黒猫は悲劇に笑う

短編小説新人賞 2022年円環最優秀賞 受賞記念作

 そんなに怖がらないで。
 あなたが今までどんな目に()ってきたのかは知らないけれど、ここはあなたみたいな猫にとって世界で一番安全な場所ですよ。
 と、言ってもすぐには信じられないかもしれませんね。まずは私の話を聞いてくれますか? 大丈夫、長い話にはなりません。でもきっとこの話を聞けば、私があなたの仲間だってわかってくれるはずです。

 実は私、こう見えても猫なんです。つやつや光る黒い毛並みが自慢の黒猫。長い間、人間とともに暮らしてきた、(きっ)(すい)の家猫です。
 驚く気持ちもわかります。あなたの目に映る私は人間で、保護猫シェルターを経営する()(その)さんという女性ですものね。
 あなたも知っているでしょう。家猫があんまり長生きすると化け猫になるという昔話。私、その化け猫なんです。
 あなたもそうなんでしょう? 同類は見ればわかります。最近、普通の猫と化け猫を見分けるポイントを教えてもらったばかりなんです。もし良かったらあなたにも教えてあげます。
 あなたは、どれくらい長く生きてきたのかしら? 私はというと、指折り数えているわけではないので正確ではないかもしれませんが、だいたい千年くらいでしょうか。その証拠と言えるかどうかはわかりませんが、時の姫君がいかに私を(でき)(あい)していたのかは今も語り伝えられています。
 彼女は、ことの(ほか)、私をかわいがってくれました。美味(おい)しいものをいくらでも食べさせてくれましたし、危険が多い外には一切出さず、彼女の手の届く範囲から決して離しませんでした。黒猫は不吉だという迷信は千年前にもありましたけれど、「女の髪は黒々と輝くようなのがいいというのなら、濡れたように輝く毛並みを持った黒猫をどうして同じように()でられないのか」なんて、平然と言ってのけるような(もの)()じしない人だったので、誰も私を邪険に扱ったりはできませんでした。だから私は大きな()()や病気もすることなく、自分でもびっくりするくらい長生きしてしまって、気が付けば、死にたくても死ねない化け猫になってしまったんです。
 そんな私が、どんな経緯で人間に化け、保護猫シェルターを経営しているのかって? それを語るには、私の長い人生の中で起きた悲劇を振り返らなければなりません。

 まず初めの悲劇は、私を愛してくれた彼女が政権争いの()(せい)に一生を終えたことでした。彼女は(みかど)(ちょう)(あい)を一身に受けたお(きさき)(さま)だったのですけれど、権力を欲した男の政略で無理矢理その座を追われてしまったんです。帝の妃にあるまじき(はずかし)めを受け、(ちょう)(らく)し、かつての栄華が夢に思われるほど(みじ)めな身分に身を落とし、苦しんで死んでいきました。
 黒猫は不吉な生き物と(さげす)まれ、煙たがられるのは今も昔も変わりません。彼女がこの世を去ってから、私の暮らしは一変しました。彼女の不幸は黒猫である私のせいに違いないと、側近に追い立てられたんです。つい昨日までは、代わる代わる私を膝の上に乗せては煮干しを与え、ねずみを取ってくれば手を叩いて()めてくれた彼女達が、まるで(かたき)を見つけたような目で(なた)や剣を手に追いかけてくるのですから、世界がひっくり返ったような衝撃でした。
 ですが、首を切り落とされようが、燃えるかまどに放り込まれようが、死ぬことができないのが化け猫です。それくらいの傷は一晩眠れば何もなかったようにきれいに治ってしまいます。それからは、様々な人間の家を渡り歩き、各地を転々とする暮らしが始まりました。
 お后様の寵愛を一身に受けて育った生粋の家猫の私は、野良で生きる(すべ)を持ち合わせていませんでした。そりゃ、ねずみの一匹や二匹狩るくらいは朝飯前ですけれど、夜露に濡れるのはぞっとするし、(つち)(ぼこり)で毛並みがあっという間に汚れてしまって、どれだけこまめに顔を洗っても追いつきません。()()(たく)に熱中するあまり、忍び寄る野犬にも気づかず大怪我を負ったこともあります。不死身の身ですから、怪我のひとつやふたつで命に関わることはありませんが、痛みを感じないわけではないんです。

 人間というものは心地好いものです。優しい人ばかりではないけれど、(のき)(さき)で雨を(しの)いでいる私を土間に招き入れて魚の()を分けてくれたり、寒い冬にはかまどのかたわらで寝起きさせてくれる人もありました。かつての主のように、命が延びるほどに(ねこ)可愛(かわい)がりしてくれる人はそうそういませんでしたけど、幼い子供などは日がな一日猫じゃらしを振り回して私に構ってくれました。
 けれど不思議なことに、私が住み着く家には必ず悲劇が付きまといました。かまどから飛び出した火が(わら)に燃え移って家が全焼する。子供がいつの間にか消えていなくなったかと思うと、川に遺体が浮いているのが見つかる。
 あの頃の時代背景を考えれば、それほど珍しい事故ではありません。けれど当時生きていた人々にとっては、それは胸を(えぐ)るような悲劇には違いありません。
 やり場のない悲しみを、彼らは私にぶつけるのでした。黒猫が不吉を呼んだのだ。こいつがここに住み着く前は、こんなことは一度も起こったことはなかった。そう言って、(ほうき)や火かき棒を振り回し、私を追い立てました。優しかった人間がまるで仮面をはがしたように人相を変えて私に襲いかかってくる。今でもときどき、夢に見ます。

