威風堂々惡女 最終巻発売記念 書き下ろし後日譚

 ()(きょ)受験者の資格に「性別を問わず」の文言が追加されたのは、(せい)(たい)(てい)と号される女帝(りゅう)(せつ)(えん)が即位してすぐのことであった。
 それから四十年以上経った現在、女性の(かん)()は確かにこの(せっ)()(こく)に存在する。
 だがその数は、あまりに少ない。
 そもそも科挙を受けようという女性は、(めっ)()にいなかった。ただでさえ難関で合格は厳しく、受験しようにも勉学に(いそ)しむ恵まれた環境が整う者は限られる。なんとか合格し官吏となったとしても、数年で辞めてしまう者が多い。
 そんな中、女性初の(じょう)(げん)(首席)となった()(ぎょく)(えい)(うわさ)は瞬く間に皇宮中に、都中に、やがては国中に広がった。
 (じゃっ)(かん)十六歳の、貴族でもない平民の娘が、数多(あまた)の秀才を差し置いて首席となったのである。しかもどうやらその才女は相当な美人らしいと、噂は尾ひれをつけ、あることないことを含んで勢いよく(こう)(かん)に出回っていた。
 その噂の(まと)である当の玉瑛本人は、ひどいしかめっつらをして、薄暗く(ほこり)っぽい書庫に一人()もっていた。
 彼女が官吏として出仕するようになり、早三か月の時が経っている。
 配属された()(しょ)(しょう)は、宮中の(けい)(せき)を管理するのが主たる業務である。秘書省の後に地方へ配属され数年で都に戻ってくるというのが、かねてより(さい)(しょう)となるための道のりとして定着した流れであるというから、(さい)(さき)のよい配属先ではあった。
 しかしそこで玉瑛は、この国で女の官吏という存在がいかにまだ認められていないかを、つくづく実感させられたのである。
 現在、秘書省に女性官吏は、玉瑛以外に在籍していない。
 彼女にまず与えられた仕事は、(そう)()とお茶()みであった。それが新入り全員が受ける洗礼ならば、まだ納得ができた。しかし、同時に配属されたほかの男性たちは、先輩の補助について史書の(へん)(さん)やら経籍の収集などの仕事が任されていた。明らかに、彼女だけ扱いが異なっている。
 なにより、誰もろくに玉瑛と口をきこうとしなかった。(あい)(さつ)しても返事がないのは日常()(はん)()、業務の質問をしても聞こえぬふりをされる。上司からの招集がかけられるような折も、それを玉瑛に伝える者はいない。刻限になっても姿を見せなかったとして、玉瑛は何度も罰を受けさせられた。
 女だから、というだけが理由ではないだろう、と玉瑛は思う。
 状元という名誉を得たといえども、玉瑛は貴族でもなんでもなく、ただの平民だ。小さな茶屋の娘でしかなく、後ろ盾も何も持たない。いじめるにはうってつけの対象だった。
それに何より、彼らの間ではこんな噂が、ほぼ確信をもって(ささや)かれている。
あの小娘は、不正を働き及第し、陛下を(たぶら)かして状元となったのだ。
 玉瑛はしかし、腐らなかった。
 まずは仕事を掃除とお茶汲みを、(かん)(ぺき)にこなしてみせた。これまで誰も見たことがないほどぴかぴかに床を拭き清め、()(ぞう)()(うずたか)く積まれていた書物の埃を払い、体系的に並べ整理し目録を作成した。各人の好みを的確に()(あく)した上で、熱めのお茶、ぬるめのお茶、濃いお茶、薄いお茶をそれぞれ()れ分け、(のど)(かわ)く時分を見計らって給仕して回った。
 満足そうに自分好みの茶を(すす)る官吏に、玉瑛はどうだと言わんばかりに胸を反らす。
しかし、茶を飲んでいた目の前の官吏が口にした言葉に、すっかり気分が()えた。
「やっぱり女の淹れる茶は、美味(うま)いな」
 ある時はすれ違いざま、他部署の官吏に嘲笑された。
「おい、後宮はこっちじゃないぞ」
 そんな陰口は、聞こうとせずとも毎日のようにそこここから耳に入ってくる。
「婿探しならほかでやれよ」
「いいよなぁ、女は。その身体(からだ)で、簡単に状元になれる」
「どうせ嫁にいってすぐ辞めるくせに。まじめにやっている周りの者の迷惑なのがわからないのか」
 女帝柳雪媛の築いたこの国において、科挙の受験資格を女が得て数十年これが現実だ。
 そうしたあれこれを思い返し、大きなため息をついて、玉瑛は整理し終えた(しょ)(だな)を見渡す。
 唯一慰められることと言えば、ここに収められている他ではお目にかかれないような貴重な書物を、自由に(えつ)(らん)することができるという点だ。
(そうよ、悪いことばかりじゃない)
 玉瑛は一冊の書を手に取り、うきうきと(ページ)をめくった。
 柳雪媛が即位してまもなくの頃の記録である。彼女の会議での発言が、事細かに記してあった。尊敬する柳雪媛の生きた言葉を知る喜びに、胸をどきどきさせる。そこには偉大なる女帝も、迷い悩みながら決断を下している様が読み取れた。
(聖太帝様も、同じ人間ね。思うようにならないことだって、たくさんあったはず
 ぎしり、と床が(きし)む音がした。
 はっとして振り返ると、秘書省で一期上の官吏の姿があった。いつの間に入ってきたのだろう、と玉瑛は慌てて手にしていた書物を元に戻す。
「何か御用でしょうか?」
「いや
 彼は書棚を眺めたり、手近な書物を手に取ったりする。その合間にも、ちらちらとこちらを盗み見ているのがわかった。
(あら)(さが)しでもしにきたのかしら)
 不愉快に感じつつも、油を売っていると思われては困るので、未分類の書物の山に取り掛かることにした。
 しかしやがてその男が、さりげなさを(よそお)いじりじりと近づいてくるのに気づく。
 玉瑛は危険を悟った。平静を装いながらも、警戒し身体を緊張させた。
 これは二択だ。ひどい嫌がらせをされるか、あるいは女である自分に対し、(よこしま)な感情を抱いているか。
 実家の茶屋の手伝いをしながら、客に言い寄られた経験は数知れない。男が女を見る目で、おおよそ判断がついた。今回は恐らく、後者だ。
 それがただの恋心であるならまだいい。だが、ここには二人きり。何かあっても、助けは来ない。
 男が自分に手が届くほど近づく直前、玉瑛はおもむろに、「あっ!」と大きな声を上げた。
「忘れてた! (しょう)(かん)様に呼ばれていたんだったわ!」
 言うや(いな)や、ぱっとその場を離れた。背後まで迫っていた男の気配をすり抜けると、一目散に扉を開けて外へと逃れ出る。
 そのまま、勢いよく駆け出した。
 息を切らして走った。一体どうして、こんなことを自分はしているのだろうと思いながら。
 ようやく人通りのある場所まで出ると、立ち止まって背後を(うかが)った。追ってくる気配はない。
 (あん)()の息を吐いた。
 同時に、情けなさでじわりと目が潤む。しかし、必死で涙を(こら)えた。
 憧れ夢見た官吏となったというのに、自分は一体ここで毎日、何をしているのだろう。
