春愁
はるおかりの『後宮茶華伝 仮初めの王妃と邪神の婚礼』購入者特典

恵兆王府の内院は春真っ盛りであった。
「どうした、そんな辛気臭ぇ面して」
見慣れた弟の顔が視界に映りこみ、整斗王・高秋霆はわれにかえった。
「こんないい日和にしけた面をするなよ。見てるこっちまで鬱々としてくるぜ」
「しけた面などしていないが」
「してるよ。ほら、ここ」
恵兆王・高慶全は煙管をくわえたまま、自分の眉間を指さす。
「皺が寄ってるぜ。自覚ねえのかよ」
試みに自分でふれてみると、なるほど眉間が強張っている。
「ようやく孫妃と打ちとけておまえのじめじめした面もすこしは見られるようになってきたと思ってたのに、また陰鬱の虫にとりつかれやがって。いったいどうしたんだよ?」
どうしたと言われても、と秋霆は苦笑いをもらす。
三弟の言いたいことはわかる。端から見れば、こんな時期に表情がくもるのは奇妙なことだろう。ほがらかな心持ちでいるべきだ。期待に目を輝かせているべきだ。
愛する王妃・孫月娥が身ごもったのだから。
懐妊がわかったのは、踏青に出かけた日のことだ。行楽からの帰路につく軒車のなかで月娥の顔色が悪いことに気づいた。当人は大丈夫だと強がってみせたが、とても具合が悪そうなので、同行した穣土王太妃の好意により穣土王府でひと休みさせてもらうことにした。念のために太医を呼ぶと、太医は月娥を脈診したあとでひざまずいた。
「ご懐妊です」
その吉報が真っ先にもたらした感情が歓喜だったことは言をまたない。秋霆は月娥の手を握り、彼女の肩を抱いて胸を熱くする情動を伝えた。月娥は涙ぐんで言った。
「夢のようですわ。殿下の御子を授かることができるなんて」
感極まってこぼれたであろうその台詞が秋霆の表情に呪わしい痙攣のような強張りを刻んだ。それは足音もなく忍び寄ってきた刺客に背後から斬りつけられたときのような衝撃をもたらした。
月娥がなにげなくこぼした台詞は亡き妻、先代の整斗王妃・馮素蘭が難産のすえに翼護を産み落としたあとで、産房の寝床に疲れ切った五体を横たえたまま、つぶやいた言葉と一言一句違わなかった。
あのころは幸福だった。秋霆はお産という大役を果たした素蘭をねぎらい、彼女が苦しみ抜いて産んでくれたわが子の小さな顔をのぞきこんだ。ほんとうに小さな顔だった。邪念に毒された者が彼の首を引きちぎろうとすれば、もぎとられる一輪の花のようにたやすくその害意を果たさせてしまうであろう、頼りなく華奢な首――。
なぜだろうか。あの事件で翼護の首は断ち切られていなかったのに、秋霆が見る悪夢のなかでは、手毬ほどの大きさしかない翼護の頭は胴体から完全に切り離され、血の気のないおもては玻璃のように澄んだ両眼で秋霆を睨んでいるのだ。
――まるで私を呪っているかのようだ。
覚悟を決めて月娥と結ばれたはずなのに、またしても臆病風に吹かれている。惨劇がくりかえされるのではないかと恐れおののいている。
乳母の選出には慎重に慎重を期さなければ。太医や産婆など出産にかかわる者たちも身辺をよく調べておかなければ。月娥の周囲にはまちがいなく信用できる人間のみを置き、すこしでも後ろ暗い背景を持つ者や疑わしい言動が見られる者は遠ざけておかなければ。目を光らせておかなければ。一瞬たりとも気を抜くことは許されない。
過ちをくりかえすわけにはいかないのだ。今度こそ失わないようにしなければならないのだ。夫として愛する者たちを守り抜かなければ――。
「思いつめるなよ、兄弟」
いつの間にか思索にふけっていた秋霆の肩を、慶全がいかにも気安げに叩いた。
「未来のことをあれやこれやと心配しても詮無いぞ。なるようにしかならねえよ。こんなことを言うと、またおまえの眉間の皺が深くなっちまうだろうが、事実、人がどうこうできることなんざ限られてるんだから、仕方ねえのさ。どんな悲劇も天の計らいだ。神仙にもなれねえ俺たちみたいな人間は手をこまねいて見ていることしかできないんだよ」
「……そうだろうか」
そうだよ、と慶全は力強くうなずく。
