マムシとりんご 後編


 タケオが闇市やみいちで敦子を見かけたのは、その数日後のことだった。
 竹かご屋の店先に、ひとりで座っていた。
 そうだ。今こそ、蒸し芋の礼を言おうと思い立ち、勇気を出して声をかけたら、敦子は笑顔を返してくれた。
「まあ、タケオさんたら、みんなにお芋分けたのね。優しいのね」
 められて嬉しかったが「皆に分けた」とは一言も言っていない。ん? と引っかかったが、深くは考えなかった。
「タケオさんは上野に住んでいるの?」
 と問われたので「そうだ」と答えると、敦子は喜んで、
「実は私も上野にいたの。でも空襲で家が焼けてしまって。今は、南方から戻った父と親戚しんせきの家に」
「おふくろさんは」
「母と弟は行方ゆくえ不明。逃げる途中で火にまかれてしまったんだと思う」
 笑顔が消えた。空襲の生き残りは、その多くが身内や知人を亡くしている。
 うちもだ、とタケオは呟いた。
「父ちゃんはサイパンで戦死して、母ちゃんと妹は見つかってない。俺が消火活動している間に逃げて、はぐれた。近くの防空壕から丸焦げになった親子の死体を運んでくトラックを見たってやつがいたから、多分それだ」
 そう、と敦子は目を伏せた。
「うちの近くの橋の上でも、たくさんの人が折り重なって死んでいた。みんな黒焦げで見分けがつかなかったけど、母と弟も、たぶんそこにいたんだと思う」
「ひどいもん、いっぱい見ちまったよな
 とつとつと語り合う。
 ただそれだけで、胸の底に沈めた悲しみをわかちあえる気がする。
「うちは町工場でさ、働き手が母ちゃんと俺しかいなかったから、がくどうかいを免除させてもらったんだ。だから空襲の日まで一緒だった。少し前までは『去年の今頃は母ちゃんと妹がいた』『去年の今頃はちゃぶ台囲んで飯食ってた』『去年の今頃は一緒に防火訓練してた』って、そのたんびにうじうじもやもやしてたけど、一年過ぎると不思議だな。『一年前もいなかった』『一年前も家なかった』『一年前も外で寝た』って思うと、なんか心がふっきれた。一年ってすごいよな」
 タケオは敦子と肩を並べて、雑踏を見つめた。
「こうやって上野の人混みにいると、ひょっこり会えるんじゃないかって思える。だから俺は上野から離れられないのかもな」
「うちも同じ。父さんがこうしてわざわざ上野まで来て竹かご売るのも、きっとそんな気持ちがあるからだと思う」
 闇市の雑踏に肉親の面影おもかげを探している。似た背格好を見つけると、思わず追いかけたものだ。そのたびに落胆らくたんし、一年を過ぎて諦めがついてきたのか、今はもう「懐かしい」とは思っても追いかけることはしなくなった。
「そうね。前を向かないといけないものね」
 自分に言い聞かせるように敦子は呟いた。タケオも顔をあげた。
 高架橋の上に広がる空が青い。
「前を、か
 そんなふたりのもとに少年たちの集団が近づいてきた。
 このあたりをうろついている浮浪児だった。五、六人はいる。敦子が客と思って「いらっしゃい」と声をかけたが、少年たちの目線は竹かごではなく、タケオに向けられている。
「おい、おまえか。こないだ、うちの子分をかわいがってくれたアメンボ団のタケオっつーやつは」
 マムシの取り巻きだった。
 先日タケオと小競り合いになった少年の兄貴分だとわかった。
「お礼参りに来たぜ。ちょっと顔貸せや」
 まずい。こんなところで騒ぎを起こして店に迷惑をかけるわけにはいかない。
 タケオが思わず逃げようとした時、後ろから敦子が言い放った。
「なに勘違いしているの。このひとはタケオさんじゃないわ」
 やけにきっぱりと言いきった。浮浪児を怖がるどころか、堂々と否定したものだから、タケオはびっくりしてしまった。
「人違いしないで。アメンボ団のタケオさんはここにはいません」
 うろたえたのは少年たちのほうだ。お互いに顔を見合わせている。「でもこいつタケオだぜ」「タケオだよなぁ」と困惑しきりだ。いっしゅうするように、敦子は大きな声でたたみかけた。
「ちゃんと確かめもしないで変な言いがかりつけないで。商売の邪魔だからとっとと帰ってちょうだい!」
 おうちした敦子にはいやに迫力があって、少年たちはたちまちすくみ上がってしまった。まるで母親からしかられたように肩をすぼめ、すごすごと尻尾しっぽを巻いて去っていく。扱いの難しい浮浪児たちを追い払った敦子に、タケオは感銘かんめいを受けてしまった。
「あら、ごめんなさい。つい言葉が荒くなっちゃって」
「ううちの母ちゃんみたいだ」
 タケオはまさか敦子がかばってくれるとは、思いも寄らない。身をていして守ってもらえた、と思ったタケオは、感激のあまりうち震えている。もっとも敦子は事実と思っていることをそのまま口にしただけなのだが。
 敦子によると、彼らに以前、店を荒らされて売上金を盗まれかけたことがあるという。
「ああいう子たちにはね、上品に言い聞かせても駄目。あの子たちは人を見てる。相手が強いか弱いかで、付け入るかどうかを決めてるの。だから毅然としないと駄目。自信がなくても強くなくても、強いフリしないとね」
 そう断言する敦子の横顔が美しい、とタケオは感じた。けんけていて、したたかさもあって、度胸と思いやりを併せ持つ彼女の芯の強さに、タケオはますますれ込んでしまった。
「君の言うとおりだ。はったりって大事だよな。俺もさ
 と語り始めようとした時、通りのほうから「アニキ!」と声があがった。マムシの子分たちと入れ違うように現れたのは、アメンボ団のカンキチだ。
 血相を変えて駆けてくる。
「大変だ、大変なんだよ!」
「今度はどうした、カンキチ。またマムシ団か?」
 カンキチは首を横に振った。が、泣きべそをかいている。
「リョウが!」

