それから
忌引き開けに、隼人は早速課長に退職したい旨を伝えたのだが、課長は一旦持ち帰ると言ったあと、その夜、隼人を飲みに誘ってきた。
接待で使うような小料理屋に連れてこられたことに戸惑っている隼人のグラスにビールを注ぎながら、課長が口を開く。
「まだ入社して一年も経っていないだろう? 少なくとも三年、我慢してみろ。今辞めると後悔するぞ?」
「……はあ……」
引き留められるとは正直思っていなかったので、隼人は驚いていた。
「でも、まったく戦力になれていないですよね? テレックス一つ読むにも時間がかかりすぎると注意されてましたし……」
中学生の息子のほうが英語ができると笑われたことを恨みに思っているわけではないが、役に立たないはずの自分を引き留めるその理由は、と隼人は目の前の上司を窺った。
「英語が苦痛なら、英語をまったく使わない部署に異動させることもできる。考え直してもらえないか? うちの会社は退職するには惜しいと思うぞ」
まさに甘言で引き留めてくる課長の真意は、次第に酒が進むうちにわかってきた。
「一年未満で社員が辞めると、部署のペナルティになるんだよ。部長にも俺にも評価にマイナスがつく。異動した先で辞めてくれるのならまったく問題ないから」
要は自分のためだったのかと察した瞬間、隼人の中に少しばかり残っていた愛社精神や罪悪感は綺麗さっぱりなくなっていた。
「申し訳ありません」
退職の意思は変わらないと頭を下げる。と、それまで下手に出ていた課長が今度は居丈高に隼人を叱責し始めた。
「常識がないんじゃないか? 退職の少なくとも三ヶ月前には知らせてもらわないと困ることくらい、社会人なら当然わかっているだろう? 社則にも書いてあるはずだ。お前はそんなことも知らないのか」
「知りませんでした……」
分厚い社則は、仕事に関係するところすら全部把握できていないが、そんなことが書いてあったとはと隼人は驚いた。
「ともかく、辞めるとしても三ヶ月後だ。国内営業部署か管理部門への異動の話は進めておく」
管理部門というのは、人事や総務などの営業ではない部門のことだった。確かに英語は使わなくてすむだろうが、やはり自分のやりたいことではない。
その日の会食は散々な雰囲気の中終了したが、費用は課長がすべてもってくれた。おそらく接待費で落とすのだろうと思いつつも礼を言い、家に帰ると、ちょうど見計らったかのようなタイミングで家の電話が鳴ったのだった。
「はい、佐久間です」
『村井だ。退職の件、無事言い出せたか?』
村井には出社したらすぐ上司に申し出るつもりと言ってあったが、案じてくれていたのか、と感謝しつつ隼人は、
「上司に言ったが引き留められた」
と、状況をつぶさに伝えた。
『なるほど。それで? 英語を使わない部署なら続けようと思った?』
それならそれでいいよ、と村井は明るく続ける。
「いや……俺自身を惜しんでくれたのならともかく、自分の評価にマイナスがつくからという理由を聞いちゃ、続ける気にはなれないよ」
まあ、惜しまれるような働きをしていない自分が悪いんだけど、と告げた隼人の耳に、村井の淡々とした声が響く。
『課長には課長の人生があるからね。それに嘘をつけない善人なのかもしれないよ。悪人なら君を褒めそやして思い留まらせるだろうから』
「なるほど……その発想はなかった。酔って口が軽くなったのだとばかり思っていたよ」
『勿論その可能性もある』
電話の向こうで村井が笑う。
『それで? どうする? すぐに辞めるかい? それとも最低三ヶ月、新部署で頑張ってみるかい?』
明るく問いかけてきた村井に隼人は、思うところを答えた。
「すぐに辞めたいけれど、社則で決まっているのなら三ヶ月は我慢するしかないかなと」
『ちゃんと社則を確認してみるといい。ああ、そうだ、依願退職の形ですぐ辞められるいい方法があるよ』
村井はそう言うとその『方法』を伝授してくれ、隼人は本当にこれで辞められるのだろうかと案じつつ電話を切ったのだった。
翌日、隼人は会議室に課長を呼び出し、昨日ご馳走になったことへの礼を言ったあと、退職についての話を切り出した。
「退職の意思は変わらずか。わかった」
課長はもう引き留めなかったが、きつい語調で言葉を足した。
「辞めるとしても三ヶ月後だ。いいな?」
「それなんですが……」
村井の作戦は有効だろうか。たとえ無効だったとしても試してみる価値はある、と勇気を出し、口を開く。
「実は俺、今回祖父の遺産相続がらみで殺人事件に巻き込まれまして……」
「さ、殺人!?」
パワーワードだったらしく、課長が仰天した声を上げる。
事件の報道はほぼなされなかったのと、『金城家』での出来事だったため、名字の違う隼人とのかかわりは社内の誰にも気づかれていなかった。
休みを取得する際にも、祖父が亡くなったので忌引きをもらいたいと連絡しただけだったので、課長はまさか殺人事件が起こったなど、想像してもいなかったのだろう。ちなみに祖父母の忌引きは三日だったのでそれ以上休みを延長せずにすんだのだが、と心の中で呟くと、隼人は言葉を続けた。