 一応言っておきますけれど、普通の黒猫に、不吉を呼び込む力などありません。毛の色が黒いだけで、他の普通の猫となんら変わりはありません。人々が信じているのはただの迷信なのです。
 けれど、私は普通の黒猫ではなく化け猫です。それを普通の猫達も感じるのか、私を見ると一目散に逃げ出します。四つ脚で歩き、尖った耳と鋭い目を持ち、しなやかな尻尾(しっぽ)を優雅に振って歩く。そんな見た目は何も変わらないはずなのに、彼らには、私が違う生き物に見えるらしく、遠巻きに私を観察してはじっとりと白い目を向けてきます。その目に見つめられると、
「お前は何者だ」
「か弱い猫のふりをしているようだが、そうでないことはわかっているぞ」
 そう、暗に責められているような気持ちになりました。ちょっと長生きしているだけで、普通の猫とどこも変わらないつもりでいましたし、むしろそんじょそこらの野良猫よりずっときれい好きで上品ないい猫だと自負していましたから、どうしてそんな扱いを受けなければならないのかわかりませんでした。
 なんとか私という存在を理解してもらおうと努力したこともありますが、今思えばそれは全く無駄な努力でした。猫達に認められようと必死になって過ごした日々のことは、今となっては思い出したくもありません。人間の世でもいじめは大きな社会問題になっているでしょう。ちょっと他と違っているからといって(つま)はじきにする、人の世界と猫の世界も根本的には似たようなものなのかもしれませんね。

 話が()れてしまいましたが、私は普通の猫のつもりでいても、周りからはそうとは認められない猫でした。ですから、もしかするとこの私にだけは、人に不吉と不幸を運ぶ不思議な力が備わっているのではないかと、いつしかそんな風に思うようになってしまったんです。
 主人の悲劇、近寄っていく人々にはことごとく不幸が訪れ、人にも猫にも煙たがられ、私はすっかり居場所を失ってしまいました。

 そんな私を拾ってくれたのは船乗りでした。船にはねずみがつきもの。ねずみを狩るために猫を船に乗せるのは当時の常識でした。
 自分で言うのもなんですが、私は本当に働き者の猫だったんですよ。自分の食事も兼ねていたのだから当然ですけれど、文字通りねずみ算式に増えるねずみを退治して美味しくいただいてやりました。当時は人間の女性が船に乗ることはまずありませんでしたから、私は荒くれ者の集まる船上の、(こう)(いっ)(てん)としてそれはそれは可愛がられたものです。
 けれどその船も私を追いかけてくる不幸から逃れられず、嵐に遭い、大風になぶられ波に()まれ、粉々に(くだ)けてしまいました。生き残ったのは私だけ。なぜ私だけが助かったのかって、私が不死身の化け猫だからです。この時ほど、死ねないこの体を呪ったことはありません。(しお)(から)い水にめちゃくちゃに(なぐ)られ続け、息もできない苦しさが永遠のように襲ってくる。これ以上の悪夢はないと思いました。

 けれど、悪夢の先で私を待っていたのは地獄でした。
 海を漂流しているところを通りがかった船に拾われた私は、長い航海を経て異国の地へ足を踏み入れました。そこは、肌の色も言葉も違う人々が暮らす国でした。まるで別世界のようなこの国ならば、不吉な黒猫というレッテルを取っ払うことができるのではないか。この荒波を超えてまで、不幸は私の後を追っては来ないのではないか。そんな期待を胸に、新天地での日々が始まりました。
 ですが、私の淡い期待はもろくも打ち砕かれてしまいました。
 当時のかの国には、魔女狩りの嵐が吹き荒れていました。独り身の女が猫を飼っている、その猫に話しかけている、ただそれだけのことで裁判所に告発され、大勢の女達が殺されていきました。あの時代、世界中で同時多発的に起きた(ざん)(こく)なムーブメントだったと今ならわかりますが、当時の私には知るよしもありません。
 行く先々で私に優しくしてくれる女達が、まるで狙い撃ちされるように悲劇の()(せい)になっていきました。ここでも私は私を助けてくれた優しい人間に不幸を運ぶのかと、打ちのめされたような気分になりました。あの頃のことを思い出すたび、今でも胸が痛みます。どうして私のような孤独な猫を助けてくれる良い人間ばかり犠牲になるのか。いっそのこと、無実の人間を告発し、罪を着せて殺していった同じ人間とも思えない悪人に、私の不幸をお見舞いしてやれたらどれだけの人間が救われたことでしょう。けれど、物事はそう思い通りにはいきません。そもそもそういう人間は、野良猫を拾ったりしませんし、ましてや不吉を背負ってやってくる黒猫なんて、目が合っただけ(つば)を吐きかけてきます。世の中はなんて理不尽なんでしょうね。
 少々感傷的になりすぎましたね。話を先に進めましょう。
 それ以来、私は特定の人の元に定住するのは止めました。例えば、修道院など人が大勢集まる場所の片隅で誰の目にも留まらずひっそりと暮らしていれば、誰かひとりに大きな不幸を呼び込むこともないだろうと考えたのです。その考えは、ある意味では当たっていました。命が奪われるような悲劇は、少なくとも経験しませんでしたし、私自身が肉体的な痛みを(ともな)うこともありませんでした。
 そこで出会った不幸は、私と関わってしまう人は、修道院という場に溶け込めなくなってしまうことです。どうしてあんなことが起こるのか私にはどうしても理解できないのですけれど、邪悪な黒猫に触れて汚れただとか、神への(ぼう)(とく)だとか、そんな言葉を浴びせられ、修行と称して()(こく)な労働を()いられた人がいました。それが何年も何年も続いた結果、その人は自ら命を絶ってしまいました。
 その次には、どこの街にもいる浮浪者の元に身を寄せたこともあります。元からひとりぼっちの、不幸を絵に描いたような暮らしぶりの人間なら、それ以上どんな悲劇に襲われても私が罪の意識に(さいな)まれることはないだろうと思ったのです。
 けれど、ダメでした。たとえ誰にも愛されない孤独な人間でも、こんな私に手を差し伸べてくれる人間を愛さずにはいられません。そんな彼らが、私が運ぶ悲劇の犠牲になっても誰も見向きもしないのです。そのことが、私は耐えられませんでした。
 どうやら私は、心底人間が好きなのです。私の命を永遠のものにした初めの主のように、私がどんな悪さをしても笑って抱きしめてくれるような、甘ったるい優しさはなくても、どんなに貧しくとも私に食べ物を分け与えてくれる情け深さや、無邪気に輝く瞳で私を追いかけてくる子供の笑顔や、言葉など通じないと分かっていても私に話しかけずにいられない孤独を抱えた人々が、私は(いと)おしく、(した)わしくてたまりませんでした。
 だからこそ、そんな人々の暮らしのそばから離れることができませんでした。背後に不幸を引き連れた不吉な存在だと自覚していても、不幸な人を生み出さないために姿を隠すことはどうしてもできませんでした。
 私は人を愛しています。そばにいたかった。できることなら、人を幸せにしたかった。けれどその望みを叶えるためにどうすればいいのか、私にはわかりませんでした。
 それから、大きな戦争や、世界を席巻したパンデミックがありました。人々の暮らしには常に悲劇と不幸がついて回ります。その歴史の影に、私はいつも潜んでいました。

