形代の恋
第207回短編小説新人賞 入選
寝室のドアを開けたときの、あなたの表情が頭にこびりついている。あなたらしくもなく、息をきらせて恋人が眠る場所へ急いだあなた。あなたは悲しいと思うこともできなかった。だって、悲しいって思ったらニチカが死んだことを認めてしまうから。
結婚の挨拶以来に訪れる恋人の実家。出迎えた家族がなんでもない風だったから、あなたは不審に思った。なぜ、大切な娘が突然の事故で亡くなったのに、そんなに落ち着いていられるのか。その答えが寝室の中の私だった。
私はクリーム色の布張りの猫脚椅子に座って、ドレッサーを覗いていた。ひさしぶりに過ごす実家の私室。リップの色味が少し悪い。そんなことを考えていたと思う。ドアの音に振り向いて、あなたの姿にびっくりしながら自然と笑顔になる。ニチカ、とあなたは力なくつぶやいた。昨日ぶり。正確には、昨日あなたとキスしたのは、私であって私ではない。でも、そんなことはたいしたことじゃないと、そのときは思っていた。
絵のように青ざめた顔、というのを初めて見た。恋人が死んだと知らされて色をなくしたその顔が、いるはずのない私を見つけて歪んだ。冷静な意思を感じさせる眉はひそめられ、閉じた唇はかすかに震えている。切れ長の眸は見開かれたまま。
簡単に安心しないところは、やっぱりあなたらしい。わざわざ会議の途中に側近から知らされた一大事に、重要な案件に必死で目処を付けて他国であるこの国へ飛んできた。まさかそれがすべて誤報だったなんて、自分に都合のいいことは信じない。
笑顔でかけよってその濃紺のジャケットの袖口から伸びる手をとると、あなたは身をよじるように一歩後ずさった。その反応がおかしくて、私はまた笑いながら首をかしげる。
「君が戸惑うのも無理はない」
あなたの後について、悠然と歩いてきた父が言った。
「頭ではわかっていても、実際には理解できないんだろう。君達の国にはこんな習慣はないだろうからね」
この習慣は我々の国の頭脳の恩恵。つまり、この風習をもてることを父は誇りに思い、他国の人間であるあなたを軽んじている。
「…失礼、長官。取り乱した姿をお見せして」
あなたがさりげなく私の手をほどく。父に向き直り、つまり、私の姿が視界に入らないよう躰をずらしたのだ。
「いい、君が娘の死を深く悲しんでくれていることは私にとっても慰めになる。事実、私も知らせを聞いたときは愕然とした。それから、大急ぎでこの子を生み出したんだ」
あなたの怜悧な眸に、さっと不快の色が走る。あなたには私の存在がなにか見当がついたのだろう。我がZ国が誇る感情型アンドロイド。人間と寸分違わない。我が国最高の工業機密。
あなたはもちろん知識としては十分に知っていたし、感情型アンドロイドとふれあう機会もあったはず。合理的なあなたのこと。各国からまるで鬼畜のように罵られ、今でも世界史で批判の対象にされている先の大戦でのZ国のアンドロイド戦法も個人的には納得していた。だけど、それなのにどうして今は私を見てくれないの。
「ニチカは死んだ、だが、死んでいない」
「…どういうお考えですか」
「この子は100%ニチカだ。私達家族はこれからもニチカを愛するし、君も変わらず恋人と結婚ができる。ニチカが一度死んでしまったことは、ごく限られた人間しか知らないからね。だからなにも問題はない」
父の言葉は優しさの皮を被った強権だった。Z国の国務長官として、長く険悪な関係を続けてきたA国の政務官に告げる言葉。私はこの父を尊敬していたけれど、同時に苦手だった。いつも無意識に怖くて、躰がすくむ。それに、その言い方はなんだか利己的な気がする。私たちは普通の恋愛結婚なのに、父が絡むと嫌でも政治的な話になってしまう。
「亡くなったニチカはどこにいますか。最後に一度顔を見て、別れが言いたい」
それが、私よ。私はそう言いたかったけど、父の前で余計な口を挟まないほうがいい。
「この子になったんだ。いわゆる遺体はもう存在しない。分子レベルに分解して、感情型の個体に接続したからね。ニチカは死んでいないのだから、葬儀も墓も不要だろう」
