう、と灯る明かりの下で、藤堂が目を細めてこちらを振り返った。
「あれから、ぜんぜん会うてへんのやて?」
ぎくり、と自分の口元が引きつるのがわかった。
――三階に住む住人、葉山仁志は、階下のセレクトショップ『トワイライト』の店長であり、七月の終わりまでは良子の上司でもあった。
「顔を合わせれば……挨拶ぐらいしますよ」
ごまかすように笑って、良子は続けた。
「今日は日曜日ですよ。葉山さんはお店です」
「それがめずらしいことに公休やて。どうせ暇してるやろから、飲みに行こ思て来てん」
逃げ道をふさがれていくような気がして、良子は足元に視線を落とした。頭の上から柔らかな藤堂の声が降ってくる。
「穂積ちゃん、お店にも顔出してくれへんて、華ちゃんもひかりさんも言うてたよ」
藤堂ももう、わかっているのだ。
良子はずっと――『トワイライト』から逃げ続けている。
だって、と震える唇で無理やり笑った。うまくいったかはわからなかった。
「二か月もたてば……〝お客様〟ですから」
――ほんとうは、何度も何度も『トワイライト』を訪ねようと思った。
けれど一枚ガラスのウィンドウの前で、良子はいつも立ちすくんでしまうのだ。
その向こうには、金色の筒から降りるあたたかな光で満たされた、星たちが輝く美しいステージが広がっている。
花巻華は、弾けるような笑みを浮かべながら新作のカットソーを見比べていて、きっと次のディスプレイを考えているにちがいなかった。
伊佐征次郎は、手にしたアクセサリーを丁寧に磨き上げている。ときおり浮かべる、かすかに唇を吊り上げたそれが、無表情な彼の微笑みだと良子は知っている。
その隣では、滝上ひかりが伊佐に何か話しかけながら、指先をあわせてほろほろと笑っている。聞かなくてもわかるその声音の柔らかさは、何度も良子を助けてくれた。
そして葉山は――あの夜の海を呑んだような美しい瞳に星を煌めかせながら、鏡の前でそうっと客の背を押すのだ。
世界で一番、あなたに似合う。
わたしはほんとうに、あの美しい店の中にいたのだろうか。いまとなっては、あの時間は現実味のないまぼろしのようだ。
ここには良子のいない時間が、当たり前のように流れている。
それがこんなにも、さびしい。
そして、ガラスの扉に伸ばした手を、そっとひっこめてしまうのだ。
ささやくような笑い声に、良子は顔を上げた。三階の青い廊下の向こうに、滴るような甘い笑みがあった。
「それで、穂積ちゃんは拗ねてんの?」
痛いところをつかれて、ぐ、と唇を結んだ。でも結局、藤堂の言うとおりなのかもしれなかった。
「……あの三か月が、思ったより楽しかったみたいです。それで……勝手に仲間外れ、みたいな気持ちになっちゃってるのかもしれないです」
言葉にするとひどく幼稚な気がして、恥ずかしかった。
「……すいません、子どもみたいなこと言って」
「べつに、ええのんとちがう?」
藤堂の静かな声と黒々と沈む瞳の奥は、ときどき心の底まですべて見透かしているのかもしれないと思う。
「自分の心を言葉にするいうんは、だれでもできることやあらへんて思う。穂積ちゃんのすごいとこは、そこやて思うよ」
これまで良子は自分の心を、ずっと押し込めて生きてきた。それを一つずつ形にすることを覚えたのは、あの三か月があったからだ。
良子は手のひらをそうっと胸にあてた。
藤堂の言葉にじわりとあたたかくなるここに、きっと心があるのだなと、そう思った。
それに、と、紗がかかったようにかすんだ銀色の扉の前で、藤堂がにやりと笑う。
「なんでもない、いう顔して毎日そわそわしてる阿呆より、よっぽどええよ」
きょとんとしている良子の前で藤堂が、ガンッと銀色の扉を軽く叩いてみせた。
――天井を這う銀色の配管、飴色に磨かれたバックバー、部屋の隅に積まれた机と椅子は、窓から差し込む薄青い夜に呑まれていた。
一度だけ訪れたことのある、葉山の部屋だった。
