ハッピーエンドにするって決めた


 あれ、なんでこの子急に走り出したんだっけ。
 映画の終盤、主人公の女の子が部屋を飛び出して住宅街を走り抜けている。メインテーマが流れはじめたし、時間的にもたぶんこれがラストシーン。必死に走る表情のアップからどんどんカメラが引いていき、町全体が見えてくる。あっ、暗転。エンドロールに突入した。どうしよ。内容ぜんぜんわからなかった。
 エンドロールがはじまっても、だれかが席を立つ気配はない。みんな()(いん)に浸ってるんだろうか。でも途中で立つと人間失格ってくらいの(らく)(いん)を押されるから、とりあえず座ったままの人もいると思う。
 監督の名前が表示されたあと、場内がふっと明るくなった。お忘れ物ございませんようにとアナウンスが響いて、観客がいっせいに立ち上がる。いままで止まっていた時間が急に動き出すこの瞬間こそ、映画のワンシーンみたいだなっていつも思う。
 左隣に座る()()ちゃんは、白くなったスクリーンを眺めたままだった。あたしの視線には気づいてない。顔を見ると涙目になっている。泣いたんだ。
 小声で呼びかけると、
「あ、ごめん。出ようか」
 紗良ちゃんがそそくさと席を立つ。どうして謝るんだろ。退場列にまざり、気づかれないように小さくため息をついた。バックパックを背負い直すと、後ろにいた男のひとの腕にぶつかって、ちょっとにらまれる。ごめんなさいって頭を下げたらさっと視線を()らされた。注意不足だったあたしも悪かったけど、無視しなくたっていいのに。紗良ちゃんの「ごめん」とあたしの「ごめんなさい」は、だれにも届かずこの映画館に置き去りにされる。
 シアターを出たところのゴミ箱に、飲み切れなかったアイスコーヒーをざらざらと捨てた。外が暑かったから買ったけど、飲んだら少し身体(からだ)が冷えた。
「よかった? 映画」
 下りのエスカレーターに乗りながら振り返る。泣いてたし、てっきり「よかったよ」っていう返事があると思ってたのに、「え。(やま)(かわ)さんはよくなかった?」と逆に聞き返されてしまった。
 紗良ちゃんは、なんというか、こういうところがある。いちばんに発言しようとしない。講義中の発表とか、雑談しているとき、だれかとだれかの間に入り込む。いつも真ん中にいようとする。
「あたしはいまいちだった」
 先に否定的なことを言うと、紗良ちゃんは自分の感想を言いづらいだろうな。でも嘘はつきたくないし、「どこがよかった?」なんて聞かれても困るから正直に答えた。
「救いがない暗い映画って好きじゃないんだよね。どういう気持ちになればいいのかわかんなくて」
 暴力的な親、クズな恋人、親友の(しっ)(そう)(せっ)(とう)、薄暗い社会の片隅、孤独、中盤の突然のダンス。さっきまで観ていた映画をあらわせと言われたらそういう言葉しか出てこない。バイトも入れてないせっかくの日曜日、誘われなかったら一生観なかっただろうなあっていう映画だった。で、この映画に誘ってきたアズは体調不良で朝とつぜんキャンセルの連絡をしてくるし。
 あたしたちは三人でいるからバランスが取れているような関係だ。大学の外で紗良ちゃんと二人で過ごすのは今日が初めてだった。
「あーなるほど
 紗良ちゃんがあたしの後ろでつぶやいた。エスカレーターは一定の速度でゆるやかに進んでいくけれど、あたしたちの会話は故障でもしたように不自然に止まる。
「でも紗良ちゃんは、いい映画だと思ったんだよね? 泣いてたみたいだし」
「あー、ええと」
 ああまた言い方を間違えた。口ごもる紗良ちゃんを見て反省する。高圧的とか怒ってるみたいとか、ぜんぜんそんなつもりないのに勘違いされることがあたしは昔から多い。
 ()びている歯車のようなぎこちない足取りでエスカレーターを降りて列から外れる。帰っていくひとも、受付や売店に並ぶひとも、みんな楽しそうだった。そんななか、紗良ちゃんだけが気まずそうな顔をしている。そういう顔をさせてるのは、あたしなのか。
「えーと、あたしはいまいちだと思ったけど、それは紗良ちゃんがどんなふうに映画を観たかってことには関係ないよね? 純粋に紗良ちゃんの感想を聞きたいんだけど。あと最後に主人公が走ってた意味わかった? なんで走ってんだっけって考えてたら映画終わっちゃった」
「最後のはなんだろう、たぶん、解放されたかったんじゃないかな
「解放?」
「や、なんか孤独とかつらさとか、そういうものから?」
 わからないけど、と自信なさげに付け加えるから、ちょっとむっとした。わからないけど、とか、知らないけど、とか言われるのは好きじゃない。無責任なかんじがする。もっと自分の発言に自信を持てばいいのに。
