雨降る夜の遊戯室
「……うーん、間が悪い。雨かぁ……」
葵がロッカーの扉の隙間から中庭を覗くと、大粒の雨粒が天から降り注いでいるのがわかった。おまけに時刻は夜らしい。真っ暗な闇の中を、ざあざあと音を立てて水が落ちてくる。
「やめようかなあ、行くの……」
葵は呟きつつも、そういうわけにはいかないか、と思い直した。
なんとなれば、葵がいる日本と、この扉の向こうの異世界は、時間の流れが違うのである。ノンビリしていると、あっちの世界ではすさまじい勢いで時間が過ぎてしまう。
「まあ、待ってる人がいるわけだしね」
葵は、ちょっと指に力を込めて、スチールロッカーの扉を押す。長年使われて塗装が剥げたロッカーの扉は、ぺこりと音を立てた。この安っぽいスチールロッカーは、葵が勤める「こみ歯科医院」の院長室に設置してあり、あろうことか、異世界に繋がっている。もう少し正確に言うと、ゼルテニア大陸にある、クレスト王国という国の、王城の中庭に通じているのだった。
葵は今、この国の王様の虫歯の治療をするハメに陥っている。確かに葵は歯科医師ではあるから、治療するのはやぶさかではないのだが、おそらく中世か近世か、といった世界観の国では、ろくな道具も薬もないので、時々材料を取りに日本に戻らざるをえない。時間の流れが違うから、たった五分日本で過ごしただけで、クレスト王国では二時間以上経過している、なんてこともあるから大忙しだ。よくやっているよな、と葵は自分でも思うわけだった。
葵はロッカーの扉を開けると、えいやっと走り出した。ものすごい土砂降りだった。石造りの端正な中庭は広くはないのに、城に通じる扉にたどり着くまでのわずかな距離を走っただけで、葵はびしょ濡れになっていた。
夜だけあって、城の中は暗く静まりかえっていた。壁に置かれた魔法の火が、石造りの廊下を照らし出している。時には泊まることもあるなじみの場所ではあるけれど、外の雨音ばかりが響いている様は、うっすらと不気味ですらある。
と、足下で、きゅうきゅう、という鳴き声がした。
「あら、わさび」
足下にじゃれついてきているのは、スピッツそっくりの犬っぽい生き物である。「っぽい」というのは、正確には犬ではないからで、実はゼルテニア大陸における『聖獣』様だったりする。その証拠なのか、毛の色はわさび色であるし、鳴き声も犬ではない。懐いてしまったこの聖獣は、葵が異世界にやってくるたび現れるのだ。
わさびは葵を誘導しようとしているのか、葵の濡れたジーンズの裾を引っ張っている。
「なあに、わさび、どこかに連れて行ってくれるの?」
わさびは、葵の言葉がわかるらしい。頷くと、ほてほてと歩き出した。
せめて濡れた髪を拭きたいなあ、などと思いつつもわさびの後を着いていくと、城の中でもまだ行ったことのないエリアの方へとずんずん進んでいく。わさびは階段を昇った先の、古めかしい扉を前足でひっかいた。
「ここに入りたいの?」
きゅう、とわさびは答えるように鳴き声を上げた。
葵は扉を開けた。
「……あら……」
そこはおもちゃ箱のような空間だった。壁や天井には虹や金色の星や月が描かれていて、そこに宿った魔法の明かりがつるされたモビールと部屋全体をほんのりと照らしている。古めかしい鎧を着た人形が飾られ、ぜんまい仕掛けのからくり細工や、大きな巻貝を改造して作ったらしいランプや糸紬機や、葵にはわからないような不思議な機械まで所狭しとおいてある。壁には棚がおかれて、大きさもまばらな木彫りの動物細工が並んでいた。中が広くはないので、余計におもちゃ箱をひっくり返したような印象がある。
と、部屋の隅に積まれていた白い布がもぞもぞと動いた。
「……葵?」
白い布の間から、十歳ぐらいの男の子が顔を出した。顎の辺りで切りそろえた黒髪に、整った顔立ち。けれどその目は、少し離れていてもわかるぐらい潤んで赤くなっていた。
「マヨくん。どうしてこんなところにいるの? 部屋から抜け出したと知れたら警備の人がびっくりするよ」
葵が近寄りながら言うと、少年は涙をぬぐって立ち上がった。
「大丈夫だよ。ここ、ぼくの部屋とつながってる、秘密の部屋なんだ。昔、父上に教えてもらって、よく一緒に来たんだ」
マヨは自分の体に巻き付けていた布で葵の腕を拭く。
「葵、びしょぬれだよ?」
「雨がすごかったの。でも王様の使ってた布で拭いてもらえるなんて光栄ね」
