歳の市の幻花

術式捜査三課の勤務棟は、真冬であっても温かい。壁に組み込まれた術式結晶が、建物全体を温めているからだ。
俺、篠原勇人は、窓辺に立って、今朝、不動尊から届けられた一枚の護符を透かして見ていた。来年の干支、寅の絵が描かれた符に、貼り付けられた術式結晶のかけらがきらりと光る。歳の市で人々は縁起物の護符を求める。けれども、それが偽の護符で、仕込まれた術式によって、一定温度を超えると自然発火したり、術者が任意に発火させることもできるという悪意ある品だとは思わないだろう。
視線を外に移せば、煤払いの埃が冬の陽にちらつき、正月飾りを抱えた人々が白い息を吐きながら街を行き交っている。車夫の呼び込みの声や、歳の市に繰り出す客の笑い声が遠くから響き、帝都の暮れはせわしなくも華やかだ。
「霧島さんと瑠璃子さん、お似合いでしたねえ」
背後から、三課の一員である、瀬間操の声がした。その内容に、俺は思わず眉根を寄せた。
「霧島さん、いつものお洋服も素敵ですけど、着物も似合うんですもん。大人の男性って感じがしていいですよねえ。わたしも一緒にお出かけしたかったなあ」
その声には、十七歳の女の子らしい憧れがこもっている。霧島光一は、三課の中でも腕利きの術式使いだ。くりくりした癖毛が目につく男前で、今日は鉄紺の着物と角袖コートを着ていった。操の言うとおり、これがまた似合うのだ。
「遊びに行ったわけじゃねえんだぞ。あの人混みの中で偽護符の出所を探すなんて、地味な割に無茶苦茶難易度高いじゃないか。しかも、歳の市は今夜で終わりだから、今日中に見つけなきゃならないっていう時間制限付きだぜ」
「偽護符探しって……本当なら一課担当のお仕事ですよね?」
「今、一課は、術式結晶の大きな不正取引の捜査で手一杯だ。こういう小さな仕事が俺ら三課に回ってくるのは、ま、仕方ねえよな」
操と同じく三課の一員である香月周は、いつものようにぶっきらぼうに言った。二十二という年齢を思えば若く見えるが、険のある目つきがアンバランスだ。
「それに、操が術式を使ったら、歳の市ごと黒焦げにして大惨事だ。霧島さんの相方になりたいなら、さっさと制御できるようになれよ」
「頑張ってるけど、難しくて……。はぁー、わたしも瑠璃子さんみたいに術式観察眼があればいいのになあ。術式の流れが見えるなんて格好いいですよねえ。今日の着物も素敵でしたし。霧島さんと並ぶと、粋な夫婦みたいで」
確かに、梔子色の銘仙に、絹鼠の羽織を着た今日の鷹見瑠璃子は……なかなか愛らしかった。操の言葉に、香月は面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らした。
「鷹見さんはまともな格好しただけだろ。普段男みたいなボロい書生服を着てるからな。そもそも、今回の着物、三課の経費で買ったんじゃないか。納得いかねえ」
聞き捨てならない言葉に、俺は立ち上がった。
「香月。任務に必要なものを経費で落とすのは悪いことじゃない」
香月は俺に鋭い目を向けてきた。
「鷹見さんは諮問係で三課の一員じゃねえだろ。なんで三課の衣装を着てくんだよ」
「人出の多い市で、瑠璃子の力がなければ偽護符の出所がわかるわけないだろうが」
「俺なら、地道に探せば見つけられる。面倒くさいっていうだけでな。術式を使えないあんたには無理だろうが」
ひるむことのない香月の口調は、俺の心をざらつかせた。香月の指摘はもっともだ。俺は術式が使えない。今日の任務で役に立てない。だが、それが苛立ちの原因ではなかった。操が言うように、霧島と瑠璃子が夫婦みたいに見えるからか? ……違う。悔しいのは、術式を持たない俺が、そもそも彼女たちの隣に立つ資格すらないことだ。香月の言葉は突きつけてくる。彼女を――その力を――危険から守れるのは、俺ではなく霧島のような優れた術者だけだ、と。俺と香月の間に張り詰めた空気が流れた。操がはらはらしたようにこちらを見てくるのがわかる。
「はいはい、二人とも仲良しだねえ」
課長の青木徳治郎が声をかけてきた。
「あと二日でわたしの厄年が終わるんだ。めでたい歳の暮れに、つまらんことでじゃれ合ってるんじゃないよ」
「つまんなくないですよ。大事な予算じゃないすか」
「衣装は三課の備品になるんだよ。なんなら操ちゃんが別の任務で着たっていいんだ。瑠璃子さんがあの希有な力を貸してくれるなら安いものじゃないか。その分、香月は他のことに力を割けるはずだろう?」
