お人好しの希梨香
「――そんな噂、嘘に決まってる! いや絶対にないって! なぜ太陽が森若と? あいつモテるじゃん。三十の女と結婚するなんて、食べ残しをディナーにするようなもんじゃん! ないったらない、あり得ない!」
希梨香が営業部販売課に入ると、演説のような鎌本の声が聞こえてきた。
平日の昼間である。天気がよく、大きな窓から日光が射し込んでくる。だいたいの販売課員は外回りに出ていて、吉村部長もいない。室内にいるのは数人だけだが、彼らは鎌本の言葉を否定するでも肯定するでもなく、曖昧な表情で聞き流している。
効いてるな――と希梨香は思い、こみあげてくる笑いをこらえる。
大阪営業所の山田太陽と、経理部の森若沙名子が結婚する。
そのことを知ったのは今日である。
知ったときは驚いたが、それほど意外でもなかった。そもそも三年ほど前、太陽にせがまれて沙名子のメールアドレスを教えたのは希梨香なのだ。希梨香が太陽を好きなのを知っていながらそういうことを頼む。山田太陽とはそういう男だ。まったく腹がたつが、惚れた弱みなので仕方なかった。
どうせ沙名子は太陽をふるだろうし、しつこくして嫌われればいいと半分くらいは思っていたのだが、残り半分くらいで、ひょっとしたらひょっとするかもと思っていた。
自分はお人好しだとつくづく希梨香は思う。ついつい人のために動いてしまう。メールアドレスを太陽にこっそり教えたのが希梨香だと沙名子にばらしてやりたい。
「別にいいだろ、太陽と森若さん、年次ひとつ違いだっけ。お似合いなんじゃないの」
鎌本と向き合っているのは同じ販売課の立岡である。立岡は販売部の中では穏やかなほうだが、さすがにうんざりしているようだ。
「そういう問題じゃないんだよ。わかってないな。森若って三十なんだよ! 賞味期限切れてるの!」
「俺なんて三十六だよ。いいかげん結婚したいよ。社内結婚とか羨ましいわ」
立岡が言った。内心、おまえだってもう中年だろうがと言いたいのに違いない。
鎌本は社内の女性の誕生日を全部覚えているという噂である。なぜこんなに年齢にこだわるのかわからないが、さすがにムカつくと思っていたら、近くのデスクにいた亜季が、ぼそりとつぶやいた。
「三十三十って、欠陥品みたいに言われるとさすがにムカつくな」
亜希は姉御肌の女性で、普段は人の悪口を言わない。たまに言うと凄みがある。
「ですよねえ。周りも引いてますよ」
希梨香は同意した。
亜希は去年、合併した化粧品会社から営業部に入ってきた。味方にしたら大助かり、敵にまわしたら怖そうだというのは直観でわかっている。
「亜希さん、あれ本当なんですか。少し前に言ってましたよね。鎌本が、森若さんの三十歳の誕生日にプロポーズして、交際ゼロ日で結婚する気だったって」
希梨香はここぞとばかりに尋ねた。
一回、きちんと確認しなくてはと思っていたのである。
亜希は販売課で鎌本とゆるいチームを組んでいる。車で外回りをするときの雑談で、妙な話を聞いたらしい。鎌本には亜希も警戒していて、女性社員の話はしないようにしているのだが、そのときは驚いて聞きこんでしまったという。
「ああ――税務調査の準備のときですね」
亜希は答えた。去年の秋から冬にかけての税務調査では、天天コーポレーション全体で大騒ぎだった。なかでも経理部は全員がいっぱいいっぱいで、いつもは暢気な真夕でさえ、目を血走らせて毎日残業していた。
沙名子は経理部内で、営業部の担当者である。
「あのときは大変でしたよね」
「そうですね。森若さんもさすがに疲れているみたいだったから、責任が重くて可哀想だって話を鎌本さんにしたんですよ。誰かフォローしてあげる人がいればいいのにって。声をかけてあげようにもわたしは経理のことはさっぱりだし、森若さんは助けを求める性格じゃないし」
「そしたら鎌本さんが、俺がやるって?」
希梨香が言うと、亜希はうなずいた。
「もうすぐ誕生日だし、食事に誘って、森若さんが望むなら結婚してもいいよって、いきなり言ったんですよ。どうしてそうなるんですかって聞いたら、不機嫌になっちゃって」
「はあ? たとえ彼氏がいなくたって、つきあってもない男と結婚するわけないじゃん」
「そうですよね。びっくりして、交差点でエンストするところでした」
「鎌本さんは結婚観がおかしいんですよ。森若さんに相手にされないんで、こじらせたんじゃないですかね。――まあ、そのおかげで森若さんは太陽と結婚したようなものだけど」
「そうなんですか」
亜希はよくわからないといった顔をしている。
今は考えられないが、数年前はよく、鎌本と太陽、希梨香と真夕という組み合わせで飲みに行った。
希梨香は当時は入社三年目で、太陽を狙っていた。鎌本と太陽は組んでいたので誘えば一緒に来る。鎌本は沙名子が当時から好きなようで、真夕がいるので自然に沙名子の話題になった。