 私がこのシェルターに来ることになったのは、以前私が身を寄せていた猫のブリーダーが、飼育環境に問題があるとかで逮捕されてしまったことがきっかけです。これだけたくさんの猫を世話しているんなら、一匹(まぎ)れ込んでもバレやしないと高をくくってしばらく腰を据えていたのですけれど、考えてみれば、猫の頭数も数えられないような管理の仕方をしていたのであれば、人間社会では問題になっても仕方がないかもしれませんね。
 保護された猫達は、いくつかに分かれて保護猫のためのシェルターに引き取られました。私が引き取られたのが、この美園さんが経営するシェルターだったわけです。
 でもね、その後すぐに美園さんと入れ替わったわけじゃないんです。
 他の保護猫と同様に、私も一匹の保護猫として、里親を探してもらうことになりました。「新しい家族が早く見つかるといいね」なんて、美園さんは優しく声をかけてくれましたけれど、私はただただ(ゆう)(うつ)でした。もしまた、ひとりの人にお世話になることになってしまったら、私の後をついてくる不幸がサンタクロースのごとく悲劇のプレゼントを抱えて飛んでくるに決まっています。それだけは絶対に避けなければなりません。
 保護猫との出会いを求めてシェルターにやってくる人には、絶対に懐いてなんてやりませんでしたし、子供が目の前で猫じゃらしを振っても、ぎゅっと目を閉じてそっぽを向きました。無理に抱っこされそうになりでもしたら、シャーッと鋭い声を上げて全力で抵抗しました。人の手の届かないキャットタワーのてっぺんに陣取って(にら)みをきかせ、警戒を(おこた)らずに暮らしました。
 そんな私の涙ぐましい努力を知らない美園さんは、シェルターのホームページの猫の紹介ページで、「抱っこが苦手な人見知り。とても賢くておとなしい美人さん」と紹介してくれました。
 美人だなんて持ち上げられては、まぁ、悪い気はしません。
 いつまでもこのシェルターに居座っていたら、いずれ美園さんが悲劇に見舞われます。それに、里親が見つからない猫の行き着く先は保健所です。私は化け猫なので、ガス室に閉じ込められても(ちっ)(そく)()することはありません。けれど、苦しいものは苦しいし、ガスの臭いは胸が悪くなるほど不快です。
 あなたは知っているかしら? 保健所ってところは一度入ってしまうといろいろと面倒ですよね。ガスを吸って死んだふりをしたり、こっそり(おり)を抜け出したりして、何とか逃げ出さなければならないんですから。
 化け猫としてのスキルを()かして、人間を化かして逃げるという(せん)(たく)()もありますけれど、そういう乱暴なやり方は今の時代には合わないと思います。殺処分したはずの猫一匹いなくなったりしたら、一体どんな問題になるか。私一匹のために、大きな騒ぎを起こしたくはありません。
 こういうことを考えていると、里親に引き取られた後、悲劇が追い付く前にこっそり逃げ出すという方法が一番いいように思えました。
 このシェルターには、毎日、猫を飼いたいという希望を持ったお客様がいらっしゃいます。猫種や、毛並みの色、瞳の色、好みの猫を探して、入れ替わり立ち替わり、いろいろな人がやってきます。新たな飼い主は、慎重に見極めなくてはなりません。シェルターを訪れる人間を一人ひとり値踏みし、私に相応(ふさわ)しい飼い主を探してひと月ほど経った頃。やっと、私の理想とする人間が現れました。