(泣くな、こんなことくらいで)
「玉瑛」
 声をかけられ、玉瑛ははっとした。
 手を振って近づいてくるのは、()()(りょう)()であった。
「どうしたの、こんなところで」
 嶺依は一期上の先輩で、数少ない女性官吏の一人だ。二十代半ばで(ほが)らかな笑顔が魅力的な彼女は、玉瑛のことを何かと気にかけてくれている。貴族出身であるというのにそれを鼻にかけることもせず、優しい彼女のことが玉瑛は大好きで、姉のように(した)っていた。
「嶺依さん
 玉瑛は彼女の優し気な顔を見て、(るい)(せん)が余計に(ゆる)みそうになってしまった。そして促されるままにぽつぽつと、さきほどの書庫での(てん)(まつ)を語った。
 嶺依はその(ほそ)(おもて)に気の毒そうな表情を浮かべ、玉瑛の手を取り、優しく背中を()でてくれる。
 玉瑛は知っていた。嶺依もまた、これまで幾度も同じような目に()っていることを。彼女たちだけではない。皇宮で働く女官吏は皆、多かれ少なかれ経験していることなのだ。
「ねぇ玉瑛。あのね、私辞めることにしたの」
「えっ
 驚いて、玉瑛は(うつむ)いていた顔を上げた。
「この間、お見合いをしてね。相手はまぁ、優しそうな人だったわ。家柄も釣り合うし」
「そんな嶺依さん」
 嶺依は仕事が大好きで、ずっと官吏として生きていくのだと思っていた。その姿は玉瑛にとっては、最も身近なお手本でもあった。そんな彼女が、ほんの数年で職を辞して家庭に入るという。
 喪失感が、胸を(えぐ)った。
 それは、ただ寂しいというだけではない。
 自分にとっての人生の指標が、失われてしまったように思えた。
「仕方ないわ。いずれ子どもができたら、どうしたって続けていくことはできないし。それに
 少し言い(よど)んで、いくらか後ろめたそうな表情を浮かべる。
「ここにいると、私という人間の尊厳を見失いそうになるのよ。わかるでしょう、玉瑛」
「嶺依さん」
「あなたは優秀だし、もっと高い位を目指してほしい。女でもできるってこと、証明してほしいわ。私は、だめねこれでも、官吏になった頃は、私こそが女性官吏としての輝かしい歴史を作るんだ、なんて思い上がって張り切っていたのに」
 苦笑して、悲しそうに肩を(すく)める。
 その様子に、玉瑛は胸がぎゅっとなった。
 嶺依もずっと、高い(こころざし)を持っていたはずだ。しかし徐々に、その心が折れてしまったのだ。それは容易に想像できることだった。
 こんな生活を何年も、何十年もしていくのかと思うと、自分もまたどこかでぽきりと心が折れる瞬間が来てしまう気がしていたから。
寂しいです」
「私もよ」
 嶺依の白い手は、勇気づけるように、そして後を託すというように、強く玉瑛の手を握りしめた。
 去っていく彼女の背中を見送りながら、玉瑛は考えた。
 官吏となった以上、玉瑛はこの国に一生を捧げるつもりだった。やがては宰相となり、皇帝を支えそんな華々しい未来を思い描いていた。
 しかし、あと数年もすれば自分も嶺依のように、すべてを諦めて適当な男性に(とつ)ぎ、ここを去っていくことになるのだろうか。
 そう考えると、足取りは重く、ひどく(あん)(たん)たる気分に(おちい)った。


「いらっしゃいませ!」
 久しぶりの休日、両親が(いとな)む店に出た玉瑛の姿を見て、常連客たちは驚いて声を上げた。
「玉瑛ちゃん、官吏になったんじゃなかったのかい?」
「もう辞めたのか。最速記録じゃあないか」
「違いますよ! 今日はお休みだから、ちょっと手伝っているだけです。さ、何にしますか? いつもの?」
 子どもの頃から両親を手伝い店に出ていた玉瑛にとって、ここは自分の庭のようなものだ。てきぱきと注文を(さば)き、給仕をして、客との雑談もこなす。
 そうしていると嫌なことも忘れられた。小さい店だが(はん)(じょう)していて、考え事などする間もなく忙しい。
(婿を取ってここを継いでそうしたほうが、易しい人生でしょうね)
 両親も本当は、そう願っているに違いなかった。それでも娘の決めた道を黙って応援してくれた父と母には、心から感謝している。
 だからこそ、自分の現状を両親には伝えることができなかった。心配をかけたくなかったし、何より、失望させたくない。
「おや、玉瑛。官吏を辞めて出戻ったのか」
 以前から玉瑛を()()こうと店に通い詰めている()(よう)が、店に入ってくるなり嬉しそうに言った。彼の家は裕福な商家で、その三男坊である惟庸は昼間から遊び歩いてばかりいる。
「今日はお休みだから、手伝っているだけです。ご注文は?」
「無理するなよ。どうせ皇宮ではいじめられているんだろう? 見切りをつけるなら早いほうがいい。幸いにして俺は、まだ独身だ」
ご注文は?」
 聞かぬふりで笑顔で尋ねる。
「なぁ、あの噂、まさか本当じゃないよな? お前に陛下のお手がついたって
「一番高いやつね! 父さん、豪華点心十種盛り、ご注文入りましたー!」
「はいよー」
 (ちゅう)(ぼう)から父の返事が返ってくる。
 惟庸はその勝手な注文を取り消したりはしなかったが、席を離れようとする玉瑛の手をすかさず(つか)んだ。
「待てよ玉瑛。本当に陛下に気に入られたのか?」
「仕事中です。離していただけます?」
 相手は客なので、笑顔で優しく振りほどこうとする。こういう男性客は今までもいたので慌てはしなかったが、面倒だなと思う。
 しかし惟庸は食い下がった。
「女は結婚して子を産むのが一番の幸せだろう。聖太帝様は女の身でありながら偉大なお方だったが、(しん)(にょ)とお前は違う。まぐれで科挙に受かったからといって
「向こうで楊さんの注文取らなくちゃ。放してくださる?」
「俺はお前のために言っているんだぞ!」
 ぐっと力強く腕を握られ、玉瑛は「痛っ!」と小さく声を上げた。
 途端にぱっとその手が離れた。
 惟庸が自ら離したのではない。彼は(ひね)りあげられた腕に(もん)(ぜつ)し、痛みに悲鳴を上げていた。
 玉瑛は驚いて、惟庸の腕を摑んでいる相手の顔を見上げる。
 見知らぬ青年だった。力強い黒い眼にすっと通った鼻筋、意志の強そうな唇はきゅっと引き結ばれている。長身で身なりがよくどこぞの(おん)(ぞう)()という()(ぜい)だが、その無駄のない動きは明らかに武芸を習得した者のそれだ。
 玉瑛は少し、不思議な感覚に(おちい)った。
 確かに知らない人のはずだ。それなのに、どこか懐かしいような心持ちがした。
「いたたたた! やめろ、離せ! 離せよ!」
もういいでしょ、離してあげなさい(ごう)(らん)
 背後から聞こえた声に、玉瑛はぎょっとして振り返る。
 (きょう)(がく)のあまり思わず目を丸くして、続いて口を大きく開いて叫びそうになった。が、なんとかそれを堪える。
 店の入り口に立っていたのは、この雪華国皇太子、(しゅん)()であった。
(どうしてここに、殿下が!?)
