玦(おびだま)の追憶

「名君が時に暗君に転じるのはなぜだと思う?」
炫耀がそう尋ねたのは二人揃って課業を脱け出し、祠堂へやってきた時のことだった。
剰州を治める王の邸宅は広大であり、園林を抜け、奥まった場所にある祠堂は、昼間でもあまり人が訪れることはない。
永晶国中央は叛乱により混沌のさなかにあるというのに、この地では軍の統制が敷かれているせいか、邸宅はまるで別世界のように静寂に包まれていた。
「史学など退屈だと仰せになって外に出たというのに、そのご質問ですか? 郎君」
明真がからかいまじりに言葉を返すと、彼はむっとした様子でこちらを見る。
「その呼びかたはよせ、明真。おれと二人きりの時は炫耀でいいと言ったはずだ」
炫耀の父は皇弟であり、王の称号を持つ。本来なら明真のような元孤児が、気軽に名を呼んでいい相手ではない。
しかし、早くに母を亡くし、わがまま放題に育てられた九歳の炫耀は、ひとつ年長の明真が生活を共にするようになると、学友としてだけでなく、兄弟のように遊びや悪戯にまで付き合わせるようになった。
現在の養父に言い含められていたこともあり、お目付け役としての立場を忘れることはなかったが、それでも明真はこうして時折、羽を伸ばすのを黙認している。それは、年少の炫耀にとって、世子としての暮らしがあまりに息苦しいことに気づいてしまったからだ。
祠堂をめぐる廊道に腰をかけ、炫耀がさきほどの質問の答えをうながす。明真はその前で軽く礼を取り、口をひらいた。
「そうですね。炫耀さまに付き合って、私も史学をさぼりがちですので、あまりあかるくはありませんが」
皮肉まじりに前置きしながら、いくつかの例を挙げて答える。
名君が道を誤るのは、佞臣や奸臣に惑わされて政を誤るからではないか。あるいは、奢侈や色欲に溺れて政務を疎かにするからではないか。
「長い間、善政を敷いていた皇帝が、安寧の世に飽きて民を虐げるようなこともありますね。例えば」
まっさきに脳裏にうかんだ皇帝の名を口にしかけてぐっと呑みこむ。ためらった明真を可笑しそうに見て、炫耀は言った。
「気にせず言ったらどうなんだ。城市のやつらはみんな言ってるぞ。象賢帝ばかりか、今上までも、かつては賢君と呼ばれたのに国を危うくしたと」
「いえ、それは……」
象賢帝は炫耀の祖父であり、今上は伯父にあたる。
たとえ叛乱によって国が混乱のさなかにあるとしても、彼の前でそんなことを言えるわけがない。
「陛下が宦官を重用しすぎたのは本当のことだ。不満を抱いた者たちが叛旗をひるがえしたのも当然だなどと言うやつもいる。陛下の御ために、軍を率いて戦っている阿爺を同じように悪く言うやつも……」
くぐもるような炫耀の声にはやるせない怒りがにじんでいる。彼の目は、膝の上で握りしめた己の拳を見つめていた。
「王爺が叛乱鎮圧のために立ってくださったからこそ、私は救われました」
明真がまっすぐ見つめ、そう言うと、炫耀の顔がぱっとこちらを向いた。
「養父と別れて、あちこちから火の手のあがる静晏の都を脱した時は、いつ自分が殺されるか、こわくてたまりませんでした。王爺が軍を派遣してくださらなければ、私はとっくに死んでいたでしょう」
その言葉にいつわりがないとわかったのか、炫耀は励まされたようにうなずく。
「そうだ。阿爺は間違ったことなどしていない。おれにも約束してくださったんだ。一刻も早く叛乱を鎮めなくてはならないと」
己に言い聞かせるように答え、炫耀は握りしめた指をひらいた。彼の手の中にあるのは、艶やかな翡翠の玦だ。不安なことがある時、正室の理不尽な仕打ちに悲憤をこらえる時、彼がそれを握りしめていることに、明真も早くから気づいていた。
おまえだけに特別に見せてやる、と手に取らせてもらったそれは、炫耀が父から譲り受けたもので、もともとは象賢帝の持ち物だったと聞く。彼にとっては心痛を癒やすお守りのようなものなのだろう。
「叛乱軍は静晏から追い出され、各地の賊軍も次々に投降していると聞きおよびました。今上がお戻りになればきっと」