 知らせを聞き、タケオはすぐにアメンボ団が寝起きしている地下道へと駆けつけた。
 リョウのそばでシホコたちが大泣きしている。
 タケオは息も整える間もなくリョウにくってかかった。
「アメンボ団を抜けるだと? どういうことだ!」
 リョウはわずかな私物を風呂敷に包んでいるところだった。
聞いたとおりだよ」
「じょ、冗談だよな。抜けるだと? おまえが作ったアメンボ団じゃないか」
遠方の親戚と連絡がとれてね。悪いが、俺は出てくよ」
「お、俺たちを見捨てるつもりか。アメンボ団のリーダーが本気でそんなこと言ってんのか」
「俺だってそろそろ布団で寝てぇや。あとのことはタケオ、おまえに任せる」
 あばよ、と言って去っていく。子供たちは泣き叫んで引き留めたが、リョウは振り切って歩き出し、二度と振り返らなかった。
 突然のことに理解が追いつかず、タケオは呆然ぼうぜんと立ち尽くしている。
「うそだろ
 前を向かないといけないものね。
 そういうことなのか。これが「前を向く」ってことなのか。
 俺たちを置き去りにして?
 これがおまえの「前の向き方」なのか、リョウ。

         *

「リョウがアメンボ団から抜けた? ありえない。なんかの間違いだろ」
 知らせは間もなく群青の耳にも届いた。本所の赤城家に押しかけて、泣きながら話すカンキチの様子からも、それは事実のようだった。なんの相談もなく去ってしまったリョウに、アメンボ団の面々は激しく動揺どうようしている。
「こんなことってあるかよ。俺たちを見捨てて行っちまうなんてそこなったぜ、リョウのやつ!」
 怒りまくるカンキチの横で、タケオは複雑そうに黙り込んでいたが、
「親戚のところに行くんだと。そう言われたら止められねえよ。誰だって、たたみの上であったかい飯食えて布団で寝れるとこがいいに決まってる」
 だが、頭では理解しても心が納得しない。カンキチはリョウを裏切り者とののしり、タケオはタケオで意気消沈している。
 群青は絶句している。うそだろう、リョウが去るなんて。タケオの言うとおり、ひとそれぞれ事情があるから、そう決断したとしてもそれは仕方ない。だが何よりショックだったのは、自分に一言の挨拶あいさつもなく去ったことだ。何も言わずに去るなんて、そんなことあるかよ。内地に来て初めてできた友達だ。リョウとは、互いに心を許しあった仲だと思っていたのに。
 おまえのお母さんはきっと生きてる。そう信じれば、前を向ける。
 おまえは赤城さんと一緒にいていいんだ。
 そう言って力づけてくれたリョウ。だけど俺が一方的に「親友」だと思っていただけなのだろうか。
 いや、待て。やっぱり違和感がある。少し前からリョウは様子がおかしかった。マムシと会ってからだ。ずっと考え込んでいるようだったとシホコも言っていた。
 俺だってそろそろ布団で寝てぇや。
 リョウのその言葉は本心なのか?
 そもそもそんな親戚、本当にいるのか。何より、あれほど大切にしていたアメンボ団の仲間を捨てて、自分だけ上野を離れるなんて、あのリョウに果たしてできるだろうか。
 やっぱり何かある。リョウは何か隠してる。
「捜そう」
 え? とタケオたちが顔をあげた。
「捜すって、リョウをか? でもあいつはもう
「リョウはまだ上野にいるはずだ」
 群青には確信があった。
「みんなで捜そう。捜して、何があったのか、本当のことを聞き出すんだ」

