孤舟

ありがとう!集英社オレンジ文庫9周年フェア『後宮史華伝』シリーズ(はるおかりの) スペシャルショートストーリー


‌「世話になったな」
‌ (あかね)色に染まった川べりの道を歩きながら、()(れい)(かん)(しょう)(いん)(たい)(かん)いや、(もと)司礼監掌印太監・(きょく)(かい)(じん)が言った。
‌ それはこちらの台詞ですよ、と言いかけて、(とう)(しょう)(とく)(しゅ)(そう)(けい)(こく)は口をつぐむ。その言葉に他意はなかったが、いまの状況では当てこすりにしか聞こえない。
‌ 私は、(がら)にもなくやりすぎたのだろうか。
‌ 破思(はし)(えい)の事件により、灰塵派に属していた(かん)(がん)たちの大部分が失脚した。意図せずして(えん)(てん)(きょう)()の片棒を(かつ)いだことがその罪状だが、それだけでは説明できない。彼らの(れい)(らく)の主たる原因は刑哭の小心にある。
‌ はからずも督主を拝命したことで師父(しふ)と対立する羽目になった刑哭は、灰塵とその愛弟子たちをなによりも恐れた。彼らは事あるごとに刑哭を(おびや)かしてきたからだ。
‌ ゆえに(かっ)()同淫(どういん)(かい)を使って破思英の正体を暴き、彼女と近しい関係だった者たちの蟒服(ぼうふく)を力ずくではぎとり、彼らが長年の(とく)(しょく)によって築いてきた莫大な家産をことごとくとりあげ、(ない)()におさめた。二度とふたたび刑哭を脅かさないよう、彼らの再起の目をつぶすことも(おこた)らなかった。
‌ 手柄をあげたかったわけではない。全宦官の頂点たる司礼監掌印太監への栄転を望んでいるわけでもない。そもそも刑哭には野心がない。
‌ すべては自衛の策である。己が地位と命皇宮において、両者はほとんど同義だ。地位を守れなければ、往々にして命も守れないを保つためにしたことだ。
‌ これでしばらくは枕を高くして眠ることができると安堵したのもつかの間、刑哭は漠然とした不安にさいなまれた。
‌ こたびの一件で、いったいどれほどの怨みを買っただろうか?
‌ (おん)(ぞう)とはさながら雨粒のようなものである。はじめの一滴は袖にわずかなしみを作るだけだ。すぐに乾き、目に見えなくなってしまう。さりとて消えたわけではない。しみの(こん)(せき)は残り、次の雨粒が降ってきたときにそのいびつな(りん)(かく)はじわりとひろがる。
‌ 破思英にかかわった者たちを情け容赦なく裁いたことで、刑哭は怨みの雨に降られた。それはけっして()ぬか雨などではなく、車軸を流すような豪雨であった。
‌ いつか報いを受けるときが来る。この呪わしい雨が刑哭に復讐するときが来る。逃れようのないさだめの日まで、刑哭は戦々恐々として暮らさなければならない。粗暴な主人に打ち据えられて育った老犬のように。
‌「さぞや怨んでいらっしゃるでしょう」
‌ われながら卑屈な台詞だ。こんなことを口にしてなんになるというのだろう。怨んでいないと言われたところで小安を得られるわけではあるまいに。
‌「怨んでいるとも。大いにな」
‌ 灰塵は()()ましそうにため息をついた。
‌「己のうかつさを憎んでも憎みきれぬわ。生涯をかけて愛そうと誓った女が、こともあろうに朝敵たる邪教徒だったとは。これ以上の笑い話があるか?」
‌ 玻璃(はり)を引っかくような硬質な空笑いが(はく)()の風にさらわれ、消える。
‌「千年後でも語り草になっているだろうよ。大凱(だいがい)一愚かな騾馬(らば)は棘灰塵だと」
‌「師父」
‌「つくづく()(まい)な己にいやけがさした。ただひとりの妹を殺した張本人がとなりにおなじ臥所(ふしど)のなかにいたことをつゆほども知らなかった。これほど(もう)(ろく)しながら、恥ずかしげもなく司礼監の長を名乗っていたのだから始末に負えぬ。笑ってくれ。こきおろしてくれ。かくも(もう)(まい)な師父に仕えてきたことを思うさま嘆くがよい。おまえにはその資格がある。私の愚劣と()(どん)(ちょう)(ろう)する資格が
‌ かえす言葉が見つからず、刑哭は綺羅のようにきらめく夕映え色の川面を見やった。
‌ 愛した女に裏切られるのは、わが身を引き裂かれるにひとしいことなのだろう。