香月は肩をすくめた。課長は俺の方に向きなおった。
「篠原くん、おつかいを頼めるかね、二人を追いかけて届け物をしてほしい」
青木課長はそう言って羊羹色の袷の袂から赤い術式結晶を取り出した。術式結晶は、煌花術式を使うためには必須のものだ。
「これは……かなり高純度のものですね」
「出かける前に渡すつもりだったが、うっかりしててなあ。人混みのなかで、偽護符の出所を突き止めるには、精緻な『気脈探知』が必要だろう。それに、偽護符に粗悪品か違法改造の術式結晶が仕込まれてる可能性もある。どちらにしても高純度の結晶があった方が助けになるだろう?」
課長は鷹揚に笑った。俺は頭を押さえた。どうしてそんな大切なものを渡し忘れるんだ。
「……課長。うっかりじゃすみませんよ。何かあったらどうするんですか」
「ま、霧島くんなら、こんなものなくてもなんとかできるだろうからね」
俺は課長から術式結晶を受け取り、一瞬ためらった。操の「お似合いでしたねえ」という言葉がまだ胸に残っている。いやいや、俺は、何を考えているんだ。結晶の冷たい感触が現実に引き戻す。術式を使えない俺にとっては、これはただの石ころにすぎない。だからこそ、瑠璃子の力が必要なのだ。俺には届かない世界で活躍する彼女の力が。
俺は深く息を吐くと、外套を羽織った。
「すぐに届けに行きます!」
歩き始めた足取りが、いつもより早いのは、一刻も早く二人の元へ駆けつけたいからなのか、それとも一人で考え込む時間を終わらせたいからなのか、俺自身にもよくわからなかった。
市電を降りると、夕闇に包まれつつある歳の市の人々の賑わいが往来一杯に広がっていた。暗くなり始めた道を照らすのは、術式結晶を中に入れた提灯で、ぎっしりと並んだ出店の間を、下駄の音も軽やかに着物姿の人々が覗いていく。飾り松、竹、〆縄、切り絵羽子板といった縁起物の並びに、不動尊の名物である七味屋台の口上が切れよく往来に響いていた。
人波をかき分けながら、霧島と瑠璃子の姿を探す。これだけの人混みでは、見つけるのも一苦労だ。やがて、往来にある甘味処の縁台に人影を見つけた。羽織にショールを掛けた若い女性で、髪型はいわゆるラジオ巻、顔立ちを隠すように丸い眼鏡をかけている。
「瑠璃子?」
俺が声をかけると、瑠璃子は驚いたように眼鏡の下の目をこちらに向けた。新聞紙にくるまれた、湯気の立ち上るものを持っている……焼き芋だ。瑠璃子は焼き芋を頬張ったまま、俺の方へと体を向けた。
「おや、篠原さん。どうしたんですか」
瑠璃子は焼き芋を嚥下し終わってからそう言った。
「課長からの届け物を……。というか、君はなんで一人で焼き芋を食べているんだ」
「霧島さんはあちらで護符売りの店主さんと話をしていらっしゃいますよ」
瑠璃子が指す方向を見ると、霧島が露天商の老人と何やら真剣に話し込んでいるのが見えた。俺の視線に気づいたのか、ふとこちらを見て、笑みを投げかけてきた。
「わたしは少しばかり休憩中ですよ。焼き芋は冬の醍醐味、英気を養うのにこれほど適したものはありません。特に屋台の石焼き芋はじっくり焼かれていて甘みが強く、口の中で小さな冬祭りです。ああ焼き芋……。最高だ」
うっとりと呟く瑠璃子の顔を見ていると、わけのわからない焦りにかられて急いでやってきた自分が滑稽に思えて、ため息がもれた。
「これまで霧島さんと一緒に、偽護符がある出店を特定して、一軒一軒回りながら回収していたんです。屋台の物置で護符が勝手に燃えだして、小火になりかけたことを不動尊が重く見たんです。偽護符の販売を止めるようにお達しを出したのは正解でしたね。被害が広がりませんでしたから」
瑠璃子は帯板の間に挟んである紙を見せた。偽護符だ。
「篠原さん、わざわざ応援にきてくれたのね、嬉しいわ」
後ろから声をかけられて、俺は顔を上げた。霧島がにんまりと笑っている。
「んもー、大変だったのよ。なにしろこれだけ出店があるでしょ。販売は止まってても、それ以前に流通した分を回収しなきゃいけないでしょう? でも、犯人には、三課が動いてることは知られたくないからこっそり動かなくちゃ行けないし。瑠璃ちゃんの術式観察眼がなくちゃ、護符の在庫を持ってるお店を探すのも手探りだったわ。助かったわよ」
霧島は中身も外見も間違いなく男なのだが、話し方が独特ではある。
「偽護符回収しながら、出店の人達に、どこで仕入れたかも聞いてたのよ。歳の市の初日に、この護符を一帯の出店に配りに来た男がいたらしいの。それも無料で」