壁際のスイッチを押すと、スポットライトタイプの明かりがぼんやりと橙色を滲ませる。窓際の観葉植物が床に淡い影を落とした。
良子はおそるおそる傍らを振り仰いだ。
「……ほんとうにいいんですか、藤堂さん」
「だって返事あらへんのやもん、仕方ないやろ」
外から何度か呼びかけた藤堂は、返事がないとみるや、ポケットから鍵を引っ張り出して勝手にドアを開けてしまった。ずいぶん慣れた手つきだったから、いつものことなのかもしれない。
それにしても、と良子はあたりを見回してぽかんと口を開けた。
葉山の部屋の、この惨状はどういうわけだろうか。
床はあちこち水浸しで、一番ひどいのは部屋の奥にある、アルミ製のドアの前だ。おそらくその向こうは風呂なのだろう。半端に開いたドアの中からは洗面器が転がり出ていて、ねこじゃらしやカラフルなボールや柔らかなブラシなど、あらゆる猫用のおもちゃが、そばの床に投げ捨てられるように散らばっていた。
点々と続く水のあとは、中央のソファに続いている。
「あ……」
良子は声を上げそうになって、あわてて手のひらで口をふさいだ。
ソファには、一人と一匹が眠り込んでいた。
仰向けに寝転がった葉山が長い脚の片方をソファから投げ出していて、その腹には、ずっと探していた黒猫がくるりと体を丸めて、我が物顔でおさまっていた。
喉を鳴らす猫はずいぶん機嫌が良さそうで、ときおりぱたん、と尾が跳ね上がっては、葉山の腹をべしりと叩いた。そのたびに葉山の額に、ぎゅう、と深い皺が寄るのだ。
ふ、と傍らで藤堂が笑った。
「ほら、やっぱりこいつ、ここにいたやろ」
その瞬間だった。ぱちり、とその目が開かれた。ひらめくような素早さで身を起こすと、後ろ足でどんっと葉山の腹を蹴りつけて、床に飛び降りる。
「うぐっ!」
体をよじった葉山を尻目に、猫はさっと隅のテーブルの下に駆け込んでいった。
いまのは痛そうだった。思わず肩をすくめた良子の前で、葉山がうっすらと目を開ける。やがてその美しいアーモンド形の瞳を、まん丸に見開いた。
「敦基さん、と……穂積?」
いつも整えている前髪が下りている。そのきょとんとした顔もあいまって、ふだんよりずっと幼く見える。眠たさを残した、どこかあどけない表情に見入っていた良子は、やがて剣呑な顔でのそりと葉山が身を起こしたのを見て、二、三歩後ずさった。
「あんたら人の部屋で、何してんだ……」
「勝手にお邪魔してすみません! あの……猫を探していて、そしたら藤堂さんが、葉山さんの部屋だって……」
ああ、と葉山がくしゃりと髪をかきまぜた。長い脚が床を踏んで立ち上がる。
「風呂入れてやってたんだよ」
バスタオルを拾いあげて、ついでに床を拭くと、転がっているおもちゃやシャンプーのボトルといっしょに、銀色のドアの中に投げ込んだ。
三か月に一度、猫を風呂に入れることにしていると、葉山は言った。風呂嫌いの猫と昼過ぎから一時間ほど格闘して、力尽きてソファで沈没していたらしい。
どかり、と葉山がソファに戻ると、待ち構えていたように猫が飛び出してきた。膝に乗りあがって、尻尾でぺしぺしと葉山の腕を叩いている。自分は嫌いな風呂を我慢したのだから、これから積極的に遊ぶべきである、と主張しているようだった。
「……はいはい、わかった。またあとでな」
葉山の長い指が、猫の喉をくすぐった。口元に浮かぶ淡い笑みは優し気で、この人もこんなふうに笑うのだと、そういえば思いだした。
青い夜が静かに、窓の外から滲み入ってくる。
良子は、ぼんやりと傍らの葉山を見下ろしていた。
この人の顔を間近で見るのは、ずいぶん久しぶりな気がした。夜と昼のあわい、『トワイライト』に立つのにふさわしい、美しい人だ。
ふいにその夜色の瞳が良子を見上げた。
「ずいぶん久しぶりだな」
静かな凪ぎの声だった。大きな餌袋を抱えたまま、良子は視線を泳がせた。
「……何かと忙しくて」
「外からおれたちを眺める時間はあるのに、か?」
声音にはからかいの気配があった。
「気づいてたんですか⁉」
