化生の恋

止むことのない雨と、あたりを覆うような深い霧。
まさしく《雨霧》の名がふさわしい土地は、しっとり肌にまとわりつくような空気に満ちて、雨に濡れた土の香りが漂う。
十織終也はゆっくりと歩きながら、同じ傘に入っている妻に視線を遣った。
真緒は特別な目を持っているので、終也と違って、この深い霧のなかでも周囲の様子が見えている。あちらこちらを興味深そうに眺める表情は楽しげだ。
真緒が楽しいならば、一ノ瀬家にいる少年の勧めで雨霧を歩くことにしたのは、結果的に良かったのだろう。
ふと、真緒が足を止める。
彼女が覗き込んでいたのは、店先に並んだ水ようかんだった。魚の形をした寒天が透けており、涼しげな印象を受ける。
「可愛い」
真緒は目を輝かせた。
可愛いのは、この水ようかんではなく真緒の方だ、と終也が思ったときのことだった。
店の前で立ち止まっている終也たちに気づいたのか、若い女性が中から出てくる。
「お客さん、余所から来たの? よかったら中に入ってよ。席もあるから」
どうやら通りがかる人々に売っているだけでなく、中で飲食ができるような甘味処も経営しているらしい。
「真緒、一休みしましょう。だいぶ歩きましたから」
「良いの?」
真緒はためらうような顔をする。終也が甘いものは得意ではないと知っているので、遠慮する気持ちがあるのかもしれない。
「もちろん。せっかくなので、雨霧での思い出のひとつに」
席に通された終也たちは、二人でお品書きを覗き込む。
終也は水ようかんは遠慮して、飲み物だけ注文することにした。
お品書きにあった珈琲の文字に、そういえば、雨霧は思っていたよりも外つ国の文化を受け入れているのだった、と思い出す。
先ほど雨霧を歩いている最中に見つけた、淡い緑のリボン。真緒に似合うから、と贈ったそれも、明らかに外つ国を意識したものであった。
しばらくもしないうちに、水ようかんと飲み物が運ばれてくる。
「本当に、可愛いね。食べるのがもったいないくらい」
真緒はようかんを見つめながら嬉しそうに笑う。
店先で見たように、水ようかんには魚の形をした寒天が入っている。
涼やかな寒天が何を模しているのかは、雨霧が一番様に守られた土地であることから明白だ。
一番様は、龍あるいは鯉の姿として、世間一般では認識される。
故に、この寒天の魚は鯉なのだろう。
「美味しい」
「それは良かった。でも、そのわりに、少し浮かない顔をしている気がします」
「ずっとわたしに付き合ってばかりで、終也は楽しいのかな、と少しだけ不安になったの。さっきのリボンも、この水ようかんも、わたしだけ」
終也は目を丸くした。
「楽しいですよ。僕は君にいろいろ贈りたいですし、君が美味しそうに食べているのを眺めるだけで嬉しくなります」
「……ありがとう」
「御礼など要りません。僕が好きでしていることなので」
「でも、他にも、傘だって、ずっと持ってもらったから。濡れなかった? 終也、わたしが濡れないように気を遣ってくれたから」
左手を負傷している真緒には、とても傘は持たせられない。左手が不自由なところ、右手まで傘で塞がれてしまったら、何かあったときに対処できなくなる。
「僕のことは気にしなくて良いのですよ。たとえ濡れたところで、風邪など引かないでしょうから」
雨に濡れたくらいで体調を崩すほど、脆弱な身体のつくりをしていない。終也は人よりもずっと強いから、風邪を引くかもしれない、という想像もしない。
「終也が平気でも、わたしはあなたに寒い思いをさせたくないの」
「……君のそういうところが、僕はとても好きです。僕が大丈夫でも、僕のことを心配してくださる」
終也が強く生まれたことを知っていながらも、終也の身を案じてくれる。
終也は先祖返りだから、と他の誰もがしてくれなかったことを、彼女は当たり前のようにしてくれる。
真緒のなかでは、終也はごく普通の男なのだろう。
自分たちとは違う生き物だから、と終也に線引きした者たちと違って、彼女は最初から線を引かない。あるいは、誰かが引いた線を、当たり前のように飛び越えてくる。