 あたしは思ったことがすぐ顔に出る。いまの自分の顔、かなり不機嫌になってるんだろうな。紗良ちゃんが革のショルダーバッグのひもを両手で握りしめて黙り込む。小刻みにまばたきしていて、居心地悪そう。
 いたたまれなくて入口の自動ドアに視線をそらした。ブリーチをかけたばかりのあたしのホワイトブロンドが目立ってる。黒い髪とグレーのワンピースを着る紗良ちゃんとは正反対。(やま)(たに)紗良と山川さわら。あたしたちが似ているのは名前くらいだ。
「孤独とか、なんかあたしにはしっくりこない」
 泣くほど感情移入をした紗良ちゃんに比べて、ぽかんとすることしかできなかったあたしは、薄情なんだろうか。映画の感想なんて人それぞれなのに、違いがやけに引っかかる。
「わたしの見方が合ってるわけでもないと思うけどたぶん解釈はたくさんあって、だから、あ、行間を読む映画だったんじゃないかな」
 出た、行間を読む。そういう感覚的なこと、苦手だ。行間を読めと言われても、そこになにが書かれてるのか、具体的なことを教えてもらえたためしがない。なにも書いてないところを読むってどうやるの? 読んでほしいなら書いてほしい。
「じゃあわかんなくてもしょうがないかも。あたしってほら、(せん)(さい)じゃないでしょ。見るからに」
 ゆったりと沈んでいきそうな空気を引き上げたくて、海外ドラマの俳優みたいに大げさに肩をすくめてみたけれど、紗良ちゃんはあきらかに反応に困っていた。うわ、すべってる。反応をもらえなかった両手をすごすごとおさめると、紗良ちゃんが遠慮がちに口をひらいた。
「山川さんって幸せなんだね」
 なんだそれ。思っただけじゃなくて声に出ていた。またやってしまった。紗良ちゃんの肩がいっしゅん震える。ごめんと謝ると、「や、私のほうこそごめんね」と謝り返される。このやりとり、不毛だ。すごく不毛だ。
「なんというか、この映画のよさがわからないひとって幸せなんだろうなって。つらいことをあまり経験してこなかったのかなって。あ、もちろんそれが悪いってことじゃないよ。むしろいいことだと思うし、だからわからないままでいいんじゃないかな」
 たしかに紗良ちゃんの言うとおり、あたしは幸せだけど。両親がやさしくて、経済的には困ってなくて、友だちも多いほうで、親友が失踪したことだってなくて、健康な身体で生きていて、ついでに頼れる従兄弟(いとこ)がいる。どう考えても幸せだけど、紗良ちゃんの言葉にどうしてか反論したくなる。べつに幸せじゃないよって。
 突き放されたような、線引きされたような、ぽつんと身体の一部分がさみしくなる。急に小学校のころのことを思い出した。体育の授業や運動会で使っていた白線引き。体育係だったとき、あれを薄暗い倉庫から出して、広いグラウンドにがらがら線を引いたっけ。
「このあとどうする?」
 アズがいればわざわざこんなことを聞かなくても流れが自然に決まっただろう。正確には、あたしとアズが予定を決めて、紗良ちゃんがそれについてきてくれる。三人ならランチも買い物ももっと気軽に行けるのに。
「んー
 紗良ちゃんがポケットからスマホを取り出す。なにかを調べてるふうだから、近くにあるお店とか探してくれてるのかなって、さりげなくのぞいてみたら映画のレビューアプリの画面だった。あ、いま観た映画の感想を検索してる。
「そうだあたしサンダルが欲しくて。このあと一緒に買いに行かない? オレンジか青か色で迷ってるんだよね。意見もらえたらうれしいんだけど」
 あたしはなんでもひとりで決められるタイプだけど、それはそれとして、このまま解散するのはよくない気がした。わだかまりが残ってしまいそうで、それをすっきりさせたかった。あたしはとにかく白黒つけたい性格なのだ。
「でも、わたしなんかのセンスで決めるのは申し訳ないから」
 スマホから顔を上げても視線を合わせず、紗良ちゃんがもごもごと断ってくる。ぜんぜん理由になってない。
「いや、センスとかべつに求めてないから。あ、待って。いまの言い方いやな感じだった? ふつうに買い物行こうよってだけだよ」
「うーん、でも、ほらわたしたち、服の系統も違うし」
「いやだから関係なくない? 服の系統とか」
一緒に買い物に行ったら山川さんをいらいらさせちゃう気がするから」
 くちびるの両端がむずむずする。行きたくないならそうはっきり言えばいいのに、という言葉をなんとか口内に押しとどめた。
「あーまあ、じゃあ、また大学で」
 (のど)(かわ)いてないはずなのに、あたしの声は()れているみたいだった。紗良ちゃんはそこでほっとした顔をつくって、「うん。ごめんね」と手を振った。今日はじめて笑顔を見た気がする。