‌ (かん)(えん)()の正体と罪状を伝えたとき、灰塵は色をなして(えん)(ざい)だと言い立てた。それは人として肉体は騾馬になりさがろうとも心は人のものにちがいない自然な情であろう。二世を誓った相手が長年にわたって自分を(あざむ)いていたという苦い事実をすんなりとのみくだすことができる者など、いるはずもない。
‌ 受け入れるには時間がかかる。全身の血が毒液に変わったかのような(さん)()と、身体じゅうに洞ができたかのような虚無感にさいなまれ、七転八倒することになる。死にもひとしい苦しみを味わいながら、灰塵は真実という名の苦水を飲んだのだ。あまりに難業であったために、一時は呆然自失していた。そのあいだに灰塵は司礼監掌印太監を()(めん)され、太監位を剥奪されたうえ、家産を没収された。命までは奪われず、流刑などの刑罰も科されなかったのは、ひとえにこれまでの忠節を重んじた今上の恩情である。
‌ さりながら家屋敷まで奪われた灰塵に行く当てはなかった。
‌ 弟子たちのほとんどが同様のあるいはそれ以上の処分を受けており、着の身着のままで皇宮から追放された師父を気遣う余裕はなかった。難を逃れた弟子たちは(わざわい)を招くことを恐れ、大恩ある師父に近寄ろうとしなかった。灰塵に()びへつらっていた者たちは言うにおよばず、灰塵の知己(ちき)もおしなべておなじ対応をした。
‌ この事態を作り出した張本人である刑哭でさえ、彼らを薄情者と責め立てることはできない。(きゅう)(よう)(じょう)で生きる者はだれもみな(はく)(ひょう)の上にいる。(ぼう)(りゃく)(わな)はそこかしこに仕掛けられており、ほんのわずかな情けが大きな災難の種となりうるのだ。旧恩を封じて知己を見捨てるのはわが身を守るためで、それ以上でも以下でもない。
‌ いったいだれが糾弾するというのだろうか。生き残るため、冷酷にならざるを得なかった非力な人びとを?
‌ 弁解したところで、肌身に染みついた怨念の(しゅう)()から逃れられるわけではない。
‌ 九陽城に列をなす(とが)(びと)のなかでもっとも重い罪を背負っているのは、むろん刑哭である。どんな言い訳をしても刑哭の罪は消えない。保身のために忘恩(ぼうおん)()になりさがった以上、粛々(しゅくしゅく)と刑に服するしかない。あまたの怨みを一身に背負いつつ、命を燃やしていく刑哭に残された選択肢は、もはやそれだけだ。
‌「世話になったな」
‌ 灰塵は先ほどの台詞をくりかえした。
‌「夫人にもよろしく伝えてくれ。私がねんごろに礼を述べていたと」
‌ 皇宮から追放されてから二月のあいだ、灰塵は刑哭の(やしき)に滞在していた。せめてもの罪滅ぼしといえば偽善が過ぎるが、なにもかもを失った師父をほうりだすことが(はばか)られたのは事実だ。蟒服を奪われた灰塵は彼に怨みを持つ者たちの()(じき)になる恐れがある。いままでは司礼監の高みにいたので復讐者たちは手出しできなかったが、これからはちがう。官位も財産もない灰塵が身を守るのははなはだ困難だ。怨みを晴らそうと舌なめずりする者たちがこの好機を見逃すはずはなく、丸裸で毒蛇の巣にほうりこまれるも同然である。
‌ 長年、恩をほどこしてくれた師父をたけりくるう復讐者の手にゆだねたくなくて、わが家で保護していたのだ。
‌ しかし、あくまで急ごしらえの()()である。いつまでも灰塵を自邸にとどめおくことはできない。刑哭には東廠の長としての立場がある。あらぬ疑いをかけられぬため、怨天教徒を菜戸(つれあい)にしていた人物とはできるだけ早く距離を置かなければならない。
‌ ゆえに今日、送り出すことにした。もちろん(ほう)(ちく)するのではなく、見送るのだ。
‌ 行き先は(てん)(めい)()郊外に位置する(せい)(あい)(かん)(すう)(せい)年間から(しょう)(けい)年間にかけて東廠を率い、(らつ)(わん)をふるった大宦官・(りょ)(せき)()(ぞく)(りゅう)(あん)の責任を取って退(たい)(きゅう)したのち、おだやかな晩年を過ごしたことで知られるその()(さつ)は、皇宮を去った宦官たちが行き着く(つい)(すみ)()として騾馬たちの胸に刻まれている。
