のっぺらぼう

「あ」
下駄箱の扉を開けたいろはは、外履き用の靴の上にちょこんと置かれた封筒を見つけて小さく声を上げた。
神田川沿いに白い校舎を構えた六花女学院は、名実ともに広く知られた名門女学校だ。雪持ち南天の校章は、苦難のただ中にあっても鮮やかにあるように、という思いが込められている。
信田伯爵主導で設立されたこの女学院は、華族以外の娘にも広く教養を持たせることを理念としている。血筋や親の職業に依らず、試験に合格すれば誰でも入学できる。──そもそも、合格できるほどの知識を身に付けられる娘はある程度の身分にある娘である、という矛盾は孕んでいるが。
そんな、一種実力主義ともいえる女学院であるが、意外にも殺伐とした空気はあまりない。商家の娘も多く、時には競合他社の娘同士が教室で机を並べることもあるが、親の思惑なんのその、怖いもの知らずの女学生たちは我が世の春を満喫している。
華やかで輝かしい青春に欠かせないのが、今しがたいろはが発見したこの封筒である。
薄桃色の可愛らしい、無地の封筒だ。宛名には、品の良い黒い文字で鬼籠野いろは様、と綴られている。わざわざ赤い蝋で封がしてあるのは、差出人のこだわりなのだろう。
「あら、また薄桃の君? 本当に、熱心だこと」
ころころと鈴を転がすような笑い声が、いろはの背後から聞こえてきた。振り返れば、いろは越しに靴箱を覗き込むようにして黒髪の少女が立っている。
白雪の如き白い肌、対照的に黒檀のような黒い髪。マガレイトに結った艶やかな髪を飾るのは夏空を思わせる鮮やかな青色の幅広のリボンで、彼女の肌の白さと髪の黒さを際立たせている。澄んだ黒瑪瑙を思わせる瞳を縁取る長いまつげは、日の光を反射して光の粒を纏っているかのようだ。紅を刷かずとも赤い唇は熟れたさくらんぼを思わせ、柔らかな円い頬は咲初めの薔薇の色をしている。深緑の地に白い薔薇柄の振袖がよく似合う、百点満点のこの美少女が持つとんでもない悪癖の数々を、いろははよくよく承知していた。
美少女の名は椿坂 貴音。いろはの同輩であり、友人であり、椿坂伯爵の愛娘であり、六花女学院の「椿の君」だ。
「応えて差し上げればよろしいのに。よいものですわよ、姉妹って」
「あなたがそう言うのなら、ええ、そうでしょうとも。五人もエスがいるんだものね」
少しばかりの非難を込めたいろはの言葉にも、少女はにこっと可愛らしい笑みを浮かべた。
姉妹──女学院の上級生と下級生で結ばれる、疑似的な姉妹関係のことだ。上級生が、目をかけた下級生にリボンを贈り、下級生がそれを身に付けることで姉妹の契りは交わされる。この姉妹関係は卒業してからも続き、血よりも強い絆となる。その強さ故に、エスになれるのはひとりにつきふたり──姉と妹がひとりずつ──だけだ。
そう定められているにも関わらず、この傾国の美少女は姉をふたり、妹を三人抱えている。現実では浮気も心変わりも契りの破棄もあるとはいえ、一対一が理想とされる関係でここまでの不義理を働くのはいかがなものか、といろはは常日頃から貴音に苦言を呈していた。
「だって、皆さまお可愛らしいのだもの。悲しませるようなことは、とてもとても……」
貴音は頬に手をあて、目を細める。彼女に心酔する生徒なら思わず見とれるその表情を、いろはは呆れ切った目で一瞥しただけだった。
「私、心配よ。いつかあなたがとんでもない問題に巻き込まれないか」
「まあ! 私を心配してくださるの?」
嬉しいわ、と貴音は頬を染めて笑った。
きっと、みんなこの笑顔にやられてしまうのだろう。煮詰めた糖蜜のような、とろりと甘い笑顔。彼女が纏う空気まで、なんだか甘い気がする。
だが、その強引な甘さに流されてやるほどいろはは貴音に優しくなかった。