 春曦はいくらか裕福そうな平民の娘といった格好で、装飾品も簡素な(かんざし)以外、まったく身に着けていなかった。周囲を見回しても()(じょ)の姿すら見当たらず、一見して近所の娘がふらりと茶屋にやってきたという感じである。
 彼女は楽しそうに微笑んで、玉瑛にひらひらと手を振った。
「遊びにきたわよ、玉瑛」
「ど、どう、どうして」
 あの皇帝との対面式春曦に突然の問答を求められた日以来、彼女とは顔を合わせることはなかった。互いに皇宮にいるとはいえ、駆け出しの一官吏である玉瑛が皇太子と関わることなどありはしないのだ。
 自分を試したのはほんの気まぐれであったのだろうと思っていたのに、今彼女は(あやま)たず、玉瑛の名を呼んだ。
(覚えていて、くださったんだ)
 それだけで、ひどく嬉しい。
 なにしろ彼女は、やがてこの国の皇帝となる人物なのだ。宰相を目指す玉瑛にとっては、未来の主君である。
 豪藍と呼ばれた青年は、春曦の命令通り手を離し、すっと下がった。
「ねぇお兄さん、何を注文したの?」
 笑顔で尋ねる春曦に、今にも豪藍へ抗議の声を上げようとした惟庸が気勢をそがれたように目を瞬かせた。
え?」
「このお店のおすすめはあるかしら? 教えてほしいのだけれど」
 美しい娘に好意的な笑顔を向けられ、悪い気がしなかったらしい。惟庸は豪藍をじろりと(にら)んだが、おとなしく腰を下ろした。そして春曦に、これが美味(うま)いとかこれが人気だとか、自分は常連客でなんでも知っているのだと主張しながらいくらか偉そうに指南した。
「じゃあ、私も豪華点心十種盛りをお願いしようかしら」
 そう言って席につく春曦の向かいに、豪藍が座る。恐らく彼は(せん)()(ぐん)の兵で、皇太子の護衛だろうと玉瑛は見当をつけた。
「それと(まつ)()()(ちゃ)を二つね」
「は、はい。かしこまりました。少々お待ちを」
(護衛がたった一人だなんて
 そもそも、皇太子という身分にある人物が、あんな(かっ)(こう)でふらふらしていいはずがない。一体どうしてこんなところにいるのだろう。
お待たせしました」
 大皿に山盛りの点心を前にすると、春曦は身を乗り出して目を輝かせた。
「きゃあ、美味(おい)しそう!」
 早速食べようと(はし)を向けた瞬間、すかさず豪藍がその手をがしりと摑んだ。
「なりません」
 春曦が唇を尖らせる。
 一体何事かと思っていると、豪藍は菓子を一つずつ取り分け始めた。そして、それぞれ確かめるように自ら口をつける。
結構です。どうぞ」
 そう言われてようやく、春曦は自分も食べ始めた。
(そうか、毒見をしているのね)
 初めて見るその光景に、玉瑛は(あっ)()にとられた。
 自分の父の作った菓子が疑われるのはいささか不服ではあったが、なんといっても皇太子の口に入るものに万が一のことがあってはならない。むしろ自分が毒見してみせるべきであっただろうか、と玉瑛は遅ればせながら反省した。
 春曦はうっとりするような笑顔を浮かべながら、菓子を(ほお)()っている。
「おいしい~! これ、全部玉瑛のお父様が作っているの?」
「はい、そうです」
「天才! 天才よぉ! 宮廷料理人の作る菓子よりおいしいわ、間違いない!」
 玉瑛は頬を染め、ありがとうございます、と礼を述べる。皇太子ともあろう人物に父の味を()められて、ひどく誇らしかった。
 ちらりと惟庸を窺う。先ほどのことは忘れたように、点心を美味しそうに食べているその様子に、ほっとした。玉瑛のことが目当てであることは確かだが、彼もまた、父の味に()れ込んで常連になってくれたのも事実だった。
 毒見をした後の豪藍は油断なく周囲を警戒しているようで、時折茶に口をつける程度だ。冷静で()(もく)そうな、いかにも武人といった風情である。
 玉瑛は惟庸に聞こえないよう少し声を潜めて、彼に礼を言った。
「あの、先ほどはありがとうございました。助かりました」
 豪藍は無表情のまま、いえ、と答える。
「殿下のご命令でしたので」
「ちょっと、殿下とか言わないでよ!」
 春曦が小声で(しか)りつけた。
「お忍びなのよ。ばれたらどうするのよ、まったく。玉瑛、これは豪藍よ。私の護衛として最近配属されたの」
「はじめまして、花玉瑛です」
 玉瑛が(あい)(さつ)すると、豪藍は静かに目礼した。
「あの、殿下いえ、ええと、なんとお呼びすれば?」
(しゅん)(らん)と呼んで」
「春蘭、ですか」
「うふふ。あのね、実はおばあ様も昔はよく、こうしてお忍びで都を歩き回っていたんですって。その時の偽名が、春蘭というの」
「おばあ様ってまさか、聖太帝様がですか?」
「秘密よ? 私の名前ね、その偽名から一字もらってつけられたのよ」
 唇に人差し指をかざして、()(わく)的に微笑(ほほえ)む。
 春曦は孫の中で誰より祖母に似ていると言われている、と噂に聞いたことがある。聖太帝柳雪媛は、美しく賢い女性の代名詞だ。先ほどから、ほかの客席から男性たちの視線が密やかに注がれているのを感じるが、春曦が人の目を引く美人であることは間違いない。
「そ、それでは春蘭。あの、どうしてこちらに?」
「時々、こうして()(せい)の様子を見て回ってるの。城に閉じこもっているだけの世間知らずが皇帝になるなんて、ぞっとするでしょ。ついでにあなたの実家にも寄ってみようと思って。ずっと、玉瑛と話したかったの」
「私と、ですか?」
「皇宮で直接話しかけたりしたら、すぐ噂になってしまうから我慢していたのよ。私にとってもあなたにとっても、それはいい結果をもたらさないもの。あなたが同性であるのをいいことに皇太子に取り入っている、なんて陰口たたかれるに決まってるわ」
 きっとその通りだろう、と思う。
「だから機会を窺っていたの。どう、もう仕事は慣れた?」
なんとか、やっています」
 その表情で、すべてを悟ったらしい。
 春曦は肩を(すく)めた。
「大変でしょうね。お母様も、最初は(ずい)(ぶん)苦労したらしいわ」
 春曦の母は現在の皇后だが、もとは女性としての科挙合格者第一号という(さい)(えん)である。自分にとっての大先輩、女性官吏の門戸を開いた人物として、玉瑛も尊敬している。
「皇后様が、ですか?」
 ()()という名家に生まれ、後ろ盾も十分であったはずの人物ですらそうなのか、と思うと(あん)(たん)たる気分になる。
「ろくな仕事をさせてもらえなかったんですって。そもそも、科挙に及第したのも、司家のおじい様が手を回したんだろうって思われていたらしいわ。(くや)しかったって今でも言ってるもの。しかもそこにお父様が求婚してくるものだから、今度は皇太子を(たぶら)かしたとか言われて
「皇后様は、陛下からの求婚を何度もお断りになったと聞いたことがあります」
「そうなの。自分の力で真っ当に官吏として生きたいと思っていたお母様からすれば、求婚は迷惑以外の何物でもなかったらしいわ」
 その気持ちはわかる、と玉瑛は思った。
「それでも、最終的にはお受けになったのですよね」
「根負けしたみたいね。お父様、相当食い下がったらしいから。お母様は(こう)(かい)はしていないと言っているけど、後に続いた女性たちには悪いことをしたと思っているみたい」
