花の香、あなたを恋ふ

集英社オレンジ文庫10周年フェア『百番様の花嫁御寮』(東堂 燦)スペシャルショートストーリー


 淡い雪のような白梅の花が、夜闇に浮かびあがっている。
 暗がりに光を灯すように、優しい香りを放ちながら、梅園のあちらこちらに咲き乱れていた。
ひゃくばんさまは、今夜も夢のように美しい)
 は、梅の姿をした美しい神様に囲まれて、ほう、と溜息をつく。
 紗恵の嫁いだ(もも)()家は、此の国では《かみあり》と呼ばれる一族のひとつだ。
 はるか昔、国生みのときに生まれた一番目から百番目までの神を始祖とし、その一柱、一柱を、今もなお所有している家を、そう呼ぶのだ。
 百生の神百番様は、季節を問わず美しい梅の花を咲かせている。
 まるで花の盛り以外を許さぬように。
「紗恵」
 ふと、隣から名を呼ばれる。
なる様?」
 夫である百生成実が、ほんの少しだけ紗恵の右手に触れてきた。紗恵が不思議に思っていると、もう一度、成実は触れてくる。
「手を」
「手が、どうされましたか?」
「暗いから、転んでしまうかもしれない」
 紗恵は察しの悪い自分を恥ずかしく思いながら、そっと、成実の手に自分のそれを重ねた。
 すでに夜も深まっている時刻だ。
 特別な目を持っている成実は、こんな夜の暗がりも関係なく、はっきりと物が見えるだろう。
 しかし、神の血を引かぬ紗恵は、当然のように足下も真っ暗だ。
 正直なところ、梅花の姿かたちを捉えることが精一杯で、成実の美しい顔もぼんやりとしか見えていなかった。
(こんな様子で歩いていたら、つまずいて転んでしまう、と。成実様は心配してくださったのですね)
「ありがとうございます。成実様が手を繋いでくださるなら、安心ですね」
「すまない。もっと明るいうちに誘うべきだったな」
 百番様のおわす梅園に誘ってくれたのは、数日ぶりに(やしき)に帰ってきた成実だった。
 成実は、普段、御家の役目のため邸を空けていることが多い。此の国に封じられている(わざわい)を命をかけて(はら)っているため、あまり邸にいることができない。
 共にいられないことを寂しく思うが、いつも気に掛けてもらっていることを、いまの紗恵は知っている。
「どうして謝るのですか? 成実様と一緒にいられて嬉しいです」
「本当に? 俺に気を遣って、我慢していないか? 今だけでなく他のときも」
「我慢などしていません。ご存じでしょう? 成実様へのお手紙にも、いつも書いています。邸の方々は優しくしてくださっています、と」
 生家にいたときの紗恵は、不義の子であることを理由に(しいた)げられていた。すきま風の吹く納屋に押し込められて、味方になってくれたのは異母兄(あに)(たか)()だけだった。
 だが、成実に嫁いでからの紗恵は、百生の一族たちから大事にされている。
 もちろん、当主である成実の力あってこその部分もあるだろうが、たくさんの人が気に掛けてくれていることは確かなのだ。
「お前は聞き分けが良いから心配だ」
「私、成実様が思うよりも、ずっと(わが)(まま)ですよ」
 喉を震わせるように、成実が笑った。
「もう。どうして笑われるのですか?」
「お前が我儘など、高良からも聞いたことがないな」
「高良お兄様は、お優しい方です。だから、きっと、妹の我儘なところも許してくださっていたのでしょう。家族として」
「お前を我儘と思ったことはない。だが、そうか。家族にならば、お前は我儘を言ってくれるのだな」
? はい」
「寂しいことだ。俺とて、家族だろう? お前の夫だ。我儘を言ってくれないのか?」
 成実が繋いだ手に力を籠めてくる。痛みを感じるほどの強さはないが、抗うことのできない熱があった。
 成実の手は冷たいのに、どうして、熱いなどと思うのだろう。
「我儘など言いたくありません」
「何故?」
「成実様を困らせたくないのです」
「俺は、もっと困らせてほしい、と思っている」