太陽が沙名子を意識しはじめたのはそれらの影響もあったと思う。おかげで希梨香が太陽にメールアドレスを教えるはめになってしまった。その結果がこれである。まったく太陽はちゃっかりしている。入社したばかりの希梨香が、この会社でいちばんいい男だと目をつけただけのことはある。
「山田さんてわたしは知らないけど、いい人らしいですね」
「いいやつですよ。いい人っていうよりいいやつ」
希梨香は言った。
視線の先では鎌本が立岡相手に喋っている。
「まあ仮に事実だったとしても? だから何って話だけど。太陽が不幸になるだけで。女ってすぐ逃げるし、人のせいにするし」
「――森若さんが結婚するって本当なんですよね。鎌本さんに伝えてあげたほうがいいんじゃないですか」
亜希が目を細めて言った。鎌本の周りからは人が離れている。立岡ももう呆れて相手にしていない。
「いやー、まだ伝えなくてもいいですよ。もう少し見ていたい」
「――あ、ちょうどよかった、中島さん来ていたんですね」
亜希と話していると、横から声が割って入った。
「山崎さん。外回りですか。珍しいですね」
希梨香は言った。山崎は今帰ってきたところらしい。デスクに資料の入ったビジネスバッグを置き、穏やかに言う。
「うん、新規が取れたんで。あとで正式に企画課と広報課にまわすけど、できれば中島さんに担当を頼みたいんですよね。大手の化粧品のキャンペーンに割り込めそうなんで」
「キャンペーン? なにそれ面白そう」
「だろうと思った。販売のほうは山野内さんに引き継ぎたいです。忙しいのはわかっているけど」
「忙しいけど、やりますよ。――鎌本さんは?」
「当分無理でしょう」
山崎はちらりと鎌本に目をやり、目を細めた。今日は朝からいなかったのに事情がわかっているようだ。
「あれ、山崎さんは知ってたんですか? 太陽と森若さんのこと」
「いや知らないけど。何かあったの?」
山崎は涼しい顔で言った。
嘘をつけと希梨香は思う。希梨香は、もしかしたら山崎も沙名子のことが好きなのではないかと思っている。山崎は誰に対しても穏やかで礼儀正しいが、沙名子に対しては少し皮肉っぽくなる。どいつもこいつも、好きな女に意地悪をするのは小学校低学年で卒業してほしい。
「太陽と森若さん、結婚するらしいんですよ」
「それは中島さんの勘? 森若さんから聞いたんですか?」
「真夕に言ったみたいです。だからもう確定」
「――なるほど」
何がなるほどなのか。突っ込もうと思ったら、ふと営業部内が静かになった。
山崎がフロアのドアを見る。
希梨香もつられて目をやると、制服姿の沙名子が、伝票を手に持って入ってくるところだった。
沙名子はフロアを見回し、立岡のところまでやってきた。
「立岡さん、先日の売り上げですが、別表の訂正をお願いします」
沙名子は落ち着いた声で言った。
「あ、はい。間違っていましたか」
「数字は合っていますけど、詳細を残しておきたいので。雛形をサーバに置いてあるので参考にしてください。――今日は吉村部長はいらっしゃいませんか」
「吉村さんは昼くらいに来ると思います」
「ありがとうございます」
「――あの」
「はい。何か?」
「――いえ……。なんでもないです」
沙名子は手に書類を持ったまま、部長席へこつこつと歩いていく。
なんとなく営業部員たちが注目している。そのことに気づいていないはずはないと思うが、沙名子は普段と変わらなかった。
――いや、変わっている。沙名子からは、それ以上訊いたら斬るからなというオーラが漂っている。さすがだ。
そこを乗り越えて聞き込むのが普段の希梨香なのだが、ここで沙名子を怒らせるのは賢い判断ではない。沙名子からはもっと細かいことを聞き出したいし、ここで尋ねては、営業部員に少しずつ噂を流すという楽しみを奪われることになる。
沙名子は部長席に書類を置くと、ドアに向かってフロアを横切っていく。
そのまま行くのかと思ったら、ふと立ち止まった。
鎌本が行く道を塞ぐように突っ立って、沙名子を見つめていた。用事があるわけでもないのに避けない。
沙名子は不思議そうに鎌本に目をやり、迂回した。通り過ぎ、ドアまで来る。
鎌本は大きく息をした。そのまま振り返り、ドアへ向かってくる。
亜希がとっさに沙名子を庇うように手を出したが、鎌本は見ていなかった。沙名子、亜希、希梨香に目もくれず、横をすり抜けて営業部を飛び出して行く。
希梨香はあっけにとられている沙名子に向かい、しっかりとうなずいた。
「大丈夫、まだ鎌本さんには言いませんから。しばらく泳がせておきます!」
希梨香は言った。
沙名子と太陽にとっても迷惑だろうし、この際、鎌本をしっかり諦めさせよう。こうやってついつい人のために動いてしまう。まったく自分はお人好しなのである。
【おわり】