あなたはやっと私を見た。私より頭半分高い目線。私は嬉しくなってあなたの名前を呼んだ。私の大好きな名前。名前を呼ぶだけで胸が痛くなる。
あなたがふいに怒りにかられたのがわかった。密かで静かな分、燃えるような怒り。それが私に向けられたものであることに困惑する。
あなたが一瞬のうちに壮絶な努力をして自分を律したのが感じとれた。私から目をそらし、仕事のときに見せる整った仮面のような顔つきになる。
「…感謝します、エルムト長官」
あなたはきっと、父を義父と呼ぶことはないわね。私はふいにそう思ってくすっと笑う。そんなどうでもいいことを思い浮かべて、些細なひっかかりに目を瞑った。あなたの反応が思い描いていたのと違う。これでは、あなたは私が存在していることを喜んでないみたいじゃない。死んだ恋人が実は生きていた。これはとんでもなく幸福な出来事であるはずなのに。
でも私は、あなたの態度の不思議を深く考えないようにした。あなたはまだ感情型アンドロイドになじんでないだけ。それは確かにそうかもしれないから、と。
Zは元々、国土の小さい割に資源に恵まれた国だった。産業革命の頃から群を抜いて成長し、医学と工学に優れた国になる。そして、優秀な科学者を育成して実験を推し進めたのが、完璧なアンドロイドの完成だ。
初期型、人間と見まごう見た目だが、己の意思を持たないアンドロイドを非感情型アンドロイドという。そして最新型が、私と同じ感情型アンドロイド。
感情型は自分の意思を持つ。自分の頭脳を持つのだ。パーソナリティ、私だけの個性。あまりに人間と違わないから、生産数は年間で限度が決められている。たぶん、私は父の権力による「特例」なんだけど。他国とは比べ物にならないほど高性能だけど、それでも初期型は見ればアンドロイドとわかる。でも感情型は、たとえお互いに顔を合わせても気がつかない。だから私は、一日だけ人間ドックに入っていたような感じで、また日常生活に戻ることができた。あなたと手を繋いで、飛行機に乗って。
結婚式は私達の意に反して盛大にせざるを得なかった。無理もない。父がこれを政略結婚にしてしまうことが、私は嫌だったのだけれど。でも、私たちの国は先の大戦以来ずっとお互いに疑心暗鬼で、関係改善を試みてはその都度失敗してきた。父の立場とあなたの職業を考えれば仕方のない演出だろう。私達はまるでひと昔まえのロイヤルウェディングのようにカメラのフラッシュに囲まれた。
あなたは仕事関係の人たちにはエリートの顔で礼儀を尽くし、学生時代の友人には年相応のくだけた顔を見せた。ふたりの共通の知人とも明るく言葉を交わして、カメラを向けられた瞬間には、あなたは完璧な微笑をつくった。ふいにふたりきりになると、黒いタキシードのまま、ふっと虚脱したような顔つきになった。
私はあなたのそういうところが好きなのだと、その疲れた横顔を見ながら思った。有能な、これ以上ないほど完璧な社会人として振る舞うのに、私にだけは弱いところを見せてくれる。
だからしばらくは、私は結婚生活が始まったばかりなのにギクシャクしていることに気づかなかった。あなたが忙しいと言って家に帰らないことにも、私にふれようとしないことにも。忙しいのは事実だし、私たちは結婚する前からそんなにセックスに重きを置いていなかったから。
それでも、そんな日が続けば次第に寂しさがたまっていく。私は美術館の学芸員をしているので、日中は仕事に行けばいいけれど、疲れた夜に帰ってくるはずの人をひとりで待っているのは、頼り方を知らない子供になったような気分だった。
あなたは私と顔を合わせるたびに、申し訳なさそうに目をふせる。私はそれを、私が寂しいだろうから、そんな態度なのかと思っていた。でもそれはもしかして、私の前の私への悔恨なのかしら。
ふいにそんな考えが頭に浮かんでから、私の頭の中は私であるはずの『私』、前の私、あなたが信じている『本当の私』という、許せない概念が生まれてしまった。
『本当の私』は私。二十六年前も今も、ニチカはニチカ。あなたが以前の私を『殺してしまった』ことは、私に対しても失礼じゃない?