 不意に、繋いだ手を引き寄せられる。体勢を崩した紗恵は、そのまま成実の胸元に飛び込むことになる。
 抱きしめられて、紗恵は慌てて離れようとする。
 しかし、成実は小さく笑うばかりで、紗恵を腕のなかに閉じ込めたままだ。
(梅の香りがする)
 あたりに咲き乱れる梅花の香りなのか。
 それとも、成実の香りなのか。紗恵の夫は、梅の姿をした神の末裔である(あかし)のように、ほのかに梅の香のする人なのだ。
「では、我儘をひとつ申しても?」
「ひとつで良いのか? 残念だな」
「しばらく抱きしめてくださいますか? 成実様の香りが、私にも移るくらい」
「残念ながら、俺は香など焚いていないが?」
「でも、成実様からは、梅の香りがします。梅の香りがしたら、成実様のことを思い出せるでしょう? いつでも」
 離れていても。
 たとえ、成実が死んでしまっても。
 紗恵は良くないことを考えてしまって、自分の拳を握った。
 成実が果たすべき役目は、いつも命の危険と隣り合わせだ。生きて帰ってきてくれることを祈っているが、最悪の結果に繋がる可能性もある。
 成実が死んでしまっても、梅の香りだけは残るだろうか。
 あるいは、梅の香りがあれば、成実のことを思い出すことができるだろうか。
 時を止めることはできない。時の流れとともに、記憶は失われる。優しかった人の姿も、どれほど憶えていたくとも、きっと遠ざかってゆく。
(亡くなった高良お兄様のように)
 紗恵の異母兄、成実の親友。
 優しい笑顔を思い浮かべるとき、愛しい気持ちと同じくらい、寂しさが込みあげる。この先、どのくらい、紗恵はあの人の笑顔をはっきり思い出すことができるだろうか。
 時の流れは残酷で、いつか兄の笑顔を忘れる日が訪れる。
 同じように成実が(うしな)われてしまったら、と怖くなるときがあった。
 この梅園に咲く花は、永遠のように咲き続ける。
 けれども、本来、花とは散るものなのだ。
 成実の命とて、永遠ではない。神の末裔であると同時に、彼の身には人の血も流れている。
 死者は還らない。どんな神にも、死者をよみがえらせることはできないのだ。
 成実が死んでしまったら、もう成実には会うことができない。
「成実様がいなくとも、梅の香りを感じたら、きっと。きっと、成実様のことを思い出すことができますよね」
 紗恵の言葉の裏に隠された恐怖に、成実は気づいたのだろう。
 成実がいなくとも。
 その言葉には、成実が邸を空けているときだけではなく、成実が死んでしまっても、という恐れが含まれていることに。
「生きて帰る。だから、思い出になどするな。俺を過去にしないでくれ」
 成実は祈るように(ささや)いて、紗恵の頭に口づけをひとつ落とした。
「未来は分からない。俺が生きて帰ると言ったところで、所詮、ただの口約束と嘲笑う者たちもいるだろう。だが、お前には信じていてほしい」
はい」
「お前を遺しては逝かない。俺は心の狭い男だからな。自分が死んで、お前の隣に俺以外の男がいるなど、想像しただけで許せない」
「きっと、私を望んでくださるのは成実様だけですよ」
 成実が好きになってくれたことは有り難く思うが、たくさんの人から求められるような娘ではない。
「お前は健気な良い女だから、ぜったい、お前を好きになる男が現れる」
 紗恵は、いけない、と思いつつも、その言葉に少しだけ嬉しくなった。
「でも、私が好いていただきたいのは、成実様です。私が一緒に幸せになりたいのは、成実様だけ。だから、あなたが生きて帰ってきてくださるなら、それ以上のことはありません」
 紗恵は甘えるように、成実の胸に頬をすり寄せた。表情を顔に出すことができない自分でも、その気持ちが正しく伝わるように。
(ずっと成実様と一緒にいられますように)
 梅の香に恋しい人を思うならば
 それは離れ離れのときではなく、成実の傍にいるときが良かった。

【おわり】