 じゃあ、とあっさりあたしに背を向けて映画館を出ていく紗良ちゃんと、あたしのあいだに白線が引かれていく。あの映画のよさがわかれば、紗良ちゃんは帰らなかったかもしれない。この場で知らないひとの感想を検索することもなかったかもしれない。
 結局ひとりで買いに行ったサンダルは、あんなに欲しいと思っていたのになぜか全然いいものにみえなかった。サンダルだけじゃない。洋服もバッグもコスメも、ぜんぶ(いろ)()せてみえた。普段だったら輝いているものがゴミのように思えてくる。そんなのは、あんまり幸せとはいえない。
 なにも買わずに乗った帰りの電車はすいていて、ちょうど落ちていく日の光が車内に差し込んでいた。白線よりもあいまいな、光と影の境界線が揺れている。あの白い粉って、そういえばなにでできていたんだろって、どうでもいいことで頭を埋め尽くす。

「ああ、なんだっけあれ。炭酸カルシウムが使われてるんじゃなかった?」
 小学校の白線引きの材料ってなに? (とう)(とつ)な、脈絡もない質問にもたいていすぐに答えてくれる。このすずりという従兄弟は昔から物知りで、なにか知りたいことがあったらまず彼に聞く習慣がついていた。
「なにそれ? 水平リーベ?」
「いや炭酸カルシウムは元素じゃないから」
 オレンジと茶色の中間のような色の、軽いパーマがかかったすずりの髪がふわりと揺れた。アップルジュースをおいしそうに飲み、目を細めて「(げん)(えき)大学生なのに」とからかってくる。いや文系だから、と返しながらもなにでできているかも知らずに白線を引いていた過去の自分が、ちょっと間抜けに思えてきた。
 映画を観た一週間後の日曜日、旅行のおみやげがあるからとすずりに呼び出された。昼下がりのカフェでわたされたのはチテンジという布で、まぶしい黄色い地色にダリアみたいな大きな花が描かれていた。
「これアフリカの伝統的な布なんだって。さわら、こういう派手な(がら)好きでしょ」
「うん。ありがとう」
「向こうでは女の人がスカートにしてるらしいけど、カーテンとかにしてもいいんじゃない?」
 すずりはカフェに入ってもコーヒーを頼まない。アップルジュースとかオレンジジュースとか、いつもそういうものを頼む。コーヒーが飲めないわけじゃなくて、定番から少しずれてるものが好きなんだって前に言っていた。
「昔はあの白線の粉、水酸化カルシウムだったらしいよ。でも目に入ると失明の危険があるから変更されていったんだって」
 疑問に答えるだけじゃなくて、追加の情報も教えてくれる。すずりは脈絡のない質問をされたとしても、スマホで答えを検索したりしない。まあ、だから間違った知識を披露することもあるんだけど。それでも自分の知識と言葉に自信を持っているところは、いいなと思う。
「ていうかなんで急に成分の話? 白線引くの? おもしろそうだね」
 すずりはあたしの四つ年上だけど、ときどき年下にみえる。好奇心(おう)(せい)っていうのか、小さなことでもすぐに興味を持つ。引かないよ、と答えると「なんだ」と残念そうにした。ドッジボールでもする想像でもしたのかもしれない。
「成分の話っていうか、線引きされたなって話なんだけど」
 一週間前、紗良ちゃんに言われたことがまだ頭から離れない。あの日からなんとなく、あたしたちのあいだには一気には飛び越えられないような距離がある。
 体調を崩したと言っていたアズは翌日けろりと大学に来て、映画どうだったーと軽い調子で聞いてきた。あたしと紗良ちゃんのあいだに気まずい空気が流れたけれど、アズが「やっぱりネタバレ嫌だからなんにも言わないで」と話を切り上げて、三人の、バランスが取れている空気にやんわりと戻った。あたしたちの気まずさを察したわけではないだろう。アズは、自分勝手にしゃべる(くせ)がある。
「さわらもまあまあ自分勝手だけどね」
 いつも思うけど、すずりにはいやみなところがひとつもない。さらりとした正直者ってかんじだ。だから自分勝手とかわがままとか、そういうことを言われても不思議とむっとしない。
 漫画に出てきておぼえた「善に従うこと流るるが(ごと)し」ということわざがある。すずりと話していると、この言葉を思い出す。意味っていうより、語感がすずりっぽい。
 紗良ちゃんと一緒に行動するようになったのは今年度のはじめで、話すようになってからはまだ二カ月くらいしか経ってない。講義で学籍番号が近い同士グループを組んだことがきっかけだった。アズとあたしが(えん)(りょ)なくしゃべって、紗良ちゃんが同意する。最初からそういう構図だけど、やっぱり少し壁を感じる。
「単純にその子の性格なんじゃない? 話すのもそのひとのペースがあるでしょ。みんながさわらみたいにはっきりしてるわけじゃない」