「はい。事件は無事に解決し、犯人も逮捕されたんですが、一時俺も容疑者だったんです」
「よ、容疑者……」
課長の隼人を見る目に不安げな色が差す。
「はい。ウチは大手なので、社員が殺人事件の容疑者だったということはマスコミの格好のネタになるんじゃないかと心配しています。会社にご迷惑をかけたくないので辞めたいというのが本当の理由だったんです」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。本当なのか? それは」
課長ははっきりと動揺していた。
「嘘ではありません。軽井沢での事件なので東京ではあまり報道されていませんが、祖父をはじめ親戚が四人立て続けに殺されたんです」
「四人!?」
課長が素っ頓狂な声を上げる。
「センセーショナルな事件なので、いつ、マスコミに嗅ぎつけられるかわかりません。会社にも取材が来る可能性があります。一流商社の新入社員が容疑者だった、なんて、いかにもマスコミが好きそうじゃないですか」
「……た、確かに……」
「なのですぐにも退職したほうがよいかと思ったんです。万一、マスコミが来たとしても既に俺が退職していたら会社にご迷惑をかけることはないかと」
実際は警察がマスコミを抑えているので、よほどのことがない限りは記事が出ることはないのだが、事実を教える必要はない、というのが村井の作戦だった。
もしもそんな騒動になれば、それこそ会社は、そして直属上司はマイナス印象、マイナス評価となる。それを思い知らせてやればいいという村井の作戦が無事に成功したことは、直後にわかった。
「……わ、わかった。正直に話してくれてありがとう。すぐに部長と相談の上で人事にかけあってみる」
そう告げると課長は会議室を飛び出していき、さすが村井、と、隼人は彼の凄さを再認識したのだった。
その後、無事に隼人の退職届は受理され、月末には会社を辞めることが決まった。同期や部で送別会をすると言ってきてくれたが辞退し、最終日に花束をもらって短い会社生活を終えた。
退職の日にも村井は電話をくれた。
「おかげさまで無事に辞められたよ。ありがとう」
改めて礼を言うと村井は、
『たいしたことはしてないよ』
と苦笑し、言葉を続けた。
『そのうちに時代も変わっていくんだろうけど、今は会社が従業員より強気に出られるからね。裏をかく方法を伝授しただけさ』
「時代かあ……」
そういえば『セクハラ』が流行語大賞を取ったが、それまでそうした考え方は職場ではなかったと古参の社員たちが言っていた。海外事務所でヌードカレンダーを机に飾っていた人が訴えられたと聞いて驚いたものだが、他にもそんな変化がこれから起こっていくのだろうか。
『ああ。考え方だけじゃなく、コンピューターも進化するだろうし、通信手段もポケベルから進化していくだろう。今は弁当箱より大きい携帯電話も普及するようになるんじゃないか?』
「コンピューターなんて部署に一台しかなかったけど……なるほどね……」
そんな時代がきたらもしかして、英語も自動的に日本語に翻訳されるようになって、テレックスに苦しむこともなくなるのだろうか。
ちらとそんな考えが過ったが、もう会社を辞めた身としてはテレックスはどうでもいいか、と隼人は苦笑した。
『ともあれ、退職おめでとう。ウチにはいつから来られる? 落ち着いたらすぐにも来てほしいんだが』
村井の声には期待がこもっているのがわかった。
「人手が足りてないんだな」
その言いようだと、と告げた隼人に村井が、
『それはそうだけど、だから急かしているんじゃないぜ』
と心外そうな声を出す。
「え?」
他に理由があるのかと驚いた声を上げた隼人の耳に、電話越し、村井の明るい声音が響く。
『佐久間と一緒に働くのが楽しみだからに決まっているじゃないか』
「!」
自分を望んでくれての言葉だったのかと知り、隼人は思わず息を呑んだ。
『どうした?』
無言になったことを訝ったらしい村井が問いかけてくる。
「感動してしまった」
本心だったのだが、照れくささから口調は少しふざけたものになっていた。
退職を申し出たときに上司が引き留めたのは自らの保身のためだった。もしそれが自分を惜しんでのものだったら気持ちは変わっていたかもしれない。
そのとき望んだ言葉を村井はさも当然のことのように告げてくれた。それが嬉しい、と密かに胸を熱くしていたことはどうやら本人には伝わったらしい。
『感動を返せと言われないよう努力するよ』
笑いながら敢えて冗談めかした口調でそう返してくる。
努力するのは自分だ。村井に後悔されないよう、一日も早く使える助手になってやる。
固い決意を胸に隼人は、
「明日、行ってもいいか?」
と己のやる気を伝えるべく村井にそう問いかけ、
『待ってるよ!』
という彼の明るい声音にますますやる気を募らせたのだった。
【おわり】