炫耀を心づけようとしたものの、これですべて元どおりだ、とは、いくら年少の明真にも言えなかった。宦官の専横に業を煮やした禁軍の将と宰相とが結託し、乱を起こしたのだから。
これからこの国はどうなるのだろう、と重苦しい気持ちにとらわれそうになった時、炫耀がぽつりと言った。
「阿爺は今上の後を継いで、皇帝になるかもしれない」
「え……」
明真は絶句し、一拍遅れで言葉の意味を悟って思わず周囲を見回した。
しかし、祠堂の中にも外にも明真たちのほかに人の気配はなく、わずかに鳥の鳴き声が聞こえるばかりだ。
「長史が話していたんだ。今上が阿爺に皇位を譲りたいと仰せになっていると」
今上帝の皇太子や皇子はみな、叛乱のさなかに没したと聞く。
皇城のある静晏から逃げのびた今上が、病に仆れた、とも。
だから炫耀は、さきほどあんな質問をしたのだろうか。
「おれはな、明真。名君が道を誤るのは、何かを大切にしすぎたからだと思う」
再び玦を握りしめ、炫耀は言った。
「臣下でも妃でも、自分の欲や名誉でも、何かを大切にしすぎるあまり、周りが見えなくなって、おかしくなってしまうんだ」
「それでは、大切なものを持たない君主ほど、名君でいられるということになるのではありませんか?」
少しばかり極端な言いように思えて明真が疑問を投げかけると、炫耀はちらりと笑みをうかべる。その笑みは、明真が今まで見たなかで、いちばん大人びた笑みだった。
「きっと、そうなんだろう。大切なものを守るためなら、間違っているとわかっていても罪を犯すかもしれない。弱みに付け入られて邪なたくらみを持つ者に騙されることだってある。何かを大切にしたり、特別に思うやさしい心を持ったままでは、国なんていう巨きなものは背負えないんだ」
少しばかりもの覚えが良いからと、俊才だともてはやされていた自分などより、よほど本質をついた炫耀の言葉に、明真は息をのんだ。
明真の驚きに気づいた様子もなく、炫耀はうつむいたまま呟く。
「なあ、明真。おれはこわいよ。阿爺はそんな巨きなものを背負わなきゃならないんだろうか。人としてのあたたかな気持ちをなくさなきゃ、名君でいられない場所へ行かなきゃならないのかな。おれも……」
最後の呟きはそれ以上言葉にならないまま、はかなく消えた。
炫耀の実父が皇位を継ぐなら、いずれその座は炫耀にも回ってくることになる。炫耀は世子なのだから。
「私が、お支えします」
気がつけば、明真はそう口にしていた。
「炫耀さまがお心をなくさなくても名君でいられるように。たとえ、お心をなくしてしまわれたとしても、私がお味方いたします」
「明真……」
目を見ひらいている炫耀に、明真は誓約のように続ける。
「官僚となって、必ずお支えしますから」
物心つく頃に両親を亡くした明真にとって、前の養父は高齢だったこともあり、尊敬はしていても、家族のぬくもりを感じるには隔たりがあった。
だが、今の養父のもとで学友として引き合わされた時、炫耀は明真の手を取り、家族のように迎え入れてくれたのだ。
口からこぼれた言葉ははずみに近かったが、明真にとって本心にほかならなかった。
「官僚の試験は難関だそうだぞ」
にじんでいた涙を拳でぐいと拭い、炫耀は憎まれ口をたたく。
「皇帝となるための学修にくらべれば、何ほどのことはありません」
明真が負けずに返すと、炫耀はにやりと笑って立ちあがった。
「なら、こんなところでさぼっている暇はないな。さっさと戻って今日の課題を終わらせてしまおう」
絋鎖の乱、と呼ばれた叛乱から十七年の歳月が過ぎ、官僚となった今も、明真はあの日の会話と炫耀の表情をまざまざと思い出すことができる。
記憶の中の情景がいつまでも色褪せることがないのは、明真にとって己の行く末を思い定めたきっかけだからだろう。
懐かしさを振り払い、六寝の一角に足を踏み入れると、何かが履に当たる感触がした。
かたく乾いた音を立てて転がったそれは、薄明かりの差し込む入口と、居間の奥との境目で止まる。