「冗談じゃないのよ。あなた、この間も四年生のおねえさまと揉めていたでしょう。いい加減、その軟派な姿勢を改めるべきよ」
「ま、見てらっしゃったの? 少し喧嘩をしただけよ。ちゃんと仲直りしたわ」
真面目な顔で忠告するいろはに対し、貴音の返答はあくまで軽い。
華族令嬢という立場の安定性のせいか、自身の優秀さに対する過信か、貴音はたびたびこういう態度を取る。いろはが貴音と出会ってから三年間、指摘し続けても直らない悪癖のひとつだった。
「今は私のことよりも、薄桃の君を気にしておあげなさいな。ろくにお返事もして差しあげていないのでしょう?」
「お断りのお返事はしたの。……最初に」
「じゃあ、そのあとはすっかり無視してらっしゃるってこと? まあ、なんてひどい!」
貴音に詰られて、いろはは苦虫をかみつぶしたような顔をした。不義理の限りを尽くす貴音に指摘されるなんて、正直納得はいかない。だが、いろはがこの薄桃の君に不誠実な態度を取っていることは事実だった。
エスの関係は、上級生からしか申し込めない。けれど、憧れの上級生におねえさまになっていただきたい、という想いは誰しも抱くもので、そういった下級生に許された唯一の手段が手紙だった。
己の所在と、あふれ出んばかりの思慕を選りすぐりの便箋にしたため、どうか私のおねえさまになってください、と懇願するのだ。そしてその手紙を、上級生の靴箱にこっそりと忍ばせる。それを目にした上級生が手紙を気に入れば、改めて上級生から下級生に声をかけ、姉妹が成立する。
そういった手紙も、成就しなければ一通か二通で終わるものだ。だというのに、この薄桃の君は春に入学してから半年間、三日とおかずにいろはの靴箱に手紙を置いていく。
「私、ちゃんと伝えたのよ。姉も妹も不要ですって。なのに……」
薄桃色のあどけなさとは裏腹に、薄桃の君はたいへん頑固だった。いろはは彼女から受け取ったものよりはるかに格式ばった文体で、飾りがひとつもない無地の封筒と便箋を使ってお断りした。にべもなく、一切の希望を持たせることなく、交流を拒絶した。それでも薄桃の君は未だせっせと手紙を送ってくれる。まさか反故にするわけにもいかず、いろはの部屋にある文箱はいまや薄桃色の封筒でいっぱいだ。
正直な感想を言えば、いろはは少し薄桃の君が恐ろしくなっている。校内で少し見かけただけの上級生に、どうしてそこまで執着するのかがわからない。貴音のように軟派でも困るが、一途を貫かれても困る。いろはは最初に、応えるつもりはないと明示しているのだ。
「それが憧れというものよ、いろはさん」
いろはが疑問を口に出せば、貴音はそう答えた。
「恋に理屈は不要よ。この方はあなたの姿をひと目みた、それだけで恋に落ちたのよ。日に日に想いは増すばかり、文を綴る手も止まらず、ただ少しでもあなたの目に映りたいとそれだけを願って苦しい日々を過ごしているのだわ。ああ、その姿のなんといじらしいことかしら」
胸の前で白い指を組み、朗々と歌うように語る貴音の目はきらきらと輝いている。そういった、少女の一途で純粋な恋が描かれた恋物語は、貴音がいちばん好むものだった。
「でも……やっぱり、私にはわからない」
恋だとか、愛だとか、いろはにはよくわからない。家族に特別な情を向けるのは分かる。いろはは育ててくれた祖父母を敬愛しているし、以前はねえやとして、今は女中として住み込みで働いてくれている千代を誰よりも慕っている。けれど、流行りのキネマや劇が扱う、他者を無二とする感情はよくわからなかった。
いろはは靴箱の中に忍ばされた薄桃色の封筒を見つめた。いろはに自分のすべてを捧げる、と便箋には何度も書かれていた。いろはを称える美辞麗句とともに記されたその文言を、いろはは何度も繰り返し読んだ。どうしても、わからなかったからだ。