         *

 アメンボ団から姿を消したリョウを、群青たちが必死に捜している頃
 上野のがいしょうたちが身を寄せるガード下の一角では、少年がひとり、針仕事をしている。
 入口ののれんをかき分け、パーマをかけた派手な女がたばこを吹かしながら現れた。
すそがほつれちまった。こいつも頼むよ」
 と言い、真っ赤なワンピースを差し出す。
 女の名はらんという。街娼たちで結成した自助自衛集団「すずらん組」を仕切る女で、「あげちょうの蘭子」なるみょうを持つことで知られている。
 赤いワンピースとハイヒールがトレードマークで、とびきりのぼうに真っ赤な口紅をきりっと引き、きれいにね上げたまつげにはたっぷりとマスカラを塗っている。ワンピースの裾を細い脚でれいにさばきながら、赤いハイヒールをカツカツ鳴らして颯爽さっそうと歩く姿は、界隈かいわいでもひときわ目をいていた。気性の激しい女で、すずらん組に不届きな真似まねをした相手には、容赦ようしゃなく制裁を加えるという。気っぷもよく、度胸もすこぶるつきで、闇市の男たちからも恐れられていた。
 そんな蘭子のもとに転がり込んできた少年は、暗がりに差し込む細い陽の光を電気スタンド代わりに手を動かしている。
「そこに置いといてください。あとでやるから」
「へえ、いい手つきだねえ。あたしよりうまいよ」
「家がふくだったんで、い物は基本のキなんですよ」
 器用な手つきで針先を髪にくぐらせ、滑りをよくする。スイスイと針を走らせる手元を感心そうにのぞき込んで、蘭子は言った。
「リョウって言ったっけ? ガキどもがずっと騒いでるよ。アメンボ団の親玉が組抜けしたって。あれ、あんたのことだろ。仲間割れでもしたのかい」
 脱退宣言をして行方をくらましたリョウが頼ったのは、街娼のレイコだった。そのレイコがすずらん組を紹介してくれた。女だけで住むバラックは男子禁制だったが、蘭子はリョウを一目見て立ち入りを許可した。雑用をすべて引き受けるのが条件だった。
「仲間割れなんかしてない。でもちゃんとうわさが広まってるなら、それでいい」
「例のマムシと決闘するんだって? それでここに逃げ込んできたってわけかい」
「逃げてない。決闘はする」
「やめときなよ。勝てっこないよ」
「売られたケンカだ。買わないわけにいくか」
 リョウは服を縫う手を休めない。
「マムシみたいなほうものには負けない。たとえ負けいくさだとしても、こっちにはこっちの意地ってもんがある」
「その意地のせいで日本はこんなになっちまったんだよ? 勝てない戦なんかするもんじゃないよ。命あっての物種だ」
「たとえ負けても、心の中までは頭を下げない」
 リョウは持ち前の反骨精神をき出しにして、
「せいぜい従ったふりをして寝首をかいてやるさ」
 その物言いが気に入ったのか、蘭子は小気味よさそうに笑った。灰皿にたばこを押しつけ、
まあ、いいよ。気が済むまでいなよ。あんたがここにいることは、誰にも言わないからさ」
「助かるよ、蘭子さん。ついでに靴磨くつみがきもやっとくから、みんなにも声かけといて」
 感心なくらい、よく働く。借りは作らない主義なのだ。このままうちで雇ってもいいくらいだと蘭子は思ったが、この子に本当に必要なのはそうすることではないのかもしれない、とも思った。
 リョウは目の前に並べられた色とりどりのハイヒールを端から念入りに磨きながら、カレンダーを見る。
 あと二日
 頭の中にあるのはマムシとの決闘のことだけだ。怖くないといえば嘘になる。上背うわぜいのある大きな体、腕力、まともにぶつかって勝てる相手ではないのは明白だ。だがここで逃げてはアメンボ団のリーダーを名乗る資格はない。自分には守ってくれる家も家族もない。みんな焼けた。ここは荒野だ。行き場のない人間が、弱肉強食というやつに身をさらして生きる場所なのだ。誰にも期待してはいけない。
すまん、群青」
 黙って姿を消した、と言って怒っている姿が目に浮かぶ。
 だが、おまえを巻き込みたくない。
 少し前まで、地下道で皆と身を寄せ合って眠りながら、家族との団らんを夢に見ることもあった。そのたびにすり切れた毛布を涙で濡らしたりもした。だが、その隣で幼子が空襲の悪夢を見て叫び出すと、感傷は一瞬で吹き飛んだ。叫んで暴れるその子を必死で抱きしめながら、心に誓った。この子たちを守る、と。
 今の自分には守らなければならない存在がある。
 どの道、ぬくぬくと親に守られてきた子供時代には戻れない。
 誰にも頼らず生き抜いてみせる。
負けやしねえ」
 靴墨くつずみで汚れたほおぬぐって決闘の日をにらみつける。
 見ててくれ、群青。必ず勝って、おまえに会いに行く。

         *

 一方その頃、群青とタケオは日が沈むまでリョウを捜して上野から御徒おかちまちの方まで駆けずり回っていた。結局なんの手がかりもつかめず、くたくたになって、棒のようになった脚を引きずっているふたりを、闇市の一角から呼び止めた者がいる。
 竹かご屋の敦子だった。
 店先から「タケオさん、タケオさん」と呼びながら手招きしている。敦子が呼んだのは群青だったが、勘違いされていることに気づかないタケオは自分が呼ばれたと思って、群青よりも先に駆け寄っていった。
「敦子さん、どうしたんだい」
「よかった。あなたたちを捜してたの。どうしても確かめたいことがあって。ふたりはアメンボ団のひとよね。私、さっき聞いちゃったの。この間、あなたに因縁いんねんをつけてきた子たちが話してるのを」
 マムシ団の連中のことだ、先日タケオに御礼参りをしようとして敦子に一蹴いっしゅうされた。
「話してたって、何を?」
「決闘の話。あの子たちの親分とアメンボ団の団長が対決するって言ってた。それ本当なの?」
 アメンボ団の団長? リョウのことではないか!
 むろん、ふたりには寝耳に水だ。血相を変えて、
「決闘って言ったのか? 俺たちは何も聞いてない! どういうことだ?」
「詳しいことはわからないけど、親分同士で決闘することになったって大騒ぎしてる。負けた方が相手に従うとかなんとか」
 群青とタケオは顔を見合わせた。大変だ!
「その決闘ってのは、いつ?」
「〝次の金曜日〟って言ってたからもう明日じゃないかしら」
 ふたりはギョッとした。
 明日だと!
「じ時間と場所は?」
「さあ、そこまでは。その子たち、もしアメンボ団が負けたらタケオさんたちのこと自分の子分にしてき使ってやる、なんて言い触らしてたもんだから、私、タケオさんのことが心配で」
 群青たちは最後まで聞かずに走り出した。マムシの子分を探すためだ。
 ほどなくして、したの子供をひとり捕まえた。タケオと一緒に取り囲んで、詳細を聞き出した。