配った男は三十過ぎ、所々すり切れた紺飛白を着て愛想良く振る舞っていたという。
無料で配られたから、出店の人達も喜んだらしい。細かなかけらとはいえ、本物の術式結晶を組み込んだ護符は安くはない。縁起物に護符を貼り付ければ、価値が上がる。とはいえ、貰う方も多少は訝った。どうして価値あるものを無料で配るのか、と。
「配った男が言うには、来年から対価を貰うから、お試しで使ってみてほしい、ということらしいわ。要は試供品という体で配ったってことね」
「……しかし、火の出る護符を配ったとなると、愉快犯か? 狙いがよくわからないな」
霧島の話を聞いて浮かんだ俺の疑問に、瑠璃子が答えた。
「その場合、おそらく犯人は歳の市の最終日、つまり今夜、売れ行きがどうだったか見に来るでしょう。場合によっては、一斉に火をつけて楽しむようなことさえするかもしれませんね」
瑠璃子は危ういことをさらりと言ってのけて、小さく笑った。
「ま、愉快犯とも限らないのでなんともいえませんが。出店の元締めにも伝えてありますから、不動尊から偽護符のお達しが出ていることはまだ犯人は知らないはずですよ」
そう言い終えると、瑠璃子はふと顔を上げた。
「……います」彼女はささやいた。「偽護符から漂う術式の残滓……この近くに、同じ気配を持つ人がいます」
その時、人混みの向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。くたびれた紺の着物姿の男が、露店の間を縫うように歩いている。男の衿元からは、護符の束がのぞいていた。
「あの人です」
瑠璃子が小声で言う。霧島が、術式を使うときに必要な懐中時計を取り出した。
「行くわ」
すっと霧島は走り出した。その動きは自然だったが、男も素人ではないのか、すぐに霧島に気づき、慌てて群衆の中へ逃げ込んだ。
霧島に渡さなければならない術式結晶はまだ俺の手にあった。俺も人混みに飛び込んだ。
道行く人に肩がぶつかり、怒声が飛ぶ。それでも俺は足を止めない。歳の市の往来は押し寄せる波のように行く手を阻んでくる。
と、逃げる男が懐から紙束を取り出し、宙空へとばらまいたのが見えた。偽護符だ。五枚、十枚……雪片のように頭上から舞い落ちてくる。
走りながら、霧島が懐中時計に触れ、術式を発動させたようだ。見えるか見えないかの薄青い光が波紋のように広がり、散らばった護符が霧島に引き寄せられていくのがわかる。だが同時に、群衆がざわめき始めた。
「あれ、なんだい? 空気が変だよ」
「なんか、ぴりぴりするねえ」
術式に敏感な人々が気配を察知したのだ。雑踏を進む霧島の動きが止まったのが見える。
霧島が考えている事が俺にも手に取るようにわかった。人が多すぎるのだ。ここで中途半端な術式を使えば、群衆の混乱を招く。ここは強い術式で一気に鎮圧するか、術式なしで立ち向かうかどちらかだ。
その隙に、地面に落ちた護符の一枚が赤く光り、ぱちぱちと火花を散らした。薄煙が立ち上り、他の護符も次々と赤く輝き始める。
「発火術式……!」
霧島の低い声が聞こえた。煙が広がり、往来に動揺の声が上がりはじめた。
「霧島! 受け取れ!」
人垣越しに俺は叫んだ。そして、力いっぱい、結晶を投げていた。
宙を泳ぐ結晶を霧島が素早く掴む。次の瞬間、彼の周囲に奔流のような術式の気配が走った。高純度結晶の力で強化された術式が護符を覆い、燃え上がりかけた光を無理やり引き延ばしていく。炎がくすぶり、赤光は沈んでいく。
霧島が群衆を裂いて駆け出そうとした、その時。男が最後の悪あがきとばかりに、懐からさらに大量の偽護符を取り出した。ばさり、と音を立てて数十枚が舞い上がり、一斉に赤く輝き始める。
「こんな、量じゃ……!?」
霧島の声に焦りがにじんだ。偽護符は人々の頭上で渦を描き、往来の半ばを覆い尽くすように燃え広がろうとしている。
俺は、必死に人並みをかき分けた。そうして男に追いついて体当たりを浴びせる。
「ぐあっ!」
俺たちは地面に転がっていた。俺は、もがく男を全力で押さえ込んだ。
「くそ、離せ! 死にてえのか!」
男が叫ぶが、腕を緩めるわけにはいかない。
押さえ込みながらも、ちらつく光が目の端をかすめて、俺ははっと視線を上げた。空には無数の赤光が種火のように瞬いていた。霧島一人では到底抑えきれない。このままでは市が炎に呑まれてしまう。そんなことになれば……!