住むところも、食べるものも、育ってきた環境も考え方も違うのに、どうして自分のすべてを捧げてもいいと思えるのだろう。
それがわからない自分がエスという特別な関係を誰かと結ぶべきではない、といろははそう思えて仕方がなかった。
「もう一度、お手紙を書く。私のことは諦めてもらえるように……なんとか説得してみる」
絶対に首を縦に振らないいろはを、貴音は残念そうな目で見ていた。どうしてだかわからないが、貴音はいろはにエスを持ってほしいらしい。
ものいいたげな貴音の視線を無視して、いろはは薄桃色の封筒に手を伸ばした。靴の上からそれを持ち上げて、違和感に気付く。
「いつもより、薄い」
薄桃の君は、いつも便箋五枚か六枚、場合によってはそれ以上の枚数を封筒に押し込んでいる。それなのに、今回の手紙はせいぜいが二枚、もしかしたら一枚しか入っていないかもしれない。それくらい、薄かった。
「あら。もしかしたら、お別れのお手紙かもしれなくてよ」
「それならいいんだけど」
「冷たいひと!」
いろはの心からの言葉に、貴音はわざとらしく憤慨して見せる。それには反応せず、いろははすぐに封を破った。開いてみれば、ふわりと甘い香りが漂う。封筒の中にはやはりいつもの薄桃色の便箋が一枚きりしか入っていない。
それにさっと目を通したいろはは、すぐに封筒に便箋をしまった。
「私、やっぱり、姉にも妹にもなれない」
誰に言うでもなく、いろはは小さく呟いた。その呟きを拾った貴音が首をかしげる。
「でも、もし困っているなら、放っておきたくないとは思うの。……ううん、助けになりたいって、思ってるの」
どこか宣誓のようないろはの独白に、貴音はにこっと笑った。花がほころぶような、あどけなくて、どこか誇らしげな、そんな笑みだった。
「ええ。それがいろはさんが、いろはさんたる事由だわ」
いろははいくつかの肩書を持っている。洋画家・鬼籠野蘭堂の孫娘。六花女学院に通う女学生。そして、帝国陸軍対妖特務隊、勝烏の隊員。
十年前に発足した妖怪関連の事件を専門的に担当する勝烏は、男女の区別も年齢の制限もなく、本人の資質さえあれば入隊が叶う。陸軍としては、かなり特殊な小隊である。いろはは半年前に、勝烏に入隊した。以来、昼間は学生、夕方からは軍人として、帝都を駆けまわっている。
学院からまっすぐ勝烏に向かったいろはは、まず上司にお伺いを立ててから「薄桃の君」に使いを出した。返事は、いろはが身支度を整え、すべての手続きを終わらせる前に来た。
いつもの薄桃色の便箋に、心なし弾んだ文字が躍っている。了承の意を確認したいろはは、あわただしく勝烏の隊舎を後にした。
日がすっかり傾いたころ、いろはは世田谷のはずれの路地に到着した。いろはよりも先に着いていたらしい薄桃の君は、いろはの姿を見つけてぱっと表情を明るくした。
「ごめんなさい。お待たせしてしまったわね」
「いいえ。いいえ、おねえさま。澄子は、お待ちする時間も楽しゅうございました。ああ、本当に、おねえさまと言葉を交わせるだなんて!」
薄桃の君──六花女学院一年、大津澄子は、嬉しそうに目を細める。
初めて対面した薄桃の君は、あだ名通りの可憐な少女だった。今年入学したばかりの十三歳の少女は、まだ幼い子どもの空気を纏っていた。顔立ちにはあどけなさを残し、ふくふくとした頬が特に目を引く。柔らかそうな髪はラジオ巻きにされ、黒目がちの瞳は潤んできらめき、どこかはつかねずみのような愛らしさがあった。
「それで……大津さん」
「大津さん、だなんて。澄子とお呼びください、いろはおねえさま」