新婚旅行の計画をはぐらかすあなた。つきあっていたころはよく、時間に余裕のある夕食後は一緒にあなたの部屋の群青のソファにふたりで座って、本を読んだり映画を観たりした。そのソファはいまこのリビングにあるのに、私が座っているとあなたは食卓の木の椅子に座るし、あなたがソファにいると隣に私が座るのを拒絶しているように感じる。ううん、何度か座ったの。だって、そうすることは考えるまでもなく自然なことだったから。だけどふたり分のコーヒーを持って横に座ると、あなたはふっと目をそらした。気のない笑いかた。私が横に行くと入れ替わるようにソファを離れる。そんなあからさまなことを繰り返されたら、私だって臆病になる。
神聖な墓を暴かれた気がした? おあいにくさま、あなたのニチカの墓場は私よ。
私はいらいらし続ける。反応を失ったあなたの愛に。
結婚式からちょうど半年。私達は結婚後初めてデートらしいことをした。天気のいい土曜日に映画を観に出かけて、買い物をして夜はレストランで食事をする。洞窟じみた店内で湯気のたつロシア料理を向かいあって食べた。私はひさしぶりにあなたと長い時間一緒にいられることが嬉しくて、終始はしゃいでいた。あなたも、結婚前に戻ったみたいだった。あなたの態度で天国と地獄を行きつ戻りつするぐらい、私はあなたが好きだった。
「あのときもロシアだったよね」
タンシチューをふいて冷ましつつ、私は言った。
「あのときって?」
「ほら、はじめて会ったとき、あなたロシアの大使を案内してたでしょ」
あなたは一瞬目を瞠って、それから強いてなんでもないように見せようとした。怒っては、いない。少なくとも怒りをあらわにしていない。そのことにほっとしている自分がいる(それは今の自分?)。
「ロシア語がわからなくて困ってたから、突然あなたがきてくれてすごくほっとした」
私はA国の美術大学に留学中、シンポジウムで大学生協を訪れていたあなたと出会った。あなたはまだその機関に配属されたばかりで、各国からの参加者の対応を任されていた。初老のその大使は森の中の迷路みたいに造ったキャンパスで道に迷ったらしく、授業に移動しようとしていた私の腕をつかんで早口でまくしたてた。道を聞いていたのだろう。
あなたはどこからか駆け寄ってきて、手早く大使を捕獲して会場に戻ろうとした。きょとんとしている私に「驚かせてしまって申し訳ございません。ありがとうございます」と声をかけた。急いでいるけど少しニコッとした。私は普段は意識しない心臓が確かに動いていることを急に実感した。
ひとめぼれだったのかもしれない。私の中でそれは、宝物みたいな一瞬。
「…知ってるの、そういうこと」
あなたは言葉を探しあぐねた末にぽつりとそう言った。
「…知ってるって、一緒に経験したことじゃない」
「違う」
断固とした口調だった。あなたは言ってしまってから自分の口調の強さに気づいたように、軽く頭を振ってもう一度私を見た。まっすぐ私を見ているけれど、私を映していない眸。じわじわと自分が苛立ち始めているのを私は感じた。
「それは、君としたことじゃない」
疲れたようにポツンとつぶやく。
「そんなことない。ふたりでいろんなことをしたでしょ。いっぱい話したでしょ。夜中に突然停電して帰れなくなったり、私のアパートの雨漏りを直してくれたこともあったじゃない。ほら、一緒にチェコに行ったとき、ストで電車が止まって全然知らない街に降りちゃって、でもそれも、すごく楽しかった」
私は必死になってふたりの思い出を思いつくままに口にした。話さないと、声に出して共有しなおさないと、あなたを繋ぎ留められない気がしてこわい。
「やめてくれ」
耐えられないという風な声だった。
「君はニチカじゃない」
ニチカよ、私は。
私達の生活はどんどんすれ違っていった。私はなぜあなたが私を偽物と思うのかわからなくて、私を避けて幻のニチカを思うあなたの行動にいちいち傷ついた。どうしたら私がニチカだって信じてもらえるのかもう方法もない気がする。