〝明日夜八時、きよみずかんのんどうの舞台で〟

 なんてこった、とタケオは頭を抱えた。
「聞いてないぞ! リョウのやつ、まさか本気であのマムシと!」
 群青の悪い予感が的中した。条件は、団長同士一対一の勝負だが、アメンボ団に限っては仲間が加勢してもかまわない。その代わり、負けたら絶対服従。他の団員も全員マムシの子分になるという。
「そんな大事なことなんで言わないんだ!」
 とタケオは怒ったが、群青にはわかった。だからリョウは打ち明けなかったのだ。理由なんてひとつしかない。仲間を巻き込まないためだ。自分ひとりでマムシに立ち向かうつもりなのだろう。
「どうすんだ、タケオ」
「加勢するに決まってんだろ。マムシは異常に強いんだ。あいつが上野に来た時は十五、六人がたばになってかかっても勝てなかった。大人のゴロツキ相手でも負けなしだって噂だ。さすがのリョウも、ひとりじゃ無理だ。体格が違いすぎらあ。俺が行かないと」
 群青はまだマムシという少年を見たことがない。そこまでやばいやつなのか。
「勝算はあるのか」
「そんなもんねえよ。でも俺が行くしかねえだろ!」
 アメンボ団でまともにケンカができるのは、リョウとタケオだけだ。カンキチや他の仲間はまだ小学生だし、下手へたに加わればおおどころか、ひとつ間違えれば殺される。
「リョウがいきなりアメンボ団を抜けるだなんて言い出したのも、俺たちを巻き込まないためだ。縁を切ったからもうアメンボ団は関係ないって。リョウのやつ
 リョウの覚悟が痛いほど伝わった。
 だが独りで行かせるわけにはいかない。タケオに迷いはなかった。いざとなれば、自分もアメンボ団を抜けるつもりだと言った。
ただ、俺まで抜けたらアメンボ団を束ねるやつがいなくなっちまう。俺とリョウ抜きでアメンボ団が食べていけるか心配だ。だから、群青。おまえに後見人になってほしい」
「俺が後見人だと?」
「そうだ。仲間が霧島のだんんとこの仕事を続けられるよう、見てやってほしい」
 頼む、とタケオが頭を下げた。
「おまえにしか託せない。皆を養ってくれって言ってるわけじゃない。あいつらは自分で稼げる。だがかせぎ先がなくなったら困る。頼む」
 うん、というまで頭を上げようとしない。タケオのそうな思いが伝わった。群青は考え込んだ。地面を見つめて、黙り込んでいたが
「やっぱりだめだ
 群青の答えに、タケオは絶望したような顔をした。群青は決然と、
「やっぱり、おまえが加勢するのは駄目だ。俺が行く。俺がリョウと一緒に闘う」
「おまえが、だと? なに言って」
「アメンボ団にはタケオが必要だ。おまえまでいなくなったら、シホコちゃんたちはどうしたらいいかわからなくなる。おまえは残らないと駄目だ。代わりに俺がいく」
「無理だ! だっておまえ、まともにケンカしたことないだろ」
「それでも俺が行く!」
 自分しかいない。リョウとアメンボ団を助けられるのは。
 リョウとタケオの覚悟に、群青も友達として、どうにかして応えたかった。
「俺が行く。俺がリョウと一緒に闘う」

         *

 覚悟は決めたものの、群青はまともにケンカなんかした経験がない。ども相撲ずもうならやったことはあるが、ひょうの上で「のこったのこった」とはわけが違う。まして相手は上野の孤児たちを震えあがらせる毒マムシだ。さんざん恐ろしい話を聞いてしまい、いやでも腰が引けそうになるが、撤回てっかいはできない。
 頼りにできるのは、ただひとりだった。
 晩ご飯を食べた後、群青は赤城を外に連れ出した。事情を知らない赤城はげんそうな顔をしていたが、群青が帰ってきてからずっと思い詰めた顔をしていることには気づいていたとみえて、
「どうした、さっきからずっと怖い顔して」
「あんちゃんに頼みがある」
 群青は土俵に立つ力士のように肩をいからせた。
「こないだ言ってたやつを俺に教えてくれ。俺でも相手を倒せる方法」
 赤城は黙った。
 答えようとはせず、腕組みをして、暗がりに立つ群青をじっと凝視している。
「なんのために。気に入らないやつをとっちめるためか。それとも」
「仲間を守るためだ」
 群青は即答した。
「俺にしかできない。リョウたちを守りたい」
 まっすぐに見つめてくる群青の真剣なまなざしを受け止めて、赤城はいなともおうとも言わず、しばらく何事か考えていたが、やがて口を開き
「相手の体つきは? でかいのか」
「でかいらしい。年はそう変わらないけど、体格はほとんど大人だって。タケオよりも背が高くて、馬力がケタ違いだって。ケンカ慣れしてて大人にも負けないって」
 あくした赤城は、感情を動かすでもなく、頭の中でシミュレーションをしているようだった。
「おまえひとりで闘うのか?」
「リョウと闘う。ふたりでそいつと闘う」
 ふたりか、とつぶやき、赤城は夜空をあおいだ。
「リョウは何が得意だ」
みつきだ。狂犬なんて呼ばれるくらい歯とあごが強い」
 そうか、というと赤城は腕組みを解いて、中腰になった。
「教えるのはひとつだけだ。今からあれこれ教えたところで身につかないからな。ただ、こいつを徹底的にやれば、必ず勝機がつかめるはずだ」
「教えてくれ、あんちゃん」
 ここだ、と赤城はももを叩いた。
「相手のここに勢いよくしがみついて、倒す。タックルだ」
「タックル?」
「相手の下半身めがけて滑り込むようにしてしがみつく。その時、左膝は相手の股下に差し込み、後ろ足を真横について態勢が決まったら、相手の胴をすくいあげながら膝を入れた方向めがけて勢いよく立ち上がる。決まれば相手を転がすことができる」
 肝心かんじんなのは立ち位置だ。格闘技経験のない群青が真正面からぶつかっても成功する確率は低い。
「だが、横。できれば後ろから仕掛けられれば、必ず成功する。背後をとるためにはリョウとの連携が必要だ。リョウとふたりで相手をはさみこめ」
「俺が後ろに回ればいいのかい?」
「狙いは膝裏だ。おまえは相手を崩すことだけ考えろ。今から手本を見せる」
 赤城が低い体勢から一瞬で滑り込むようにして群青の腰にしがみつく。体を密着させ、後ろ足を真横にまわして、膝をついている脚に体重を乗せて一気に立ち上がる。群青の体はどうにも支えられなくなって、ひっくりかえされてしまった
「倒したらすぐ馬乗りになって両拳で側頭部をタコなぐりしろ。手で防がれたら、肘の間から腕を差し入れて、肘でのどめあげる。こうすりゃレスリング選手でもない限り、素人しろうとは対応できない」
 赤城が考案した必勝法は、一撃必殺のタックルだ。
「もしそれで倒せなかったら」
「その時は脚だ。どんなにでかい図体ずうたいの相手でも、脚一本なら、おまえみたいな小兵でも持ち上げられる。太腿にしがみついて膝裏をすくいあげる。さあ、やってみろ」
 ここからは実践じっせんだ。群青は言われたように赤城にぶつかっていく。何度も何度も繰り返し、体におぼえさせる。一連の呼吸を体にたたき込むのだ。
「いいぞ、しがみついたら背中は丸めるな。相手に密着しろ。相手の骨盤に自分の耳をつけるんだ」
 次第に汗が噴き出してくる。赤城の指導は本気そのものだった。実戦を想定して組み合うが、体幹が強い赤城の体はそう簡単には転がせない。タックルしても、すくいあげるどころか、簡単に振り払われてしまう。群青は「なにくそ」とかんにぶつかっていった。
「そうだ、もし一撃で浮かせられなかったら、腕をまたにはさみ入れろ。腿にしがみついたらバットを振るように体を回旋させる」
「こうかい?」
「もっとだ。肩を入れろ。テコの原理でひっくりかえせ」
「おおりゃあ!」
 要領を摑んだ群青が、とうとう赤城をひっくり返した。もろとも地面に転がった。
「よし、いい線いってるぞ。もう一度!」
 群青は何度もぶつかっていく。回を重ねるにつれ、体の入れ方、力の方向が摑めてくる。それでも何度も転がされる。群青は歯を食いしばってやりなおす。あきらめない。
 夜が更けるまで、ふたりの秘密特訓は続いた。

