君といる幸福

ありがとう! 集英社オレンジ文庫9周年フェア『十番様の縁結び』(東堂 燦)スペシャルショートストーリー


 ずっと人の目が怖かった。‌
 そこに映る僕は、(みにく)い化け物の姿をしていると知っていた。‌

 寒さの厳しい冬の夜、()(おり)邸は静けさに包まれていた。‌
 (やしき)(あるじ)であり、一族の当主である十織は、私室で古びた本を開いていた。‌
 ()つ国から輸入された柔らかな椅子に腰掛け、帝都にある馴染みの古書店から送ってもらった本を開くことは、終也の趣味の一つだった。‌
 ふと、終也は近づいてくる足音に気づいて、顔をあげる。‌
 ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな足音は、終也にとって、誰よりも大切な少女のものだった。‌
「終也」‌
 私室の扉から顔を出したのは、妻の()()だった。‌
「こんばんは、真緒。もう、お休みになっているのかと思いました。明日に備えて、はやく寝る、と、言っていたでしょう?」‌
 明日は、朝早くから、(はな)(いと)の近くにある湖に向かう約束だった。‌
 冬になると真っ白な(くぐい)が群れなす湖は、その美しい光景から、古い歌に詠まれるような名所なのだ、と妹と弟が教えてくれた。‌
 真緒を連れていけ、という意味で、教えてくれたのだろう。‌
 妹も弟も、真緒のことが好きで(たま)らないのだ。彼女たちにとっては、血の繋がった終也よりも、年下の()()の方がずっと親しみやすく、大事な存在なのだろう。‌
 いまの十織家に、家族という繋がりを取り戻してくれたのは、外から嫁いできた真緒だった。そのことを、皆、よく分かっている。‌
「楽しみで、目が冴えちゃったの。終也も同じ?」‌
 終也は微笑む。‌
「同じですね。楽しみで、きっと目が冴えてしまったのです」‌
 終也の身には、国生みのとき生まれた一番目から百番目までの神のうち、十番目の神の血が流れている。‌
 一族の先祖たる十番様の血は、終也の身体を、よりも頑強なものとした。終也は、先祖返りとして、特別、神の血を色濃く引いているので、なおのことだった。‌
 そもそも、生き物としてのつくりが違うのだ。‌
 故に、終也はふつうの人と違って、長く眠る必要はない。短い睡眠であっても、問題なく動くことができる。‌
 だが、それを口にするのは()()だろう。‌
 真緒との外出を楽しみにしていたことも、決して嘘ではない。‌
「怒られちゃうかな? また夜更かしなんて、って」‌
 真緒の頭には、きっと、終也の妹や弟の顔が浮かんでいるのだろう。‌
「あの子たちなら、もう寝ていますよ。だから、二人だけの秘密にしましょう?」‌
 真緒は、きょとん、としてから、花が(ほころ)ぶように笑った。‌
「わたしと終也だけの秘密? 悪いことをしているのに、なんだか、ちょっぴりわくわくしちゃうね」‌
「知らなかったのですか? 悪いことは、案外、楽しいことでもあるのですよ。ねえ、真緒。そんなところに立っていないで、中にどうぞ。廊下は寒かったでしょう?」‌
 扉に立っていた真緒は、終也の(そば)にやってくる。ひんやりした小さな手を握ってやると、彼女は素直に握り返してきた。‌
「終也こそ寒くなかった? (ぼたん)が取れているよ」‌
 真緒の視線は、終也の首筋に向けられていた。襟首の詰まったシャツは、釦で前に開くようになっている。一番上の釦が、どうやら取れていたらしい。‌
「気づきませんでした。いつ取れたのでしょうね?」‌
「気づかなかったの?」‌
「あまり褒められたことではないのですが、ほとんど鏡を見ることはないので」‌
 終也の私室には、鏡がない。夫婦として過ごす部屋には置いているが、あれは終也ではなく真緒のために(あつら)えた鏡だった。‌
 終也自身には、長らく鏡を見るという習慣がなかった。‌
「なら、わたしが見てあげるね。鏡の代わりに」‌
 真緒は、自分のことを世間知らずと言う。十織家に(とつ)ぐまで、平屋に幽閉され、(はた)()りばかりしてきたから、外の世界を知らない、と思っているのだ。‌
 それは疑いようもない事実ではあったが、それが彼女の()()になることはない、と終也は思っている。‌
「鏡を見なさい、とは言わないのですね」‌