「わかるに決まってるだろ。花巻も伊佐も、ひかりさんもみんな気づいてる」
かあ、と顔に熱が昇った。声もかけられないまま、所在なさそうにウィンドウの外をうろうろしていた、あの情けない姿を見られていたのだ。
とたんに葉山からこぼれた低いため息に、今度はさっと血の気が引く。
「すみません! その、お世話になったのにあれからご挨拶もなく……」
自分の顔が赤いのか青いのか、もうわからない。
ややあって、葉山が小さく舌打ちした。
「……そうじゃない」
もごもごと歯切れが悪そうなそれに、首をかしげたときだ。いつのまにか向かいのソファに座った藤堂が、にやりと笑った。
「素直にさびしかったて言いや。かわいい後輩がどうしてるか、仁志は気になって仕方あらへんかったんやんなあ」
「ちがいます」
一瞬腰を浮かせた葉山の膝で、ぴょん、と黒猫が跳ねた。大変迷惑です、という顔をして、その手をばしりと尾で叩く。
「……おれじゃない。うるさいのは花巻だ。オータムの新作がおまえに似合うから、早く着せたいと言ってた」
それから、と妙に焦った調子で続ける。
「伊佐は、別注のリングでシンプルなデザインがあったから、きっと似合うだろうから見に来いと言ってたし、ひかりさんは――」
ぎゅう、と葉山の顔が苦々しくひそめられる。口をつぐんだその人のかわりに、藤堂が笑いを滲ませて言った。
「おまえが怖いせいで、良子ちゃんが顔出されへんのとちがうかて、詰められたんやろ?」
ぐう、と短く葉山が唸った。ひかりにずいぶん怒られたのかもしれない。あの一見優しい笑顔に、葉山は逆らうことができないのだ。
きっとこうして黙り込んで、薄い唇をそうとわからないぐらい、不満げに尖らせていたにちがいない。それが聞き分けの悪い子どものようで、想像だけでおかしくて。
良子はくすくすと肩を震わせた。
「……笑うな」
不機嫌そうに言う葉山が、またおかしかった。
そのとき、良子はすとん、と腑に落ちた気がした。
ああ、そうか。
きっと、あの店は何も変わっていないのだ。
華も伊佐もひかりも、たそがれと夜明けのあわいに光る美しい星の下で、良子をちゃんと待っていてくれている。
ふい、とよそを向いた葉山が、ほんの小さな声で言った。
「あんな顔して見てるなら……入ってこい」
「わたし、どんな顔してましたか?」
ぱちり、と静かな夜を抱いた瞳が、こちらを見上げた。その奥にちらりと光る輝きがどれほど美しいのか、良子はちゃんと知っている。
「――まぶしくて、たまんねえって顔」
トワイライトで働いた三か月間は、夢だったのかもしれないと思うことがある。みな華やかに照らされたスポットライトの下で、いきいきと輝いていた。
うらやましくて、手が届かなくて、もどかしくて。
でもずっと、その美しさを見つめていたかった。
青いサングラスの向こうで、藤堂が静かに笑った。
「星って、きれいやもんな」
小さくうなずいて、良子はようやく自分の心の底に触れた気がした。
わたしは、あの美しい場所で美しい人たちを見つめていたいのだ。ふいにその輝きが陰ったときに、そうっと手を差し伸べられるように。
「……会いに行きます。トワイライトのみんなに。それから――」
自分のやりたいことを口にするのは勇気がいる。けれどその一歩を踏み出す強さを、良子はここで教えてもらったのだ。
「――いつか、またみなさんと働きたいです」
ふ、とかすかに空気を揺らすように、葉山が息をついた。笑ったのだとわかった。青い夜にぼんやりと灯る明かりが、その頬にまつ毛の長い影を落としている。
それからまた、星が輝くあの瞳で、この人は言うのだ。
「そっちに飽きたら……いつでも戻ってこい」
その意志の強い瞳に、背中を押された気がした。
わたしが、足を踏み出す勇気を持つ限り。まだあの星の下に、帰る場所はちゃんとある。
口を開けば涙がこぼれてしまいそうだから、ぐっとこらえてうなずいておいた。
葉山の膝で黒猫が、満足そうに小さく鳴いた。
【おわり】