あなたは私が私として振る舞うと拒絶する。あなたとの沢山の甘く幸せな思い出は確かに私の中にあるのに、あなたはそれが私の記憶ではないと言う。
掃除のためと理由をつけて入ったあなたの私室で、私はあまりにショックなものを目にする。デスクの引き出しに他の書類とまぎれてそれはひっそりと隠されていた。
私の事故現場の写真。コピー紙にプリントアウトされ、クリップで留められた何枚かの。血と肉がどろどろに混ざり、もう人としての原形をとどめていない私の姿。角度を変えて数枚。現場検証の写真では、私の躰はそこにあった痕跡すら拭い去られていた。カメラが印字する時刻では、その間は十分もない。写真のコピーに加えて、調査結果をまとめた報告書まで集められている。きっと『死亡』と書かれていたであろう箇所はすべて黒塗りされている。
あなたはこんなものをなんで見るの。そんなにニチカが死んだことにしたいの。
いや、違う。あなたはあくまで死んだニチカと私というニチカを別にしか考えていないのだ。だからあなたにとっては私は粗悪なまがい物に感じられる。
あなたの側近はいらないことをした。私が事故にあったことなんかいち早く察知して、あなたの耳に入れなければよかったのに。あなたは知っているから現実を受け入れられないだけ。知らなかったら、気づきもしないでしょう。
私は私であるはずの事故以前のニチカに嫉妬するようになっていた。嫉妬なんて生やさしいものじゃない。許せない。それは私の中にあるのに、私からあなたを取り上げる。
あなたはソファで眠り込んでいた。金曜日の夜更け。もう日付は変わっている。疲れ切って眠るあなたは群青に包まれた子どものようだ。
私は床に座り込み、ソファの座面に頬をつけてあなたの寝顔を見つめた。好き。愛おしい。でもあなたは起きているときはこんなに近づかせてはくれないね。
最近またあなたのファイルは厚くなった。黒塗りのない報告書を手にいれた。そんなものを執念深く集めて、どうするつもりなのだろう。
小さく身じろぎをして、あなたはゆるりと目を覚ました。私ははっとして躰を起こす。
あなたは寝起きですこしぼんやりしていて、反射的に私を避けるようなことはしなかった。
「寝てたの?」
「ううん、私は起きてた」
「そっか、今何時?」
私は時計のある壁の方へ顔をめぐらせて「二時、半過ぎかな」と答えた。あなたはそこで自分がまだ仕事帰りのカッターシャツのままなことに気がついて、
「シャワー浴びてくる。ニチカも早く寝なよ」
「まって」
立ち上がってバスルームに向かうあなたを呼び止める。その声は自分でもハッとするぐらい切羽詰まって聞こえた。不思議そうに振り向いたあなたが嫌な顔をしていないことにほっとする。なに? というみたいに眸が少し大きくなる。私はそれが冷たく伏せられないうちに慌てて言わなくちゃと思っていた。
「…したいの」
触れた指先が逃げようと硬くなった。
「もうずっとしてないでしょう、そろそろ…ちゃんとあなたとふれあいたい」
「そんなことはできない」
あなたは腕を振りほどき、強い声で言った。
「できるわ!」
「できない、きみとはしない」
めんどくさい反対意見を切り捨てるときのように冷たい言い捨てかたをして、あなたはこれで話は終わりというようにまたバスルームへ向きを変えた。
「死んだニチカに悪いと思うからできないの?」
あなたは一瞬肩を震わせて立ち止まった。
「それとも私が人間じゃないって思ってるからできないの? 感情型アンドロイドは人間と変わらないわ。私だって大けがをすれば血だらけになるし、つくろうと思えば子供だってできる」
「やめろよ!」
大きな声に身がすくんだ。
「おまえが毎日家にいると思うと頭がおかしくなる。これからずっとニチカのロボットと生活していけってことか? ニチカは死んだんだ。おまえはニチカの命を冒瀆してるみたいなものだろう!」
ニチカのロボット。命の冒瀆。
じゃあ私の命はそんなに価値のないものなの? なんであなたは同じ私を区別してしか考えられないの?