「玉皇大帝ってのは恐ろしく陰険な野郎だ。雲の上から人界の幸不幸を気まぐれに操り、人間どもが右往左往するさまを高みの見物していやがる。どこまで性根が腐っていれば、こんな下劣な楽しみにふけっていられるんだろうな?」
さも身におぼえがありそうに、憎々しげに口をゆがめる。
「人をもてあそんで悦に入る血も涙もねえ玉皇なんざ糞くらえだ。あんなやつのために、いつまでも七転八倒しているのは馬鹿らしいぜ」
「そのように気楽に考えられればいいのだがな」
「いいのだがな、じゃねえよ。気楽に考えるんだよ。全力で」
「全力で?」
そうさ、と慶全はしつこく肩を叩いてくる。
「気楽に考えられたらいいなあと空をあおいでる暇があったら、望みどおり気楽に考えろよ。ぼーっと待ってたって状況は変わらない。願うだけじゃだめだ。実践しないと」
秋霆の肩を荒っぽくつかみ、慶全は遠くへ視線を投げた。
「どんなに望んでも手に入れられないものはある。手を伸ばすことすら許されない夢を抱いてしまうこともある。しかし秋霆、おまえの場合はちがうだろ? 過去を乗り越えて孫妃とのんきに暮らしたいってだけじゃねえか。その程度の夢を叶えるのに、なんで尻込みするんだよ。目の前に出された料理は湯気が立ってるうちに食うもんだぜ。ぼやぼやしてると冷めちまうし、だれかが横からかっさらうかもしれねえ。そうでなくても食わずに置いておけば腐るだけだ。せっかくの美肴を台無しにしたくないなら、さっさと胃の腑におさめちまえ。後先のことなんか考えるな。どうせ考えたって役には立たねえよ。俺たちのはるか頭上であぐらをかいてる玉皇どのの気分ひとつでどうとでもなるんだからな」
「座して天命に身をゆだねよと?」
「天命なんざ糞くらえってことだよ」
慶全らしいぞんざいな言い回しが小気味よく耳朶を打つ。
「天は貴いと人は言うが、それがどうした。ここは天下だ。人間さまの国だ。尊貴なる玉皇大帝を拝んだところで天上にひきあげてもらえるわけじゃない。俺たちはここに這いつくばって、この濁世を生き抜くよりほかに道はないのさ。人間のやりかたで、無様に転んで血反吐まみれになって、紫微宮におわす崇高なるお歴々に嘲笑われながら、命の火が消える瞬間までしぶとくもがきつづけるしかない。なりふりなどかまっていられるか。恰好をつけている場合か。おまえにどうこうできるのはいまだけだ。起こってもいないことを案じてくよくよして、この瞬間を無駄にするな。おまえがやるべきことは、過去を反芻して未来を暗く塗りつぶすことではなく、いまその手にあるものを――それがおまえの手のなかにあるという事実をしみじみ嚙みしめることだろうが」
「やけに分別くさいことを言うんだな。おまえらしくもなく」
知らねえのかよ、と慶全はおどけたふうに笑う。
「俺は宗室一、分別のある男だぜ。おまえみたいな道理のわからねえやつを見ると訓導してやりたくて血が騒ぐのさ」
それは初耳だ、と秋霆も肩を揺らす。
「おまえに訓導されるようでは、私もおしまいだな」
「修養が足りねえんだよ。経書なんか読みふけってねえで、実生活で人間を磨けよ。俺みたいにな。楽しめるうちにたっぷり楽しんでおかないと――」
かすかな足音が近づいてきたので、慶全は言葉を打ち切った。
「……恵兆王殿下」
おずおずとかけられた声音は月娥のものだ。されど呼ばれているのは秋霆ではない。
「恵兆王妃さまがお部屋でお待ちになっていますわ。お召し物に合わせる繍鞋を選んでいただきたいそうです」
「繍鞋なんか履いてりゃなんでもいいって言ってやってくれ」
「面倒がらずに選んでやればよかろう。ご婦人は夫好みの装いをしたがるものだ」
「けっ、知ったふうな口をきくなよ。あいつが俺の好みなんか気にすると思うか? どうせ最後には自分の気分で決めるんだ。いちいち聞く必要はねえってのに……」
ぶつくさ文句を言いながら、慶全は内院を貫く小径を引きかえしていく。これから皇宮の宴に出席するため恵兆王府の妃たちは張り切って支度しているのだ。
――碧桃か。