‌ 灰塵が清埃観で余生を過ごせるよう、手回しをしておいた。そんなことで償いになると思うほど恥知らずではないが、刑哭が師父のためにできることはこの程度だ。
‌「師父が滞在してくださったので荊妻(けいさい)は喜んでおりました。なんでも私だけを相手に料理の腕をふるうより客人がいらっしゃったほうが手ごたえを感じるそうで」
‌「一流の(ちゅう)(じょう)だからな。おまえにひとりじめさせるのはもったいない」
‌ ひとしきり笑い、こちらに視線を投げる。
‌「お節介かもしれぬが、つとめは辞めさせたほうがよい。(きょく)(すい)には東廠の手の者も多く潜伏しているので間違いはないとは思うが、用心しておくに越したことはない。近ごろはどこも物騒だ。万一のことが起こってからでは遅い」
‌「ご忠告、痛み入ります」
‌ 灰塵に助言されるまでもなく、菜戸には因果をふくめて(こう)(えい)(ろう)でのつとめを辞めさせるつもりだ。生きがいを奪うのは心苦しいけれども、刑哭が買った怨みが彼女に襲いかかるのを防ぐにはそうするしかない。
‌「夫人を大事にせよ。われわれのような境涯に置かれた者にとって、寄り添うてくれる女は得がたい宝だ。己が命のようにあつかわなければ」
‌ 菜戸に裏切られた灰塵が吐くにはあまりに苦い台詞だった。
‌ それからは示し合わせたように、たわいない話題が師弟のあいだを行きかった。見るべきもののない景色のことや、徳の高い道士になった宦官の逸話、清埃観に根を張る樹齢千年の古木にまつわる奇談など、沈黙を埋めるためだけの会話がつづいた。
‌ やがて船着き場にたどりついた。一艘の小舟が年老いた船頭を乗せ、待ちくたびれてうつらうつらしているようにかすかな波に揺られている。
‌「世話になったな」
‌ ()(たび)くりかえされた師父の別辞に、刑哭は(ちょう)(ゆう)をかえした。
‌「道中お気をつけて」
‌ 灰塵は重くうなずき、小舟に乗りこもうとしてふりかえった。
‌「もし、どこかであの女を見かけることがあったら
‌ 師父はかたくなに〝破思英〟という名を口にしなかった。まるで呪詛されることを恐れるかのように。
‌「すぐにおまえに連絡する。もっとも私がそうする前に(かっ)()から報告があるだろうが」
‌ 昨年末に()(ごく)から姿を消した破思英のゆくえは(よう)として知れない。
‌ かの女はいまどこにいるのだろうか。なにをしているのだろうか。そして、なにをしようとしているのか
‌ 真夜中の不審な物音のような不気味な疑問が刑哭の胸に暗くわだかまっている。
‌「清埃観にも配下を置いておりますので、何事かあればその者をお使いください」
‌「褐騎を使役できるのは督主だけであるはずだが?」
‌「あれは私用の走狗(いぬ)ですから規則には抵触しませんよ」
‌ 褐騎に私用などない。彼らはおしなべて天子の走狗であり、王朝を延命させるために他人の秘密を食らう。破思英が朝敵なら、彼女を菜戸にしていた灰塵は皇宮を去ったあとも監視対象だ。清埃観で余生を過ごすよう刑哭が手配した時点で、灰塵もそれは承知している。ましてや、灰塵はかつて東廠を率いていたのだから、刑哭が督主という立場でどう動くか手に取るようにわかるだろう。
‌ ゆえにくどくどしく言い訳をする必要はないのだが、あえて私用と言い添えた。あながち嘘でもない。清埃観の走狗にはかく命じてある。もし灰塵が破思英と旧交をあたため、(けっ)(たく)して事に当たろうとしたら、その旨をこちらに報告すると同時に、踏みとどまるよう灰塵を説き伏せよ、と。
‌ 奇妙な下命だとわれながらあきれる。それでも命じずにいられなかったのは、大恩ある師父に破滅の道を歩ませたくないからだ。
‌「まったく手ぬるいな、おまえは」
‌ 夕映えがまぶしすぎると言いたげに、灰塵は顔をしかめた。
‌「日向(ひなた)(みず)のようなやつだ」
‌ 入宮してから何度聞いたかわからない師父の口癖が郷愁のような感情を呼び覚ます。
‌ 詰めが甘すぎる。なぜもっと冷徹になれぬのだ。情けなど、なんの役にも立たない。非情でなければ九陽城で生きのびることはできぬ。早晩、(しかばね)をさらすことになるぞ。
‌ 冷ややかな視線をともなって鳴り響いた師父の教えに正しくないものはなかった。