躰がカアっと熱くなって、頭がくらくらすると思ったら涙があふれていた。顔を強張らせて息を整えているあなたの姿が歪んだ。
「あんな事故の写真ばっかりコレクションしていたらそりゃ頭もおかしくなるわよ! そんなに私を受け入れられないなら父の申し出を受け入れなかったらよかったじゃない!」
でもあなたは受けてしまった。だって、これを断れば出世に響く。
頬に強い衝撃が走って、よろけるように床に倒れた。あなたは私を殴った。そう気がつくのはしばらくしてから。口の中が切れていたから。
ほら、私だって殴れば血が流れるでしょう。
三年かけて私達はようやく離婚した。あなたが私に手をあげたのは一度きりだったけど、それはあなたがあのマンションから出て行ったからだ。私は関係を戻すための話し合いがしたくて、あなたは関係を消滅させるための話し合いしかする気がなかった。私は毎日あなたが憎くて、でもそれ以上に愛されたいと思ってしまって離れたくなかった。
私のことをあなたはいつもつくりものだっていったわね。それじゃあ私はすごく悲しい宿命を背負ったつくりものだと思う。だって、あなたを愛することと、自分の愛と同等のあなたの愛を乞うことがあらかじめプログラムされているのよ?
私は離婚の条件に、ありえないほど高額の慰謝料を挙げた。それも月々の支払いでなく、一括で。どうやったのかあなたはそれを工面した(できなければよかったのに)。
私は母国のある研究機関を訪れた。まだ若手の研究者が独自に感情型アンドロイドの開発を行い、目覚ましい成果をあげている。一般にこういう機関は営利目的の受注をしない。でも私は大金を積んで、秘密に感情型の生産を依頼した。
ある人と全く同じヒトをつくってほしい。外見も性格も、生い立ちから記憶まですべて同じ。そっくりな双子のような。職業は違っていいわ。でもひとつだけ、
「私を、私っていっても今のこの私を、私という個体をちゃんと愛してくれること」
私をどう表現したらいいか苦心する私に、ほとんど同年の研究者は笑って
「あなた以外誰があなたなんですか」
と言った。なんて傲慢なせりふだろう。ああ、この人はきっと人間なんだろうなあと思って、私はあなたと別れてから馬鹿になっている涙腺がまた緩むのを感じた。
「ニチカ」
私の名前をさも愛おしそうに呼んでほほ笑むあなたを見て、私は痛いほど動悸がきつくなった。
向かいあったときの目線の位置も、涼し気なのにやわらかい双眸も、名前を呼ぶときにすこし首をかしげる癖も、すべてあなたのままだ。どこも違わない。私が愛されたいと思ったあなたと全くおなじ。
「どうしたの、顔色が悪いけど」
「ううん。そうだ、買い物、寄っていっていい?」
手を繋いで私達は新しい部屋に帰った。あたたかいあなたの指はほそくてささくれのひとつもない。なめらかで清潔な手は私を拒絶することはない。
三年まえに望んで、手に入らなかった生活は簡単に日常になった。同じベッドで眠り、一緒に食事をとる。平日はそれぞれ働いて、休みの日にはふたりで出かける。私の記憶の中のあなた。実生活では口数が少なくて、短文でしゃべるあなた。でも優しくて、血の繋がった家族より近い人。そんなあなたと暮らして、不幸せにならないはずがない。
でも私にはずっと変な違和感があった。あなたの前では見せなかったけど。ずっと頭の中で警告音がなっているような、そんな感じ。
あなたは本当にあなたなの? あんなに私を嫌っていた人がこんなに私に優しくできるもの?