         *

 清水観音堂のとうろうに火が灯った。
 下町一帯は空襲であらかた焼けてしまったが、この上野の山だけは焼けなかった。江戸時代に建てられた清水観音堂は、この界隈では唯一、昔のたたずまいを残す建物だ。
 お堂の前面は急斜面に張り出した舞台になっている。伝統的なかけづくりで、がけこう状に組まれた柱とけたは、京都の清水寺きよみずでらさながらだ。上野の山はそのほとんどが、江戸えどじょうもん守りのために創建されたかんえい境内けいだいだが、てんかいそうじょうは「京」にみたてたお堂を次々と建てた。この清水観音堂も、京の清水寺になぞらえて建てられたという。
 舞台からは不忍池しのばずのいけが見下ろせる。
 おあつらえ向きに月まで出ている。
 観音堂の舞台には、約束通りの時間にリョウが現れた。
「ひとりか」
 待ち構えていたマムシが訊く。
「ひとりだ」
 リョウが答えた。
 事実、リョウの後ろには誰もいない。マムシの背後には子分たちがいる。決闘を聞きつけた野次馬たちも遠巻きに見守っている。「マムシ」対「狂犬」の勝負と聞いては、見に行かないわけにはいかない。しみったれた日々にいていた孤児たちにとってこれは、血湧き肉躍る一大イベントなのだ。上野の孤児たちの間では数日前からこの話題で持ちきりになっていた。
いさぎよいこった。ボスをひとりで送り出したのか。アメンボ団の連中は腰抜けか」
「俺はアメンボ団を抜けた。だから、もう関係ない」
 マムシの耳にもすでに噂は届いていたのか、ちっとも驚かなかった。
弱い子分たちを巻き込まないために、か。涙がちょちょ切れるぜ。だが、そんな浅知恵は通用しねえ。おまえが負けたら全員子分だ」
「抜けたもんは抜けたんだ。あいつらは関係ねえ」
「そうかい。まあ、叩きのめされたおまえを見て、それでもアメンボ団の連中が知らん顔してたなら、信じてやってもいいよ」
 マムシは首をポキポキ鳴らしながら、準備運動を始めた。
「御託はこのへんにして、そろそろおっぱじめようぜ」
 その前にお互い服の上から互いの体を触って、武器を隠していないか、確かめる。リョウの体に触れたマムシが小さくほくそ笑んだ。リョウが「いつまで触ってんだ」と振り払うと、マムシは「おっと」と手を放し、
「悪かった悪かった。武器はねえ」
 おどけた顔がリョウの神経を逆なでする。こいつははじめから気づいてやがる。わかっていて俺を挑発してやがる。マムシが皆の前で余計なことを口走るのをリョウは警戒していたが、予想に反してにおわすようなことも口にしない。そのかわりに薄笑いを浮かべ、わざわざ紳士ぶったしゃくをしてみせる。なんのつもりだ。俺が「そう」だからか。わかっていて、いたぶろうというのか。なんてれつな奴だ。日本男児の風上にもおけない。簡単に俺をひねり潰せると勘違いしてやがる。ふざけやがって。誰がいたぶられてやるもんか。こんなやつに絶対に負けない。負けてたまるか。
「先に『まいった』と言った方が負けだ。いいな」
 立ち会い人役の子分が出てきて、ふたりの間に立つ。観音堂の舞台に緊張がみなぎる。かたんで見つめる野次馬たちも興奮を隠せずにいる。ケンカのぶたが切られるのを、まだかまだかと待っている。ふたりが身構えたそのときだった。
「その勝負、待て!」
 高くあがった声が、緊張の糸を切った。
 野次馬をかき分けて、少年がひとり、舞台の上に現れた。
 群青ではないか。
 リョウは目を疑った。
「群青? おまえ、なんで!」
 マムシも見慣れない顔の登場にいぶかしげな目つきになり、
「誰だおまえ」
「俺の名は阪上さかがみ群青。アメンボ団の一員として、この決闘に加勢する」
 宣言した群青に、野次馬たちがざわついた。「誰だあいつ」「あんなやつ、アメンボ団にいたか」と口々に騒いでいる。慌ててリョウが割って入り、
「ちがう、こいつはアメンボ団じゃない! 関係ない!」
「昨日入団したんだ。おまえこそ、団から抜けたんだから、口出ししないでくれ」
「なんだと、群青てめぇっ」
 言い合うリョウと群青を、マムシは面白そうに眺めている。
「ナイト登場ってわけか。いいね、そうこなくっちゃ」
「おまえがマムシか」
 想像通り、体格がいい。赤城や近江ともそう変わらない。このご時世によくもまあ、あんなに育ったものだ、と群青は敵ながら感心してしまった。裕福な家庭にも食料が行き渡らないこのご時世に、子分たちからせしめた金でたらふく食べてきたのだろう。仲間に分け与えるという発想は、このマムシにはないようだ。
 そんなうつわの小さいやつが俺たちのリョウを子分にしようだと? 思い違いをするにもほどがある。群青のはらわたはますます煮えくりかえった。
「必ず『まいった』って言わせてやる。行くぞ、リョウ」
「いいさ、話は後だ。ふたりで上野のマムシ退治といこうぜ」
 マムシも不敵に笑った。
「やってみろ、ガキ」
 かくして決闘の火蓋は切られた。
 作戦通り、ふたりでマムシを挟み撃ちにする。だがマムシもさるもの、ふたりを左右に見て決して背中は見せない。リョウがすばしっこく動き、マムシを攪乱かくらんする。すきいて群青が突進した。昨日赤城と特訓した通りに後ろからタックルをかました。が、マムシは足腰が強く、簡単には崩れない。力強く振り払われてしまう。
 野次馬から大きな歓声があがった。
 板の上に転がった群青はすぐに体勢を立て直し、執拗しつように体当たりを繰り返す。作戦を理解したリョウが逆脚にしがみつく。ふたりにしがみつかれたマムシは、だが怪力で思い切り振り払った。群青とリョウは同時に床に転がされた。
「くそ、なんて馬鹿力だ」
「来るぞ、群青!」
 マムシの反撃だ。群青は顔の前を腕でおおって猛烈なパンチを防いだが、みぞおちに入れられ、息が止まったところに横から顔を殴られた。倒れ込んだ群青に、マムシが馬乗りになろうとする。その腕をリョウがつかんで嚙みついた。強烈な嚙みつき攻撃だったがマムシは物ともせず、リョウの歯が食い込んだまま体ごと持ち上げて、床にたたきつける。
「リョウ!」