‌ 灰塵には刑哭を始末する機会がいくらでもあった。にもかかわらず、自他ともに認める冷血漢たる彼はその好機をことごとくふいにした。
‌ 結果、飼い犬に手をまれ、今日という日を迎えたのだ。
‌ 灰塵もまた、当人が思っているほど冷酷ではなかった。なればこそ、彼は皇宮を去らなければならない。(きゅう)(ちょう)の門で守られた(けん)(らん)()(れい)な天子の居城は、人の心を持つ者にとって生き地獄でしかないから。
‌「あっけないもんですねえ」
‌ となりであっけらかんとした童宦(どうかん)の声が響いた。北狄(ほくてき)の血をひくこの童宦は名を()()(えん)という。年は十五。雪を(あざむ)く白い肌と、名工が彫刻したような秀麗な面立ちをしているので美童と呼んでさしつかえないが、生意気そうな表情のせいか、人を食ったような言動のせいか、悪童と呼んだほうがしっくりくる。
‌「全宦官の頂点にお立ちになったかたがこんなかたちで京師(みやこ)を去っていかれるなんて。これが『(こう)(りゅう)悔いあり』ってことですかね」
‌「他人事だと思うな。明日はわが身だぞ。この光景を目に焼きつけて戒めとせよ」
‌ はーい、と調子のいい返事をして、愚猿はいかにも真剣な顔つきで夕焼けにとけていく孤舟を凝視する。
‌ 明日、ではないな。
‌ 弟子に垂れた訓戒がまちがっていることに気づく。明日ではなく、つねにだれもが小舟に乗っているのだ。ときにはひとりで、ときにはふたりで。一丁の()に命をあずけ、不安定な水の上をふらふらとさまよっている。行く先はわからない。途中でなにが待ち受けているのかもわからない。周りに陸地はなく、小舟からおりるすべはない。一度漕ぎ出したら進みつづけなければならない。旅の道連れになってくれる伴侶を失っても。
‌ この世の無常を嘆いても(せん)()いことだが。
‌ 師父との別離に際して胸に満ちた感情をどう表現すればいいのだろうか。それは怨情と呼んでもさしつかえないものだ。
‌ なぜわれわれはかくももがき苦しんで生きているのだろうか。執拗にくりかえされる(かん)(なん)(しん)()になんの意義があるのだろうか。(じょく)()に生まれ落ちたというだけで、なにゆえ罪人のようなあつかいを受けなければならないのだろうか。
‌天への問いは尽きないが、ねぐらに帰ってゆく夕日を(にら)んでいてもいらえはない。
‌「安心してくださいよ、師父」
‌ おどけたふうに手をかざして小舟を視線で追いながら、愚猿は人懐こい口ぶりで言った。
‌「師父のときは俺がお見送りしますから」
‌「生意気な口をきくな」
‌ 刑哭はいささか苦労してしかめ面を作り、弟子の肩を小突いた。
‌「そういうことは一人前になってから言え」
‌「じゃあ、大急ぎで一人前になりますよ。もたもたしてると、師父の見送りに間に合わなくなりそうですからね」
‌ こいつめ、と弟子の耳を引っぱりつつも、口もとがほころぶのを防ぎきれない。胸に満ちていた(あん)(たん)たる思いが晴れていくのを感じる。すこしずつではあるが、たしかに。
‌ これが天のいらえであろうか。
‌ なぜこの世には苦難があふれているのか。なぜわれわれは安楽を(むさぼ)ることを許されないのか。なぜ人間(じんかん)に在るすべてのものはもろく儚いのか。
‌ その答えは、まさにここにあるのかもしれない。
‌ 老いゆく者が己の終幕を悟り、若くあどけない者にたくす夢。それは憂いなき土壌からは生まれない。(あん)(いつ)に溺れながら(かつ)(ぼう)を抱く者がいないように。
‌ 夢の生みの親はいつだって()(げん)だ。()(でい)のなかにいるからこそ、願いの味を知ることができる。願いの味を知ればこそ、己が進むべき道を模索しようとする。()()(きゅう)のお歴々が(ちょう)(ろう)するであろうみじめな悪あがきこそが、われわれに許された唯一の生きかただ。
‌「すっかり見えなくなりましたよ」
‌ 少年らしいよくとおる声に()()を打たれ、刑哭はようやくあたりが薄暗くなっていたことに気づいた。夕日はとうに姿を隠し、代わりに頼りない片割れ月がひっそりと夜空にかかっている。銀粉をまき散らした帯のようにきらめきわたる川面には、どれほど目を凝らしても小舟の残像さえ見当たらなかった。

‌【おわり】