「え?」
「女は数年で結婚して職を辞する。そういう、あまりに大きな先例を作ってしまったって」
 玉瑛は嶺依の顔を思い浮かべる。
 彼女もまた、その先例に(なら)うように辞めていく。
「ねぇ、玉瑛。あなたは()い上がってよね」
「え?」
「私が皇帝になる頃には、ちゃんと偉くなっていてもらわないと困るわ。私が引き上げるのではなく、実力で宰相になってちょうだいね」
 宰相、と言われて、玉瑛は驚いた。
 女性の官吏で要職に()いた者はいない。ほとんどが下官のまま、ろくな出世もできずに辞めていくのだ。
 それを目の前にいる未来の皇帝は、こともなげに宰相になれと言う。誰もが冗談としか思わないだろう。
「あなたがどうしても結婚したいと思う相手ができたら、それはもちろん応援するわよ。でもね、それでも道を閉ざさない仕組みを、私は作りたいと思っているのよ」
「道を閉ざさない仕組み
「聖太帝様は、女の身で皇帝にまでなられた。そして国を導きながらも、子を産み育てたわ。神女だったから、彼女は特別? いいえ、私たちにだってできないはずがないわ。そうでしょ、玉瑛」
「殿下
 こんな言葉をかけてくれるのか、と玉瑛は驚きながらも打ち震えた。
 今の玉瑛は、官吏とも言えない、ただの雑用係でしかない。それなのに。
(私たちと、言ってくださるのね)
 同時に、春曦の立場も微妙なのだろうということも察せられた。
 女の身で皇太子となった彼女に対し、不満を持つ者がいることは知っている。聖太帝様は特別だったのだ、春曦には無理だという声があることも。
 春曦には兄が一人、弟が一人いる。この兄と春曦の仲は険悪であると言われていて、彼女が皇太子に定められた際にも、水面下で随分と()めたと聞く。
 今でも、長男たる彼を(よう)(りつ)しようとする()(ばつ)もあるのだ。
「あら、玉瑛のお友達?」
 忙しく給仕に走り回っていた玉瑛の母が、にこにこと春曦たちに話しかけた。
 春曦は親しみやすい笑顔をぱっと浮かべた。そうすると、皇太子という肩書きは消え去り、いかにも年相応の少女に見える。
「ええ、そうなんです。点心、とっても美味しいですわ」
「まぁ、ありがとう。嬉しいわ、この子に女の子のお友達なんて」
ちょっと、母さん!」
 玉瑛は慌てて、母を黙らせようとする。
「この子ったら昔から友達が全然できなくって。勉強ばかりしているから女の子と話は合わないし、男の子にもてるから反感買うし
「や、やめてよ!」
 かあっと頬が赤くなる。
 そんな情けない話を、春曦に聞かれたくなどない。
「どうかずっと、仲良くしてくれると嬉しいわ」
 すると、目を丸くしていた春曦は、にっこりと微笑んだ。
「はい、もちろん。末永ーく、仲良くしたいと思っています」
 玉瑛は恥ずかしくて恥ずかしくて、母の背中をぐいぐいと押した。
「もう、母さんっ、あっち行って!」
「ふふふ。じゃあ、ごゆっくり」
 嬉しそうに笑いながら去っていく母を見送り、玉瑛は顔を真っ赤にしたまま(うつむ)いた。
(まともに友達も作れない人間だと、殿下に知られてしまった
 豪藍はその間も、表情を変えることもなく静かに控えている。
(この人にまで、知られてしまった
 (じょう)(げん)が聞いて(あき)れる。
 自分は普通の人ができることができない、劣った人間なのだ。それを玉瑛は自分で一番よくわかっている。そしてそんな自分が官吏になっても、うまくやれないのは当たり前だ。
(皇宮に出仕すれば、同じ(こころざし)を持つ人たちとなら、きっと分かり合ってやっていけると思っていたのに
「私もなのよ、玉瑛」
「え?」
 春曦の言葉に、玉瑛は顔を上げた。
「私も友達がいないの。おんなじね!」
 にこにこと言う春曦に、玉瑛は面食らう。
「え? え? で、でも
 いつだって春曦は、華やかな人々に囲まれているのではないか。
「ああ、取り巻きはいたわよ。良家の娘たちがいつだって寄ってきたわ、親に背中を押されてね。でも、皇帝の娘と打算もなく対等な友達になろうなんて人いないのよ。だから私には友達がいないの。これまでも、これからもね」
 春曦はなんでもないように、上品に菓子を口に含む。
「こうしてお茶してても、正面に座ってるのは仲良しの女友達じゃなく、(ぶっ)(ちょう)(づら)の護衛しかいないし。それもいつものことよ」
 豪藍はわずかに眉を動かした。
 そして少し困ったように、申し訳ございません、と謝る。
「ね、そういうわけだから玉瑛、今日は私に少し付き合わない?」
「はい? 付き合うって
「この後お芝居を観に行く予定なの。一緒にどう?」
「お芝居、ですか」
「ええ、二代目()(げつ)(れい)主演の新作」
「!」
 玉瑛は身を乗り出した。
 二代目呉月怜は、当代一の人気女形役者である。その舞台の入場券は求める客が多すぎて、なかなか手に入ることはない。価格も恐ろしく(こう)(とう)していた。
 玉瑛は一度だけ、店の客が行けなくなったからと券を(ゆず)ってくれたおかげで、彼の舞台を観に行ったことがある。舞台上の呉月怜は、それはもう(まぶ)しいほど美しく、夢の中にいるようであった。しかも現在上演されている彼の新作といえば、聖太帝が主人公の物語であると聞く。見たくないはずがない。
 春曦は手にした入場券をひらひらとさせた。
「どう? 興味ない?」
(行きたい。ものすごく行きたい!)
「あ、あの、でも私、店の手伝いが
 すると春曦は心得たように、ぱっと手を上げて声を上げた。
「すみませんお母様~! これから玉瑛と遊びに行ってもよろしいかしら?」
 母は目を輝かせた。
「まぁ、もちろん! よかったわねぇ、玉瑛! 一度くらいお友達とお出かけしてみたいって、言ってたものねぇ!」
 今にも泣き出しそうなほど喜んでいる母の様子に、玉瑛はいたたまれなくなって再び俯いた。耳の端が熱くて、今の自分がさぞ真っ赤に染まっていることが想像できた。


 劇場は大盛況で、満員の観客の間を飲み物や食べ物を売り歩く売り子たちの声が響き渡っている。舞台が始まるのを今か今かと待ちわびる観客の熱気が、肌にまで伝わってくるようだった。
 春曦に連れていかれた先は舞台を見下ろす二階の個室で、玉瑛は狼狽(うろた)えた。考えてみれば皇太子ともあろう人の席なのだから一般席でなくて当たり前だったが、一体いくらするのだろうか。
「あ、あの、私は下の席で
「何言ってるのよ、ほら座って」
「ですが、こんな高いお席、私の俸給では
「馬鹿ね、出させる気ないわよ。私もこの入場券、人にもらったものだし」
 春曦に引っ張られるように腰を下ろす。給仕がやってきて、茶を()れ始めた。二人の間に据えられた卓の上には、菓子やつまみが用意してある。
 豪藍は個室の入口近くに立ったまま、周囲を警戒していた。
 やがて幕が上がり、舞台中央に主役の柳雪媛を演じる呉月怜が登場した。その途端、客席がわっと沸き立ち、大きな拍手に包まれる。