「……大津さん」
うるうるとした瞳で見上げられ、ねだるように名前を呼ばれても、いろはは頑なだった。きっぱりと、再度澄子を苗字で呼ぶ。当の澄子はめげた様子もなく、けなげに微笑んでいろはを見上げる。
「はい、いろはおねえさま」
澄子の様子は同情を買うのにふさわしいものだったが、いろはは揺るがなかった。
「まず、そのおねえさまと呼ぶのをやめてちょうだい。私はあなたの姉になるつもりはないの。そのことは半年前に伝えたでしょう?」
「……はい」
澄子は一瞬悔しそうな表情をして、けれどすぐにそれを取り繕って返事をした。半年間の手紙攻撃が示す通り、彼女はただ可憐で清らかな少女というわけではないようだ。
「私があなたと会うことになったのは、私の上司がそう決めたからです。あなたが勝烏に助けを求め、対処すべきと判断されたから、私が派遣されました。私とあなたが、同じ学校の生徒だからです。そのことを、覚えていて。忘れないで」
「はい……」
いろはの言葉に、澄子はどんどん萎んでいくようだった。多少、いろはの良心も痛んだが、澄子はこの半年間、しつこく手紙を送り続けてきた相手だ。この機会に完全に諦めてもらうことを目指すほうが、いろはにとってはいいはずだ。
「それじゃあ、詳しく聞かせて。手紙にあった、妙なものを見た路地っていうのは、ここなのね?」
そう確認しながら、いろはは澄子との待ち合わせ場所でもあった路地を見た。右手に廃寺、左手に竹林を配した、怪談話のお約束のような細い路地だった。廃寺は無人になってから長いようで土壁に穴が開き、その穴から長く伸びた雑草が道にはみ出して通行を妨げている。空を見上げれば、しなるほど高く伸びた竹が日の光を遮って昼日中でも薄暗い。太陽が沈まんとしている今はなおさらだ。
「はい。あの日は日舞のお稽古で……なかなか合格をいただけなくて、すっかり遅くなってしまって。車は父を迎えに行ってしまったから使えなくて、仕方なく歩いて帰ることにしたんです」
いろはに今日届いた手紙は、澄子が遭遇した怪事についてだった。
日の落ちた帰り道を急いだ澄子は、近道としてこの路地を利用した。年の近い弟たちの遊び相手も務める彼女は、弟に倣ってこの路地をよく使っていたのだという。
しかし、その日は様子が違った。空気はどこか生臭く、ねばついたようで、とにかく常にはない気持ち悪さがあった。澄子が足早に路地を抜けようとしたとき、それは起こった。
鳥の鳴き声のような、子どもの笑い声のような、奇妙な音が薄闇に響いた。ぎょっとして立ちすくむと、今度は生ぬるい風が竹をがさがさと揺らす。
不届きな妖怪の仕業か、たちの悪い悪戯か。澄子は震える己を叱咤して、それを見極めようとした。勝烏の隊員であるいろはを慕う者として、そうすべきだと思った。
そんな澄子の背中を、誰かがどん、と押した。澄子はよろめいて、なんとか踏ん張って耐えた。これで悪戯だと確定した、と思ったという。誰かが、女学生を脅かして遊んでいるに違いない。悪戯者の顔を確認しようと振り向いた。案の定、澄子の背後には浴衣を着た女の子が立っていて──そして、澄子は悲鳴を上げた。
子どもには、顔がなかった。
目があるはずのところにはくぼみがあるだけ。鼻はそぎ落としたかのように平らかで、唇も口も、その線すら見当たらない。
のっぺらぼうの子どもは、澄子をただ見上げていた。小首をかしげ、澄子の顔を確認するようにしていた。目がないのだから見えるはずもないのに、確かに澄子の顔を見ていた。子どもの手がゆっくり持ち上がって、澄子の顔に触れようと手を伸ばそうとする。そこが限界で、合図だった。
澄子は子どもに背を向け、走り出した。今までで一番必死に走った。走って、走って、自宅のある通りにたどり着いて、そこまで来てやっと、立ち止まることができた。