 彼女はひとりでシェルターを訪れました。(とし)の頃は二十代後半くらいでしょうか、控えめに()(しょう)(ほどこ)したほっそりした顔は、長めの髪で(おお)われています。大きめのトートバッグ、トレンチコート、スラックス。よく()き込んだ(かわ)(ぐつ)。どうやら仕事帰りに立ち寄ったようで、一日よく働いた人の疲れた(にお)いがしました。
 美園さんが、笑顔で彼女を出迎えました。一言付け加えておくと、この時の美園さんは私ではありません。私はキャットタワーのてっぺんから、ふたりのやり取りを眺めていただけです。
「初めてのお客様ですか? 里親希望ですか? それとも遊んでいかれますか?」
 美園さんは本当に猫が大好きで、いつもにこにこと笑みを絶やさず、私達保護猫の世話を焼き、お客様のお相手をしています。行き場のない猫を里親の元に送り出すという使命感に燃え、その炎がいつも目の奥で燃えているような力強い女性です。彼女はそんな美園さんの(ふん)()()に圧倒されたのか、扉から半歩ほど後ずさったように見えました。
「里親希望です。あの、初めてなんですけれど
「大丈夫ですよ。どうぞ、お入りください」
美園さんが壁に貼られたシェルターでのルールを指差しながらテキパキと説明すると、両手をアルコールで消毒し、彼女を私達の暮らす部屋に導きました。
 おっかなびっくり、彼女はカーペットが敷き詰められたシェルターに足を踏み入れました。小さな子供なら、(かん)(だか)い声をあげて駆け込んできますし、そうではなくても、猫を飼おうという人間は、十数匹の猫が思い思いにくつろいでいる小部屋に入ると、星の瞬きに目を細めるようにしみじみとした微笑(ほほえ)みを浮かべます。ですが彼女は、今にも猫に飛びかかられるとでも思っているのか、まるで盾のようにトートバッグを胸の前に抱えていました。隠すことのできない緊張感が体中から(いばら)(とげ)のように突き出しているようでした。
「猫ちゃんと触れ合うのは初めてですか?」
 美園さんは、緊張をほぐそうと優しく声をかけます。たまたま、他のお客さんはいませんでした。不慣れなお客様をひとりで放っておいて、このシェルターにネガティブな印象を持たれてしまったら貴重な里親候補がひとり減ってしまうかもしれません。美園さんはこのシェルターの運営責任者ですから、力強い笑顔の下でそういうことはしっかり計算しているのです。
「初めて、というわけではないんですが。友達の家で少し遊んだくらいで」
 彼女は足元に注意しながら、つま先からそっと歩みを進めます。尻尾(しっぽ)を踏まないように、細心の注意を払っているつもりなのかもしれません。そこまでしなくても、ここの猫は見知らぬお客様には慣れていますから大丈夫ですよって、ついおせっかいな言葉をかけてあげたくなります。
 美園さんは、お客様のペースに合わせてうなずきながら言いました。
「そうなんですか。それで、ご自分でも飼いたいなって思われたんですね」
「えぇ、まぁ、はい。そんなところです」
 美園さんは彼女を導いて床に膝をつき、猫じゃらしやねずみのぬいぐるみが入ったおもちゃ箱を彼女に差し出しました。
「遊んでみます?」
 ぬいぐるみの中に仕込まれたかろやかな鈴の音に()かれて、好奇心(おう)(せい)な若い猫達が彼女の周りに集まり始めました。美園さんが手本を見せるように、猫じゃらしで猫を誘います。太い尻尾のように震える猫じゃらしを、目を爛々(らんらん)と輝かせて追いかける猫に、美園さんも子供のようにはしゃぎます。
 一方、彼女は猫じゃらしを手に持ってはみたものの、それをどうしていいのかわからない様子。手元に鼻先を寄せてきた猫に、糸がほつれたねずみのぬいぐるみを、ゴミを捨てるように手渡しました。猫は()()(よう)(よう)とそれを咥えてひとり遊びに夢中になり、彼女はただそれを眺めているだけでした。
 美園さんはそれ以上、彼女に強く勧めることはしませんでした。猫を飼いたくても、実際に本物の猫を目の前にしてみると、イメージとのギャップに(おじ)()づいてしまうお客さんもいます。やっぱり、自分には無理だと、実際に猫に触れ合ってみて初めて理解する人もいるのです。
 猫を家に迎えても、きっとうまくいかないだろう人を見極め、相手を傷つけない軽妙な言い回しで里親希望をお断りする。間違っても猫が不幸になるような家庭と縁を結ばないよう、里親希望者をふるいにかける。それも、美園さんの大切な役目のひとつです。
 彼女は()()()()()そうにしたまま三十分ほどシェルターで過ごし、美園さんに見送られて去っていきました。「またいつでもいらしてくださいね」という美園さんの社交辞令に返した困った作り笑いは、もう二度とここへは来ないという遠回しな宣言のようにも見えました。美園さんもそれを感じたのでしょう、彼女の姿が扉の向こうに消えた後、少し疲れたため息をついたのがわかりました。
 実は、この時の私も、彼女には何の興味も抱いてはいなかったのです。毎日のように猫じゃらしを揺らしてかまってほしいとは思いませんけれど、飼い主になる方には必要最低限の運動には付き合ってもらわなければ困ります。そうでなければ家猫とはいえストレスが溜まるもの、ストレスは大敵です。あんなに猫の扱いに慣れていない彼女には、その役目は務まりそうにありません。
 ですから、彼女が再びシェルターに姿を見せた時は、私は目を丸くして驚いたのでした。