 新作舞台は、彼女がクルムへ逃れた際の逸話をもとにしていた。雪媛がカガンを見事(ろう)(らく)して(ずい)(えん)(こく)へと帰還する、という筋である。柳雪媛はカガンの前で美しい舞を見せその心を摑んだと伝承に残っており、舞台でも最大の見せ場として用意されていた。
 呉月怜の舞は、素人(しろうと)の玉瑛から見ても見事だった。指先まで神経のいきわたった(すき)のない動き、滑るような足さばき、波打つ衣装の陰影すらも生き物ように彼を彩った。何よりその(よう)(えん)な美しさ、優雅な立ち居振る舞いは、どう見ても女性にしか見えない。
()(れい)
 思わず(つぶや)く。
 二代目呉月怜はすでに三十を越えているはずだが、その秀麗な顔はどう見てもうら若き女性だった。響き渡るのびやかな歌声も、他の(つい)(ずい)を許さない。
 初代呉月怜は何十年も前に活躍したという伝説的な人物で、ある日(こつ)(ぜん)と姿を消してしまったという。しかし十五年前、突如として二代目を名乗る()(ぼう)の役者が現れ、瞬く間に売れっ子となったのだ。彼が何者なのか、その出自は謎に包まれている。
 舞を終えて()()を切った彼に、あちこちから「(ハオ)!」の声が上がる。(だい)(かっ)(さい)の中、舞を終えた呉月怜が下がっていくと、代わりに現れたのは(おう)(せい)()将軍を演じる役者であった。
 玉瑛は身を乗り出し、大きく拍手する。
 柳雪媛はあらゆる舞台の題材になり、女形ならば必ず演じてみたい役のひとつとして有名だが、同時に彼女を傍で守り続けた大将軍王青嘉の役もまた、男役にとって(さい)(こう)(ほう)の役柄であった。玉瑛も、舞台を見る時にはついつい王青嘉役に目がいってしまう。
 幼い頃、(がい)(せん)した王将軍の姿を遠目に見たことはあったが、ほんの一瞬のことであったから、その姿形の認識はいくらかぼんやりとしていた。以来、舞台役者を見ながら、将軍の姿や立ち居振る舞いはこんなふうだろうか、と想像を(ふく)らませてきたのだ。
 先だってその王青嘉将軍本人に間近で対面し、直に言葉を交わすことができたことは、彼女にとっての一生の宝物のような時間であった。
 雪媛のために敵を()ぎ払う見事な立ち回りを見せる王青嘉の姿に、本人の(おも)(かげ)を重ねる。
(ああ、やっぱり将軍はかっこいいわ)
「好!」
 玉瑛も声をあげて拍手を送った。
 その様子に、春曦が「玉瑛はあの役者が好きなの?」と声をかける。
「いえ、役者といいますか私は、王青嘉将軍が好きなのです」
「へぇ?」
 春曦はおもしろそうな顔をする。
「昔から、将軍のお話を読んだり聞いたりするのが大好きでした。先日、将軍ご本人にお会いした時には、もう緊張してしまって、ちょっと記憶が飛んでいるくらいで
「あら、会ったの? 私も(めっ)()にお目にかからないのだけれど」
「一度だけ、皇宮で偶然に。あの、将軍は引退なさったと聞きましたが、本当ですか?」
「ええ、そうなのよ。王将軍のことなら豪藍に聞くといいわ。ねぇ、豪藍?」
 話を突然振られた豪藍は、わずかに眉を寄せた。
「豪藍は王家の人間だもの。王将軍は、彼の(おお)()()に当たるわ」
ええっ!」
 玉瑛は驚いて思わず声を上げる。
「本当ですか、豪藍殿!」
 立ち上がってにじり寄る玉瑛に、豪藍はぎょっとした。
「と、ということは、王将軍の(かっ)(ちゅう)姿や、平服や、寝間着なお姿なども見放題で?」
は?」
「愛用の剣や、直筆の書を手に取ることもできたり?」
 鼻息荒く迫る玉瑛に、困惑した様子の豪藍は()()されている。
「それはさすがに勝手に触れば怒られるが。一度だけ、剣を持たせてもらったことはある
「なんですって!」
 玉瑛は頭を抱えて(もだ)えた。
「なんて(うらや)ましい!」
 あまりに興奮する玉瑛の姿に、けらけらと春曦が笑い声を上げた。
「そんなに王将軍が好きなの? 豪藍と同じねぇ」
「え? 豪藍殿も?」
「そうなの。豪藍は昔から、王将軍みたいになりたいってすごく憧れているのよね。子どもの頃なんて、将軍と同じ傷が欲しいとか言って、自分の頬を小刀で切ろうとしたことまであるのよ」
「殿下、その話は!」
 豪藍が気まずそうに視線を泳がせる。
「まぁ、豪藍殿!」
 玉瑛は豪藍の手をしっかと握った。
 豪藍が身を固くするのも構わず、玉瑛は満面の笑みを向けた。
「なんという(あっ)()れなお(こころ)()え! 王将軍を敬愛する同志にお会いできて光栄です!」
 玉瑛は心底(かん)(めい)を受けていた。
 王将軍といえば、聖太帝を守るために負ったというその頬傷が有名だ。だがさすがに、同じように傷を作ろうとまでは思ったことがない。
 しかし見る限り、彼の顔は綺麗なものだった。
「ですが、その傷というのは?」
 ()(げん)そうに見上げる玉瑛に、豪藍は顔を背けた。春曦がくすくす笑う。
「さすがに母親が慌てて止めに入ったから、傷はつかなかったのよね?」
「子どもの時の話です。大叔父上にもきつく(しか)られました。己で己を傷つけるなどとは何事かと」
「王将軍から叱られたのですか? ああ、それすら羨ましい!」
 豪藍は戸惑ったように、「あの、手を」と(つぶや)く。
 はっとして、玉瑛はがっちりと(つか)んでいた彼の手を放した。
「し、失礼しました」
 遅ればせながら頬を赤らめた。興奮しすぎた、と反省する。
「豪藍はね、兄弟の中でも一番王将軍に姿かたちが似ているって言われてるのよ。若い頃の自分によく似てる、って王将軍も認めておられるとか」
「若い頃の王将軍
 玉瑛は目の前の青年をまじまじと眺めた。その姿を通して、かつての王青嘉の面影を探すように。
(ああ、それでかしら。豪藍殿を見た時、どこか懐かしく感じたのは
 確かに目鼻立ちや(ふん)()()が、王将軍と近しいものを感じる。
(将軍に似ていたからなんだわ。そうね、確かにこれで頬に傷があれば、きっと若い頃の王将軍
 その豪藍の頬が、じわじわと赤く染まっていく様が、妙に鮮やかに目に映った。彼の視線が不安定に彷徨(さまよ)う。それでようやく、あまりにじろじろ見過ぎた、と気づいた玉瑛は、慌てて席に戻り、再び舞台に目を向けた。
 やがて、舞台は大喝采のうちに幕が下りた。
 玉瑛も大きな拍手を送り、呉月怜の優雅な姿にほうっと息を吐く。
「お美しいですねぇ
「ねぇ玉瑛、よかったら楽屋に行かない?」
「楽屋?」
「呉月怜に会わせてあげる」
「そ、そんなことができるのですか?」
「もちろん普通は入れないけれど」
 春曦は、こそっと耳打ちする。
「これは秘密よ。二代目呉月怜はね、私の叔父様なの」
「!」
 玉瑛は目と口を大きく開いた。
「お、叔父? ということは
「お母様の弟、司家の三男。家を飛び出して役者になったの。実家とは縁を切っているのだけど、私はたまに会ってるわ。今日みたいに、特別に入場券も用意してくれるのよ」
 司家といえば名門中の名門、聖太帝に仕えた司()(れん)の長男が現在の当主であり、朝廷の要職に就いている。その弟といえば、すぐ下の次男が絵師となっていることは聞いたことがあったが、もう一人いたとは知らなかった。