「そんなのわかってるよ。でもなんか、話しても無駄って言われてるみたいでいやだったんだよ」
「仲間外れ、嫌いだもんね」
「仲間外れが好きなひといないでしょ」
「いないね」
 山川さんって、幸せなんだね。
 どうしてあたしはこの言葉に、こんなにむきになっているんだろう。幸せでいることが悪いわけじゃない。実際に、そう言われたわけでもない。
「映画、そんなにつまらなかったの?」
「わからないとつまらないが同じことになるなら、あたしはつまらなかった」
 スマホで映画の公式サイトを出して、すずりにわたした。ふーんとぼやきながら、すずりが画面をスクロールさせている。
「たしかにあかるい話ではなさそうだけど。じゃあおれも観てみようかな」
 スマホをあたしに返してアップルジュースをするりとすする。音は立たない。すずりの口もとへ、静かにジュースが(さかのぼ)る。
「すずりもよさがわからないかも」
「おれが幸せだから?」
 ()(くつ)も遠慮も混ざっていないしたり顔で、あたしのいやみをさらりと流す。すずりが口にする幸せという言葉なら、素直に受け取れるのに。
「そうだよ」
「でも、よさがわかるからといって不幸なわけじゃないよね」
 すずりに言われて気づく。紗良ちゃんが、まるで自分は幸せじゃないとでも言いたげだったから、あたしはむきになったんだ。否定したかったのは、あたしの幸せじゃなくて紗良ちゃんの不幸だった。彼女が幸せか不幸せかだなんて、あたしが決めることじゃないにしても。
「さわらって、実はぜんぜん自分勝手じゃないね」
「いや、自分勝手な性格してるってちゃんと自覚してるよ。さっきすずりも言ってたじゃん」
(てい)(せい)しとく。さわらは、自分さえよければそれでいいとは思ってないでしょ。まわりのひとも自分と同じように幸せでいてほしいんだ」
「それはみんなそうじゃない? 自分だけいい思いしてたら気まずくない? 自分だけ幸せなのって、なんか罪悪感ある」
「そうかな」
「すずりだってそうでしょ?」
「だれが幸せでだれが不幸とか、そんなふうに考えたことないよ。それぞれ価値観が違うわけだし。自分が幸せでいたいから同じくらい幸せになれっていうのは(ごう)(まん)だし。あれ、じゃあやっぱりさわらは自分勝手ってこと?」
「知らないよ」
 話の方向がわからなくなってきてため息をつく。
「まあとりあえず、映画は今度観ておくよ。おれは暗い話もけっこう好きだから、楽しめるかも」
「あたしは絶対ハッピーエンドじゃないといやだけど」
 単純明快で、後味がよくて、元気になる映画がいい。気が(ふさ)ぐような不幸な要素は、なるべく人生のなかに入れたくない。
 アップルジュースとカフェラテがほぼ同時になくなったとき、すずりが「本屋に行きたい」と席を立った。急だな、と思いながらもバイトは夕方からだったし、あたしもついていくことにした。
「あんまり本を読まないのに本屋が好きだよね、すずりは」
 外に出ると日差しがあつかった。まだ梅雨入(つゆい)りだってしてないけれど、いますぐ夏になれますよってかんじの気温だ。バッグのポケットから日傘を取り出す。すずりがくれた布は、真昼の光にあてられて、よりまぶしくみえた。
「だって本屋って、あらためて店内をまわると圧倒されない? どんなに小さな書店でも、そこにある本って一生かけても全部読めないじゃん。で、もしかしたら本当にだれにも手に取ってもらえない本もあるかもしれない。なんかさあ、読まれないのに存在してるって、すごくいいもののような気がする。特別じゃなくても意味があるって思えるんだよ」
よくわかんない」
 正直に告げると、すずりが「わからなくてもいいよ」と声を弾ませた。すずりの言葉の意味はわからなくても気にならない。理解できなくても白線が引かれることはないとわかっているからなんだと思う。
 すずりが住んでいる街には駅前に本屋がある。二階建てで、まあまあ広い。あたしは雑誌と漫画のコーナーしか見ないけど、すずりは小説とか新書の(たな)をうろうろしていた。普段そんなに読まないくせに、まるでだれかの真似(まね)をしているような動きだ。
 あとを追って文庫のコーナーに入ったとき、すずりが「あ」と言いながら棚から一冊の本を抜き取った。
「これ、さわらが観た映画の原作」
「そうなの?」
「を書いた作家の別の小説だね」
ふーん」
 ほとんど他人と言ってもいいような間柄の(しん)(せき)を紹介された気分だった。文庫の帯には「兄弟の絶望を未知の筆致で描いた衝撃のデビュー作」とある。表紙は夜の街灯にあつまる()の写真。引くほど暗そう。ていうか未知の筆致ってなに? 未知でいいの?