 その日は日曜日でした。午後一時のオープンと共に、ひとりの女性を伴って彼女、(なが)(はま)ユリはやってきました。彼女の名前は、里親希望の申込書を見てチェックしていました。何せこれだけ長く生きている化け猫ですから、文字を読むくらい朝飯前です。
 今日のユリは、穿()き込んだジーンズにブラウスを合わせたリラックスしたスタイルです。髪はつやつやと黒炭の割れ目のように黒光りし、よく手入れされています。あの夜、くたびれた体をトレンチコートでくるんで去っていったわびしい後ろ姿とは(まった)く別人のようでした。
 一緒にやってきたのは、ふわりとカールした(くせ)()が愛らしい小柄な女性でした。ふんわりと柔らかなワンピース姿で、色白の丸い顔立ちには、甘い微笑みが浮かんでいました。
 以前と同じように手続きをして部屋に入ってきたふたりは、対照的な反応を見せました。
 ユリは相変わらず、硬い表情を崩さず、足元を行き来する猫達を不安そうな顔で見下ろしています。一方、初めての彼女の方は、微笑みをますます輝かせて嬉しい声を上げたかと思うと、待ちきれなさそうに床に直に腰を下ろして、猫に手を伸ばしました。白い指先に興味を惹かれた()()(ねこ)がそばに寄ってくると、(のど)の下の気持ち良いところを(じょう)()にくすぐってやります。どうやら彼女の方が、猫との付き合い方に詳しいようでした。
「ちょっと、いきなりはしゃぎすぎ。恥ずかしいから止めて」
「え? そんなにうるさくしてないでしょ?」
「音量の問題じゃない」
 ユリに背を叩かれて渋々立ち上がった彼女は、「はいはい、わかりましたよ」と歌うような節回しで答えてソファに腰を下ろしました。すかさず甘えん坊の猫がその膝の上に乗っかっていきます。彼女は赤ん坊を抱くように猫を抱き上げました。
 一方ユリは、窓辺に置かれた()()に腰掛け、サイドテーブルに肘をつき、高く足を組みました。ただでさえ細い足の上に、これでは猫の前脚をかけることもできません。
 そんなユリの様子を見かねたのか、膝の上の猫を抱き直して、彼女は言いました。
「ユリは抱っこしてみないの?」
 からかい混じりの声色に、穏やかな(えん)(りょ)のなさが感じられます。どうやら、ふたりは気心の知れた者同士のようです。
「私はいいよ」
「何で? ふわふわで気持ちいいのに」
「猫飼いたいって言い出したのは(あつ)()でしょ。好きな子選んだらいいじゃない」
 突き放すようにそう言うユリに、敦子さんは(もの)()じするどころか甘えた声で言いました。
「そんなのダメ。何のために一緒に来たと思ってるの? ちゃんと考えてよ」
「そんなこと言われたってわかんないし」
「直感でいいんだよ。ビビッとくる子いないの?」
 そう言われて、ユリはぐるっとシェルターを見渡しました。その視線が、キャットタワーのてっぺんにいた私に向けられたのはほんの一瞬でした。
 答えを渋るユリに、敦子さんがいたずらっぽく笑いかけます。すっと立ち上がると、ユリの腕にそっと猫を抱かせました。とっさのことに驚きながらも、ぎこちなく猫を受け取ったユリでしたが、抱かれる側の猫は、不慣れな腕に身の収めどころを探して落ち着きなくうずうずしています。
「どう?」
 敦子さんは含み笑いをしながら尋ねました。
なんか、これで合ってるかわかんない。大丈夫かな、落としそう」
 答えた声は内緒話をするように小さく、不安げでした。よほど猫が苦手なのでしょう、胸元から見上げてくる猫から、少しでも顔を離そうと首をうんと伸ばしているのがなんとも(こっ)(けい)に見えました。
「大丈夫。落としたって猫はちゃんと着地できるから。()()なんかしないよ」
 敦子さんは、遠慮なく声を上げて笑いました。
 猫のお尻を支える位置や、状態を支える手の力加減を調節し、落ち着きどころを見つけるまでずいぶん時間がかかりました。抱っこひとつで本当に(おお)()()なこと。やっと勝手が(つか)めてきたように見えましたが、よほど抱き心地が悪かったのか、その猫はふいに身をよじると、ユリの胸を後ろ脚で()ってすたこら逃げて行きました。
 (みじ)めな顔で唇を()むユリを、敦子さんが慰めました。
「残念。あの子は私達の運命の子じゃなかったみたい」

 それから彼女達は、毎週のようにこのシェルターに通うようになりました。
 積極的に猫を飼いたいと望んでいる敦子さんは、近寄ってくる猫を(かた)(ぱし)から抱き上げて甘やかし、猫じゃらしを振って楽しそうに遊びます。
 一方ユリは、相変わらず所在なさげにシェルターの隅に腰を下ろして、警戒心を露わに猫達を睥睨(へいげい)していました。敦子さんは何度も猫を抱かせようとチャレンジしましたが、ユリの両腕に心地良さを見出す猫はなかなか現れませんでした。
 敦子さんはきっと、ユリを受け入れることのできる猫を探していたのでしょう。ふたりの会話に聞き耳を立てて知ったことでは、どうやらふたりはひとつ屋根の下で共に暮らしているようでした。そこにもう一匹の家族を新たに迎え入れようとするのなら、ふたり共が仲良くできる猫でなくてはならない。そんな猫に出会うためなら、どれだけ時間をかけても構わない。敦子さんはそんな風におおらかに考えているらしく、じっくり腰を据えて運命の猫を待つ心づもりのようでした。
 決して焦らず、家族に迎えるべき猫をじっくり見定める、そんなふたりが、私はだんだんと好ましく思えてきました。ふたりの家族に迎えられる猫は、きっと幸せでしょう。良い猫の縁がありますようにと、私はひっそりと願いました。

 そんな風に(のん)()に構えていたものですから、美園さんがふたりに私を紹介した時は、内心()(ぎも)を抜かれました。ホームページに掲載されている私の宣伝文句は「抱っこが苦手な人見知り。とても賢くておとなしい美人さん」です。猫に嫌われ、抱っこに失敗し続けているユリには、私という猫はうってつけの猫だったわけです。
 その時の私の複雑な心情をわかってくれるでしょうか。確かにユリと敦子さんに好感を持ってはいましたけれど、私自身が背負った運命を思うと安易に喜ぶわけにはいきません。こんなに仲の良い、幸せそうなふたりの元に不幸を運ぶのは嫌です。けれど、そろそろ新たな飼い主を選ばなければ、美園さんが悲劇に見舞われることになるでしょう。そうなる前に居を移すべき時にふたりが現れたのなら、これが私の運命なのかもしれない。
 そう思い、私は覚悟を決めました。