そよ風に吹かれて甘く香る碧桃を見やり、秋霆は目を細めた。百花がほころぶ春爛漫の時節にあって、その艶やかな色彩は蒼天に映えてひときわ輝いている。いまのいままで自分が碧桃のそばに立っていることに気づかなかったと人に言えば、怪訝そうな顔をされるだろう。それほどにその花は紅く、華やかな芳気を放っていた。にもかかわらず、秋霆の視界に入らず、嗅覚も刺激されなかったのはなぜだろうか。
「……殿下」
月娥はどこかおそるおそるこちらに歩み寄り、秋霆のとなりに立った。
「恵兆王となにをお話しになっていたのですか?」
どう答えたものか考えあぐねていると、月娥はうつむいた。
「隠し事はしないでください。私たちは夫婦なのですから」
「ああ、そうだな。夫婦のあいだに秘密があってはいけない」
そう言いながらもつづく言葉が出てこない。どのように説明すればいいか、道筋を見つけられなかった。
「私、嫉妬なんてしませんわ」
「嫉妬?」
「……と言えば、嘘になりますが。ほんとうは……すこしだけ、します。いいえ、正直に言えば、ものすごく。でも、我慢できますわ。そうするようにつとめます。お相手がどんなかたでも姉妹として仲良くしますわ。きっとできるはずですもの。だっておなじ殿方をお慕いする者同士なんですから、ちょっと付き合えばすぐに心が通じ合って――」
「いったいなんの話をしているんだ?」
秋霆はいぶかしんで月娥の顔をのぞきこんだ。視線が真正面から交わると、彼女はなぜか逃げるように目をそらす。
「殿下は妾室をお迎えになりたいのでしょう」
「なんだって?」
「責めているわけではありませんわ。殿方にはよくあることだと恵兆王妃がおっしゃっていましたから」
「よくあること? なにが?」
「……妻の懐妊中に浮気の虫が騒ぎ出すことです。無理もないことですわ。私は身重で、殿下にお仕えできないのですから……ほかのかたに目移りなさったとしてもふしぎではありません。殿方にはそういう傾向があると――」
「そういう傾向とは?」
「……女人を求める気持ちをおさえられなくなることがあると聞きました。妻がつとめを果たせないときにはとくに」
五彩の蝴蝶が視界の端で花から花へとわたっていく。
「仕方のないことだと理解していますわ。食べたいときに食べ、眠りたいときに眠るようなものだと……。ですから私、お相手を憎みはしません。むしろ感謝しなければなりませんわ。殿下にお仕えできない私の代わりに、殿下を――」
最後まで聞かず、秋霆は月娥を抱き寄せた。
「わからぬ。そなたがなぜそんな勘違いをしているのか」
「勘違い……でしょうか」
「私が妾室を迎えたがっているなど、馬鹿げた話だ」
「でも先ほど、恵兆王がおっしゃっていましたわ。楽しめるうちに楽しめって。あのかたがおっしゃる『楽しみ』は……色めいたことでしょう?」
とんだ誤解をされたものだ。これも慶全の日ごろの行いが悪いせいだろう。
「恵兆王ご自身も恵兆王妃の懐妊中に浮気をなさったことがあるとか。しかもそのときのお相手が側妃になっていらっしゃるとご本人――その側妃からうかがいましたわ。当時、恵兆王妃は激怒なさってそのかたとひと悶着あったそうですが、いまは姉妹として仲睦まじく恵兆王に仕えていらっしゃると……」
秋霆がさらに強く抱き寄せたせいか、月娥は黙った。
――身から出た錆だ。
このところ月娥への態度がぎこちなかったので、彼女を不安にさせてしまったのだろう。申し開きをしなければ。心変わりなどしていないと弁明しなければ。月娥ならきっと赦してくれる。この血肉に刻まれた罪も、この身に宿る弱き心も。
「そなたはあたたかいな」
「え?」
「まるで陽だまりを抱いているみたいだ」
彼女のぬくもりに溺れていたい。いついつまでも。
「殿下」
腕のなかで月娥が身じろぎする。しかし抜け出そうとはせずに、心やさしい彼女なりのやりかたでこちらを睨みつけてきた。
「ごまかさず、ちゃんと話してください。さもないと私、怒りますわ」
「そなたが怒ったらどうなるんだ?」
「とっても恐ろしいですわよ。ひょっとしたら夢でうなされるようになるかも」