「ぜんぜん幸せそうな話じゃないね」
 くさくさけなすような言い方になっても、すずりは気にせず「そうだねえ」とのんびり返してくる。
「でもさ、仮に物語の終わりがバッドエンドでも、それまでに起こったことが不幸に変換されるわけじゃないし、幸せそうじゃないって決めつけるのは違う気がする」
「いや、最初から最後まで不幸しかない話もあると思うけど」
「そしたら本編の外側に幸せな瞬間があるって信じたいよね」
「外側?」
「観客とか読者には見えない部分。まあ、想像するしかないけど。ほらこの小説も、最初のページに仲のいい兄弟だったって書いてある。だから大丈夫だよ」
 ページをめくったところの文章を、すずりが指さす。『兄弟だった』って、すでに過去形なんだけど。大丈夫って根拠はないし、きれいごとっぽいし。だけどすずりの言葉は不思議と素直に耳に入り込んでくる。
「物語に限ったことじゃないけど、最後だけですべてが決まるわけじゃないよね。さわらが観た映画も、わからないだけじゃなくてわかる部分もあったんじゃないの?」
 たしかに主人公と親友が学校で笑い合ってる場面はいいなと思った。じゃあ、最初にあの場面が好きだったって紗良ちゃんに言えばよかったのかな。親友は(しっ)(そう)しちゃうから、結局悲しくなるんだけど。
「それでもやっぱりあたしはハッピーエンドがいい。いい映画だったって胸張って思えるようなやつ」
「それもさわららしいよね」
 おだやかに笑うすずりは文庫本を棚に戻さなかった。読まれない本にも意味があるとしたら、すずりに買われるその暗そうな本には、どれだけ意味があるんだろう。
 会計を終えて本屋を出ると、日差しに目がくらんだ。あっつ、とすずりがぼやいて買った本の袋をおでこにかざす。でも、すずりの「あっつ」は、あんまり暑そうじゃない。すずやかという意味でつけられた名前がぴったりだと思う。
「やっぱりおれもハッピーエンドがいいな」
 駅に向かって歩いていると、すずりがふいに軽くこぼした。
「ほら」
「さっき、さわらが胸を張っていい映画だったって思いたいって言ってたでしょ。それ聞いて、おれも胸張りたいなって。大団円とか都合のいい終わりっていう意味でのハッピーエンドじゃなくて、いつどんなふうに終わっても、自信を持ってハッピーエンドって言えるような、言ってもらえるような生き方がいいなって思ったんだよ」
(こう)(かい)ないように生きるってこと?」
「うん。そんなかんじ。だっていつも幸せそうでしょ、おれ」
 まあね、とうなずいた。すずりは昔からそうだ。笑顔を絶やさず、ひとを自然と()きつける。
 いつも幸せそうだけど、でもそれは、無責任な能天気さとはまた違う。
「よし決めた。自分の物語はハッピーエンドにするって決めた。ついでにさっき買った小説も、おれがハッピーエンドにする」
 それ傲慢だって言ってたじゃん、とか、決めてどうなることでもないと思うけど、とか言いたいことはあったけれど、そういう指摘は()()だからやめた。すずりなら、本当に自分の物語をハッピーエンドにするんだろうなって簡単に確信できる。
 鼻歌まじりに歩くすずりの背中を眺めながら思った。
 いつも幸せそうなひとって、覚悟を持っているのかもしれない。だって本当は、つねに幸せでいることなんてできない。傷ついたりむかついたり悲しかったりすることはだれにだってあるし、妬まれることだってある。それに、つらそうなひとの前でへらへら笑うのも無神経だ。
 だけど幸せでいることがだれかのためになるというのも、きっとあるんだろう。少なくともあたしはすずりといると、幸せであることに胸を張れる。
 その日すずりは文庫のほかにコーヒー豆も買っていた。外ではあんまり飲まないけれど、すずりはコーヒーが好きなのだ。
 フェアトレードという商品を、数年前すずりに教えてもらってはじめて知った。欲しかったサンダルは買うのをやめて、あたしも同じコーヒー豆を買った。
 彼にもらったチテンジは、カーテンにしようと思った。そしたらもっと部屋があかるくなるだろう。

 後悔ないように生きるって、いろんな場面で聞くからちょっと説教くさいと思う。でもまあ間違ってはないし、後悔したいかしたくないかといったらそりゃあしたくはないし。
 紗良ちゃんとわだかまったまま、なんかの拍子であたしの人生が終わるのはいやだし、なにより紗良ちゃんだって後味悪いだろうから、仲直りをしようと決めた。いや、(けん)()したわけじゃないから仲直りじゃないか? 仲を直すんじゃなくて、深めたいのだあたしは。
 翌日、かなり意気込んで大学に行った。一気にしゃべらない、早口にならない、むっとしない、好きだった映画の場面をあらためて言う
 アズもこの週末に映画を観ておくと言ってたから、きっと自然に話題を切り出せるはず。
 そう思っていたのに、大学で三人顔を合わせたとき、アズが「わたし片付ける!」と有無を言わさない勢いで映画とは無関係の宣言をしてきた。いきなりすぎる。
「これ見て。この動画すごいから。QOL高まる。爆上がり」
 QOLって、そんな言葉いままで使ったこともないくせに、アズはやたらと目を輝かせている。授業がはじまるまでの十分のあいだ、あたしたちは半ばむりやりその動画を見させられた。端的に言うと、ものを捨てなさいっていう動画だった。二十代後半くらいの男のひとが、まっさらな部屋の中央に座っている。