 私は、相変わらず所在なさげにシェルターの隅でじっとしているユリの隣にそっと腰を下ろし、背中を()でても良いんですよと無言のメッセージを送り続けました。長浜ユリがそれに気づいたのは、三回目の訪問の去り際のことでした。背骨の山をなぞるように触れた指先がくすぐったくて、思わずぞくぞくっと体を震わせた私に、長浜ユリは心底申し訳なさそうに「驚かせてごめんね」とささやきました。背中の毛が逆立つのを感じる不快感を覚えながらも、私はあまり悪い気はしていませんでした。人と同じように猫に話しかける人間に、本当の悪人はいませんからね。
 他の人間には目もくれず、高みの見物を決め込んでキャットタワーの上からほとんど降りることのなかった私が、ユリと敦子さんの元には擦り寄っていくのを見た美園さんは、進んで援護射撃を送ってくれました。
「この子は(めっ)()に自分から人に近寄らないんです。抱っこもおもちゃもあまり好きじゃなくて、物静かで大人しい子なんです。自分から近づいていったのは長浜さんだけですよ」
 それを聞いて満更でもなさそうに微笑みました。
 その後、正式な申し込みを受け、美園さんの家庭訪問を受けたのち、二週間のトライアル期間を経て、私は正式にユリと敦子さんの飼い猫になったのです。

 私が迎え入れられたのは、駅からほど近い(ぶん)(じょう)マンションの一室でした。1LDK、東南に面した角部屋で、明るい午前中の光がよく差し込む明るい部屋です。大地と同じ色をしたソファに、エキゾチックな(がら)のクッションが彩りを添え、パキラがつやつやと輝く緑の葉を輝かせています。空色のベッドカバーが(さわ)やかな寝室にも、優しい朝の光が差し込みます。対面式のキッチンは広々として、オーブンはもちろん、最新式の食洗機もそろっています。私のためのキャットタワーはぴかぴかの新品です。これ以上なく居心地のいい、素晴らしい新しい家でした。
 ふたりは日中仕事に出ているので、その間はこの広々とした部屋を私がひとりじめできます。日向(ひなた)ぼっこをしながらのびのびと昼寝をしたり、地上を行き交う人を高いところから眺めたり、お腹が()いたらキャットフードを食べ、私専用の給水器で喉を潤します。キャットタワーを上り下りして、軽い運動もします。
 日が暮れてユリと敦子さんが家に帰ってくると、玄関で彼女達を出迎えます。ぽっと部屋に明かりが灯り、暖かなオレンジ色の照明の中で敦子さんは花が開くように笑います。表情に(とぼ)しいユリも、心なしか目元を柔らかくしているようで、それを見るのが私の一日の終わりの楽しみになりました。
 そこには、私にはもったいないくらいの幸せがありました。穏やかで暖かく、こんなに安心できる場所で暮らしたことはかつてありませんでした。ユリと敦子さんを私はとても好きになりましたし、この場所から離れがたい気持ちは日に日に強くなっていきました。

 それと同時に、言いようのない罪悪感が胸に満ちていくのを感じていました。こんな幸せなふたりの暮らしに、私はいずれ必ず悲劇を呼び寄せるのです。約束された未来を回避する(すべ)はありません。私にできることは、それが訪れる前にこの居心地のいい場所を去ることだけ。ふたりに別れを告げると想像するだけで、私は海の底に沈んでいくような寂しさに襲われ、身動きが取れなくなりました。
 猫の私には人間のような表情はありません。けれど私の気分を察してくれたのか、そんな時は決まって敦子さんが私を抱きしめてくれました。その優しい腕が、ますます私の決意を鈍らせるのでした。
 しかし、いつまでもぐずぐずしてはいられませんでした。千年の経験から、悲劇の足音がもうすぐそばまで迫っていることを感じた私は、心が引き裂かれそうになりながらも、ユリと敦子さんの家を出ることを決意したのです。
 チャンスは突然訪れました。
 その日、珍しく寝坊して出勤前にばたついた敦子さんが、窓の(かぎ)を閉め忘れたのです。そのことに気づいた私は、ふたりが家を出てから十分な時間を置いてから、後ろ髪を引かれる思いでその窓をくぐり抜けました。
 けれど、幸せに目がくらんでいた私は、すぐそこまで迫っていた悲劇の影に気づくことができませんでした。
 ユリと敦子さんと暮らしたマンションを見上げて、名残(なごり)を惜しんでいた私の目に、敦子さんの姿が飛び込んできました。なぜ、いつもよりこんなに早く仕事から戻ってきたのか、驚きのあまりとっさに体が動かなくなりました。そんな私を、敦子さんの丸く見開いた目が捉えました。
 (こん)(しん)の力を振り(しぼ)ってアスファルトを蹴った私の後を、敦子さんが追いかけてくるのがわかりました。けれど足を止めるわけにはいきません。悲劇を、敦子さんから引き離さなくてはなりません。ですが幸せボケした私には、その力はもう残っていませんでした。
 背後から耳を裂くようなブレーキ音と重い衝突音が響き、振り返ると、敦子さんの姿は見えませんでした。代わりに黒い大きな車が青信号を前に停車していました。タイヤの下からじわじわと赤い液体が広がっていき、それは私の前脚を捕らえて動けなくしました。
 あの時、一度も振り返ることなくあの場から逃げていたなら、きっと今とは全く違う道を歩んでいたでしょうね。気になる人間のそばに近寄っていっては悲劇を運ぶ、不吉な黒猫のまま、今もこの世界のどこかをさまよい続けていたでしょう。
 けれど、そうはなりませんでした。
 車にはねられて即死した敦子さんのそばからどうしても離れられなかった私でしたが、さすがに救急車に同乗することは許されませんでした。そのままマンションの入り口を見通せる物陰に身を潜め、ユリの帰りを待ちました。
 ユリが帰ってきたのは、真夜中近くになってから。ひどく(しょう)(すい)した顔をして、まるで幽霊のようにふらふらとした足取りで自動ドアをくぐろうとしたところを、私はその足元に取りすがって、か細い鳴き声を上げました。ユリは、どうして私が家の外にいるのかと、問いただしたいような表情を浮かべた後、何もかも察したような静かな目で私を見下ろし、相変わらず不器用な手つきで私を抱き上げ、部屋へ連れ戻してくれました。