 呉月怜の正体がまったくの謎というのは、そういうわけだったのだ。役者というのは身分の低い者の生業(なりわい)と相場が決まっている。貴族の(おん)(ぞう)()が役者になるなど聞いたこともない。恐らく司家としては、体面に傷がつくから知られたくないことなのだろう。
 こっちよ、と春曦が案内してくれて、玉瑛は階段を降りた。その後に豪藍が続く。
 玉瑛はどきどきと胸を高鳴らせていた。
(間近で呉月怜と対面できるなんてああ、王将軍の時のように、前後不覚に(おちい)るわけにはいかないわ。殿下の前なのだから、気をしっかり持たなくては
 久しぶりに叔父に会うのだ、と嬉しそうに話していた春曦だったが、突然ぴたりと足を止めた。どうしたのだろう、と思う間もなく、豪藍が緊張した様子でその前に出る。
 向かいからやってくる人物の姿を捉えると、玉瑛は納得した。
 春曦の兄、(ゆう)(てい)であった。
 皇宮でも何度か見かけたことがあったが、春曦とは対照的にひどく冷たい印象を持つ皇子だ。近寄りがたい雰囲気だが、美男美女揃いの司家の血が色濃く、大層()()(うるわ)しいことは間違いない。そういえば呉月怜と目元などは似通っている、と玉瑛は気づいた。
 そんな煜霆もまた、妹の姿を認めて立ち止まった。
「あらお兄様、いらしてたの」
 春曦はにこやかに、しかし明らかに冷ややかな空気を(かも)し出しながら声をかけた。
 一方、煜霆はにこりともしない。
 ちらと、豪藍に目を向けた。
「皇太子ともあろうものが、護衛一人で出歩くとは不用心だな」
「ご心配痛み入ります。叔父様にお会いになりましたの?」
「ああ
 煜霆の視線が、玉瑛の上で止まった。引っ掛かりを覚えた、とでもいうように、わずかに眉を寄せる。
 そして何かに思い当たったのか、ああ、と納得する声を上げた。
「噂の(じょう)(げん)か。もう皇太子に()びを売っているとは、さすがに手が早い」
 玉瑛は何のことかと、一瞬ぽかんとする。
「陛下に取り入り、次は皇太子親子二代を籠絡するとは、まるで聖太帝様のようではないか。女というのはまこと、立ち回りやすく羨ましいものだな」
 玉瑛はわずかに震えた。玉瑛が出世のために春曦に取り入っている、と言いたいのだ。
 相手は皇子である。玉瑛に反論など許されない。
 ぎゅっと拳を握りしめ、玉瑛は堪えた。
(こんなこと、言われ慣れてるわ。大丈夫、平気よ
 途端に、ぐっと春曦の手が玉瑛の右腕を絡めとった。そうして己に引き寄せると、にっこりと笑う。
「私が誘ったのですわ。玉瑛も呉月怜が好きなんですって。ねー玉瑛?」
「えっ、は、はい」
ふん」
 煜霆はわずかに顔を(しか)めると、()(じゅう)らしき男を連れて、そのまま出て行ってしまった。
 彼の姿が見えなくなると、春曦がほっと力を抜くのがわかる。
「ごめんなさいね、玉瑛」
「い、いえ」
「お兄様は、私が女だから皇太子として選ばれたと思っているのよ。聖太帝様と同じ女だから優遇されていて自分は男だから、選ばれないのだとね」
「そんな! 陛下は、殿下の(うつわ)を認められたからこそ立太子なさったのでは?」
「もちろんそうよ。そう信じているし、その選択が正しかったと私が証明してみせる」
 春曦は肩を(すく)めた。
「ああ、でもまさかここで会うとは思わなかった。叔父様ったら、お兄様のことも呼んでたのね。あなたと一緒のところを見られたのは誤算だったわ。今後、お兄様からあなたが何かと(つら)く当たられるかも。その時はすぐに教えてちょうだい。私がなんとかするから」
 ため息をつく春曦は、暗い表情だ。
「これでも昔は、お兄様とも仲がよかったのよ。ままならないものね」
「殿下
「さ、気を取り直して行きましょ」
 その後、玉瑛は楽屋へと連れていかれ、呉月怜に紹介された。間近に見る人気役者はさすがの()(ぼう)で思わずくらくらとしてしまい、ぼうっとなっている玉瑛に豪藍はなぜか表情を険しくし、春曦は可笑(おか)しそうに眺めていた。
 夢のような時間ではあったが、玉瑛は先ほどの煜霆と春曦の様子が気にかかっていた。思っていた以上に、兄妹の間にある亀裂は深刻なものなのかもしれない。しかし春曦はそんなことなど忘れたように、叔父の前で明るく(ほが)らかに振る舞っていた。
 楽屋を後にし、三人は月怜が出てくるのを待ち構える女性客たちを横目に、劇場の外へと出た。
「それじゃ、私は皇宮へ戻るわ。今日はありがとう玉瑛。とっても楽しかった」
「私もです。誘っていただきありがとうございました」
「点心も本当においしかったわ。また(うかが)いますって、ご両親にも伝えて」
「はい」
「ねぇ、さっき言ったこと、私本気よ」
「え?」
 首を(かし)げる玉瑛に、春曦は力強い笑みを向けた。
「あなたには、私と一緒に歩んでほしいのよ。だから、負けないで」
 何に、とは言わない。
 春曦の柔らかな手が、ぎゅっと玉瑛の手を握る。
「私も、負けないから」
 玉瑛は、ふと思った。
 春曦は今日、ただの気まぐれで彼女の前に現れたのではないのかもしれない。
 玉瑛の現状を知って、玉瑛が折れそうになっているのに気づいて、それでわざわざ会いにきてくれたのではないか。
 (うぬ)()れだろうか、とも思った。しかし玉瑛は、胸の奥に熱いものを感じながら、ぎゅっと春曦の手を握り返した。
「はい、殿下。必ず」
 その返事に、満足そうに春曦は微笑んだ。
「じゃ、私は行くわ。そうだ豪藍、玉瑛を家まで送ってあげて」
「承知しました」
「え!? そんな、それでは殿下の護衛が
 驚く玉瑛に、大丈夫よ、と春曦が手を振る。
「見えないところに、本当はあと二人いるの。さすがに私も、護衛一人で出歩いたりしないわ」
「そ、そうなのですか?」
 きょろきょろと周囲を見回す。まったく気配を感じていなかったが、春曦の合図で二人、武官らしき男性が現れた。
「ですが、私は一人で帰れますので」
「だめよ。お兄様、さっき絶対あなたに目をつけたわ。どこかで待ち伏せているかもしれない。一人なんてもってのほかよ。豪藍、お願いね」
は」
 (ごう)(らん)は粛々と(めい)を受ける。
 じゃあね、と春曦は軽やかに去っていった。
 残された玉瑛はその後ろ姿を見送りながら、(あふ)れそうになるものを吐き出すように、大きく息をついた。ほんの短い時間で起きた様々な出来事に、目が回りそうだ。
(でも、明日からもまた頑張れそう)
 春曦の期待と信頼に応えたい。
 へこたれている場合ではなかった。
 うん、と(うなず)いて顔を上げた。
 そして、残った豪藍に向き直る。
「豪藍殿、私、本当に一人でも大丈夫ですよ。このまま皇宮へお帰りになっても
「殿下の命だ。無事送り届けなければ、俺が罰せられる」
「ば、罰せ?」
 護衛をつけて歩くだなんて、あまりに分不相応な気がした。しかし、それで彼が春曦に罰を受けるなど申し訳なさすぎる。
「わかりました。では、行きましょう」
 美しい色の濃淡を描き出している夕暮れの空の下、二人は並んで歩き始めた。家路につく人々が行き交う中、(ゆう)()()(たく)をしているのだろう、どこからともなくいい(にお)いが流れてくる。
「豪藍殿は、殿下に仕えて長いのですか?」