「私……私、こわくて……。何か、私にひどいことをされるかも、と思ったのは、初めてで……でも、いろはさまが勝烏にいらっしゃるのは知っていましたから……」
「それで、手紙をくれたのね」
「はい」
澄子は大きな瞳に涙の膜を張らせて、じっといろはを見つめた。助けを乞うその視線に、いろはが応えようと口を開く。──そのときだった。
ピョロロロロ、とどこかから音が聞こえた。甲高い、妙な音だ。鳥の鳴き声によく似ているが、何の鳥だかわからない。出所を探して周囲に目を走らせても、遮蔽物が多くて絞り切れない。音は繰り返し、一定の長さで響いている。澄子が聞いたというのは、この音なのだろうか。
「大津さん……」
「おねえさま、こわい!」
澄子に確認しようとしたいろはに、澄子が抱きついてきた。いろはは思わずそれを抱き留めたが、遮二無二しがみつく澄子に行動を阻害されて身動きが取れなくなる。彼女を振りほどくこともできず、いろはは顔をしかめた。これでは、何かあっても武器を抜くこともできない。
「大津さん、落ち着いて。大丈夫よ。何も怖いことなんか……」
「いや、おねえさま! どこにもいかないで!」
澄子にはろくにいろはの声が届いていないようだった。ただ幼子のようにわめいていろはに縋る。
困り切ったいろはの耳に、奇妙な音に重なって砂利を踏む音が届いた。見れば、浴衣姿の女の子が近くに立っている。
まっすぐ切り揃えられたおかっぱ頭と、裾に赤い金魚が泳ぐ縹色の浴衣。どこにでもいる普通の子どもだ。その顔が、目も鼻も口もそぎ落とされたようにまったいらであること以外は。
子どもがいつ近づいてきたのか、いろはには分からなかった。わめき続ける澄子を抱き寄せ、いろははきっと子どもを睨む。
「ロウ! お願い!」
薄闇に、いろはの声が響く。その言葉が終わるよりも早く、竹林から巨大な銀灰色の狼が飛び出してきた。大型犬よりもふたまわりは巨大な体躯を躍らせて、狼は浴衣姿の子どもに襲い掛かった。澄子が、ひときわ甲高い悲鳴を上げる。
赤い舌が覗く口を大きく開けた狼は、立ちすくむ子どもの浴衣の襟を器用に咥えた。かと思えば、牙に子どもをひっかけたまま、地を蹴った。そのまま廃寺の高い壁を越えて草藪の中に飛び込んでいく。大きく振り回される形になったのっぺらぼうの子どもは、そこで我に返ったように悲鳴を上げた。
その拍子に、子どもの顔から何かが外れて地に落ちる。いろはは茫然としている澄子を押しやって、その何かに近寄って拾い上げた。
それは、紙で作られたお面だった。竹ひごで枠組みを作り、肌色に塗った薄い紙が重ね張りされている。よくできたお面だ。明るいところで見ればそれと分かるが、この路地のような薄闇であれば、すぐには見抜けないだろう。
「発案者は誰?」
低く問ういろはに、地べたに座りこんだ澄子がびくりと細い肩を震わせた。
壁の向こうから、子どもの悲鳴とがさがさと草をかき分ける音が聞こえてくる。澄子の大きな瞳は今や恐怖で見開かれ、いろはを見、壁を見て、酸素を求める金魚のように口を開閉させている。
そのうち、廃寺の崩れた壁の隙間から背の高い男が出てきた。銀灰色の髪を揺らし、琥珀色の瞳でいろはを見つけた男は「お嬢」といろはに呼びかけて笑った。
「悪い、すばしっこくて手間取っちまった。ふたりとも捕まえたぜ」
「お疲れさま、ロウ。全員、怪我はない?」
「もちろん」
人と狼、二つの姿を持ついろはの相棒・ロウは、両手にそれぞれひとりずつ子どもをぶら下げていた。ふたりとも十歳前後といったところだ。片方は、先ほどのっぺらぼうのお面を落とした浴衣姿の子どもだった。