「こんにちは、ミニマリストのハルヤです。さていきなり断言します! 捨てることをためらわない人は無敵! そして豊かになります。これ覚えておいてね~。いきなり本題に入るけど、身軽になるメリットを発表していくよ。もうせっせと行こう、すぐ行こう。無駄な時間はつくらない。第一! お金が貯まる。あ~これは説明する必要もない。説明する時間すらもったいない。物を持たない、増やそうとしない。つまり買わないことにつながる! 超簡単な方程式。第二! 生活が楽になる。この動画を見ているあなた、毎日忙しいですか? 余裕ありますか? 学生さん? 働いてる? 現代人はみんな疲れ切って」
「うさんくさ
 第二の理由を話し出したところで動画を止めた。なめらかにしゃべりすぎて逆に機械っぽく聞こえた配信者の声が耳に張りついている。
「ちょっとなんで止めるの、うさんくさくないよ。ためしに服とかインテリアの置き物とか捨ててみたら楽しくなっちゃって。世界が広がるかんじ? 捨てられる自分すごいって思ったし、自己肯定感ほんとに上がった。まさに無敵」
「こういう片付け系の動画って、なんかこう、もっと(てい)(ねい)なかんじじゃないの。ノリ軽いねこのひと」
「それがいいんだよ! きちきちしてないから逆にやってみようかなって思う」
 アズは人の影響を受けやすいタイプだ。もともとあの映画を観たいと言ったのも、サークルの気になっている先輩にすすめられたからって理由だったし。
「ていうか、アズ映画は観たの?」
「あ、観てない!」
「観てないのかよ」
「捨てるのに夢中だった」
「ねえ紗良ちゃんアズのこういうとこどう思う?」
 冗談っぽく話を振ったら、「あ、うん。いいんじゃないかな。()()さんらしくて」とゆっくり口角を上げた。困ったように笑うって言葉がぴったりの顔だ。
 だよねー、とアズがにこにこと返事をする。アズはあたしに似てるけど、あたしと違っていちいちむっとしたりしない。そういうところは見習いたい。
 結局そのあとすぐ教授が入ってきて、会話が終わった。講義のあともアズが片付けについて熱弁するのを聞くばかりになって、結局紗良ちゃんともまともに話せなかった。
 あーあ。だれかと仲良くなるって、こんなに難しいことだったっけ。

「たしかにさわらは友だちつくるのに苦労してないよね。自然と人があつまってくるタイプでしょ、昔から」
「すずりほどじゃないけど」
「あー、まあ」
 平日の夜、とつぜん電話をかけてくるなんてめずらしい。会おうと思えばすぐ会えるのに、わざわざ電話をしてきたのはあたしを心配してくれたからなんだろう。どうしたの、と電話に出たら「最近、学校はどう?」なんて、ときどき会う親戚みたいなことを聞いてきた。まあ、親戚は親戚だけど。
 紗良ちゃんとのことをぽつぽつ話すと、「あー」とか「うん」とか「へえ」とか短い(あい)(づち)が返ってくる。
「それは結局、その子の性格なんじゃないの」
 このまえと同じことを言われてる。それはあたしもわかってるけど。
「でもあたしはもっと紗良ちゃんと本音で話したいというか」
 なんだか熱血教師みたいだなと自分でおもしろくなったとき、同じことを思ったのか、電話の向こうでもかすかに笑い声が()れ出た。
「その子が本音で話してないって、さわらが決めつけてるだけじゃない?」
「べつに嘘つかれてるって思ってるわけじゃないよ。でも()み合ってないというか、気を遣わせすぎてるかんじがする」
「つねに本心を話し続けるのって、難しいから」
「そう? 思ったことそのまま言えばいいだけじゃん」
「さわらは、そう思うかもしれないけど。簡単にできない人だっているんだよ」
 (さと)すような口ぶりに、つい「それくらいわかってるよ」と強く言い返してしまった。
 準備していたようにおとずれる沈黙にうっかり(いら)()つ。気持ちを落ち着かせようと、自分のワンルームを見まわした。ベッド、棚付きのハンガーラック、限定のコスメ、最近ハマってるクッキー、雑貨屋でみつけたかわいいコンテナボックス。この部屋にはあたしの好きなものがたくさんある。
 ひとつひとつに目を配っていると、ごめんと細い声が耳もとに届いた。なんだかあたしはいろんなひとに謝らせている。
「そういえば今日、片付けの動画を見たんだけど。ものを持つな、とにかく捨てろ、身軽になれっていう」
「さわらには無理じゃない?」
 くすくすと笑い声が聞こえてきて安心する。ね、とあたしも返した。
「捨てれば人生が豊かになるって」
「そうなんだ」
「そんなわけないじゃん!」
 すずりにもらったチテンジは紙袋に入れたままテーブルの横に置いてあった。カーテンクリップをまだ買ってないからそのまま放置してしまっている。片付け動画のひとがこの部屋に来たら暴れ出すかもしれない。
「おれは物欲そんなにないし、ものが少ないほうが楽だろうなっていうのはなんとなくわかるけど」
「多いほうが楽しいよ、絶対」
「絶対」
 電話の向こうで含み笑いがかすかにこぼれる。顔は見えないけど、どんなふうに笑ってるのか手に取るようにわかった。
 そのままぽつぽつ学校の話をしているうちに話題もなくなってきて、そろそろ切るタイミングかなっていうときに、「あ。おれも映画観たよ」と早口で報告された。なんだ、たぶんこれを言いたくて電話をかけてきたんだな。
「どうだった?」
「んー、いい映画だと思ったけど。なんだっけ。さわらはハッピーエンドじゃないから好きじゃないって?」