 踏みつけようとする脚に群青がしがみつく。今度は振り払われても放さない。死んでも放すな! と赤城の声がのうに響いていた。
「この馬鹿のひとつおぼえみたいに!」
 上から殴りつけてくるが群青は耐えた。耐えて耐えて、とうとうマムシを転がした。
「いいぞ、群青!」
 腹ばいになった背中にすかさずリョウが馬乗りになり、関節をきめにかかる。マムシの顔がもんに歪む。だが渾身こんしんの腕力でリョウを押しのけてしまう。まるで獰猛どうもうなヒグマでも相手にしているかのようだ。やれ! そこだ! いけ! と舞台上は子供たちの歓声と怒声で大騒ぎだ。なかなか決着がつかず、群青とリョウは顔がれ上がり、体中あざだらけになった。マムシも嚙みつかれたところから血を流し、度重たびかさなる体当たりでダメージが蓄積したか、脚がふらついている。しかし、手負いのマムシはどんどん強くなっていくようだ。
「化け物か、あいつ」
 群青とリョウは息荒く肩を上下させている。まるで歯が立たない。人間じゃないみたいだ。どんどん大きく見えてくる。あまりに強くて心が折れそうになる。長引くほど不利だ。こっちも徐々に足腰立たなくなってきた。
ちくしょう、負けっかよ!」
 群青が咆哮ほうこうをあげて飛びかかる。だがマムシの蹴りをまともにくらって、吹っ飛ばされた。
「群青!」
 どおっと大の字に倒れ込んだ群青は、数瞬、意識が飛んだ。リョウも投げ飛ばされ、背中を強打して動けなくなる。
 よろり、と立ち上がったマムシの背中からはどす黒い炎が見えるようだった。凶暴なヒグマのようにおうちして、ふたりを見下ろしてくる。
そろそろ地獄にいくか」
 ふたりが観念しかけた、そのときだ。野次馬の後ろから「リョウ!」と声がかかり、大きな体の少年にひきいられた子供集団が人垣をかき分けてなだれこんできたではないか。手に手に金槌かなづちや棒を握り、リョウと群青の前に立ちはだかるようにして、マムシを取り囲んだ。
「ふたりに手を出すな! ここからは俺たちが相手だ!」
 驚いたのはリョウと群青だ。
「だめだタケオ、カンキチ
「いいや、ここからは俺たちが闘う。おまえらだけ暴れさせられっかよ!」
 押しかけてきたアメンボ団に対抗するように、今度はマムシの子分たちがなだれこんできて、タケオたちにたいした。こちらもいざというときは加勢する気だったのか、手には武器になりそうなものを隠し持っていた。
 いっしょくそくはつの空気になった。
 が、マムシがそれを制止した。
「おい手ぇだすんじゃねぇこいつらは俺の獲物だ。このマムシ様がアメンボ団全員、地獄送りにしてやる」
 殺気がマムシの全身からドス黒い炎になって立ち上る。まずい。このままではタケオたちも危ない。逆上して見境がなくなったマムシは手に負えない。乱闘になったらカンキチたち小学生にまでおおを負わせてしまう。
 待て! とリョウが怒鳴り、体の力を振りしぼって立ち上がった。脚を引きずりながら進み出てくると、マムシの前に両膝をつき、両手をついて、いきなり土下座どげざした。
「リョウ!」
「負けを認める。このとおりだ。だから、こいつらには手を出さないでくれ」
 突然の敗北宣言に全員が意表を衝かれた。
 ばか、と群青が叫んだ。
「まだ俺は闘える! まいったとは言ってない!」
 その群青をリョウが物凄ものすごい目でにらみつけた。いなとは言わせない眼力の前に、さすがの群青も気圧けおされて、言葉をみ込んでしまったほどだ。
 土下座したリョウは、だが、目だけは伏せず、まっすぐにマムシをにらんでいる。
「俺の負けでいい。だからこいつらには手を出すな」
 なんという気迫だ。拒否すれば、即座にのどぶえめがけて牙をきそうな緊迫感をはらんでいる。頭を下げてはいるが、とても降伏しているようには見えない。これは最終通告だった。要求を受け入れなければ、このケンカは一線を越えて殺し合いになる、という。ケンカ師の直感がそれを読み取ったか、さしものマムシも無言になった。
 場は、水を打ったように静まりかえった。
 そのときだった。
「そこで何してるの、おさむ!」
 張り詰めた空気を破ったのは女の声だった。
 見物の人垣が崩れ、野次馬をかき分けながら、モンペ姿の少女が現れた。
「りんごちゃん?」
 竹かご屋の敦子ではないか!
 敦子は舞台の上にずんずんと進み、土下座しているリョウの前に仁王立ちすると、マムシに向き直り、いきなりそのほおに強烈なビンタをかました。
 見ていた全員が「あ!」と叫んだ。
 頬を張られたマムシは呆然ぼうぜんとした。
 放心したように敦子を見た。
姉ちゃん
「あんた、なにやってんの! どういうつもりなの! こんなところでケンカなんかして人様に迷惑かけて。生きてるなら生きてるって、早く連絡してきなさいよ!」
 これには全員があっけにとられてしまった。
 敦子は興奮し、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらまくしたてる。
「こんな小さい子に土下座なんかさせて恥ずかしくないの? 姉ちゃんは恥ずかしいよ。治をこんな馬鹿に育てた覚えはないよ!」
 マムシもしばらく放心状態だったが、やがて
姉ちゃん。生きてたのか
 ほうけたようにつぶやく。
 敦子を知る群青とタケオはもちろんのこと、面識がないリョウも予想外の展開に毒気を抜かれてぽかんとしている。
「ええ、生きてたわよ! ちゃんと生きてたわよ! ずっと捜してたんだからいっぱい捜したんだから!」
 と叫ぶと敦子は気持ちがあふれてしまったか、とうとうマムシにしがみついて声をあげて泣き始めた。
 全員が狐につままれたような顔をしている。マムシもようやく状況が呑み込めたのか、敦子を大きな腕で思い切り抱きしめると、さっきまでの不敵な態度が嘘のように、人目もはばからず号泣しはじめた。
「姉ちゃんねえちゃん!」
 群青たちは顔を見合わせるばかりだ。
 世紀の大決闘の行方ゆくえは、生き別れた姉と弟の再会劇となり、なんだかよくわからないまま立ち尽くしている孤児たちの奇妙な拍手に包まれて、お開きとなってしまったのだ。