濡れたような翡翠の表面と、円環を切り欠いた特徴的な形。
己の足に当たったものが、見おぼえのある玦だと気づいた明真は、視線の先に力なく腰を下ろす人影を認め、礼を取った。
「臣、応毅。召命によりただいま参じました」
「……よく来た。面を上げよ」
深酒の後のようなしゃがれた声で答え、皇帝は榻から立ちあがる。
こちらへ近づくと、着崩れた袍服からは酒精以上に疲労と焦燥が強く漂ってきた。
床に転がったままの玦から意識をそらし、皇帝に相対した明真は絶句する。
二十六歳で即位した皇帝炫耀は、鍛え上げられた体躯を持ち、若くして威厳を備えていたはずだ。それが今は、頬の肉が削げ、髪の艶も失われて、数か月前に目にした時とは比較にならぬほど憔悴しきっている。
「官から既に聞いたであろう。桐黎緑が後宮より姿を消した」
胸をつかれている明真に、炫耀は抑揚のない声で告げた。
「はい。後宮内で侍女が離れたわずかな隙に消えうせたとか」
「すべての宮殿を検め、後宮の敷地内を隈なく捜し、妃のみならず、宦官、女官、侍女、宮女に至るまで聴取をおこない、変装やなりすましの有無まで確かめたが、未だ手がかりはつかめぬままだ」
桐黎緑は後宮の妃の一人だ。二十七世婦のうち、婕妤として仕える彼女は、皇帝の寵姫だったと聞く。
「何らかの理由によって、桐婕妤が後宮の外へ連れ出されたとは考えられませんか」
「宮門は固く閉ざされ、不審な出入りはなかった。後宮をかこむ高墻を飛び越える翼でも持たぬ限り、連れ出すことも逃げ出すこともできぬ」
後宮の外へ出た形跡はどこにもなかったという炫耀の言葉に、明真は考え込んだ。
彼女が連れ出されたのでも、自ら逃げ出したのでもないとすれば、寵愛を妬む何者かに害され、既に亡き者とされている可能性もある。
明真の推測を察したかのように、炫耀は低く言った。
「黎緑は、もはや骸となっているのかもしれぬ」
即位まもなくの頃は英気に満ちていたはずの両の目は、底のない淵のように昏い。
「だが、そうであるなら尚更、後宮で何が起きているのかを明らかにし、黎緑の安否を確かめなくては」
儀式の場で目にした桐黎緑の姿を明真は想起した。
まぶしいほどの白い膚と美貌を持ち、はかなげな印象ながら、その瞳には聡明そうな光が宿っていたことを。
床に落ちた玦に、再び視線が吸い寄せられる。感情にまかせて擲たれたのか、過失によって手からこぼれたのかわからぬまま、明真は進み出て思わず拾い上げた。幼い頃にこれを握りしめていた炫耀の、頼りなげな横顔が脳裏をよぎった。
「先帝より受け継がれた、大切なものとうかがいましたが」
眼前に捧げられた玦と明真の言葉の響きに、粗略な扱いを諫められたと感じたのか、炫耀は気の進まぬ様子でそれを取りあげる。生気のない顔には苦い表情だけがうかんでいた。
「こんなものに心を預けてなんになる。玉石といえど、しょせんは石にすぎぬというのに」
吐き捨てる声に、明真は今さらながらに悟った。
炫耀はもはや、玦を握りしめて心痛をこらえていた郎君ではない。
後宮で、真に心を預けるべき存在を見つけたのだ。
「だからおまえを喚んだのだ。おまえならば、黎緑の行方をつかむことができる。そうであろう?」
炫耀のすがるようなまなざしに、明真は再び礼を取った。
「一命に代えましても」
姿を消した寵姫を案ずるあまり、皇帝は御寝にこもり、政務が滞りがちになっていると近臣から報告を受けている。
このまま、桐黎緑の行方がわからず、生死定かならぬ状況が続けば、即位まもない皇帝は心の均衡を失うかもしれぬ、と。
ならば、今こそ明真は、幼い頃の誓いを果たさねばならない。
心をなくさずとも名君でいられるよう、心をなくしたとしても味方であれるよう、臣下となって彼を支えると約したのだから。
「必ずや、桐婕妤失踪の謎を解き、陛下の御前にお連れいたします」
永晶国が再び暗君を戴く危機は除かねばならない。
そのためならばどのような手段も厭わぬと決意して、明真は深く頭を垂れたのだった。
【おわり】