「保、猛!」
顔色をなくした澄子が、ふたりに手を伸ばしながら名前を呼んだ。ふたりもまた、泣きじゃくりながら澄子に手を伸ばした。
しかし、それはロウによって防がれる。ふたりの襟首を捕まえたまま、ひょいと高く腕を掲げた。子どもはますます泣きわめき腕や足を無茶苦茶に振り回してロウの腕から逃れようとするが、ロウは少しも容赦しなかった。
涙の浮かんだ瞳で、澄子はロウを強く睨む。
「その子たちを離しなさい! お前なんかが乱雑に扱っていい子ではなくてよ!」
「ロウは私の相棒で、私の指示で動いただけよ。失礼な物言いはやめていただけるかしら」
「おねえさま!」
「その呼び方も、やめてと言ったはずよ」
金切り声を上げる澄子に、いろはは冷ややかに言い放った。言い逃れを良しとしないその声音に、澄子の表情が凍り付く。
「この子たちはあなたの弟かしら。どうしてこんなことをしたの? 軍人をだまそうとするなんて、最悪の事態に至ってもおかしくないわよ」
いろはの詰問に、澄子は何かを答えかけて言いよどんだ。彼女はただ地べたに座り込んだままうつむいている。ぎゅっと袴を握りしめ、唇を噛んで涙がこぼれそうなのを耐えているようだった。
「おまえのせいだ!」
突然、ロウが捕まえている子どもが叫んだ。単衣を着た、廃寺に隠れていたほうの子どもだ。大きく腕を振りかぶり、いろはに向かって持っていたものを投げつける。
顔めがけて飛んできたそれを、いろははなんとか手のひらで受け止めた。祭りの屋台なんかでよく売っている、鳥の姿を模した水笛だった。先ほどの奇妙な音は、これを吹いていたのだろう。
「おまえが、姉さまを無視するから! 姉さまはずっとおまえのことが好きだったのに! なのにおまえがこんなやつと一緒にいるから、だから姉さまは……!」
「黙んな」
ロウがぶん、と大きく腕を振った。いろはに怒りをぶつけていた子どもの声が悲鳴に変わる。
「お嬢が誰といようとお嬢の自由だ。お前や、お前の姉さまがとやかく言えることじゃあねえ。たとえお前の姉さまが世界一お嬢を好きでもだ。好きだから相手にも応えてもらおうなんて、そりゃあただの傲慢だぜ」
「うるさい! おまえに何の関係があるんだよ!」
「そりゃ、俺はお嬢の相棒だからな。お前と違って関係あるんだよ」
金切り声を上げた子どもは、どうにかロウを攻撃しようと躍起になっている。履いていた草履が飛んでいって、竹林の中に落ちた。子どもは必死なのに、ロウにはまだまだ余裕がある。
澄子は微動だにしないし、単衣の子どもは暴れまわり、浴衣の子どもはしくしく泣いている。ロウは鬱陶しそうに子どもをあしらっているが、いろはから見れば癇癪を煽っているだけだし、少々大人げない。混沌としてきた状況に、いろははため息をついた。
経緯はなんとなく察しがつく。どれだけ手紙を送っても一切振り向かないいろはにしびれを切らして、なんとか気を引こうとこんな狂言を思いついたのだろう。発案者が澄子か弟たちかは判断がつかないが、この様子を見るに、三きょうだいが共謀したと思って間違いなさそうだ。
馬鹿なことをしたものだ。そんなことをしても、いろはの好意を得られるとは限らないのに。
いろははもう一度ため息をついて、澄子の傍に膝をついた。びく、と澄子の細い肩が揺れる。
「あなたのその行動力は、素晴らしいと思うわ。半年間手紙を書き続ける継続力も、すごいと思う。でもね、誉めてあげることも、認めてあげることも、私にはできないわ。それは分かるわね?」
ゆっくりと語りかけるいろはの言葉に、澄子は頷いた。それが分かっているのなら、まったく話が通じないわけでもないだろう。