         *

 マムシの本名は、西にしおか治といった。
 竹かご屋のりんごちゃん、こと西岡敦子のふたつ違いの弟だった。
 空襲で生き別れになり、お互いにお互いを「死んだ」と思い込んでいたらしい。
 そういえば、姉弟はどちらも背が高く、平均的な日本人にしては大柄な部類と言える。顔立ちも似ていて、肉親だと言われれば間違いなくそうなのだ。
 敦子は「タケオ」のいるアメンボ団を気にかけて、決闘場所と時間をマムシの子分から無理矢理聞き出したらしい。タケオが加勢したら止めに入ろうと駆けつけたのだ。
 聞けば、敦子と治は幼少の頃から庭で相撲すもうをとるのが日課だったという。敦子はとにかく強くて、暴れん坊と評判の治もなかなか勝てなかった。近所でケンカが起こるたびに敦子が割って入って仲裁したが、当人たちが抵抗するとこれを投げ飛ばしてひとり勝ちしてしまうほどだったらしい。
「どうりで
 タケオと群青も納得した。どうりでマムシ団の子分どもを追い払ってしまえるわけだ。
「さすがマムシの姉貴だ。あんな強烈なビンタ見たことねえや」
 とリョウは腫れ上がった顔でひとしきり笑った。
 結局、ケンカは没収となり、勝敗は決着つかずで終了した。
 リョウの土下座もなかったことにされた。
「だって、この子『まいった』とは言ってなかったじゃない」
 敦子の裁定の前には、泣く子も黙るマムシも逆らえない。姉に頭が上がらない治は「恐妻家」ならぬ「恐姉家」だったのだ。
「このたびはうちの弟が大変ご迷惑をおかけしました。ほら、あんたも謝りなさい」
 敦子に無理矢理、頭を下げさせられて、さすがのマムシも形無しだ。大きな体も心なしか小さくなり、群青たちにはその姿が普通の中学生に戻ったように見えた。
「二度とこんな悪さをしないよう、私がきつく言って聞かせます。いずれ必ず皆さんにお詫びをさせてください」
 敦子は平謝りだ。再会早々、治は叱られまくって子猫のようになってしまっているのに、これで悪行の数々が知られた日には一体どんなことになるやら。
 敦子は生き別れた弟をつれて、父が待つ家に帰っていった。
「結局、りんごちゃんが一番強かったってことか
 タケオが言った。リョウも認めて、
「これにて一件落着だな」
「のんきに笑ってんじゃねえよ、リョウ」
 晴れ晴れした顔のリョウに、群青がすかさず異議申し立てをした。
「なんで黙ってたんだよ。あんな無茶しやがって。俺たちにはなんにもできないとでも思ってんのか。少しは俺たちのこと信用してくれたっていいだろ」
「信用してるさ。当たり前だろ」
「俺たちは友達なんだぞ。もっと頼ってくれよ。俺は頼ってほしいよ! なんでもかんでも、ひとりで抱え込んだりするんじゃねえよ!」
 本気で怒っている群青を見て、リョウは驚いている。群青は気持ちを吐き出したら涙まで出てきたのか、しきりにそでで目元をぬぐっている。急にリョウの胸ぐらを摑み、
「もう二度とごめんだぞ。ケンカはひとりでするな。必ず俺を呼べ。約束しろ、リョウ」
 涙目で迫る群青に、リョウは表情を崩した。
「ああ、約束する。ごめんな、群青」
「俺たちもだぞ、リョウ」
 タケオが声をかけてきた。
「仲間なんだからさ。水くさいことすんなよ。俺たちを信じてなんでも言ってくれよ。もう二度とごめんだ。こんなこと」
そうだな。すまん、タケオ。俺が悪かった。心配かけた」
 タケオがリョウの肩を抱き、顔をおしつけてくる。タケオも泣いている。リョウは謝りながら、なだめるようにタケオの背中を優しく叩いた。隣に立つ群青がリョウに手を差し出した。リョウはその手を強く握り返した。
 そこへアメンボ団の子供たちが駆け寄ってくる。リョウがしゃがんでシホコたち小さい子たちを受け止める。
 その笑顔が、群青には何より嬉しい勲章だ。
 不忍池の真上まであがってきた月が、金メダルのように輝いていた。