「だって、終也は、鏡を見ることが嫌いなんでしょ?」‌
 真緒は、いつも終也の気持ちを、心を大事にしてくれる。‌
 世のことは知らなくとも、決して愚かな少女ではない。彼女の()()(いち)()な心は、誰が否定しようとも、終也にとって唯一無二だった。‌
「君は、僕にできないことがあっても、怒らない。でも、たまには何かを言っても良いのですよ?」‌
「何か? でも、何も不満はないから」‌
不満ではなくとも、たとえば、欲しいものがある、とか?」‌
 文字どおり、真緒が望むならば、終也は何でも手に入れるだろう。どれほど高価なものであっても、自分の何を()(せい)にしても、彼女のために惜しむものなどない。‌
 だが、同時に、終也は誰よりも知っている。‌
 優しい彼女は、終也の身を(そこ)なうようなことは望まない。‌
「欲しいものは、ぜんぶ、ここに()るから。終也と一緒にいられたら、わたしの願いは叶うの」‌
「何かを強請(ねだ)ってほしい、という意味なのですけれど。僕は、君の(わが)(まま)が大好きなので」‌
 真緒は、ほんの少しだけ悩んだ後、思いついたように口を開く。‌
「なら、明日のお出かけ、わたしが終也の(ころも)を選んでも良い?」‌
「そんなことで良いのですか?」‌
 真緒は嬉しそうに頷くと、終也の傍を離れる。‌
 彼女は、いそいそと(きり)(だん)()から、小袖や帯を選んでゆく。終也は、可愛らしい妻の様子を眺めながら、あることに気づく。‌
 真緒が選んでいるのは、小袖も、帯も、すべて真緒が織った反物から仕立てた物だ。‌
 それが、終也に対する独占欲の現れに思えて、終也は嬉しくなる。‌
 出逢った頃から、自分と真緒は、愛の重さが釣り合っていない。‌
 真緒が悪いのではない。彼女は、たくさんの愛を返してくれる。‌
 ただ、それ以上に、終也は彼女に執着している。妹や弟から、何度も(たしな)められるほど、性質の悪い感情を抱いている。‌
 真緒は、祖父母や叔母から(しいた)げられながらも、復讐心には囚われなかった。世のすべてを恨むのではなく、機織りを通して、誰かの幸福を祈ることを選んだ。‌
 終也を一番に想ってくれるが、終也以外も大切にできる少女だった。‌
(だから、時折、僕は悪いことを考えてしまう。君の身も心も、僕だけのものになれば良いのに、と願ってしまうのでしょう)‌
 ずっと、終也の張った巣のなかで、終也に守られていてほしい。真緒を傷つけるすべてを遠ざけるから、代わりに、終也だけを愛してほしい。‌
 そう考える(たび)、終也は思い知るのだ。‌
 自分が、人の皮を被っただけの化け物であることを。‌
 どれほど真緒が、美しい、と言ってくれても、薄皮一枚を()いたら、ここに在るのは人ならざる生き物なのだ、と。‌
 これほど愛しているのに、愛しているからこそ、終也は不安になるときがあった。真緒の愛を信じているのに、それでもなお、確かめたくなる。‌
 かつて、人の世で生きることに絶望した終也は、とある平屋に迷い込んだ。‌
 大嫌いだった機織りの音に、どうしてか心惹かれてしまった。幽閉の身でありながらも、祈るように、かたん、かたん、と織る少女に出逢った。‌
 痩せがれた小さな生き物だった。だが、一途に織る少女だった。‌
 生まれてから、はじめて。‌
 終也の紡ぐ糸を、美しい、と言ってくれた少女だった。‌
「真緒。明日は、よく晴れると良いですね」‌
 湖の(くぐい)を見るならば、やはり曇りなく、澄み渡った晴空の下が良いだろう。朝焼けの照らす湖面を、白い鳥が泳ぐ様は、夢のように美しい光景のはずだ。‌
 真緒は首を傾げる。‌
「晴れなくても良いの。どんな天気でも、終也と一緒なら、素敵な思い出になるよ」‌
 真っ赤な椿(つばき)色の目が、終也の姿を映している。彼女の目に映る終也は、自分でも驚くほど、柔らかな顔をしていた。‌
失礼しました。君の言うとおりですね。君といるなら、なんでも素敵な思い出になると決まっています」‌
 やはり彼女には(かな)わない。‌
 終也は頬を緩めて、明日のことに思いを()せる。‌
 明日の天気は分からない。晴れるだろうか、それとも冷たい雨や雪が降るのか。‌
 分からないが、明日も幸せであることだけは、真緒と結婚した今、終也にも良く分かるのだ。‌

【おわり】‌