それがどれだけ特別なことか、彼女だけが分かっていない。
真緒が傍にいて、終也のことを除け者にしないから、終也は人の世で生きてゆけるのだ。
かつて、何処にも自分の居場所はない、と思い知らされていた人の世で、いまの終也は息をしている。
(昔の僕に言っても、きっと信じないでしょうね)
時折、真緒に出逢う前の自分のことを、終也は夢に見る。
そして、考えても仕方ないことと思いながら、真緒に出逢うことのできなかった自分を想像するのだ。
あのままであれば、きっと、終也は道を踏み外していた。
真緒がいるから、自分のなかにいる恐ろしい何かに支配されずにいられる。
(人の世は窮屈です。でも、人の世だからこそ、真緒と共に幸福に生きてゆけるのでしょう。だから)
誰かが、お前の居場所はそこではないよ、と終也を手招きしても、その誘いに乗ることはない。
人の世にいる真緒が、一番に終也を想って、終也の手を放さないでいてくれる。
(誰にでも優しく在ろうする君の一番は、僕だけ。そのことで、僕がどれだけ救われているのか、きっと君は知らないでしょう)
真緒は、誰にでも優しく在ろうとする。いつだって、此の国に悲しいものが溢れないように願っている。
自分の手が届く範囲を知りながらも、それでも、と手を伸ばすことを止めない。
そんな彼女の一番は、終也なのだ。
彼女が誰かに優しくするのは、彼女の気質がそうだから、というのもある。
だが、他にも理由があることを終也は分かっている。
誰かに優しくすることで、巡り巡って、それが終也の生を助ける、と信じてくれているからだ。
真緒が死んでからも続く終也の人生が、どうか祝福されるものであるように、と願いながら、真緒は生きている。
甘味処を出た二人は、また雨霧の街に出た。
蛇の目傘のなかに真緒を入れる。当たり前のように傘に入り、身を寄せてくれる彼女を見ながら、ふと、終也は思った。
「二人で傘の中にいると、まるで此の世で二人きりのような、そんな気がします。……ほんの少しだけ、君を独り占めにした気持ちになるんです。もちろん、分かっていますよ。二人だけよりも、皆がいた方が、ずっと良いのだ、と」
真緒は少しばかり考えるように、ゆっくりと瞬きをした。
「皆が一緒にいてくれたら、と思っているよ。でも、それだけが全部じゃなくて。……終也は、わたしのことを良い子に見過ぎていると思うの。終也のことで胸がもやもやすることだってあるし、嫉妬だってするし、ずるいことだって考えることがあるよ」
ずるい。
終也が思わず笑みを零すと、真緒はきょとんと目を丸くした。
「君の考える、ずるいこと、とは?」
「終也のこと、わたしだけの終也にしたくなるの。……いつもじゃないよ」
「僕は、君だけの終也ですよ? ずっと。人の世で生きるための縁が、どれだけたくさん結ばれるようになっても。それを結んでくれたのは、真緒です。君が愛してくれるから、僕は人の世でも生きてゆけるのです」
「わたしがいなくても、あなたはたくさんの人から愛されているよ」
「では、その愛を感じることができるのは、君に出逢ったからでしょう。ねえ、真緒。君はいつも僕のことを化け物じゃない、と信じてくれます。でも、僕は……君に出逢わなかった僕は、きっと化け物になっていた、と知っているのです」
何かも呪って、此の世のすべてに絶望して。
身も心も化け物となったとき、終也の隣には、終也を救いあげてくれる人は存在しなかっただろう。
たとえば、運命のまま、あの琥珀という女と結ばれたとしても――。
終也が救われることはなかったのだ。
「君がいるから、僕は人の世で生きてゆける。だから、どうか僕と共に。どんなことがあっても、僕を一番に愛していてくれますか?」
そう問いながらも、終也は彼女の返事を知っていた。
「ずっと。ずっと、終也だけが一番だよ」
たくさんの人に愛される彼女が、一番に終也を愛してくれる。それは得がたく、奇跡のようなことだ。
人の世は窮屈だ。
どうしたって、終也は人ではないから。
けれども、窮屈であっても、人の世だからこそ、真緒と共に幸福に生きてゆけると知っている。
【おわり】