「護衛としてお傍に上がったのは最近だ。ただ、昔から何かと顔を合わせる機会は多かった」
 さすが、名家の子弟は皇族との(つな)がりが深い、と感じる。
「皇太子殿下が、あのように気さくでいらっしゃるとは驚きました」
「誰にでもというわけじゃない。玉瑛殿に、それだけ期待されているということだろう」
 本当だろうか、と玉瑛は、少し高いところにある豪藍の顔を見上げた。
 実直そうな(おも)()ちは、とても()()を言っているようにはみえなかった。
「あの方は常に未来を見据えている。いずれ帝位についた時のこと、この国の行く末理想を実現するために何が必要か、いつもお考えだ。玉瑛殿もまた、そのひとつということだ」
「豪藍殿は、殿下を尊敬されているのですね」
「傍で見ていれば、嫌でもわかる。誰が皇帝たる器かそれが偶々、女性であるというだけだ」
 煜霆の言葉を思い出しているのだろう。
 主を()(じょく)され、(くや)しかったに違いない。
「はい、私も、そう思います」
「俺は、殿下は(しょう)(がい)仕えるに足る方だと思っている」
 豪藍の言葉は、淡々としていた。だがそこには、確固たる意志と確信があった。
「大叔父上は聖太帝様に仕え、その身をこの国の剣となされた。俺も、皇太子殿下の剣となるつもりだ。この国を守る剣に」
では、私たちは同志ですね」
「え?」
 意外そうな面持ちで、豪藍は玉瑛を見る。
「豪藍殿は、将軍となり殿下を支える。私は、(さい)(しょう)となり殿下を支える。ともに殿下をお支えする二柱として、後世に名を残しましょう!」
 ぎゅっと拳を握って掲げる。
「同志
 思いがけない言葉を聞いた、というように目を(みは)った豪藍だったが、やがてふっと笑った。
「なるほど。そうだな」
 その笑い方は決して、玉瑛を馬鹿にしたりするようなものではなかった。
 彼が玉瑛の(こころざし)を、きちんと受け止めてくれていることがわかる。それが、玉瑛はとても嬉しかった。
「それに、私たちはそれだけでなく、魂の同志ではありませんか! ともに王将軍をお(した)いする者として!」
玉瑛殿は、何故それほど大叔父上が好きなのだ?」
「かっこいいからです!」
 即答した。
 すると、豪藍は不安そうな表情を浮かべる。
「もしや玉瑛殿は、老年の男が好みなのか?」
「何を(おっしゃ)います。王将軍という存在を(とうと)んでいるのです。若い時も老いた時も、等しく推します!」
「そ、そうか
「それに、将軍を普通の殿(との)(がた)と同列になどできません」
では、若い男が嫌いというわけではないのだな?」
 玉瑛は目を瞬かせた。
「え?」
「どうなのだ?」
 妙に真剣に尋ねられて、玉瑛は少し戸惑った。
「それは、そうですが
 その答えに、豪藍は何故かほっとした様子であった。
「そうか
「どうかされました?」
「いや、なんでもない」
「あの、王将軍はお元気でいらっしゃいますか?」
「隠居されてからは、静かに暮らしていらっしゃる。ただ、身体(からだ)がなまるのが嫌だと言って鍛錬は欠かさないようだが」
「さすがは王将軍。ああ、いいですねぇ。豪藍殿はそんなお姿も間近に見ることができるのですよね。はぁ、(うらや)ましい」
 思わず嘆息すると、豪藍はいくらか勝ち誇ったように胸を反らせる。
「そうだな。俺は大叔父上から直接剣の(けい)()を受けたし、幼い頃は一緒に馬に乗せてもらっていたし、兵法について意見を伺うこともあれば、ともに酒を飲むこともある。大将軍としての顔も、私人としての顔も知っているな」
!」
 玉瑛は歯を食いしばって天を(あお)いだ。
「くぅっ出自に関わらず才覚さえあれば、高みには登れるでしょう。しかし出自でしか得られないものが、確かにある!」
「ははは」
 可笑(おか)しそうに豪藍が笑った。
 そんなふうに笑うのは初めて見る。その表情は思いのほか無邪気で、最初に受けた印象とは(ずい)(ぶん)と違って感じられた。
「そういえば、先日将軍にお会いした時少し気になっていたのですがもしや将軍は、道を覚えるのが苦手でいらっしゃいますか?」
「玉瑛殿、それは禁句だ」
 豪藍との会話は楽しかった。
 何より彼は、玉瑛を対等に扱ってくれているのが分かる。
 それからもあれやこれやと王将軍についての話題で盛り上がり、時間があっという間に過ぎてしまった。気がつくといつの間にか自分の家が見えてきて、それが少し残念にすら思えたほどだ。
「送っていただき、ありがとうございました」
 店の入り口の前で、二人は足を止めた。
「殿下にも、私が無事に家に辿(たど)り着いたとお伝えください」
「中へ。そこまで見届けて帰る」
 玉瑛はくすりと笑った。
 (りち)()な人だ、と思う。そしてそれは、好ましいものだった。
「あ、そうだ。ちょっと待っていてください」
 玉瑛はぱっと店の中へ入ると、(ちゅう)(ぼう)に駆け込んだ。
 そして、包みを抱えて戻ってくる。
「これ、よろしかったらどうぞ」
「これは?」
「豪華点心十種盛りです。豪藍殿は、お毒見で一口ずつしか召し上がっていなかったでしょう? 小腹が()いた時にでも食べてください」
 豪藍は少し戸惑いながらも、礼を言って受け取ってくれた。金を取り出そうとするので、玉瑛はそれを押しとどめた。
「差し上げるんです。お金はいりません」
「しかし」
「これは、同志への差し入れです。この後も、皇宮へお戻りになって警護につかれるんでしょう? どうか、殿下のことをお守りください」
 豪藍はようやく、納得したように(うなず)いた。
「では、ありがたく。実は、毒見した(れん)(ほう)(よう)が大層美味で、もっと食べたいと思っていた」
 玉瑛は頬を紅潮させ、ぱんと両手を合わせた。
「よかった、気に入ってもらえて! 私もあの蓮蓉包が大好きなんです。子どもの頃はよく、作っている父の横でつまみ食いして怒られてました。(あん)はもちろんですが、皮までほのかに甘くておいしいでしょう? 実はあれは隠し味が
 豪藍が口元に微笑を浮かべながらこちらを見ているのに気づいて、玉瑛ははっとした。嬉しくてまた前のめりになってしまったらしい。反省して居住まいを正す。王将軍のことといい、ついつい好きなことには力がこもって語り過ぎてしまう。(かしま)しい女だ、と(あき)れられているのだろう。
 すると豪藍が口を開いた。
「玉瑛殿、菓子の礼というわけではないがよければ今度、王家に来ないか?」
「え?」
「もちろん、大叔父上の時間は確保しておこう」
 玉瑛は(ぼう)(ぜん)とした。
 やがてその目はきらきらと輝やき出し、紅潮した頬が震え出す。
 あまりの興奮に思わず泣きそうになり、顔を(おお)って(うずくま)ったため、道行く人から()(げん)な目を向けられた豪藍はひどく狼狽(うろた)えていた。
 しばらくしてようやく落ち着いた玉瑛は、心配そうに何度も振り返る彼を見送りながら、明日も頑張れる、と心底思ったのだった。


 玉瑛に会いにいくからついてきなさい、と春曦が突然言い出した時、豪藍はぎくりとした。正直、玉瑛という名が出ただけで落ち着かない気分になった。