「ね、覚えてる? まだ付き合ってたころにあなたの部屋に行こうとして、私間違えて隣のマンションのオートロックを開けようとしてたの」
「覚えてる。しかもそれ、何回かきたあとだったよね」
「ほらこの絵、ふたりで見にいったことあるわ。何年前だろう」
「そうだった? よく覚えてるね」
「これ、前にあなたが似合うっていってくれたワンピース。ついに買ってみたんだけど、どう?」
「やっぱりよく似合ってるよ。ニチカっぽい」
私はこっそりとあなたを試すような前のあなたとの思い出を口に出すようになった。前にあなたが、という言葉を前のあなたが、と言い間違えないように。それは意識していないとぽろっと零れ落ちそうになる。
あなたに記載された記憶は完璧なものだって、そんなことは自分で知っているのに。
新しいあなたとの生活が一年になる頃には、私はもう気がついていた。
私はあなたに愛されたかった。
私が注文したあなたではなくて、私を拒否したあなたに。あなたでないとだめなのだ。あなたの代わりがいくら私に優しくても、それではあなたに愛されたことにはならない。
これでは、あのときのあなたと同じことをしている。あなたを生み出したのは私なのに、自分のためにつくりだしたあなたを厭うて、記憶の中のあなたばかり追いかける。それがどれほど傷つくことか、私は知っているのに。
私はニチカの継続品。あなたは、あのひとの代替品。私があなたから逃げ出したら、あなたはどうなるのだろう。私と相思相愛でいることしか存在意義がないようにあなたを生み出してしまった。
私といると頭がおかしくなると言ったあなた。その意味が今ならよくわかる。あなたは確かにあなたなのに、あなたではないかもしれないと自分が疑ってしまうかぎり、私はあなたが鬱陶しい。
そんな自分の気持ちはあなたの前では絶対に見せないようにした。私は家にいるときはいつも明るく振る舞い、すこしはしゃいでさえいたと思う。熱心に探して買った群青のソファであなたと並んでいるときも、内心を悟られないよう一生懸命にこにこした。ずっと明るい演技をしていたから、あなたが仕事でひどく帰りが遅くなる日はほんとうにほっとした。
「ちょっと遅くなったけど、結婚記念日の食事に行こう」
記念日から何か月かすぎてから、あなたにそう言われた。
あなたは結婚何周年だと認識してるのだろう。そんなことがちらっと頭をかすめた。あなたとなら一年。前のあなたからなら四年だ。
私はいつも通りにはしゃぎ、あなたに沢山話しかけた。沈黙が怖かった。ふいに真顔になってしまったら、自分の考えていることがすべてあなたにわかってしまう気がしたから。
食事を終えて、肌寒い夜の道に出る。このまま家に帰るものだと思っていたら、あなたは、
「寄るところがあるんだ」
と言った。
「そうなの、どこ?」
「来たらわかるよ、すぐだから」
私はよくわからないままあなたと並んで歩いた。あなたはタクシーを停めて、あの研究機関の住所を告げた。私はそれを聞いて、潮が引くように不安になった。
「どうしたの?」
あなたは微笑んだまま答えない。
なぜあの施設に行くのか。なんのために私をあそこに連れていくのか。もしかしてあなたは、解体されるつもりなの?
不安は疑問に形を変えてとめどなく溢れるけど、私はタクシーを降りてからもなにも言えなかった。
「大丈夫だよ。みんな、知ってる」
施設のドアを抜けるとき、あなたは慰めるような口ぶりで言った。
面識のある研究者に案内された部屋。白い壁に囲まれた無菌室。ガラス越しにあなたが横たわっていた。
私は声にならない悲鳴をあげてガラスを叩いていた。
血の気のない顔。閉じた瞼。すでにあなたが生きていないことはあきらかだった。
「君が本当に愛しているのは彼だ」
私の一歩うしろからあなたが穏やかに言う。
「僕は君を愛している。だから君の記憶の中の彼は目障りだったよ」
「…あなた、彼を殺したの」
私はよろよろとあなたをふり向いた。
「直接手を下したわけじゃない。あまり変わらないかもしれないけど」
ショックが大きすぎて、私はただ涙を流しながら馬鹿みたいにあなたを見ることしかできない。いつもと同じあなたがなにをいっているのか理解できない。
「彼の構成分子をこちらに取り込むんだ。そうすれば、君が望んだ彼が存在することになる。継続型が最も性能が良いからね」
あなたは場違いなほど朗らかな声でいう。
「そうすれば、君は僕を今度こそ愛することができるようになるだろう」
あなたは私の大好きな、包み込むような笑い方でほほ笑む。私は突っ立ったまま泣き続けていた。おぞましい。そしてあさましい。愛しているあなたが死んだのに、それをあなたに取り込んでしまえたらと、あなたに言われるまえに思ってしまった自分がおぞましい。
自分を嫌悪しながら、でも私はきっと黙ったまま頷くとわかっていた。
【おわり】
初出:WebマガジンCobalt 第207回短編小説新人賞(2020年8月発表)
※発表時の選評等はこちらから閲覧できます。