その時、低く澄んだ声が響いた。
「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ」
百人一首を媒介にする術式……瑠璃子だ。
群衆に届いたかはわからない。だが、俺にははっきり聞こえた。
「をとめの姿 しばしとどめむ」
最後の一節と同時に、冷たい風が往来を駆け抜けた。瑠璃子の術式が渦を巻き、偽護符を夜空へと押し上げていく。
ぱん、ぱぱん、ぱんぱん──。乾いた破裂音が闇を裂いた。赤々と燃えかけていた護符が花火のように弾け、光の花弁が冬の夜空を彩る。
「わあ……!」
「きれい……!」
恐怖の色に染まりかけていた群衆は、一転して歓声を上げた。
歳の市の夜空いっぱいに、幻の花火が鮮やかに瞬いている。
瑠璃子の術式はすべてを美しい奇跡に変えたのだ。絶体絶命の境地から。
俺はなおも男を押さえつけながら、その光景を見上げた。やがて抵抗がふっと抜け、押さえ込まれた男が乾いた笑みを漏らす。
「……はは。やるじゃないか。俺の護符を花火にしちまうとはな」
その目には悔しさと、不思議な清々しさが混じっていた。
懐からこぼれ落ちた護符を束ねる封紙に、倉庫名の走り書きがにじんでいた。
「……一課が捜査中の倉庫名ね」
こちらにたどり着いた霧島がその札を拾い上げた。俺も合点がいった。
「……隠蔽工作か? 術式結晶の不法取引を隠すために、騒ぎを起こしたということか」
「火事になれば警察も倉庫どころじゃなくなる……そういう算段だったのさ。けど、あんたらがここまでやるとは思わなかったよ」
石畳に押さえつけられたまま、男は肩を震わせ笑った。
「だが……人々があんなに喜ぶなら、せめてもの救いか。……悪党の仕事にしちゃ、粋だろ?」
花火のように輝いた護符の余韻を夜空に残して、歳の市の賑わいは再び戻った。人々は何事もなかったかのように、縁起物の買い物に戻っている。
確保した男を臨時派出所の警官に引き渡したあと、俺たちは再び甘味処の縁台から道行く人々を眺めていた。
「神、そらに知ろしめす。なべて世は事も無し、というところか」
俺が呟くと、甘酒を飲んでいた瑠璃子が顔を上げた。瑠璃子は、普段の食は細いくせに、甘いものだけは底なしに平らげるのだ。
「篠原さんのおかげですよ。わたしたちだけではきっと苦戦していました」
霧島も穏やかに頷いた。隣に並ぶ二人の姿は操の言葉通りよく映えていたが、不思議と先ほどのようなわだかまりは胸に浮かばなかった。
俺は掌の中の高純度の術式結晶を転がした。
「というか、課長が最初からこいつを渡すのを忘れなければ、俺なんかいなくても、さっさと犯人確保できてたろうな」
霧島は、中折れ帽の端をつまみあげ、にやりとした。
「……『忘れた』ってことにしてるだけかもね。課長、わざと人を走らせて、どう本気出すか見たがるんだから」
「どういう意味だ?」
俺は問い返したが、霧島は肩をすくめただけだった。
「ま、いいわ。せっかくだから三人で歳の市デートして帰りましょうよ」
「デートっていうのは、恋人同士でするものだろう」
「あら、いいじゃないですか。両手に黒百合、わたしは構いませんよ」
瑠璃子がくすくすと笑った。歳の市の賑わいを背に、俺たちは歩き始めた。空にはまだ、護符の光の残像がちらちらと瞬いている。それは、偽りの護符から生まれた真の美しさだった。
【おわり】