 暖かく安心感に満ちていた部屋は、敦子さんの姿がなくなってしまっただけで、嘘のようによそよそしく、冷たく見えました。
 私が乾いた血で汚れているのに気づいたユリは、何も言わずに私をバスルームに連れていき、ごしごしと洗ってくれました。濡れた体をバスタオルで包み、ドライヤーの風を浴びてすっきりした私をソファの上に座らせ、自分はフローリングにべたりと座り込み、私と目の高さを合わせます。
 ユリの顔には涙の跡があり、目は赤く充血していました。その顔には似合わない笑みを浮かべてユリはこう言いました。
「そろそろ本性を現しなさい。化け猫同士、話をしましょう」
 その時の私の驚き、今のあなたならわかってくれるでしょうね。ちょうど今のあなたと同じように、お月さまみたいに目をまん丸に見開いて、しばらく言葉が出ませんでした。

 私はこれまで、私と同類の化け猫に出会ったことはありませんでした。
 人々に悲劇をもたらす不吉な黒猫。そんな運命を背負った自分に酔って、こんなに不幸な猫はこの世に私一匹だけに違いないと思い込んでいたのです。どうして私だけがこんな目に()うのかと(なげ)いてばかりで、私以外に、千年も生き続けている化け猫がこの世に存在するなんて考えてみたこともありませんでした。海を渡って異国の地を歩き、世界を一周したというのに。なんてお馬鹿で視野の狭い、想像力が欠けた猫だったんでしょう。
 その夜、私はユリと差し向かいでたくさん話をしました。猫のままでは口がきけないので、人の姿に化けて。
 それまで私は、なぜか人に化けるということをほとんどしてこなかったんです。何をするにしても、猫の姿の方が小回りがきいて便利でした。口のきけない愚か猫でいた方が、人間に取り入りやすかったからかもしれません。私は無意識のうちに、そんなずる賢い世渡り術を身につけてしまっていたことにもこの時初めて気づきました。
 人間というのはすごい生き物ですね。心に浮かんでくることを、事細かに言葉にして伝えることができます。私はそれまでの長い人生、どれだけ苦しく寂しい思いをしてきたのかを洗いざらい吐き出しました。言葉と同じだけ、涙が流れました。目に入ったごみを洗い流す以外の目的で涙を流すのは、生まれて初めてのことで、感情のままに涙を流せるということが、とても嬉しかったことを今でもはっきり覚えています。
 ユリの正体は、私と同類の化け猫でした。
 保護猫シェルターであんなに警戒心を露わにしていたのは、普通の猫に正体を見破られたら(ひど)い目に遭わされるかもしれないと(おび)えていたからでした。ユリも私と同じように、猫達に仲間外れにされ、時にはひどくいじめられた経験があったそうです。
 それでも猫を飼うと決めたのは、ひとえに敦子さんのためでした。子供の頃から猫を飼っていた(あい)(びょう)()の敦子さんは、ユリとふたりの暮らしを始めたら、ぜひとも猫を迎えたいと熱望していたのだそうです。敦子さんの願いを叶えるため、ユリはいじめられる恐怖に耐えてシェルターにやってきたのでした。
 そこにいた私は、ユリにとってこれ以上ないほど好都合だったでしょう。滅多に出会うことのない化け猫仲間です。同類の私ならいじめられる心配はありませんからね。
「初めから、私が化け猫だって気づいていた?」
 私がそう尋ねると、ユリは首を横に振りました。
「あなた、キャットタワーの上からなかなか降りてこなかったじゃない。オーナーにおすすめされるまで存在も知らなかった」
「私が化け猫だから飼うと決めたの?」
「その方がうまくいくと思ったから」
「あなたが決めたのね?」
「私の意志は敦子に伝えた。でも最後はふたりで話し合って決めた」
 私は胸がぎゅっと(つか)まれるように痛むのを感じながら、なんとか声を(しぼ)り出しました。
敦子さんは、私のせいでああなってしまった。私の不幸の犠牲にしてしまった」
 私の目からは、また涙が(あふ)れました。敦子さんと長年連れ添ってきたユリに、どんな言葉で謝れば許してもらえるのかわかりませんでした。何を言っても、敦子さんは帰ってきません。
 同じ化け猫に出会えた喜びはすっかり消え失せ、今すぐこの場から姿を消してしまいたい衝動に駆られました。私はこれまでずっと、私のせいで不幸になった人々に背を向けてきました。責められるのを恐れて、つぐなうこともせずに逃げてきたのです。それはどれだけ無責任なことであったか、今になってやっとわかったところで何もかも遅すぎます。
「ひとつ、教えてくれる?」
 ユリは静かに言いました。その声には、怒りも恨みもありませんでした。
「どうして自分に全ての原因があると思うの? 私のせいで、敦子が死んだとは思わないの?」
 目から(うろこ)が落ちる、というのはこういう時に使う言葉なんでしょうね。あまりにも思いがけない言葉に、私は返す言葉が見つかりませんでした。
 そんな私を見つめてニヤニヤ笑いながら、ユリは続けました。
「確かに私達は、人間に不幸を運ぶ不吉な存在なのかもしれない。けれど、私達以外にそういう存在がいないとは言い切れないと思わない? 私がいて、あなたがいる。不幸を運ぶ黒猫は私達ふたりっきり? そんな、まさか。敦子はあんたのせいで死んだのかもしれない。でも、私のせいで死んだのかもしれない。他の何かの()(わざ)かもしれない。本当の(いん)()関係なんて、誰にもわからない。そうは思わない?」
 ユリはそう言うと、私をぎゅっと抱きしめて泣きました。涙混じりに敦子さんの名前を呼びながら。
 私は震えるユリの肩を抱きしめながら、ユリと一緒に、かわいそうな敦子さんを思って泣きました。