「今日のことはね、してはいけないことよ。多くの人の行動を阻害するし、あなたの名誉も傷つける。狂言で私の関心を買って、それで満足できる? 無理でしょう?」
今度は、澄子は頷かなかった。ただうつむき、じっとしている。いろはの言葉が的外れなのか、それとも認めたくないのか、それは判断できなかった。
「……忘れてしまいなさい、私のことなんか」
いろはの言葉に、澄子はぼんやりと顔を上げた。いろははまっすぐ、澄子の瞳を見つめる。
「あなたがここまで思い詰めて、弟たちまで巻き込んでことを起こしても、まったく応える気のない薄情な女よ。もっとあなたのことを大切にして、愛してくれるひとを探しなさい」
いろはは澄子の頬に手を伸ばした。柔らかい、丸い頬を伝う涙を、優しく拭ってやる。
澄子は、綺麗に泣く娘だった。丸い瞳からぽろぽろと真珠のような涙をこぼし、円い線を描いて輪郭を伝っていく。
その顔を見ても、いろははただ哀れに思うばかりで、庇ってやろうとか、守ってやろうという気持ちは浮かんでこない。やはり、エスを得る資格は、いろはにはないようだった。
「今回の、ことは……父には……」
「伏せてあげることはできない。私はもう、上司にあなたの手紙のことを報告しているわ。狂言であったことも、弟たちが関与していたことも、私は報告する。……しなくてはいけないのよ。それが私の仕事」
今にも消え入りそうな澄子の嘆願を、いろはは拒絶した。軍人である以上、私情で報告を怠るわけにはいかない。澄子も、到底無理だと分かってはいたのだろう。それ以上は、何も言わなかった。
薄闇に、子どもたちと澄子の泣き声だけが響いている。彼らが落ち着くまでずっと、いろはは澄子に寄り添っていた。
その後、事件性の薄さから、澄子たちきょうだいはあっさりと解放された。他に被害もなく、あくまで子どもたちの悪戯として処理された結果だ。
とはいえ、問題はこれからだ。軍の世話になったと噂が広まれば、宝飾店を営む澄子の家は多大な悪影響を受ける。澄子たちの家での扱いは、しばらく良いものではないだろう。
「お疲れさま、お嬢」
報告書を書き上げたいろはを、ロウがそう労った。
机から顔を上げて、いろははロウを仰ぎ見る。
「これでよかったのかな」
「よかったんだよ」
いろはが呈した疑問に、ロウは迷うことなく答えた。
「言ったろう。お嬢がだれと一緒にいるかは、お嬢が選ぶことだ。他の誰の思惑も、そこには入れない。入っちゃいけないんだ。それはお嬢の自由だから」
「……うん。でも」
もう少し、いろはが澄子を気にかけていれば。薄桃の君、だなんてあだ名をつけて終わりにせず、ちゃんと顔を合わせて説得していれば、ここまでのことを起こそうだなんて思わなかったのではないか。そう思えて仕方がない。
「どうだろうなあ。起こらなかったことを考えてもどうにもなんないぜ。それに、何があってもあのお嬢さんはやっただろうよ。やれる奴っていうのは、そういう奴だ。まわりの人間がどう動こうと、やることは変わりゃしないのさ」
「そうかしら」
「そうさ。だからそう気に病むな。お嬢が言ったんだぜ、忘れてしまいなさいって。お嬢も忘れてやんな」
慰めるように、ロウの大きな手がいろはの頭を撫でた。その手を捕まえて、いろはは首を横に振る。
「駄目だよ。私は忘れちゃ駄目。それが責任でしょう」
「責任? あるか、お嬢に?」
「あるよ。この事件を担当したんだもの」
勝烏の隊員として、いろははこの件を忘れてはいけない。ロウの言う通り、いろはの行動がなんの影響も及ぼさなかったとしても、忘れておしまいにするわけにはいかないのだ。
「お嬢は、難儀な性格してんなあ」
ロウは困ったように笑って、もう一度いろはの頭を撫でる。いろはは、心地よいそれを今度は黙って受け入れた。
【おわり】