 このところ、ずっとそうなのだ。
「あんたねぇ、わかってるのよ。玉瑛の姿が見えたらいつもそわそわして。そのくせまだ一度も、話しかけたこともないんでしょう」
 どうしてそこまでお見通しなのだ、と思いながら、豪藍は無言で(じゅう)(めん)を作った。
 あの日、皇帝の前で堂々と発言する新たな(じょう)(げん)の姿に、思いがけず()()られたのは事実だ。以来気がつけば、皇宮ですれ違う彼女の姿を目で追ってしまっている。
 玉瑛からは何故か、常に明るい光が放たれているような気がした。(ほの)(ぐら)い闇の向こうに宿る目印のようなその光に、どうしようもなく目を奪われてしまい、引き寄せられる。
 しかし遠目に見かける玉瑛の表情は、日に日に暗くなっていった。
 理由は想像がついた。残念ながら女性(かん)()の誰もが、理不尽な扱いを受けているのがこの皇宮の現状だ。
 己の仕える皇太子は、本当に(さと)いと思う。
 人の心の機微をすぐに見抜く。
 玉瑛の様子を、彼女もまた気がかりに思っていたのだろう。そして、幼い頃から互いを知っている豪藍の気持ちも、あっさり看破したらしい。
「じれったいんだから、もう。私がきっかけ作ってあげるから、あとは自分で頑張りなさい。ただし、彼女は官吏の道を歩んでいるのよ。邪魔だけはしちゃだめ。余計な手助けもすべきじゃないわ。己の力で立場を(つか)み取ってもらわなくちゃ。いいわね?」
 そういうわけで豪藍は、春曦とともに休日の玉瑛のもとへと向かったのだった。
 惟庸という男が玉瑛に摑みかかった時、春曦の命で助けたと言ったのは嘘である。本当は、春曦が命じるより前に体が勝手に動いていた。豪藍の嘘を分かった上で、春曦は話を合わせてくれた。そういうところは本当に気の()いた主である。ただし、(ずい)(ぶん)と面白そうな表情を浮かべて、こちらをにやにや見ていたけれど。
 春曦が玉瑛と話している間も、豪藍は密やかに彼女の姿を目の端で追った。
 王青嘉の話題が出て、突然玉瑛が自分を見つめ出した時には、そわそわとして仕方がなかった。内心の(どう)(よう)を隠そうと、ひたすら平静に見えるよう自らを律するのに苦労したが、果たして自分は挙動不審ではなかったか。
 玉瑛を送るようにと命じた時、去っていく春曦の目には「うまくやるのよ!」という無言の圧が浮かんでいたし、同時にひどく愉快そうに見えた。戸惑っている豪藍を見て面白がっているのだ。
 玉瑛が彼の大叔父の(すう)(はい)(しゃ)であったことは意外であったが、豪藍もまた誰よりも熱烈に王青嘉に憧れてきた人間だ。自慢の大叔父を誉めそやされれば嬉しく、誇らしくもあった。
 ただ、彼女の隣を歩きながら、少し複雑な気分だった。
 王青嘉はあまりに大きな存在だ。尊敬し憧れるとともに、彼を越えることなどできない、と思える高い高い壁。そんな絶対的な相手のことが好きだという玉瑛が、まだ何者でもない豪藍に目を向ける日は来るだろうか。
 一方で、その名を出したお(かげ)で自邸に招く約束をするという離れ(わざ)を成し()げたのが、皮肉なものだと思う。彼女にまた会えるのは嬉しいが、そこに王青嘉がいるとなれば、玉瑛は隣にいる自分の存在など目に入らなくなるのではないか。
 玉瑛と別れ、一人帰路につきながら、豪藍は眉を寄せて真剣に考え込んだ。
(大叔父上には、早々に席を外していただけるように、お願いしておこう
 玉瑛にもらった菓子の包みを抱えて皇宮へ戻ったところで、ちょうど(けん)(かい)に行き合った。春曦を連れ帰った護衛のうちの一人は、彼である。つまり虔隗は、今日一日の(てん)(まつ)を知っている。
 彼はにやにやとした笑みを浮かべた。
「どうだった?」
 そして()(ざと)く、豪藍の持つ包みに気づく。
「なんだ、その包み?」
「玉瑛殿にもらった。点心だ」
「あの店の?」
 物欲し気に伸びてきた手を、勢いよく叩き落としてやる。
「痛っ!」
「やらんぞ」
「そう言うなよー。こっそり見守ってる間も、殿下がめちゃくちゃ美味(おい)しそうに食べるから、こっちもすっかり口の中が点心になってたんだぞ」
「だめだ」
「一個だけ
「だめだ!」
「心が狭いぞ!」
 しつこく包みを狙う虔隗に、豪藍は奪われまいと必死に頭上高くまで持ち上げた。
 ようやく諦めたのか、虔隗は肩を(すく)める。
「おい豪藍。そんなものまでもらったということは、うまくいったのか? そういうことか?」
 興味津々(しんしん)(てい)である。これまで豪藍が異性にまったく興味を示さないことを常々心配していた彼は、親友の初めての恋模様にやたら首を突っ込みたがっているのだ。
「ひとまず同志となった」
「なんだ同志って?」
「それと、今度王家に招くことになった」
「なに、もう親と顔合わせを!?」
「違う」
 否定しながら、なるほど自邸に招くとはそういう意味に捉えられかねない、と今更気づく。玉瑛は誤解してはいないであろうが、彼女の両親からすれば、どういうつもりで招くのかと不審に思われるかもしれなかった。
 店で玉瑛を()()いていた男を思い出す。ああいう軽い(やから)と同じだと思われては困る。
 (さい)(しょう)になるという(こころざし)を持つ彼女の、邪魔はしたくない。だからこの想いは、当分告げることはないだろう。しかしその間、彼女に群がる男たちは絶えず現れるに違いなかった。
なぁ虔隗、頼みがある」
「珍しいな、お前が頼み事とは」
「お前を(ぼく)()の男と見込んで」
「どんとこい」
「茶屋で、玉瑛殿に言い寄っていた男がいただろう」
「ああ。確か、惟庸と呼ばれてたやつだな?」
「そうだ。どこの何者か調べて、永久にあの店に来ないようにさせたい。ただし、穏便に。できるか?」
 虔隗はおもしろそうな笑みを浮かべた。
「当たり前だ。我が穆家、祖父の代から裏工作ならだれにも負けぬ」
あまり胸を張って言うことではないと思うが、今は何より頼りにしている」
「よーし、ほかでもないお前の初恋のためだ。一肌脱いでやろう」
 なんだかんだ頼もしく義理堅い親友に、豪藍は笑って包みを差し出した。
「いいのか?」
「全部食べるなよ。半分だ、半分」
 やった、と虔隗がいそいそと包みを開く。
「あ、ちょっと待て虔隗」
「え?」
 豪藍は手を伸ばすと、蓮蓉包だけをぱっと取り上げた。
「これはだめだ」
「なんだよ、蓮蓉包? お前それ好きだっけ?」
 豪藍は無言のまま、ふわふわとした蓮蓉包をぱくりと頬張る。
 香りのよい甘みが、口の中に広がった。
 私もあの蓮蓉包が大好きなんです!
 嬉しそうな、そして誇らしげな玉瑛の表情を思い出す。
「そうだよ。今日、俺の好物になったんだ」


 花玉瑛と王豪藍。
 この二人が宰相と将軍として女帝を支えた年月は、雪華国が最も栄えた隆盛期として後の世に(たた)えられることとなる。
 女帝柳春曦は晩年、彼らを『我が両翼、国の宝』と呼んだ。後世に長く名臣の(かがみ)として語り継がれた二人は、同時に理想の夫婦の代名詞ともなった。
 春曦の治世の末期、()(きょ)を受験する者の割合は、男女ほぼ同数であったという。

【おわり】