          *

 夜遅く帰ってきた群青を、赤城は寝ないで待っていた。
 家の前で木箱に座って、ひとり、傾いた月を見上げていたが、道の向こうから歩いてきた群青に気づくと、少しあんしたように、
「おかえり」
 と言った。帰還した兵士をねぎらうようにやかんの水を差しだした。
「派手にやられたな」
 群青の顔はマムシにしたたかなぐられたせいで赤黒く腫れ上がり、右目はろくにあけられない有様だ。えりを鼻血で汚し、あちこち痣だらけの群青は、ばつが悪そうに笑うと、赤城の隣に腰掛けて水をがぶ飲みした。
 決闘の顛末てんまつを語ると、赤城は「そうか」と何度もうなずいた。
「おまえたちの決闘が姉弟を引き合わせたってわけだな」
「そういうことになるのかな。だけど、今夜は何よりリョウがかっこよかったよ」
「リョウか、大したやつだ。仲間を守るために土下座なんて、大人でもなかなかできるもんじゃない」
「ただの土下座じゃなかったぜ。手を引かないと、命のやりとりになるぞって目ぇしてた」
 そんな友の姿に群青は激しく心を揺さぶられた。これが俺の親友リョウだぞ! と世界中に言って回りたい気分だった。
「リョウはやっぱり凄いやつだよ
 そんな群青の横顔を赤城がじっと見ている。あまりにまじまじと見つめてくるので「なんだよ」と気味悪がったら、赤城は苦笑いした。
「たったの一晩で、おまえの顔つきが変わったと思ってな」
「変わったって、どういうふうに」
「そうだな。強いて言うなら男の顔になった」
 群青は驚き、そして照れくさそうに腫れた顔をしきりに撫でた。
 寝静まった町に月明かりが降り注ぐ。電柱の影が長く伸びている。ふたりして、しばし黙って、皓々と明るい月を眺めていた。
「あんちゃん。俺、負けなかったよ」
 自分自身の血潮の熱さを生まれて初めて知った夜だった。
 身も心もカッカと燃やした灼熱感の余韻も、まだ体には残っている。
 それはあたかも、盛んに火花を飛ばした線香花火の、落ちる寸前でぐるぐる回る火の玉のように。落とさないように、落とさないように、と大事に手に包んで持ち帰ったそれを、赤城に見せるように
「負けなかったよ」
。上出来だ」
 赤城は群青の頭に手をのせ、がしがしと乱暴に髪をかき混ぜた。
 そうされるのが、群青には何より誇らしかった。
「タックルの練習。またつきあってくれよ、あんちゃん」
「ああ、いつでもな」
 そしてまた、ふたり並んで月を眺める。
 内地で見る月は、大陸で見ていた月よりも、やけに小さくて、まぶしい。

 この日を境に、上野の暴君は姿を消し、「マムシ団」は解散と相成った。
 そして、マムシ対アメンボの決闘は、孤児たちの間で語り草になった。
 竹かご屋の敦子はその後、何度か、闇市やみいちの店先に立っていたが、いつしか姿を見せなくなった。風のうわさによれば、治は父親が再建した工場で働き始め、敦子は教師を目指して進学したという。
 リョウが最後に敦子を見かけたのは、駅の改札前だった。
 タケオさんにも、どうかよろしくお伝えください。
 そう言われたので、そのままタケオに伝えたら、タケオはいたく感激していた。まさか敦子の言う「タケオ」が群青のことだとは、最後まで知るよしもなく。
 実ることのなかった初恋は、タケオの中であまっぱい思い出となった。
 赤いリンゴをかじるたび、口ずさむ。

 〝リンゴ可愛かわい
    可愛やリンゴ〟

【おわり】