居酒屋のんの 今夜のおすすめ ~手のひら小話~


「あの実はお願いがありまして」
 いつもどおりに(みね)と並んで飯を食って、和やかな時間を過ごしたあと。
 先に勘定をした嶺が店を出ていくのを見送った(れん)ちゃんが、突然、ひどく申し訳なさそうに言うものだから、何事だろうと思わず姿勢を正した。
「なに? なんでも言ってよ」
はい。あの(はる)(よし)さんの手をデッサンさせてもらえないでしょうか」
「は? 手? 俺の?」
 予想よりもはるかに小さな願いごとに、がくっとズッコケそうになる。
「んなもん、いつだっていいよ。こんな手でよけりゃ」
「ありがとうございます! とても助かります! 営業中はご迷惑でしょうし、それに、わたしが描きたいだけで仕事とは関係ないので、申し訳なくて」
 なんとなく、この子は人に甘えることが苦手なのかなと思う。
 親しき中にも礼儀ありというし、俺もそれには賛成だ。だけど、手のスケッチくらいのことなら、こんなに恐縮しなくたっていいだろうに。
 そういや、よく似たやつがいるなと、親友のガキの頃の顔が漣ちゃんに重なった。
 感傷にひたる趣味などさらさらないが、俺と嶺にとって、あの頃の思い出は塩辛いもんばっかりだ。似たような時間を過ごしながら、俺はひねくれて、あいつは閉じこもった。
「どれくらい時間があればいいの?」
「だいたい、十五分くらい、いただけたらうれしいです」
「それだったら、開店直後ならいつでもいいよ」
 そんなやり取りをした数日後。
 神妙な面持ちで、漣ちゃんが開けたばかりの店にやってきた。大きめのトートバッグを肩に掛け、何度も礼を言って頭を下げるのを、ワハハと笑ってやめさせる。
「たいしたことじゃないんだからさ、気にしなくていいって。漣ちゃんの役に立てるなら、俺はうれしいんだから」
 ほっとしたような笑みを浮かべて、漣ちゃんは頷いた。
「で、どうすりゃいいの?」
「ええとまずは、手のひらをこちらに向けてもらって
 言われたとおりに両手を差し出すと、ガラリと漣ちゃんの雰囲気が変わった。
 トートバッグから取り出したスケッチブックに鉛筆を走らせながら、見たことのない目が俺の手とスケッチブックを行き来し始める。
 真剣な目には違いないが、まるで二度と見られない特別なものを前にして、すべてを焼き付けようとているみたいな目。
 これが、イラストレーターの漣ちゃんか。
 俺の知らない居酒屋のんのでは見せない、イラストレーターの顔。
 ちらりとスケッチブックに目をやると、ものの数分しかたっていないのに、すでに俺の手が写し取られていた。
「今度は、こんな感じで
 白い細っこい手がしてみせるポーズを真似ると、にこりと漣ちゃんが笑った。
「やっぱり、春芳さんの手は素敵ですね」
 感慨深げに言ってスケッチブックのページをめくり、再び鉛筆を走らせる。
 静かな店内に、シュッシュッという音が聞こえる。
 みるみる紙の上に出来上がっていく手を見ているうちに、ふと、いまはもういない人の手を思い出した。ずいぶん長いこと忘れていた、親父の手。
 粟島で漁師をしていた親父の手は、いつでも数えきれないほどの小さな傷があった。 魚を釣り上げる船での仕事や、漁を終えた後の網や道具の手入れで傷付くのだろう。傷付いては治り、また傷付く。それを何度も何度も繰り返した親父の手は、がっしりとした太い指と分厚い手のひらをしていた。俺の大好きだった手。
 スケッチブックには、古い記憶のなかの親父の手によく似た手が、漣ちゃんの引く細やかな線で描かれていく。
 料理人の手に傷など以ての外なわけで、怪我には人一倍気を付けている。
 それでもこうして見てみると、俺の手は指が太く分厚い。これまで気にしたこともなかった。長年の水仕事のせいだろうか。他の料理人の手もこんなものだろうか。
 それとも、俺のなかの親父の血がつくった手だろうか。
 鉛筆を動かしながら漣ちゃんが言った。
「手の形って、仕事でつくられていくみたいなところがあると思うんです。でも、春芳さんの手は、そういうのだけじゃない、特別な手だなって感じてたんです。料理人の手っていうよりもなんていうか、荒波に立ち向かっている人の強い手っていうか。すみません。わたし、変なこと言ってますよね」
 漣ちゃんははっとしたように頬を赤らめたが、俺は(がく)(ぜん)とした。
 俺のことなどなにも知らない漣ちゃんが親父のことなどもっと知らない漣ちゃんが、俺自身さえも気付かなかった親父との絆を言い当てたことに、心底、驚き、動揺した。
「そんなふうに見えるのかね。俺の手は」
「イラストに仕上げたら、見ていただけますか?」
 もちろんと答えながら、その澄んだ目を見つめて思う。
 この子は、つくづく不思議な子だ。