 後からわかったことですが、あの日、敦子さんがいつもより早く家に帰ってきたのは、職場で急に体調が悪くなったために、上司の許可を得て、午後から在宅勤務に切り替えたそうです。あの朝珍しく寝坊していましたし、体調が優れなかったというのはきっと事実でしょう。けれど、敦子さんを家に帰した上司は、良かれと思ってしたこととは言え、結果的に自分の判断で部下の命を奪ってしまったと深く心を痛め、心を病んでしまったそうです。
 できることなら、ユリの言葉をその上司にも聞かせてあげたいですね。

 その後、私は美園さんの保護猫シェルターに戻ることになりました。そう、今日あなたがやってきたこのシェルターです。
 本物の美園さんは、実はもうこの世にはいません。美園さんは、私が戻って一週間後に、シェルターの上階にある自宅で亡くなりました。私は知らなかったのですが、持病があったらしく(ほっ)()を起こしたようです。枕元に発作を抑えるための薬が封を切られて散らばっており、そばには(ふた)の開いたペットボトルが転がって床を濡らしていました。
 なぜそれを知っているのかって、私が第一発見者だからです。シェルターのオープン時間になっても姿を見せない美園さんの様子を見に行ってみたら、ベッドの上で眠るように息絶えた美園さんを見つけました。私はすぐに、ユリに助けを求めました。ユリはすぐに駆けつけてくれ、美園さんの遺体の処理を手伝ってくれました。レンタカーを借りて、ふたりで真夜中の山道を走った時は無性に胸がわくわくしてたまりませんでした。夜を切り裂いて走る車の疾走感と、これから新しい生活への期待に興奮が止まず、なぜか笑いがこみ上げてきて、ユリとふたり、カーステレオから流れる音楽に合わせて大声で歌いました。

 その日からずっと、私は美園さんに成り代わって、人間として生活しています。するとどうしたことか、黒猫でいるよりも誰かを不幸に(おとしい)れるようなことはなくなりました。美園さんが私をユリと敦子さんに巡り合わせてくれたように、私も保護猫達が運命の飼い主に出会えるよう、一生懸命働いています。そうすると、飼い主候補の方からお礼を言われたり、親しいお付き合いが始まったり、信じられないようなことが次々と起こり始めました。人を不幸にしてばかりきたこの私がこんなに人を喜ばせることができるなんて、自分でも信じられません。
 シェルターの保護猫にはいじめられないのかって? 確かに、本物の美園さんのように夢中になって猫とじゃれ合うことはできませんけれど、私がお世話をしてあげないと猫達は里親に巡り合えないし、ご飯にもありつけません。立場を理解していれば、私をどうにかしてやろうなんてことは考えないのではないでしょうか。

 美園さんの仕事を引き継ぐことは私の責任です。美園さんに不幸を運んだのは、私かもしれないのですから。けれど、責任を感じるあまり、自分を責めることはしません。もしかしたら、あの日が美園さんの寿(じゅ)(みょう)だったのかもしれません。ユリの言う通り、不幸の因果関係など誰にもわからないのです。
 美園さんとして生きることは、私にとって喜びでもあります。すべての保護猫に居場所を与えようと奮闘してきたにも(かか)わらず、その道半ばで命を落としてしまった美園さんの代わりに、私がその夢を叶えるのです。この私が人の役に立てる日が来るなんて、夢にも思いませんでした。こんなに嬉しくて幸せなことがありません。喜びのままに笑顔を浮かべると、お客様もつられてにっこりと笑ってくれます。
 笑うというのは、本当に気持ちのいいことですね。猫の顔じゃうまく笑えませんから、近頃は猫の姿に戻ることもほとんどありません。

 人間に化けて暮らすことに、興味が出てきましたか? あなたさえ良ければ、ユリに紹介します。彼女は十四歳で死んだ長浜ユリという少女と入れ替わって、もう二十年近く人として生きてきた大ベテランの化け猫です。きっと、あなたのためになる話を聞かせてくれますよ。

 罪の意識に(さいな)まれて運命を呪って生き続けるのは、もう止めにしませんか? 
 世界は理不尽で、どこもかしこも悲劇にあふれています。そんな世界でも、生きていかなくちゃいけません。私達化け猫は、どう頑張ったって死ねないんです。背負った運命を(なげ)いて生きていってもいいけれど、どうせなら、楽しく笑って生きていきたいとは思いませんか? 人間に化けて暮らせばそれができます。歌うことも、笑うことも、誰かを幸せにすることもできるんです。
 あなたが人間になったら、どんな笑顔を見せてくれるのかしら? それを見る日が、私は今からとっても楽しみですよ。

【おわり】