「だって悲しくなるのはいやでしょ。あと全体的になにを言いたいのかよくわかんなかった」
「さわららしい感想だね」
「じゃああの映画の意味わかった? なにを伝えたかったの?」
「意味はごめんそれはうまく言えないけど。でも、伝えたいことがなくたっていいんじゃない?」
「伝えたいことがなくても映画ってつくれるの?」
「いや、違うな。やっぱり伝えたいことってなにかしらはあると思う。でも、なんていうんだろ。えーと、制作者が伝えたいことをそのまま受け取らなきゃいけないわけではないというか。自分なりに解釈していいというか、わからないままでもいいというか」
「だから、わからないままでいいって言わないでほしいんだよ」
 思わず大きな声が出た。また無言にさせちゃうかなと反省したとき、「あ、そうか」というおだやかな声が返ってきた。やさしい相槌は(じゅん)(かつ)()みたいだと、このひとと話しているといつも思う。
「でもこうやってさわらがいろいろ考えてる時点で、映画の見方としては正解だと思うけど」
「そういうの苦手。行間でしょ」
「ぎょうかん?」
「行間読めってやつ」
「ああ。行間ね」
「あたしは行しか読めないし。はっきり答えが出るほうがいい」
「でも、行を読むから言えることもあるんじゃないの」
 どういうこと。聞くと、電話の向こうで控えめな調子で言葉が続く。
「おれはけっこう、行間っていう曖昧な言い方に逃げたくなるから。核心をつくようなこともなかなか言えないし、絶対って言葉をつかうのも苦手だし。そういうとき便利なんだよ、それっぽいこと言った気になれるから。だからさわらみたいにまっすぐ行を読むことのほうが正しいときもあると思う。そのまま気持ちを受け取ってるっていうのかな。つまり、さわらはべつに悪くないっていうか」
 うまく言えないけど、と付け合わせのパセリみたいに言い添える。いま、ちょっと()(くつ)っぽく笑ってるんだろうな。
「あたしべつに自分が悪いなんて思ってないよ」
「そうだよね、ごめん」
「べつに謝る必要ないけど」
 なにも悪くないのにすぐ謝る(くせ)は昔からそう。言うことで安心してるのかもしれないけど、もったいないって思う。無駄なものを買うより、必要ない言葉を口にして心を消費するほうがずっともったいない。
「まあ、とにかくあたしはあたしのままでいいってことだよね」
 自分でも雑な結論だと思うけど、結局そうとしか言えない。だれかに合わせるとか配慮するとか、もともと(しょう)に合ってないのだ。
「さわらはあれだね。ありのままのあなたでいいっていう言葉を素直に受け取れるタイプだね」
「もしかしてそれにも行間ある⁉」
「ない、ないと思う。勝手に行間をつくりだす人もいるってだけ」
 あわてて弁解するような言い方、らしいなあと思う。指摘すると困らせそうだから黙っておくけど。
 勝手なのはあたしも同じだ。だから、申し訳なさそうにしないでほしい。ただそれだけを紗良ちゃんにも伝えたかった。どんな感想だって悪くないよって言いあいたかった。
「さわらには、そのままでいてほしいよ。これは本当に、そのままの意味」
「違う意味があっても、あたしにはわかんないけど」
「それがさわらのいいところなんじゃないかな」
 電話を切ったあと、ハンガーラックにかけている服のなかから明日着るものを選んだ。たっぷり時間をかけて着る服を選んでも、どうせ明日には気が変わる。あたしはそんな毎日が楽しいし、幸せだと思う。
 寝る前に、すずりからもらったチテンジをひろげた。バッドエンドはとうてい似合いそうもない、あかるい色と(がら)
 なにが解決したわけでもない。でも、電話をもらってよかった。あたしはあたしのままでいい。そう思ってくれるひとがいるから、あたしはいつも自分でいられる。
 あたしの従兄弟(いとこ)は、やっぱり頼りになるのだ。

「山川さんって、いつも荷物多いよね」
 学校で、とつぜん紗良ちゃんにそう言われてびっくりした。アズと三人で学食に入って券売機の前でメニューを選んでいるときだった。
「あ、それ私も思ってたー」
 アズがけらけら笑いながら、あたしのバッグを軽く叩く。
「こんなに持ち歩く必要ないよね。さわらも片付けしたほうがいいよ」
 アズは熱しやすく冷めやすい。片付けの話もそのうち()きるだろうと思ってたけど、一カ月近く経っても案外熱は冷めてないらしい。ていうか結局、誘ってきた映画も観てないし。そうなると紗良ちゃんにもいまさら話を振りにくいし。あの映画のこと、なんだかんだでたぶんあたしがいちばん考えてる。
「大は小を兼ねるって言うじゃん。それにあたしはものが多いほうが幸せなんだよ」
 日替わり定食のボタンを押して、ぺらぺらの食券を手に取る。アズと紗良ちゃんはすでに食べるものを決めていたのか、すぐに食券を買った。
「たくさんあっても邪魔だよね」
 トレーを取ってカウンターに並んだとき、アズが紗良ちゃんに同意を求めた。あたしは紗良ちゃんの返事をとっさに予想する。「うん、でも山川さんらしくていいと思う」。絶対これだ。それに対する返事をどうするかまで考えていたら、
「うん。それに厳選したものだけに囲まれるのも幸せだと思う」
 紗良ちゃんがためらいながらも予想と正反対のことを言うから、またびっくりした。紗良ちゃんをまじまじと見つめる。それがにらんでるような表情にみえたのかもしれない。紗良ちゃんがきまり悪そうに続けた。