「たしかに、いい手をしていると思うよ。おまえは」
 そういや昨日、漣ちゃんが俺の手をスケッチしに来てさ、いい手だって言われちゃったよと話すと、思ってもいなかったセリフが返ってきた。
 店を開けたばかりのカウンター越し。いつもよりも早く来た嶺の他に客はまだない。
「なんだよ、おまえまで」
 ふはははと笑って流されて、本気なのか冗談なのかもわからない。
 かまわずに、そのときのことをざっくりと話して聞かせる。
「そんなに親父さんの手に似てるのか?」
「もうそっくり。なんでいままで気付かなかったんだろうなぁ」
 言いながら、とっておきの一皿を嶺の前に出してやる。
こいつに食わせたくて、今朝、粟島から送ってもらったばかりの旬の鯛。
きれいな(はし)(づか)いで刺身を口に運び「やっぱり、(あわ)(しま)の鯛は違うな」なんて感心したように呟くのをいい気分で眺めていると、不意に箸を置いた嶺が話し出した。
「手というのは、親から遺伝する部分はとても少ないらしい。生活習慣や仕事や癖。そういうもので形がつくられていくものなんだそうだ。つまり、おまえの手は、おまえ自身がいまの形につくってきたってことだよ。でも、遺伝じゃなくても、おまえのこれまでの生き方が、親父さんによく似ていたってことなのかもしれないな」
へぇ。なるほど」
 ぐっと言葉に詰まったのを隠して、そっけない声でどうにか返す。嶺は、再び刺身に舌鼓を打っている。
 親父とよく似た生き方とはね
 ガキの頃に別れたきり、もう二度と会えないはずのかけがえのない人と、実のところ俺はずっと一緒に生きてきたんだなんて。
 慰めというにはあまりある言葉に、胸がじんじんと熱くてしかたがない。
 俺の親友兼幼馴染は、こういうやつだ。
 なまじ苦労をしてきちまったせいで、他人の痛みに敏感で、どんなときだって寄り添う言葉をくれようとする。
 俺がこいつにしてやれることなんて、うまい飯を食わせることくらいなのに。
 嶺には一生わからないだろうなと思う。自分の言葉がどれほど俺を救ってきて、助けてくれているのか。
 俺もこいつになにかできたらいいんだけどな。飯の他にも。
 できることなら。寂しさをいつも隣においているようなこの男に、たったひとつでいいから、変わることのない温もりを見つけてほしい。
 ふと、スケッチブックに目を落とす漣ちゃんを思い浮かべた。
 あの不思議な子は、嶺をどんなふうに見てくれているのだろう。もしかしたら、この男でさえも気付いていないなにかを、見つけているんじゃないだろうか。
 俺の手のなかの親父を、見つけてくれたように。
「なぁ嶺。漣ちゃんって、不思議な子だな」
「なんだ、急に」
「俺の手を、荒海に立ち向かっている人の強い手だって言ったんだよ。親父のことなんて知らないのにさ」
 嶺がゆっくりと顔を上げて「そうか。漣ちゃんがね」と小さく言った。
 ふんわりとした温かい微笑み。こいつもこんな顔で笑うのかと、少し意外な気がした。
 はたから見ていても二人はいい飲み仲間だが、もしかしたら嶺にとってはそれ以上のなにかがあるのかもしれない。
 そうとくれば毎晩でも漣ちゃんに来てほしいものだが、さすがに金がかかりすぎるだろうと考えた瞬間。ピコンと、めったに(ひらめ)かない頭が閃いた。
「だったら、来られるようにしてやりゃいいじゃねぇか!」
 ぽかんとした嶺にニヤリと笑ってみせて、頭の中でサービス価格の算段をつける。
 あとは遠慮するにきまっている漣ちゃんに、うんと言ってもらえるかどうか。
 食うより仕事優先。そんな人間の胃袋をガッツリと掴むことに関しては、すでに嶺を常連にしたという実績がある。粟島のうまい食材さえあれば問題ない。
 まずは今夜の鯛だ。刺身もいいが、蒸して中華風のソースを添えるのもアリだ。あの子の好きな辛口の日本酒とあわせて。
 俺は自分のアイディアに大いに満足した。
 これは、漣ちゃんが「春芳スペシャル会員」になって、毎晩のように居酒屋のんのに来るようになる、ほんの少し前の話。

【おわり】