花のたより

百生邸の離れ屋には、燃えるような夕焼けが差し込んでいた。
紗恵は障子戸越しでもまぶしいくらいの光に目を細めてから、文机の前で姿勢を正す。
硯に墨を磨っていると、ふわり、と柔らかな香りが漂う。その香りに心を落ちつかせながら、成実宛の手紙を認めるために筆をとった。
邪気祓いで領地を空けることの多い成実だが、ここ数日は帰咲にいた。
しかし、領地に戻ったからといって、ゆっくりと休む暇はないのだろう。百生の当主としても、此の土地の領主としても、成実は忙しなくあちらこちらに出かけている。
成実と一緒に過ごしたくとも、なかなか難しい日々が続いていた。同じ離れ屋にいながらも、一言、二言、話すくらいの時間しか取れない。
今日も遅くなるようで、出迎えは要らないから先に休んでいるように、と気を遣われたくらいだ。
きっと、帰ってくるのは真夜中だ。
成実の帰りを待っていたいが、待っていたら、かえって成実を落ち込ませてしまうことは分かっていた。紗恵のことを大事にしてくれる人だから、紗恵が無理をすれば、成実は責任を感じてしまう。
だから、紗恵は代わりに筆をとった。成実の帰りを迎えることはできなくとも、彼に言葉を届けたかった。
置き手紙にすれば、彼が読んでくれることを知っていた。
(この前つくったばかりの押し花も添えましょう)
邸の客間に花を活けたとき、いくつか余りを譲ってもらったのだ。
レンギョウ、ハナモモ、早咲きの牡丹。
華やかな花々は、そのまま押し花にするには向かなかったので、花びらをばらして押し花にした。途中でかびてしまわないか不安だったが、思っていたよりも綺麗にできて、ほっとした。
手紙に添えたら、成実は喜んでくれるだろう。
(なんだか、生家にいたときを思い出します)
時折、紗恵が手紙に押し花を添えるようになったのは、成実と顔を合わせる前のことだった。異母兄を介した文通相手として、会ったこともない彼に恋心を募らせていた頃である。
はじまりは、庭の隅に咲いていたスミレの花。
とても美しいと思ったが、庭の景観には不要な花なので、除かれてしまうことが分かっていた。
そのスミレを摘んで押し花にしたのは、花を惜しんだからだった。
懸命に咲いていた花の美しさを、誰かに伝えたかったのかもしれない。
小さな花が愛らしかった。そんな子どもみたいな感想を綴った手紙に、スミレの押し花を添えた日のことを憶えている。
いま思えば不格好な押し花であっただろうに、成実は迷惑がることなく、春を感じられて嬉しかった、と返事に書いてくれた。
あのとき、紗恵は思った。
この人は、季節を意識しないほど忙しく過ごしているのだろう、と。
生家から出ることも叶わず、狭い世界で生きている紗恵よりも、ずっとたくさんの季節を感じられる場所で生きているだろうに。
(成実様と同じ花を見て、同じ季節を感じられたら、なんて。あのときの私は、我儘にも思ったのでした)
顔も知らぬ人に、恋をしていた。
叶わぬ恋と分かっていながらも、その恋を殺すことができなかった。
せめて、恋しい人と同じ季節を生きているのだ、と思いたくて、時折、手紙に押し花を添えるようになったのだ。
あの頃と違って、いまの紗恵は成実の妻だ。
それでも、変わることなく、成実と同じ花を見て、同じ季節を感じられたら、と願っている。
紗恵は手紙を書き終えると、押し花を添えて、そっと文机に置いた。
◇◆◇◆◇
いつのまにか、紗恵は庭に立っていた。
百生の邸にある庭ではなく、紗恵の生まれ育った家にある庭だった。
足下を見たとき、紫の花の群れがあった。紗恵は地面に膝をついて、あかぎれだらけの指先で花々に触れる。
紫の花を咲かせるスミレたちは、陽光をまとって、絹のような光沢を帯びていた。
風に攫われてしまいそうなほど儚く小さな花であるのに、どうしてか、咲く姿は凜としている。
愛らしくも、その花は美しかったのだ。
紗恵はスミレの花を摘んで、潰さぬよう、大事に手のひらに載せる。
この花を、紗恵が美しいと思ったように。
此の国の何処かで生きている成実も、スミレを見て、美しい、と思っていたら、どれほど素敵なことだろう。
「紗恵」
背後から柔らかな声がした。
ぜったいに聞き間違えることのない成実の声に、ようやく、紗恵はこれが夢なのだと気づいた。
(庭のスミレを押し花にしたとき、まだ、私は成実様の声を知りません。ここに成実様がいらっしゃるはずがない)
紗恵は立ちあがって振り返る。
そこには成実の姿があった。紗恵は駆け出して、彼の胸に飛び込んだ。彼ならば優しく抱きとめてくれるという確信があった。
ふわり、と梅の香りがして、紗恵は目を閉じる。
成実は大きな手で頭を撫でて、そのまま指で髪を梳いてくれた。
(夢に好きな人が出てくるのは、その人も自分を想ってくれている証だ、と聞いたことがあります)
共に過ごすことができないときも、紗恵を想ってくれている。
ふと、髪を梳いてくれる成実の手が止まる。
不思議に思って顔をあげると、額に柔らかな感触がした。優しく、額に口づけが落とされたとき、紗恵は夢から覚めた。
◇◆◇◆◇
朝を告げるように、鳥のさえずりが聞こえる。
紗恵は重たい瞼を開いて、ゆっくりと布団の上で半身を起こした。あたりを見渡しても、何処にも成実の姿はなかった。かすかに残っている梅の匂いから、紗恵が寝ている間、成実が帰宅していたことを知る。
夜遅くに帰ってきた後、紗恵の目覚めを待たずにまた出かけたのだろう。
紗恵は仕度をしてから、部屋を移動し、いつも使っている文机を見る。
そこには覚えのない手紙が置かれていた。
紗恵が成実に向けた置き手紙ではない。紗恵が眠りについた後、離れ屋に戻ってきた成実が手紙に気づいて、返事を書いてくれたのだ。
忙しい彼を煩わせてしまったことを申し訳なく思いながらも、そのことが嬉しかった。
紗恵が一方的に恋しく想っているのではない。成実もまた紗恵を想ってくれている。
成実からの手紙は、紗恵の綴った日々の出来事や、彼の無事を願う言葉など、ひとつひとつに応えるものだった。
そこには、紗恵の添えた押し花への礼もあった。成実もきっと、紗恵と同じ春を感じてくれた。
同じ花を、同じときに眺めることはできなくとも。
その花をたよりにして、同じ季節を感じていられたら、それは幸福なことだろう。
【おわり】