「あ、実は私も見てみたんだよ、片付けの動画。矢尾さんとはべつの、女のひとが配信してるやつなんだけど。捨てると自信がつくっていうのは、そのとおりだなって思って。それでいろんなもの捨てたら、今度はものが多い場所が目につくようになっちゃって。だからつい山川さんの荷物が気になって。なんか、もったいないなあって
 もったいない? あたしが聞き返した言葉は、アズの鼻息荒い「わかる!」にかき消される。あたしはわからない。ていうか、紗良ちゃんがふつうに自分の意見を言っている。
 紗良ちゃんが見たという知らない配信者のおかげで、なめらかに会話が成り立っている。こういう会話を望んでいたはずなのに、なぜか少し(くや)しい。
 あたしはちょっと、思い上がっていたのかもしれない。紗良ちゃんの本音を引き出すんだって、遠慮なんかさせないようにって。でも紗良ちゃんは、最初から遠慮なんかしてるつもりはなかったのかもしれない。話したいことがあれば、ちゃんと話してくれる。 
「さわらはお金も時間も無駄にしてるんだよ、物欲もっと減らしていこう。ね、紗良ちゃんもそう思うよね」
「うん。いろいろと、すっきりすると思う」
「いや減らさないけど」
「あはは、なに笑ってんのー」
 アズに小突かれて、自分の口角が上がっていることに気づいた。あたしは感情が顔に出やすい。紗良ちゃんには、そのままでいいってうなずかれるよりも、こうしたほうがいいって言われるほうが、どうしてかうれしかった。
 悔しかったりうれしかったり、ぜんぜん気持ちが一貫してない。でもまあ、これでいいのかもしれない。ものだって気持ちだって、たくさんあったほうが絶対にいい。紗良ちゃんが、()に落ちないっていう顔をしているからおもしろくなる。不満そうな顔、はじめて見た。紗良ちゃんも案外、すぐ顔に出るタイプなのかも。
 そこであたしの日替わり定食ができあがる。(さわら)の照り焼き。アズがあたしの選んだメニューを見て、ひゃっと思いきり笑う。
「共食いだ!」
「いや、あたしの名前、魚じゃないから」
 もうこのやりとりには飽きた。昔からさわらと名乗れば魚だとからかわれて、そのたびに魚じゃないと言い返す。この名前自体は気に入ってるけど(あと鰆もふつうに好きだけど)、いちいち突っ込まれるのはさすがにうんざりする。
 そのうちに紗良ちゃんが頼んだ野菜(いた)め定食もできあがる。アズの揚げ物はまだ時間がかかりそうだったから、二人で席を取った。先食べよ、と手を合わせたとき「山川さんの名前って」と、紗良ちゃんが口をひらいた。
「うん? 名前?」
「や、めずらしいよね、いまさらだけど」
「あー。よく言われるていうか紗良ちゃんも、下の名前で呼んでいいよ。さわらって」
「あ、でも山川さんって、名前で呼ばれるの好きじゃないのかなって思ってた」
「え、なんで?」
「名前の話になると、いつも不機嫌になってるような気がして」
 それはたぶん、セットで魚の話をされるからだ。あたしは名前で呼ばれるのがいやなんじゃなくて、名前でからかわれるのが嫌いなだけ。でもそれを、そういえば大学でちゃんと説明したことはなかった。
 つまりあたしは、紗良ちゃんに行間を読ませたのか。
「おまたせぇ」
 そのときアズが、やわらかそうなとんかつ定食を(たずさ)えてほくほくとやってくる。
「なんの話してた?」
「あたしの名前の話」
「あ、共食いの話?」
「違うって」
「ねえ、じゃあどうしてさわらっていう名前なの?」
 さわらという名前の由来を話しても、日常的につかわれない言葉だからか、だいたい不思議な顔をされる。親が無類の鰆好きだからって説明したほうが納得されそうなくらい。でも紗良ちゃんなら、由来の意味がわからなくてもちゃんと調べてくれるんじゃないかと思った。
「あたしの名前の由来はね」
 山谷紗良と山川さわら。考え方とか服のセンスは正反対でも、少し似ている名前みたいに、あたしたちには重なる部分があるのかもしれない。
 時間が経ってグラウンドに引いた白線が消えていくように、あたしたちの境界線が薄くなっている気がした。
 紗良ちゃんが、あたしをさわらと呼んでくれるところを想像する。そしたらあたしも紗良と呼ぶ。なんかいまさらだし、ちょっと照れくさいかも。だけど互いの名前を呼びあえたら、それはけっこう幸せな瞬間になるんじゃないかと思う。
 名前の由来とか、ここらへんでは食堂のご飯がいちばんおいしいとか、カーテンを新しくしたこととか、そんなたわいもない会話とともにゆったりと時間が過ぎていく。映画みたいに壮大なことが起きたわけでもないけれど、もしもいまエンドロールが流れたら、ハッピーエンドだって胸を張って言えそうな、そんなおだやかな時間だった。ずっとこんなふうに楽しい時間だけが続けばいいのにって思う。
 だけどそんなのは無理だって、本当はわかってる。いまこの瞬間、エンドロールは流れない。このあと面倒な授業があるし、バイトにも行かないといけないし、つらかったり悲しかったりすることがこの先たくさんあるのかもしれないし、すべての物語が都合よくきれいに終わるわけじゃない。
 でも、だからこそあたしは幸せでい続けたかった。だれかにとって、あかるいカーテンみたいな存在でありたい。これはすずりの真似(まね)。自分勝手でも(ごう)(まん)でも、あたしもこの物語を絶対ハッピーエンドにするって決めた。

【おわり】