「布は布だよ」
濡れた自分のために、布を渡してくれたマヨの心遣いに、葵はほんのり心が温かくなる気がした。
少年の本当の名はマヨ三世という。わずか十歳でありながら、このクレスト王国の頂点に立つ人物だ。そして、異世界における葵の初めての患者さんでもある。
ふと、マヨの手が止まった。ちょっとうつむいて、葵に顔を見られないようにしながら洟をすする。分厚い石の壁越しにも、雨音は聞こえてきていた。
「……マヨくん、どうしたの?」
「なんでもない」
「なんでもないことないでしょう。また、歯が痛いの?」
「違うよ。葵に言われてからちゃんと歯も磨いているもの」
そう言いながらも、マヨはぴたりと葵にくっついてきた。
「……葵が戻ってきてくれてよかった」
クレスト王国の人間が、ロッカーを抜けて日本に来ることはできない。葵が日本に戻ってそれっきり、という可能性だって十分あるのだ。
「そんなこと心配してたの? 戻ってくるって約束したじゃない」
葵は、自分よりも小さなマヨの背中をとんとんと叩いた。
「……もちろん、信じてた。でも、今日は雨だったから……心配だったんだ」
「……雨?」
「……父上も、雨の日に出かけて、戻ってこなかったんだ……」
葵は思い出した。そういえば、以前、マヨがこれほど幼いのに即位した経緯を聞いていた。
マヨの父である先王は、大雨の日に不慮の事故に遭って亡くなった。それがゆえに、マヨは父王の跡を継がなければならなくなったのだ。
葵は部屋を見渡した。
おもちゃ箱のような秘密の部屋。ここで、マヨは父と遊んだのだろうか。
(……でも、今はひとりで……)
母親は、マヨが生まれたときに亡くなったという。兄弟もなく、一人きりの少年王の孤独を思って、葵はきゅっと胸が締め付けられるような思いがした。
「マヨくん、この部屋、素敵ね。見たことないようなものがいっぱいある。わたしの住んでいる国にはないものだね」
葵は、見たことのないからくりを背負った女の子の人形を指さしながら言った。
「……うん。この人形、音が出るんだよ」
マヨが人形の背中を少しいじると、歌うような清らかな音が鳴り始めた。
「すごい。オルゴールみたいなものが入っているのかしら。ねえ、もしよかったら、ほかのものも使い方を教えてくれる?」
葵の言葉に、マヨは少しばかり嬉しそうにうなずいた。
そうして、二人はおもちゃ箱のような部屋の中で、いくつもの細工を動かして回った。水を入れた瓶の中で浮かび、泳ぐようにくるくる回るきれいな色の石や、ゆらゆらと揺れる金の振り子、幻のような光の花が咲く不思議な植木鉢。それらは、葵の世界にはない謎の仕掛けが形作る奇跡のようでもあり、もしかしたら少しぐらいは本当に魔法がかけられていたのかもしれない。
涙ぐんでいたマヨは、それらを説明するうちにいつしか笑顔になっていたし、不思議な仕掛けの数々に、葵も本気で感心し、楽しんでいた。時にはわさびも仕掛けに驚いている様子だった。
「すごいね。こんな素敵なものがあるなんて思ってもみなかった。マヨくん、見せてくれてありがとう」
葵がそういうと、マヨは鼻を膨らませて得意満面の顔になった。
「まだ、とっておきもあるんだ。……見たい?」
マヨは自慢げに言った。
「うん、見たい」
葵は本気でうなずいた。
「じゃあ……また次に来た時に見せてあげる」
そういってから、マヨは少しばかり葵の顔を窺ってきた。
「葵、僕の城に来続けてくれるよね」
からくり仕掛けのおもちゃに囲まれて、一人、布にくるまっていたマヨ。マヨはそこでいつも何を思っていたのだろう。
「……突然来なくなったりしないでね」
無垢なマヨの表情の中に、寂しさの影を見つけた気がして、抱きしめてあげたいような衝動にかられた。葵はマヨの手を取った。しゃがみこんで、マヨの顔を覗き込む。
「そうね。少なくとも、マヨくんの虫歯の治療が全部終わって、永久歯がきちんと生え揃うまでは、ここに通うよ」
葵がそう言うと、マヨはぱあっと笑みを浮かべ、葵に寄りかかってきた。
「うん!」
そんなわけで、葵とマヨ、それにわさびは、おもちゃ箱の部屋で遅くまで過ごした。
それは、雨がやんで、雲の合間に月が見えるようになる時まで。
小さなささやき声と、くすくす笑いが満ちた部屋からは、寂しさの影は消え去っていた。
【おわり】