「それはいい。夢のなかでもそなたに会える」
そんなのんきな話ではありません、と月娥はまなじりをつりあげる。
「夢のなかでは私の茶器を全部洗っていただきますわ。ちょっとでも汚れが残っていたら最初からやりなおしていただきます。それに私のためにお茶を淹れてくださいね。湯を沸かすところからではなく、きれいな水を山にくみにいくところからですよ? ずるをして川や井戸の水でごまかそうとしてもすぐにわかるんですから。風味が全然ちが――」
「そなただけだ」
秋霆は月娥の耳もとに口を寄せた。
「私が欲しいと思うのはそなたひとりだ。ほかの女人など目に入らない」
いったいなにを求めればいいのだろうか。月娥と過ごす平穏な年月以外に。
「ほんとうですか? いまの私では……殿下にお仕えできないのに?」
月娥は不安そうに見上げてくる。こらえきれなくなって秋霆は彼女の唇をふさいだ。
「もちろん、そなたと同衾できないのはつらい。だが、やむを得ないことだと理解している。無事にお産が終わり、そなたの体調がととのうまでは――」
言いさして、ふいに思い出す。今春、敬事房太監に栄転した、元皇后付き次席宦官の同淫芥が戯れに話していた。妻が懐妊中であっても安全に巫山の夢を見る方法があると。話半分にしか聞かなかったことを後悔する。そのころは月娥と名実ともに夫婦になったばかりで、彼女が身ごもるのはもっと先のことだろうと気楽に考えていたのだ。
「今日の宴には同太監も顔を出すだろうか?」
「敬事房太監が皇后さまのご懐妊祝いに駆けつけないわけがないでしょう。それに皇后さまは同太監にとって大恩ある旧主ですもの。かならずやお祝いの品をたずさえて御前に参上するはずですわ」
汪皇后の懐妊がわかったのは昨年末のことだが、破思英の事件で宮中の情勢が乱れていたので祝宴は先延ばしになっていたのだ。
「それは願ったり叶ったりだな」
「願ったり叶ったり?」
月娥が不審そうに眉根を寄せる。
「なんでもない。こちらの話だ」
「嘘をおっしゃらないで。殿下の口ぶりから察するに、同太監に相談なさりたいことでもあるのでは?」
図星をつかれ、秋霆は目をそらした。
「目をそらすなんてますます怪しいわ。いったいどんな相談をなさるおつもりなのです? 夫婦なのですから、隠し立てせずに打ち明けてください」
「……いずれは打ち明けることになるだろうが、場所柄をわきまえていまはやめておこう。ここは恵兆王府だから、夫婦の秘密を話すのは憚られ……」
「憚ることはねえぜ」
笑いふくみのおどけた声音が築山のほうから飛んできた。いつ戻ってきたのか、慶全が築山に寄りかかってこちらを見ている。
「俺はいっこうにかまわないんで思う存分話せよ。夫婦の秘密とやらをさ」
「三弟……まさか立ち聞きしていたのか」
「そんな趣味の悪いことはしねえよ。そろそろ出かけるぞーって呼びに来たら、取り込み中だったんで邪魔しねえように身を隠していたのさ」
「それを立ち聞きというんだ」
さっさとむこうへ行け、と秋霆が手をふると、慶全は幾度も思わせぶりにふりかえりながら立ち去った。
「まったく無作法なやつだ。そういうわけだから月娥、この話のつづきは王府に帰ってからにしよう。ここはあいつの根城だから、寸刻たりとも落ちついていられない」
さあ行こう、と促したが、月娥は頑として動かない。
「あとで話すと約束してくださるんでしょうね? 同太監となにを相談なさったのか」
「約束するとも。どの道そうなるからな」
「どの道?」
「ああ、いや……そなたに隠し事はできないと言ったんだ。私は嘘を自在に操れるほど器用な男ではないから」
あまり納得していないふうの月娥を連れて歩き出す。
――小憎らしいが、三弟は有益な助言をしてくれた。
この幸せが永続するかのように行動するのは愚かなことだ。
失うことを恐れるなら、二度とふたたびくりかえされない一瞬一瞬を大切にあつかわなければ。春は来年も訪れるが、人の命はいつかかならず尽きるのだから。
春愁に囚われている暇はない。
【おわり】